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金為時(こんのためとき)は、安倍氏同族と考えられる金氏の中で、ただ一人、源頼義・義家親子に味方した人物です。為時は、安倍氏の後背に控える俘囚を源氏方に寝返らせるという巧みな奥地工作で、安倍頼時――貞任・宗任の父――を挟み撃ちにして討った人物なのです。 『陸奥話記』によれば、為時は「気仙郡司」であったようですから、表面的に受け止めるならば陸奥守・鎮守府将軍の麾下に属して賊を討つのは、郡司として当然の役割であったと言えそうです。 しかし、為時以外の金氏が軒並み安倍氏の腹心として奮闘しているところをみると、為時と雖も本来は安倍氏と密接な関係であったと考えるのが自然でしょう。 そもそも、安倍氏は欲深い陸奥守によって賊軍に仕立て上げられただけであり、本来気仙郡司なる職掌も実質は安倍氏の勢力下にあったと考えられます。したがって為時が安倍氏に刃を向けた動機には、官職としての責務以上の感情も働いていたと考えたいところです。新野直吉さんは、「金為時は有能であったか、安倍氏を超えたいという野心家であったかのため、源頼義に引き抜かれたものであろう――『古代東北の覇者』:『大船渡市史』引用文より――」としておりましたが、その可能性は高いと思います。 ただ、私は一つひっかかっていることがあります。『大船渡市史』には、気仙の歴史研究をされた新沼悌二郎さんによる素晴らしい稿が掲載されているのですが、その中で、金為時について次のような違和感を表明しながら締めております。 ――引用―― 以上、『陸奥話記』によって前九年の役のあらましと金為時の活動について述べたが、『陸奥話記』に為時のことが出ているのは、天喜五年の奥地工作までで、その後の諸合戦の記事にはその名が見えない。だからといって、それらの合戦には出陣しなかったとはいえないが、流星のようなその出現と消失はなんとなく謎めいている。北上川畔での側面攻撃や安倍頼時を死に至らしめた奥地工作など、その勲功が抜群なのにもかかわらず、史家がほとんど取り上げないのも、そのためなのかもしれない。 〜中略〜 なお、後世の気仙金氏は金為時の末裔とされているが、館下「金氏家譜」(陸前高田市米崎町)や「長安寺系図伝記」(大船渡市日頃市町)の為時譜は、明らかに『陸奥話記』によって書かれたもの(それも正確ではない)である。それはよいとしても、「金氏家譜」に「為時の領知は、胆沢・江刺・本吉・気仙の四郡にて十万石を領し、一方の大将なり。」などと記されているのは、これらの譜記が後世(それも近世になってから)の造作であることを自証しているようなものである。また、東磐井郡奥玉の「金野氏系図」や大船渡市立根町の「金野氏系図」にも金為時の名は出ているが、これは安倍氏の時代(平安時代)ではなく、鎌倉時代の人とされている。 実は、かつて私は為時を架空の人物ではないか、あるいはその功績は金氏の創作ではないか、と疑ったことがあります。陸奥に残った金氏が、賊軍の謗(そし)りを逃れるために、勝者である源氏に味方した「為時像」を作り上げたのではないか、と考えてみたのです。 しかし、『陸奥話記』自体が、「前九年の役」後、たいして時間を置かないうちに、おそらく京在住の人物によって書かれたものと考えられることや、源頼義が太政官に提出した国解の中で、為時が下毛興重らとともに、奥地の俘囚説得のために鉋屋・仁土呂志・宇曽利などの蝦夷地の北端に派遣されたことが述べられていることから、やはり為時は実在して安倍氏を裏切ったことは間違いないのだろうと考えるようになりました。 ちなみに何故戦後間もなく書かれたものであることがわかるのかと言うと、貞任斬首後、宗任が伊予に配流されたことや、一年後の源頼義の凱旋帰京について全く触れられていないからです。 