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照井太郎伝説を濃厚に残す矢本地区――現:宮城県東松島市――は牡鹿郡衙所在地の最有力候補となっております。 『矢本町誌』――旧矢本町(現:宮城県東松島市矢本地区)の町誌――は、「舎人」とへら書きされた高杯付杯の発掘によって牡鹿郡の郡衙所在地の中でも更に有力候補と目される「星場遺跡」について、「出土遺跡は古墳時代のはじめからあり、奈良時代に中心をおき、平安時代中期頃までつづいている」と記しております。 平安時代中期であればおおよそ陸奥安倍氏が頭角をあらわしはじめた頃になると思いますが、その権勢は前九年・後三年の役を経て奥州藤原四代に受け継がれていきます。その藤原四代の重臣であったとされる照井氏が、主君の実家であり精神的始祖である安倍氏とも密接な関係であっただろうことは推して知るべしでしょう。 照井氏の中にはアテルイの末裔を自称する人もいることは度々触れておりますが、その照井氏と大国造一族である道嶋氏――丸子氏――が同時代に同エリアで勢力をふるって併立していたとは考えにくいものがあります。したがって、照井氏の牡鹿エリア進出により道嶋氏が衰退したか、あるいは照井氏と道嶋氏が、実は元々同一とも言えるほどに密接な関係であったかのいずれかなのでしょう。 ちなみに宝賀寿男さんは後者を想定しておりました。宝賀さんは論考『塩の神様とその源流』のなかで、次のように語っております。 ――引用―― これら陸奥に残った道嶋一族のその後は、全く知られていない。しかし、その行方を示唆するものもないではない。 東松島市の赤井遺跡(旧矢本町で、古代には牡鹿郡に含まれた)からは「舎人」「大舎人」と墨書された須恵器が発見され、豪族道嶋一族の居館と関連づけて考えられている。この付近の祇園社(現須賀神社)は、平泉藤原秀衡の家臣照井太郎の勧請と伝えており、徳治三年(1308)銘の板碑があって、同氏の供養碑と伝える。赤井には照井の小字があり、西方近隣の小松にも照井太郎高直とその妻の伝説のある手招八幡社がある。太田亮博士は照井氏は磐井郡照井邑より起るとし、泰衡家臣照井太郎高春の後というとして、登米郡佐沼北方邑古累、玉造軍下野目邑古館及び磐井郡清水邑ニ桜城等は、いずれも文治の春、高春が拠った地と伝えられる、と記す(『姓氏家系大辞典』)。 この記述から、照井氏の勢力が相当に大きかったことが窺われるが、登米郡の古累とも考え併せて、桃生郡の照井が起源の地と考えたい。そうすると、照井氏を古代道嶋一族の末流とみるのが自然となる。このような形で、古代陸奥大国造の後が残っていたとしたら、頼朝の奥州以前は多賀城にあって民政に預かり、大河兼任の乱に同心した留守職親子は、照井氏の一族だった可能性もある。 この中で、供養碑や伝説については既に触れたとおりですが、なるほどそれらをこのように捉えることも出来るのか、と目からうろこでありました。道嶋氏を輩出した丸子氏が私の想像どおりオホ氏であったとするならば、アテルイとともに処刑されたモレの一族にもつながりそうで面白いと考えているわけですが、宝賀さんの論考から言えば丸子氏は照井氏そのもの、すなわち私が思うアテルイ一族と同一ということになるわけです。 いずれにしても、モレとアテルイが強い絆で結ばれていたのと同様、牡鹿郡が栗原郡と極めて密接な関係にあった可能性は高いと考えます。 その場合、石巻市牧山(まぎやま)の地名由来となった魔鬼(まぎ)一族の性格もだいぶあぶり出されてまいります。 前に私は、makiではなく、あえてmagiと訛ったままで地名として残っているのは、マギという訓に強い意味があったからではないか、と疑っておきました。それを特に大きく訂正する必要はないのですが、このマギはやはり現在の表記どおり素直に牧の意味で、「馬柵(まぎ)」と呼ばれていたのではないか、もっと言うならば天武天皇の軍事戦略によって信濃に扶植された高句麗系騎馬軍の、あの「馬柵」のことではないか、と考えはじめているのです。私の仮説では、この天武天皇直轄の高句麗系騎馬軍は浅間山の噴火で壊滅状態に追い込まれ、オホ氏と同祖の信濃国造の手引きで陸奥国栗原に移住したのではないかとしているわけですが、その栗原とこの牡鹿は地理的には「伊治(いじ)川――迫(はさま)川――」の上流と河口の関係にあり、人文的にも双方に照井氏の痕跡が濃厚で、極めて密接な関係にあったと考えられます。 まして私は「石巻(いしのまき)」の語源について「伊治(いじ)の魔鬼(まぎ)」説を採るとしておりました。この「伊治」についても「いじ」の他「これはる」「これはり」とも読み、すなわちそれは通説でも「くりはら」のこととされておりますが、前にも触れたとおり、『日本書紀』に記載された奈良県高市郡明日香村の「栗原(くりはら)」の地名由来からみてクリハラとは本来「呉原(くれはら)」であったと考えて間違いないでしょう。「呉」は三国志で有名な中国の「呉(ご)」ではなく、高麗人が「呉人」と呼ばれていた――名乗っていた?――ことから古代において彼らの代名詞となっております。おそらくクリやクレ、コレは、コウクリのクリ、あるいはコウライが変質したものであろうとは思うのですが、私見では本当に中国の呉と関係があったのかもしれないとも勘繰っております。それはともかく、つまり「伊治の魔鬼」は、本来照井王国栗原のそれと同系高句麗系騎馬軍の「伊治の馬柵」であったのでしょう。 |
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2010年08月18日
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