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藤原秀衡の3人の息子――国衡・泰衡・忠衡――は各々異母兄弟の関係になっておりますが、源義経を含めた彼らの相関関係を眺めてみます。 義経は単純な精神構造で、“感動屋さん”の激情タイプだったことが様々な史料から垣間見れます。 おそらく、どこか可愛げのある憎めないキャラクターだったのでしょうが、その危なっかしい破天荒な行動に、身近にいた人物はほとほと疲れていたかもしれません。 秀衡の息子たちもなかなか個性的です。 長男である国衡は、蝦夷腹である分、公家の女を母に持つ次男泰衡――4代目――に比べ、平泉内部での周囲からの親近感を集めていたかに思われます。彼は、秀衡に続く第4世代の精神的主柱であったと考えられますが、そのためか、奥州に誇りを持つ無骨な武将といった性質がより純化されていたように感じられます。 秀衡は、相続の円滑化のために、国衡に泰衡の母――秀衡の正室――を娶らせました。このあたりにも秀衡の周到さをうかがわせますが、つまり泰衡の母は秀衡からみて自分の娘ほどの若い女性であったようです。 国衡は、弟泰衡に対して「こいつさえ生まれなければ」という感情も少なからず持ち合わせていたことでしょう。そして秀衡もそれを敏感に察していたに違いありません。 このことは泰衡の性格にも大きく影響を与えたかに思います。年齢の離れた兄国衡の嫉妬を受けながら育った泰衡は、重臣らの兄国衡への同情と、それに反比例するような自分への視線も少なからず感じていたことでしょう。彼は常に他人に気を遣いながら生きてきたのではないでしょうか。 また、三男忠衡は実直で忠実な優等生タイプであったようです。秀衡が白だと言えば白、黒だと言えば黒であり、それを違えることは許せない性格であったかに思われます。 さて、秀衡亡き後、頼朝はここぞとばかりに平泉を威圧しておりました。 「泰衡殿、討伐の勅が出ている指名手配犯を匿っておられるとしたら、これは朝廷に対する謀反となりますぞ」 当然泰衡は兄弟たちと相談したことでしょう。 「方々。御館様の言ったとおり頼朝が挑発してきおった」 これに忠衡は迷わず反応したと思われます。 「時が来ました。早速義経殿を交えて軍議を開きましょう」 それに対して国衡は当然強気であったでしょう。 「逃げて来た義経殿に何が出来ると言うのじゃ。頼朝ごときはわしが成敗してみせる」 しかし、泰衡は今一つ乗り切れず、ひとまずは戦争回避の方策を模索しておりました。 「落ち着きなされませ兄者。頼朝は義経殿の首が欲しいだけじゃ。わしらが源氏の兄弟げんかに巻き込まれるいわれなどありませぬ。義経殿の首を差し出せばそれで解決じゃ」 それに対し、忠衡は兄達の見解にあきれ果て、強い口調で諫言したことでしょう。 「兄者たちはもう御館様の御遺言をお忘れか。御館様は義経殿を大将にして頼朝を倒せと言い残されたのじゃ。何を迷うておられる」 「ならぬ。左様なことをしては奥州を源氏にくれてやるようなものぞ。まずは義経の首を差し出してからじゃ。それから頼朝の反応を見てからでも遅くはなかろう」 泰衡の意見に国衡も同意しました。 「何を血迷うておられるか。義経殿を匿っていることへの咎など口実にすぎぬ。御館様がお嘆きぞ」 「忠衡。もう何も言うな。無用の戦など避けるべきなのじゃ」 「あきれて物も申せぬ」 忠衡は中座したことでしょう。 「兄者、忠衡は間違いなく義経に密告しますぞ」 「・・・それは避けねばなるまい・・・」 通説上、この後義経と忠衡は泰衡に殺されたことになっておりますが、伝承において義経は逃げのびたことになっております。 仮に泰衡が伝承どおり義経を北へ逃がしたとして、頼朝に差し出した義経の首が偽物だったとしても、泰衡の判断は極めて甘かったと言わざるを得ません。 頼朝は、義経の首検分に立ち会わなかったといいます。つまり届けられた首が本物か偽物かなど確認しておりません。そもそも頼朝にとって義経の首などどうでもよかったのです。 反面、そのおかげで「実は義経は生きていた」という伝承にも光が差すわけですが、とにかく頼朝は如何なる手を使ってでも平泉を絶滅させる口実が欲しかったのです。 秀衡はそれを息子たちに伝えていたつもりなのですが、残念ながら泰衡はよく理解していなかったようです。 私は、もしこの兄弟が現代に生きていたのなら、泰衡こそがもっとも成功すると思っております。しかし、戦乱においてはやはり甘すぎたようです。 結局、頼朝の総攻撃を受けた奥州軍ですが、頼朝にすれば労せず平泉側が崩壊してくれました。 最も恐れていた秀衡が亡くなり、兵を預けたら厄介な義経が消え、司令官的三兄弟の一角を担う忠衡が消えたわけですから、この段階で既に奥州軍の中枢は崩壊していたと言えます。第一線で戦う兵士のモチュベーションに影響がなかったわけがありません。しかも迷いながら指揮をとる泰衡など、奥州奪回という目的をぶれることなく徹底した頼朝には取るに足らない相手でした。 28万の大軍で押し寄せた頼朝軍の内おそらく半数以上であっただろう主力軍を、わずか2万の兵力で食い止めていた阿津賀志山防塁の国衡軍は、三日後、背後から回り込んできた別動隊小山朝光軍の奇襲攻撃に霧散しました。 しかし国衡はまだあきらめません。国衡が操る馬は、馬王国の奥州の中でも第一の駿馬といわれていた「高楯黒(たかたてぐろ)」なる馬でした。 このあたり、やはり国衡には照井氏の影を感じてしまいます。私見では、照井氏の縄張りである「栗原」は、天武天皇直属特殊部隊「高句麗系信濃騎馬軍」末裔の巣窟でもあります。その地では奈良期以前から良質な軍馬が育まれてきたはずです。国衡はその中でも最高の駿馬を操っているのです。 さて、国衡は再起のチャンスを窺うべく、一時宮城県柴田郡方面に退いたのですが、途中、小山田の馬取田付近の泥田に落ちてしまいました。 無念にも、ここで国衡は討ちとられてしまうのです。 一方、本家(?)照井太郎高直もあきらめておりませんでした。 高直は一軍を率いて韮神山の天嶮にて敵軍を食い止めようと奮戦していたのです。 しかし、阿津賀志山を破った頼朝軍は、もはや堰を切った川のごとく溢れ出し、さすがの高直もその濁流に飲みこまれ、討ち死にしております。 その後、濁流は一気に平泉まで押し進み、勢い余って厨川(くりやがわ)――岩手県盛岡市――にまで到達しました。頼朝は、厨川の地を踏んでこそ、偉大な父祖、八幡太郎義家の屈辱をはらせるとでも考えていたのでしょう。 余談ながら、頼朝はこのとき何故か「塩竈での狼藉はまかりならぬ」と兵を厳しく諫めております。
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2010年04月29日
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