いずれにしても、前九年の役の後、国府に刃を向けた安倍氏は国賊となり、当然安倍氏と共に奮闘した金氏についても同じだったはずです。 彼らの処分がどうであったかというと、『陸奥話記』は、斬首もしくは捕虜とされた者が、安倍貞任、同重任、藤原経清、平孝忠、藤原重久、物部維正、藤原経光、同正綱、同正元、帰降した者は、安倍宗任、弟家任、則任、安倍為元、金為行、同則行、同経永、藤原業近、同頼久、遠久、と記しております。 こうして見ると、為行をはじめとする金氏の重鎮は、帰服し、宗任と運命を共にしたようです。宗任と共に伊予そして筑紫に配流された一派は、諸々の史料・資料からみて、多くても40人弱と考えられます。 一方、貞任の家族は「貞任家族無遺類」とあり、全員殺されたようです――裔族を称する秋田氏や藤崎氏の家伝では当然逃げ延びている――。 その他、貞任の叔父の良昭や弟の正任は、厨川柵陥落の八カ月後に投降したようです。 もちろん、安倍側の人物はこれだけではないはずです。その他の人物はどうなってしまったのでしょうか。少なくとも全滅はしておりません。何故なら、姓を変えながらも由緒ある祠を守り続けている末裔様が、宮城県内にもいらっしゃるからです。 金氏はどうであったのでしょう。私は思うのです。安倍氏に味方した金一族の残党も、姓を変えたか、あるいは、為時系譜と偽って生きのびたのではないでしょうか。 それを可能にする要因もあります。安倍政権崩壊後、清原政権も長くは続かず、この地は安倍の血を受け継ぐ奥州藤原氏が治めることになりました。東北地方全域が奥州藤原氏の支配下になったとき、安倍氏を裏切った為時系譜は従前どおり気仙郡司として存続出来ていたのでしょうか。源頼朝によって奥州が再び源氏色に染まるまでは100年もあったのです。私は、金為時なる人物像が謎めく理由は、このあたりにあるのではないかと想像しております。 |
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2011年05月11日
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数年前、死の山“月山”登拝の機会があり、あらためて自分のご先祖様と向き合う機会に恵まれました。その際、予めご先祖さまの名を刻んだ供養串を100本ほど用意しなければならなかったのですが、ふと、せいぜい四代前くらいまでしか遡れない自分に気付きました。私の祖父は、父系母系とも第二次大戦中に亡くなっており、面識がありません。私は、祖父も曾祖父も墓石に刻まれた名前でしか知らないのです。そのような自分を顧みるとき、何百年以上もの自家の系譜をしっかりと認識できる方々が、如何に徹底してご先祖様の尊厳を守り続けていたのかを思い知らされるのです。天皇家をはじめ、公家、大名、宗派、伝統芸能、豪商、豪農等々・・・栄枯盛衰が必定の浮世のなかで、諸兄を取り巻く世情も常にめまぐるしく変化し続けていたわけで、綺麗事ばかりではなく、時代によっては必ずや耐えがたきほどの苦難もあったはずです。善・悪・敵・味方を問わず、私はその尊き歴史の重みに対して敬意を表さざるを得ないのです。 話を戻しますが、私自身について、必ずしも自分がどのような系譜であったかを推し量る術がないわけでもありません。とりあえず“姓――苗字――”からなにかしら推察出来るはずだからです。 「姓」と「苗字」は本来異なる意味を持つものなのですが、現代人には同じ意味のモノとなっております。ざっくりと言うならば、姓は遺伝子、苗字は本籍地と考えて、そうそう外れてはいないと思います。 ニュアンスを分りやすくするため、具体例を挙げてみましょう。木曽義仲、足利尊氏、彼らの姓は「源(みなもと)」です。