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陸奥国「多賀城」は、神亀元(724)年に大野東人(おおのあずまんど)によって創建されたと考えられております。それ以前のこの地はどのようなところであったのでしょうか。このことは同朋内の私的な会話でも時折話題に上がるネタであり、私ならずも歴史好きの東北人であれば誰しも気になるところでしょう。おもしろいのは、この件に関してはまず議論(?)になりません。ほとんどの方々が「元は先住者――蝦夷――の重要な何かであったに違いない」と考えているからです。もちろん、かく言う私もそう考えているということです。多賀城が、後の東北地方の古代史上最も重要な拠点であり続けた事実からも、大和朝廷にとってこの地を押さえたことがかなり大きなウイニングポイントであったと想像するにはさほどの迷いもありません。 となれば、次は具体的にどのような人達がこの地を領していたのだろうか、という部分に興味が湧いてまいります。もちろん、先に記した多賀城の創建時期ですら未だ推論の域を出ない程度の情報量であり、それ以前の世界を根拠を明示して推定することなど極めて困難なことではあるのですが、先日私は何気ない日常から貴重な情報を嗅ぎ付けました。その何気ない日常とは、またしてもカーナビゲーションシステムです。 多賀城市にある「東北歴史博物館」を訪れた私は、自家用車のカーナビが表示する“ある地名”にふと疑問を感じました。ここ数年の区画整理で地名が変わっているので、現在の地図ではわからないのですが、10年モノの私のDVDカーナビで、更新したDVDソフトでも既に5年モノであることが幸いしたようです。私は、現在スーパーマーケットのヤマザワの駐車場になっている底地のほんの一部分に「丸山(まるやま)」という地名を見つけたのです――現在の多賀城市城南二丁目地内――。地元の方ならご存知でしょうが、多賀城市内で丸山といえば「あ〜陸上自衛隊の多賀城駐屯地がある場所でしょ?」となるはずです。当該地はそこから最短の直線距離でも2キロ強離れており、しかも途中「多賀城廃寺」などがある高崎(たかさき)などの丘陵住宅地を経て一山越えた場所にあるのです。このあたりの土地勘がある方ならばかなりの違和感を感じるはずです。 更に続けましょう。 意識して周辺をうろついてみると、多賀城政庁跡の北西側、貴船神社付近にも「丸山」がありました。 また、これはカーナビからの情報ではありませんが、更に離れた鹽竈神社の北北西方面にも古代に「丸山」と呼ばれていた地区があります。さてこれらはどう考えればいいのでしょうか。 例えば、仙台市内でも「荒巻(あらまき)」などのように、かつての大きな村が仙台市に合併され「大字」として地名が残っている場合があります。やがて仙台が都市化するにつれ、それらかつての郊外の地名も各個「大字」がとれて住居表示も独立していきました。そのため、かつての荒巻村の名残地名が、現存の「荒巻」とは隔離された場所にも飛び地で残るという現象が生じました。私は、多賀城の飛び地「丸山」もそういったものではなかったか、と考えるのです。つまり、多賀城・塩竈一帯は、かつて広く「丸山」であったのではないでしょうか。なにしろ、私はこれを道嶋氏の本姓(?)丸子(まるこ・まりこ・わにこ)氏の訓と同様、「丸山(わにやま)」とも読めると疑っているのです。 つまり、多賀城創建以前のこの地は、ワニ系の一族が領していたのではないでしょうか。 余談ながら、何故「丸」をワニと呼ぶのか考えてみました。 古文書に精通した知人に聞いてみると、「ワ」と発音する漢字は、時折「○」という記号で記載されていることがあるとのことでした。そのような事情を鑑みるに、昔の人は「和邇(わに)」氏について記載する際、「○」記号で簡略化していたこともあったのではないでしょうか。だいぶ時代が下って、例えば江戸時代の有識者などが古文書をひもとく際に、○という記号を直訳(?)して「丸」と転記したことも大いにあったのかもしれません。例えそれが前後の文脈から和邇氏をさしていることが明白であったとしても、文書に「丸」と書いてるあるわけですから、さらに後世の有識者はそのままマルとして訓(よみ)をふったのではないでしょうか。したがって、和邇氏や丸子氏が活躍していた当時、彼らはあくまで「ワニ」や「ワニコ」であって、「マル」「マリ」や「マルコ」「マリコ」などとは呼ばれていなかったのではないかと想像しております。 そのようなことを考えながら、多賀城市内をうろうろしていた私の目に、ふと「弘安の碑」という案内表示が飛び込みました。場所は高崎地区の「化度寺(けどじ)」です。特に初めて見つけたわけでもないのですが、現在進行形でモクリコクリの碑と丸子氏、ニワタリ信仰の因果関係について考えている私としては、仙台市内においてすべからく「モクリコクリの碑」と称される「弘安の碑」が、今触れてきたようにおそらくかつて「丸山」であっただろうこの地区に存在していることは大変気になります。多賀城市教育委員会による現地の説明板には次のように書かれてあります。 ――引用―― この碑は、明治時代に高崎井戸尻地区で発見され、鬼子母神堂に安置されていましたが、堂が廃棄されたため平成一二年に現在の化度寺(けどじ)境内に移されました。 〜以下省略〜 ついでまでに、『多賀城市史』には次のようなことが書かれております。 ――引用―― 仁和多利大権現 高崎村の「書出」は当社について、化度寺(けどじ)の境内にあると記している。当社は高崎の岡の東端にオグマンサマ(熊野社)と並んで建てられていた小祠であったが、第二次大戦中に海軍工廠が建設される際、この地が採土のため削り取られて、当社は廃されて現在はない。 かつて境内にニワタリ大権現を祀っていた化度寺に、住処を失って似たような境遇をたどった「弘安の碑」が移されたというわけですが、はたしてこれが偶然なのかどうか、私の好奇心は膨らむばかりです。
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2010年10月13日
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