はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 江戸時代、徳川幕府は、政権安泰のために「朱子学――儒教――」を推奨しておりました。
 これは結局勤王思想でもあるのですが、幕府の思惑としてはあくまで徳川家を王家と見立てておりましたから、「徳川家に逆らうことは悪である」という思想をしっかりと浸透させたかったのです。
 ところが、その思想が盛んになり、深化されていくにつれ、
「神国日本において王家は天皇家ただ一つである。それをないがしろにしている徳川家こそ最大の悪ではないか」
という方向に変化していきました。
 更に、そこに異国の脅威が高まり異国を排除する“攘夷”の観念が加味されたがため、尊王攘夷というある種の国学に上塗られていきました。
 いわゆる国学は、本来異国の思想によって気付かされたはずにも関わらず、異国に関するものは徹底排除する思想上、奇妙なことにその原初のものと対立する構図になってしまったのです。
 この思想は更に熟成されていきます。
 国学者は儒教の本家中国に対しても、
「中国4000年などと言いつつ、その実、王家――皇帝――は何度も入れ替わっているわけだから、とっくに野蛮人の国である」
という考えに発展し、
「万世一系の天皇家の下にある我が国こそが本来の中国――世界の中心――である」
というところにまで極められていったのです。明治期の、神仏分離、廃仏毀釈の原点もここにありました。
 それにしても、徳川幕府が推奨したはずの朱子学が、幕末に至って原理主義的な国学として徳川家自らを滅ぼす原動力になってしまったのは皮肉な話です。
 さて、私の手元の太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』に、さりげなく私の好奇心を揺さぶる條がありました。

「鶴岡の國學者に照井長柄(もと田村氏)あり」

 「照井長柄(ながら)」は、庄内各地の神社縁起を詳述した『五百津鋤(いおつすき)』の著者でもあります。
 しかし、彼は単なる郷土史家(?)の域にとどまらない人物であったようです。
 『荘内日報社』ウェブにある米村光雄さんの掲載文よりますと、照井長柄は、幕末から明治時代に、鶴岡――山形県――において蘭方医学を修めるかたわら、記紀や万葉集などから我が国固有の文化、精神を明かす国学を志し、大山――鶴岡市内――の先覚「大滝光憲」や、伊勢の「荒木田末寿」に師事していたようです。
 彼は国学に奔走していたわけですが、特に「鈴木重胤」なる国学者の大著『日本書紀伝』を校訂するなど、国学への貢献度は計り知れないものがあります。
 この鶴岡という土壌は、藩論としてはどちらかと言えば儒教の影響が濃厚なエリアであったのですが、その中にあって「国学」言いかえれば勤王思想に傾倒した照井長柄という人物は、あきらかに異端児であったと言わざるを得ません。
 庄内地方の国学の流れには、「本居宣長」亡き後、彼に影響を受けた国学の第一人者である「平田篤胤」が、庄内に近い秋田県の人であったことが大いに影響しております。
 米村さんによれば、この偉大なる平田篤胤に教えを乞うべく秋田を訪れた鈴木重胤の鶴岡滞在が、照井長柄に大きく影響したようです。
 秋田を訪れた重胤は、平田篤胤が既に故人であることを知り、傷心のまま大山――現:山形県鶴岡市――に身を休めたのだと言います。
 彼は先に触れたとおり『日本書紀』の全文を詳解した『日本書紀伝』の作者でありますが、照井長柄は、その彼を訪ね、直接彼の思想の真髄に触れたようです。
 師、鈴木重胤が江戸において凶刃に倒れると、長柄は恩師の大著『日本書紀伝147巻』を校訂しました。
 更に彼は重胤の汚名をそそがんと奔走したため、藩主から忌み嫌われ、幽閉までされたようです。
 彼の勤皇ぶりは、戊辰戦争時、藩の軍医を命ぜられたにもかかわらず、官軍に刃を向けることを好まず、病と称して戦陣を離れたほどですから相当なものです。
 ところで、彼が国学に奔走したのは、世の流れ故だけであったのでしょうか。そんなはずはありません。彼は儒教主流の土壌に育っているのです。
 ここで私は手元の『姓氏家系大辞典』の記述に戻ります。
 「鶴岡の國學者に照井長柄(もと田村氏)あり」
 太田さんは、照井長柄は「もとは田村氏であった」としているわけですが、それはあくまで長柄一個人の話のようです。
 『荘内日報社』のウェブには、

「文久年間田村姓から祖先の照井姓に改めた」

とあり、照井一族であった長柄の先祖が、“なんらかの事情で田村姓を名乗っていた”ということがわかります。
 それにしても、照井一族が何故「田村姓」を名乗ったのでしょうか。
 『姓氏家系大辞典』の「南朝田村氏」の條には次のような記述があります。

「凡そ南北朝の時にあたり、奥州にて勤王の節を守りしは、伊達、田村、葛西、南部の四家にして〜」

 ここの「勤王」の対象は南朝、すなわち後醍醐天皇側を指します。
 北朝は、正統な血統ではあるものの、あくまで後醍醐天皇追放のために足利尊氏が擁立したものでもありますから、善悪はともかく“インスタントの傀儡朝廷”であったと言っても過言ではありません。
 照井長柄の地元である鶴岡市内の旧藤島町平形(ひらかた)には「平形館跡」なる館跡がありますが、これは南北朝時代の吉野朝――南朝――方の国府であったと言いますから、このあたりは、南北朝時代において南朝側の巣窟であったということでしょう。
 ここに、照井長柄の国学志向と田村姓の間に、ひとつの共通点があぶり出されたわけです。
 更に私は、ここにもう一段階の勘繰りを入れざるを得ないのです。
 田村氏とは、坂上田村麻呂を祖と仰ぐ一族です。田村麻呂と照井氏の間に共通項があることは既に触れました。
 念のために繰り返しておきますと、田村麻呂の坂上氏も、照井氏も、私の中では高句麗系騎馬族の末裔であるということになっております。
 照井長柄の父祖や、彼自身の確信的なこの“文久の改名”の事実によって、恐縮ながら私論が強化されるものと自負しております。
イメージ 1
田村氏ゆかりの地、福島県田村郡三春町「三春滝桜」の八分咲き(?)。

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