はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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道鏡の血

 「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」・・・。
 奈良時代の宇佐八幡神託事件で有名な彼は、人臣の身ながら時の天皇――称徳女帝――のご指名により次代の天皇になりかけた、史上稀な傑物でした。それ故に後世の世論では、称徳女帝の寵愛をいいことに野心に取り憑かれた奸物のような評価をされ、また、その寵愛についてもワイドショーばりのスキャンダラスなものとして伝えられております。あたかも出世欲や性欲の権化のような扱いの彼は、枕詞に「悪僧」「怪僧」などを冠されて呼ばれることが多く、とにかくあまり評判のよろしくない人物なのです。
 しかし、冷静に正史を眺めてみる限り、彼の政治を私利私欲に走っていたものとは思えないことも事実です。『日本の歴史(ほるぷ出版)』で家永三郎さんが述べておりましたが、彼の政治には一般イメージとは裏腹に「悪僧による自分勝手な専制政治」という性質はなく、むしろ「地方豪族の中央政界へのさかんな進出」に道をひらいたものなのです。管見でも、称徳女帝の御代、陸奥国において他に類例がない「大国造」なる地位が創設されたこと、また、道嶋氏――丸子氏――がその役職に大抜擢されたことを思い起こすならば、あえて家永さんの言葉を待つまでもありません。なにしろ、道嶋氏は正史を見る限りではあくまで蝦夷なのです。道嶋氏は家畜同然の蝦夷でありながら牡鹿連あるいは牡鹿宿禰といった、すなわち連(むらじ)姓ばかりか宿禰(すくね)姓までをも賜っているのです。この背景があるからこそ、私は桃生城跡付近に「道鏡と称する碑」が残されていたことを重要視しているのです――大正十二年発行の『桃生郡誌』より――。
 繰り返しますが、称徳女帝の御代をのぞいて、以降道鏡は万世一系の天皇家を転覆させようとした“奸物扱い”であり続けました。にもかかわらず、こともあろうか大政奉還後より絶対的な統帥権への過渡期である大正の世にあって、陸奥国大国造――道嶋氏――のお膝元とも言える桃生城跡付近に、天下の奸物の名を刻んだ碑が存在していたという事実は、実は大変驚くべきことと私は考えております。
 想像にしか過ぎませんが、この「道鏡と称する碑」は、表立って名乗らずとも、おそらく現在も尚どこかで脈々と家伝を受け継いでいるであろう陸奥大国造の末裔が、称徳女帝や道鏡から受けた恩について末代まで語り継ごうとしていた証だったのではないのでしょうか。
 さて、弓削氏について太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』をひいてみると、「弓削部、及び其の伴造の裔なり」とのことで、その弓削部については――読んで字の如くではありますが――「職業部の一にして、弓を作るを職業とせし品部也」とありました。
 一方『天孫本紀――先代旧事本紀――』のニギハヤヒ――天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊――十三世孫「物部尾輿連公」の条に「弓削連祖倭古連女子阿佐姫。〜略〜各為妻」とあり、つまり、饒速日十三世孫の「物部尾輿」は弓削連の祖「倭古連」の女である「阿佐姫」――他一名――を妻にしている、とされております。そしてその子にあたる十四世孫「物部大市御狩連公」の弟として「物部守屋大連公。曰弓削大連」が記載されております。
 このことについて太田亮さんは、「即ち守屋が弓削大連と云ふは、母姓を冒せし也」としております。
 また、藤原仲麻呂は道鏡に関して「この禅師(道鏡)が昼夜朝廷を護り仕え申し上げる様子を見ていると、道鏡の先祖が大臣としてお仕え申し上げた地位と名を、受け継ごうと思っている野心のある人物である」――宇治谷孟さん全訳注『続日本紀(講談社)』より――と讒言的要素のある奏上をしておりますが、その奏上中「道鏡の先祖が大臣」とあることにたいして、太田さんは前述大辞典にて次のように述べております

――引用――
「先祖大臣」とあるは、守屋大連を指す事・明白なれば、物部流の弓削氏なりしや疑う餘地なければ、昔より天智天皇皇孫の説ありと雖、採り難し。

 そうなのです。あまり語られませんが、弓削道鏡は、実は蘇我馬子に敗れた物部守屋大連の裔であろうと考えられるのです。
 大野七三さんら一部の研究者は、ニギハヤヒを真の皇祖神であると考えているわけですが、もしニギハヤヒが『先代旧事本紀』が語るようにホアカリ――アマテル――と同体の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日」としてその名に“天照”を冠する神であり、物部氏が本当にその神の裔族であったとするならば、称徳女帝の道鏡天皇計画のプロデュースは、単に万世一系の破壊にとどまらない、何か底の知れない因縁めいた革命であったと想像せざるを得ません。
 また、そうした場合、「物部(もののべ・もののふ)」を意味するとも言われる「桃生(ものう)」に「道鏡と称する碑」が残されていた事実にも、なにかさらに巨大で複雑に想像を膨らまさざるを得ない自分がおります。
 ところで、もし道鏡に守屋の無念を継承している感情があったとするならば、道鏡は仏に仕えることはなかったはずとも思われますが、逆に考えるならば、蘇我馬子と物部守屋の対決は必ずしも「仏」対「神」の構図ではなかったのではないか、ということにもなります。実は私はそのように考えているのです。
 谷川健一さんの『四天王寺の鷹(河出書房新社)』によれば、大阪府大阪市の「四天王寺」でいろいろなお仕事に就いている「公人」と呼ばれる人々は、物部守屋に仕えていた人々の末裔なのだといいます。守屋の敗死後、彼らの先祖は四天王寺の奴婢になったといい、今も尚その職(?)が受け継がれているということなのです。
 こう書くと彼らにとって悲劇的な辛き歴史の印象のみが残りますが、それは守屋が廃仏派として敗北し、その遺産ともいうべき彼らの先祖が奴隷のごとく反イデオロギーの仏教に奉仕させられた、と考えてしまうからなのでしょう。
 しかし、四天王寺が元々守屋の邸宅跡であり、更にそこに守屋の怨霊を慰めるべく守屋祠が鎮座していることを考えるならば、彼らは必ずしも悲運であったとは限らないのかもしれません。彼らは、偉大な主君に奉仕する誇り高き代表団として、選ばれて歴史の中を継承されてきたことには間違いないのです。
 弓削道鏡は、もしかしたらそのような人々の希望の光であったのかもしれません・・・。
イメージ 1
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四天王寺金堂の鷹の止まり木。キツツキとなって攻めてくる物部守屋を、白鷹となって防いだ聖徳太子のためにあるのだそうです。

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