はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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経沢に集約された私論

 経沢(へざわ)――福島県会津若松市――の物部守屋一族落人伝説が事実だとした場合、守屋の娘は何故逃亡先として会津のこの地を選んだのでしょう。あくまで伝説なのだから、その根拠を真剣に考えるのは無駄だ、と言われるかもしれませんが、仮に娘ではなかったとしても、こうした伝説があって、さらに守屋神社まであるということは、守屋になんらかの縁ある人物が当地に土着していたことは間違いないでしょう。
 そこで一つキーワードになるのは、小島一男さん著『会津の歴史伝説(歴史春秋社)』にあった「経沢金山の繁昌(はんじょう)してた頃には民家が二〇〇軒もあり、村は活気に満ちていた〜」というくだりです。「金山の繁昌」というキーワードは重要です。ここでの金山が、「金――金属――を産出する山」の意味で使われているのか、経沢集落の南東にある具体的な山名を指しているのかは判然としませんが、仮に山名だとしても、その名の由来はいずれ産金――産鉄――に因んでいたのでしょうから、結局は同じ話に落ち着くと言っていいでしょう。そういえば、民謡「会津磐梯山」で♪えんや〜会津磐梯山は〜宝〜の〜山よ〜笹に黄金がえ〜また〜なり〜さ〜が〜る〜♪と歌われますが、なにしろ磐梯山は活発に活動する火山でもあり、周辺の湖沼も噴火物に川が堰きとめられて誕生したものも少なくありません。そもそも地下鉱物が地表近くに現れやすいエリアなのでしょう。
 意識して地図を眺めると、猪苗代湖周辺には産鉄を思わせるキーワードを少なからず見かけます。今触れた集落南東の「金山」はもちろん、集落北西の太子信仰の照光寺の更に北西には、「金砂神社」があります。それに加えて、付近の「赤井川」や地名の「赤井」、猪苗代湖に接する「赤崎」、「赤津」なども、鉄分を含んだ水をイメージさせます。
 「赤井(あかい)」と言えば、「牡鹿郡衙(おしかぐんが)」の最有力候補地と目されている宮城県東松島市の「赤井遺跡」を思い出しますが、この遺跡の底地名の「赤井」は、そもそも鉄分の多い赤い水が湧くことから名づけられたといいます。牡鹿郡衙は、一般の国造より上位に位置づけされる全国唯一の“大国造”なる地位を授けられた蝦夷のエリート「道嶋氏」の拠点とされているわけですが、平安時代終末期の同エリアは、奥州藤原氏の重臣で一説にアテルイの末裔とも言われる「照井氏」の拠点でもありました。道嶋氏の消長も照井氏の興隆も今一つ不明瞭なので、同時代に彼らが並立していたか否かについては不明ですが、熟蝦夷(にぎえみし)のエリートリーダー一族と、麁蝦夷(あらえみし)の酋長一族のこの地での関係は気になるところです。いずれ、彼らが当地に拠点を求めた理由は、水運と産鉄にあったことでしょう。
 水運と言えば、「経沢」にしても「赤井」にしても、現在の大字名は「湊町(みなとまち)」ですし、「赤津」は言わずもがな読んで字の如し「津――船着き場――」であったと考えて間違いないでしょう。内陸の猪苗代湖ではせいぜい対岸までの渡し船か湖上遊覧程度にしかイメージが浮かばないかもしれませんが、先に触れたとおり会津の歴史が東北地方には珍しく日本史級であることを忘れてはいけません。
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 現在では考えにくいものがありますが、会津は四道将軍が再会した港を意味する「会い津」「相津」が地名由来と言われているように、東海道と北陸道が辿りつくターミナルであり、日本古代史上重要な交通結節点なのです。猪苗代湖はそのようなエリアの象徴的な巨大湖なのです。 
 例えば、越エリアから会津、更に猪苗代湖入りするルートとしては、現在の新潟県新潟市に悠々たる流れで膨大な水量を日本海に提供する大河「阿賀野川(あがのがわ)」を遡っていたことでしょう。阿賀野川の上流部は、会津においては流路が定まらない暴れ川であったようで、そのおかげで東京の山手線エリア程度がすっぽりと収まるほど広大な会津盆地が形成されたらしいのですが、流路と同様、川の名前も一つに定まっておりません。少なくとも会津盆地においての本流は「阿賀川」と呼ばれております。ふと、「阿賀川」や「阿賀野川」は、本来「赤川」であり「赤ノ川」であったのでは?という想像も膨らみます。
 何はともあれ、阿賀野川の支流の一つ「日橋川」が日本海へ溢れる猪苗代湖の水を担当しております。つまり、それが猪苗代湖と越文明を連絡するメインルートであったことでしょう。その猪苗代湖の水が溢れ出る湖岸に、先の「赤井」地名が存在しております。経沢集落はその南方やや上流(?)部にあるわけですが、その途上には「藤崎」なる名の岬や、「石動木(いするぎ)」なる小字名があり、大変気になっております。何故なら「藤崎」は言わずもがな安倍貞任の末裔の氏姓であり、「石動木」は阿彦を倒した女神「姉倉姫神」の浮気した夫「伊須流伎彦(いするぎひこ)」を思わせるからです。ちなみにこの神を祀る「伊須流岐比古神社」鎮座地――富山県鹿島郡鹿島町――は「石動(いするぎ)山」と表記されます。この神については別稿で触れたいと思いますが、とにかく、経沢周辺への道中は地名だけでもなにやら興味をそそられます。