しかし、本家の地位を勝ち得た源頼朝の系譜と区別するため、「木曽」「足利」という各々の地盤の地名、すなわち“苗字”を冠しておりました。 その他、例えば伊達政宗ら有力大名が徳川家康から松平姓を賜ったようなケースや、職掌や身分の姓(かばね)があったりしていて、異なる氏族があたかも同族のように見えてしまう場合もあるのですが、いずれにしても、そこにご先祖様が背負ってきた経歴について、なんらかのヒントがあることには間違いありません。それが長い歴史の途中で、捏造あるいは創作されたものであっても、ご先祖様がそのように自分の系譜を書き換えた理由や事情も必ずあるはずで、そこに検討を加えれば、ご先祖様の置かれていた立場もある程度絞れてくるのではないでしょうか。とはいえ、幸い、宮城県の「今野(こんの)」については、わりと推察しやすい環境にあります。 かつて、今は亡き宮城の偉大な郷土史家「紫桃(しとう)正隆」さんと初めて電話で会話させていただいたとき、紫桃さんは私の姓について、元々は「金(きん・こん)」であり、「女真(じょしん)族」の出であるとおっしゃっておりました。コンノの「ノ」は、「ミナモト“ノ”ヨリトモ」や「タイラ“ノ”キヨモリ」の「ノ」と同じで、今野政明も本来は「今ノ政明」なのでしょう。 余談ですが、かつて職場の机上や電話機に、度々「今の君へ」から始まる業務連絡が付箋で貼られていたことがありました。「今野君へ」と書くのがよほど面倒だったのでしょうか・・・。“野(の)”が本来接続詞であったのだとするとあながち間違いでもなさそうですが、どうしても「いまのきみは〜ピカピカに光って〜」という歌が頭から離れなくなり、業務に支障をきたしていたことが思い出されます。 それはともかく、たしかに女真族は、12世紀に中国北部にて「金朝」を建国しておりますので、彼らと「金」という文字には浅からぬ縁があることは事実です。紫桃さんが故人となられた今となっては、どのような根拠でそうおっしゃっていたのかを確認する術もありませんが、これまで述べてきたように東北地方とツングース系の密接具合を鑑みるならば、今はそれも頷けるように思えております。 いずれ、今野一族のルーツが女真族である、という説は、このとき初めて聞きました。通常「金(こん)氏」の系譜を渡来系に結び付ける場合、太田亮さんが『姓氏家系大辞典』の中で第一項に挙げているように、「新羅族」と考えるのが一般的です。すなわち「新羅王金閼智の後裔」だとするものです。 新羅王の裔族ではなかったにせよ、『続日本紀』の天平五年六月の記事に、徳師なる武蔵国埼玉(さきたま)郡の新羅人ら男女五十三人が請願によって金姓とした記事もありますので、新羅系渡来人が金を名乗っていたケースは実際にあったことがわかります。 一方で、陸奥金(こん)氏の菩提寺である長安寺――岩手県大船渡市――の傳においては、金(こん)一族は阿倍倉梯麻呂の裔とされているようです。 また、『陸奥話記』には「度々合戦之場賊帥死者數十人所謂散位平孝忠金帥道安倍時任同貞行金依方等也皆是貞任宗任之一族驍勇驃悍(?)精兵也云々」とあります。つまり、源氏方に敗れて戦死した金帥道・金依方なる金姓の賊将が「貞任・宗任の一族」と報告されていたことが記されております。更に先の『姓氏家系大辞典』によれば、『安倍氏筆録』に「平形の城主金氏は、藤島殿の家老にて、先祖は安倍の一黨、金為時に出で〜」とあるようで、奥羽の金一族が陸奥安倍一族の同族であった可能性はかなり濃厚です。 ここに「金為時(こんのためとき)」なる名前が出てきました。さまざまに伝わる金氏系図ですが、先の阿倍倉梯麻呂とこの金為時については一致をみているようです。穏当に考えるならば、宮城県、岩手県の今野姓は、さしあたりこの人物に辿りつくようです。 |
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