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宇佐八幡の地位を引き上げた“プロデューサー”が大神氏であることは異論を待たないと思いますが、大神氏は、例えば谷川健一さんなどからは出自不明とされながらも、基本的には『三輪高宮家系図』の記載から大三輪神の神人であり、シャマンであるとも考えられております――中野幡能さん――。いずれ、大神氏の基本はオホ氏系にあると考えてよろしいかと思います。 中野幡能さんや大和岩雄さんは大神氏をあくまで渡来系――帰化人――と考えているようですが、谷川健一さんは『四天王寺の鷹(河出書房)』の中で「そんな筈はない」ときっぱり否定しております。 谷川さんは大神氏について「大和の菟田地方に本貫があると思われる」として、『承和縁起』の中で辛嶋氏伝承にわざわざ大和国経由が付加されている理由として「辛嶋氏は大神氏の応神霊を承認したかのように装い、大神氏の意向を汲んで、妥協をはかったのだ」という逵日出典さんの説を紹介しております。 つまり、「大和国経由」の付加が大神氏の代名詞を担っているということから、大神氏が大和国本拠の氏族であったと認識されていたことがわかります。 また、大和岩雄さんは『秦氏の研究(大和書房)』のなかで、大仏造営に活躍した大神杜女が、薬師寺僧の「行信」と組んで「厭魅」を行ったとする『続日本紀』の記述から、大神氏と薬師信仰の結び付きを推察しておりました。したがって『託宣集』の「弥勒と薬師を本尊にした」という記述について、辛嶋・宇佐氏の弥勒信仰と大神氏の薬師信仰が合体して八幡宮の神宮寺が創建されたのだろうとしております。 つまり、大和さんは「辛嶋氏――秦氏――には弥勒信仰、大神氏には薬師信仰がある」と考えているわけです。 余談ながら、私見では、薬師信仰にはスクナヒコナとの習合による産土神、もっと言えば先住民族の示唆を疑っております。つまり、秦氏のような渡来系というよりも、オホ氏風な属性を感じます。オホ氏も遡ればはるか古い時代には渡来人であったかもしれませんが、秦氏が渡来してきた5世紀頃には十分に土着化しており、それどころか既に一時代を終えつつあったのではないか、とさえ思うのです。 ところで、宇佐に関連した一連の動きを見ておりますと、大神氏はどうも秦氏系の辛嶋氏に対し、妙に嫉妬とも対抗意識ともとれる感情を持っているようです。 例えば『託宣集』では、『承和縁起』での祟る鷹の伝説に付加して、大神比義が出向くとそれが金の鷹で、それは金の鳩になり、やがては三歳児に変遷し「自分は応神天皇で広幡八幡麻呂である」と告げたことになっているようです。谷川健一さんが「大神氏が自分につごうのよいように、置きかえたものであることが直ちに察知できる。鍛冶翁伝承は大神氏には何のゆかりもない」というように、大神氏は辛嶋氏の立場になりかわり更にそれを上回ろうとしているようです。 また、大和さんによれば、弘仁六年(815)に宇佐八幡宮の神主であった大神清麿が官に提出したという『大神清麿解状』には、八幡神は豊前国宇佐郡馬城嶺に始めてあらわれ、大神朝臣比義が、戌子――欽明天皇二十七年――から鷹居瀬社を建てた、と書いているようですが、その40余年前である宝亀四年(773)の『大神田麻呂解状』では、「自先祖大神比義至于田麻呂祝奉仕同拝壱百玖拾箇蔵」とあるようです。つまり比義が田麻呂の190年前とされていることから、宝亀四年から190年遡ってもせいぜい敏達天皇十三年(584)にしかならず、欽明朝というのが創作であることが歴然としてしまうわけです。 大和さんは、辛嶋乙目らが始めて八幡神を祀ったのが欽明朝となっていることを受けた大神氏が「辛嶋氏への対抗上」大神比義を欽明朝までくりあげたのだろうとみております。 私見ですが、仏教優勢となりつつあった6世紀頃には、おそらく、かつて最強の祟り神であったはずのオオモノヌシの神威はもはや影が薄くなりつつあったのではないでしょうか。 したがってその神祀りを拠り所に、且つ、自らの存在意義と自覚していたオホ氏は著しい権威失墜のさなか新興の秦氏の属性と経済力を取り込むことによって復権を果たそうとしていたのかもしれません。それが、大神氏が宇佐に関わりを求めたきっかけだったのではないでしょうか。 しかし、それはあくまで6世紀以降の話で、それ以前においては必ずしもそうではなかったでしょう。5世紀前後に母国を追われて渡来してきただろう秦氏の方が、むしろオホ氏の権威にすり寄っていたのではないしょうか。それがあったればこそ、オホ氏と秦氏の間に同族とも思わしめる密接な関係が成立したものと想像します。 |
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2010年03月27日
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