 経沢集落へ通じた道は集落の奥で行き止まりになっているようですが、守屋神社は舗装道路が途切れる手前の右手に鎮座しております。『会津の歴史伝説』によれば、神社の裏手には御陵が二ヶ所以上現存していて、注連縄が張りめぐらされているということでした。しかし、私が社殿の周りを軽く一周した限りではそれらしきものを見つけられませんでした。しいてあげれば、本殿の裏に基礎工事の「遣形(やりかた)」のような木枠の結界(?)に囲まれた一間四方程度の空間がありましたが、それがそうなのでしょうか。
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 守屋神社への参拝を済ませた後、さらに奥にあたる隣の山の麓に、地図にはない鳥居が私の目に飛び込みました。伝説を読み解いていくならば、物部守屋の生き残りの家臣永山氏が守屋夫婦の陵の前に造営したのが守屋神社ということになるわけですが、その陵の巽――南東――三町ほど離れた六間四方ばかりの小さな草原で守屋の娘が自害したということでした。もしかしたら、私の目に飛び込んだ鳥居はその場所かもしれない・・・。そう思った私は、とにかくその鳥居に向かいました。農作業用の車両に刻まれた轍(わだち)以外は雑草に覆われていた農道を山に進むと、その鳥居に到達できました。
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拝殿に到達し、扁額の文字を見た瞬間私の脳髄に電気が走りました。
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 「舟岡神社」――。
 思わぬところで“フナオカ”の言霊に出くわしました。因果関係の程はわかりませんが、舟岡――船岡――が安倍氏と関わりの深い言霊であることは確かです。もちろん、陸奥における物部氏と安倍氏の濃厚な関わり合いから考えれば、物部守屋落人伝説の集落に安倍氏と関わり深い言霊が祀られていてもなんらおかしくはないのですが、最近になって「小千谷魚沼神社――上弥彦大明神:阿彦の霊を祀る社」が鎮座する地――新潟県小千谷市――においても重要な言霊であることを知り、にわかに彌彦明神と安倍氏、そして阿彦の関係を近づけられたことは衝撃でした。越後土川村――現:新潟県小千谷市内の一地区――のほとんどを檀家にする上弥彦の別当「慈眼寺」は、当地で亡くなった彌彦明神を祀っているらしいのですが、なにしろこの寺の本尊は「船岡観音」でした。舟岡神社は守屋の娘の墓なのでしょうか・・・。
 こうなると、にわかに先ほどの「藤崎」も気になってまいります。なにしろ、安倍貞任の祖が長髄彦の兄「安日(あび)」であるとする系譜を主張する貞任末裔の一氏に藤崎氏がいるのです。そして、私はその安日と阿彦になんらかの因果があるのではないかと考えているわけです。
 ある意味、自分の仮説通りに進んでいるとはいえ、いや、既に仮説以上の事実がせまってきているのかも知れず、せっかく掴んだ情報をなかなかうまく咀嚼しきれずにいるのですが、この後にも、畳み掛けるような事実が私を襲います。
 経沢の西に隣接する原村――現:会津若松市湊町原――にも守屋大連を祭神とする守屋神社が見つかり、むしろ経沢のそれよりもしっかりとした境内と社殿を備えていたのですが、『新編會津風土記』で調べたところ「神職丸山主計 其先は喜善某と稱す、何の頃神職となりしか詳ならず、今の主計某は五世の孫なりとぞ」とありました。この五世の孫の意味が、丸山主計なる人物が丸山氏の五世孫という意味なのか、喜善某の五世孫という意味なのかは判然としませんが、とにかく私は「丸山姓」に惹きつけられてしまいます。これまでもさんざん書きましたが、私は、丸山ブランドに和邇(わに)氏や多氏、照井氏などとの関わりを疑っております。そのブランドを姓として冠する一族とは、一体どのような系譜であるのか、はたまたその一族が神職を司る神社の祭神が物部守屋大連であるという事実は何を意味するのか・・・。
 ちなみに、この守屋神社の境内には末社として「鬼渡神」も鎮座しておりました。また、この守屋神社の北にも単独の「鬼渡神社」が鎮座しておりました。鬼渡神は、おそらく「御ニワタリ」で、ニワタリ神の会津名と思われますが、このあたりはニワタリ信仰も濃厚なエリアなのでしょう。たびたび申し上げているとおり、ニワタリ神は大国造道嶋氏同族「丸子氏」に縁ある神であろうというのが私の私論ですが、神職丸山氏はこれに関係しているのかもしれません。
 もう少し風呂敷を広げさせていただくならば、丸子氏の親分(?)である和邇氏系の春日臣は、物部氏の守護神フツノミタマを祀る「石上神宮」神官の祖であるとも言われております。このことから物部氏と和邇氏の浅からぬ関係も推察できるのですが、私はひょっとしたら中央の安倍氏こそが歴史から自然消滅したワニ氏のそのものではなかったか、とも疑っております。蛇足ながら、聖徳太子と死を伴にした妃は、膳部系の女性でした。膳部系は言わずもがな安倍系氏族です。
 経沢周辺の地名と信仰と伝説は、私の壮大な妄説を見事に集約してくれているかのようです。


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