はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

5世紀のオホ氏

 奈良県磯城郡田原本町の多神社境内の説明板によれば、多神社周辺には弥生時代の集落遺跡があったとのことでした。また、古墳時代まで継続していたことを思わせる土師器や須恵器などの出土品もあったといいます。
 多神社に見られる太陽信仰には「死と再生」の示唆がありますが、もともとは母なる三輪山を中心とした太陽の巡りによって田植えの時期などを把握していたことに始まったのでしょう。
 厳しい冬が過ぎ、太陽が三輪山から昇る時期になると、野山の動植物が目覚め、ぼちぼち田植えの時期がやってくるサインであったのでしょうし、弥生時代の農民たちにとって多神社の場所は暦のためのランドマークであったのだと思います。
 しかしそれだけでは多神社の場所がそこに特定される理由としてはまだ不足です。春分の日に三輪山頂上から昇る日の出を確認できる場所は、三輪山以西で同じ直線上であればどこでもいいはずです。
 したがって、おそらく三輪山から見て冬至の日没の目印、すなわち畝傍山(うねびやま)がもう一つの基点になっていたのでしょう。
 つまり死――冬――に向いつつある大地は、日没の位置が畝傍山に到達したところから一気に反転し再生し始めます――春――。まさに「死と再生」の折り返し地点が畝傍山であり、そこが固定されてこそ初めてその真北にある多神社の位置も固定されたはずです。
 この発想は日本と言わず大陸と言わず、ある程度四季が認められるところであれば世界共通の「太陽信仰」の原初の形態でしょうが、大和盆地においてそれが大陸風のしっかりとした信仰の形――天照(あまてる)信仰――として形骸化されるに至ったのはやはり秦氏によるところが大きかったのではないでしょうか。
 なにしろこの周辺には秦楽寺や秦庄の地名にもあるように秦氏の痕跡が極めて濃厚です。
 しかし縄文あるいは弥生以来の遺構については、その歴史の古さから考えてやはりオホ氏に関係していると考えるべきなのでしょう。それがおそらくは5世紀以降、なんらかの事情で秦氏に塗り替わっていったものと想像します。もしかしたら『大倭國正税帳』がまとめられた天平二年(730)の頃には、多神社の氏子はほとんど秦氏であったのではないでしょうか。蓄積稲にみられる圧倒的経済力も、実は秦氏によるものではなかったのでしょうか。
 あくまで私の想像の上塗りなのですが、秦氏が当地に扶植している頃、オホ氏の“主力”は当地に居なかったと考えられます。
 何故なら、『常陸国風土記』でのオホ氏の活躍や、それを裏付けるような茨城県潮来市の大生古墳群――古墳時代中期:5世紀頃――の存在から、秦氏の渡来が本格化してきた5世紀頃にはどうやらオホ氏の主力は常陸国にあったと考えるからです。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3

 何故常陸に流れていたオホ氏を「主力」と考えたかと言うと、オホ氏が常陸国において奉斎したと思われる鹿島大神が、辺境としては異常に格の高い扱いであり、後世の藤原氏が自らの氏神の春日大神として利用しているからです。藤原系中臣氏がオホ氏系中臣氏に成り替わるには、それなりのレベルの祭祀につなげなくてはならなかったはずです。
 したがって天平期――8世紀――の多神社周辺で多氏を名乗っていた一族の実体は、ほとんど秦氏ではなかったかと思うのです。
 だからこそ、藤原氏の付け入る隙があったのかも知れません。

全1ページ

[1]


.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事