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宮城県岩沼市に「丸山神社」という神社があります。「また今野のワニワニが始まった」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、はい、そのとおりです。 そもそも、丸地名を“ワニ”に結び付けて考えるようになったのは、多賀城付近を走行中のカーナビからの思いつきでした。管見の限り、諸先輩方々はこの地名に全く注目しておらず、しいてあげれば『泉市史』が丸山地名と墓地の関係を疑っておりましたが、それをワニの言霊と関連付けるのはあくまで私のオリジナルとなっております。それでもそれなりに地道な論拠を拾い続けているつもりではいるわけですが、その一つとして、この岩沼の丸山神社にも触れておこうと思います。 『岩沼市史』は次のように記します。 ――引用―― 丸山神社 岩沼市二木二丁目 通称丸山にあり、俗に竹駒神社に対して伯母明神と称している。いつの頃から祀られたか由緒も詳(つまびら)かでないし、古い記録もない。わずかに明治十一年の「岩沼本郷記」(鈴木省三著)に 丸山社東西二五間、南北一間五分、面積一畝七歩、駅西二町許(ばかり)ヲ距テテ丸山ニ鎮座ス。保食神ヲ祭ル。原由不伝、祭日二月中午ノ日、第二種ノ民有地ニ列ス。 とある。 〜以下省略〜 「俗に竹駒神社に対して伯母明神と称している」とのことですが、何故「伯母(おば)」なのかが気になります。九州の友人にこの話題を出すと、友人は「オバ」と聞いて「鵜葺草葺不合(うかやふきあえず)命と玉依毘賣(たまよりびめ)命――神武天皇兄弟の両親――が頭に浮かんだ」と言いました。それを聞いて私はハッとしました。なるほど、この夫婦は甥と姨(をば)の関係なのです。しかもこの関係は、ワニ抜きでは語れません。ここは、『古事記』におけるウガヤフキアエズの出生譚とそれに付随する玉依毘賣の登場譚に触れておかなければならないでしょう。おおよそ次のような話です。 「火遠理(ほをり)命」――山幸彦:神武天皇の祖父――は、兄「火照(ほでり)命」――海幸彦――の釣針を失くしてしまい、それを兄に厳しく責められて落ち込んでおりました。そのとき、塩椎(しほつち)神――現在は鹽竈神とされる――が現れて、心配御無用、と海神の宮――いわば竜宮城――に出向くことを勧め、ホヲリは塩椎神の教えのままに海神の宮に到達し、「海神(わだつみ)」の娘「豊玉毘賣」と出会いました。 豊玉毘賣はホヲリに一目ぼれし、すぐさま父の海神に紹介しました。海神はホヲリが天つ神の御子であることに気付き、最高のおもてなしで歓迎し、やがて、娘の豊玉毘賣を妻(めあ)わせました。そしてホヲリはこの宮に滞在することになったのだそうです。 海神の宮に滞在して三年ばかりが過ぎましたが、ホヲリの心は相変わらず晴れませんでした。ホヲリはいつまでも釣針のことが気になっているのです。それを知った豊玉毘賣は海神に相談しました。海神は、大小の魚全てを招集して釣針に思い当たる者を探しました。すると、赤い鯛がその釣針を呑みこんでいたことに気付き、海神はそれを回収し、洗い清めてホヲリに返しました。海神は、自分が“水を支配している”旨をあかし、田の水を利用した兄への反撃の術を教授しました。そして全ての和邇(わに)を招集して、その中で、一日で葦原中ツ国との間を往復出来る、と申し出た「一尋和邇(ひとひろわに)」に、ホヲリのリムジン役を命じました。ホヲリは見事兄ホデリへの反撃を完遂し、ホデリは今後ホヲリの守護人として仕えることを誓ったのだそうです。これが宮廷に仕える「隼人(はやと)」の始まりになったとのことです。 つつがなく兄への反撃を終えた地上のホヲリの所へ、「実は身籠っております」と豊玉毘賣が追いかけてきました。「天つ神の御子は海原で生むべきではない」とした彼女は、地上での出産を希望したようです。しかし、異郷の者は出産のときに本国の姿になるということから、彼女はその姿を見られたくないので「わたしの姿を御覧にならないでください」とホヲリに嘆願しました。その言葉を不思議に思ったホヲリは、ひそかに出産の様子を覗いてみました。すると、豊玉毘賣は八尋もある大きな和邇(わに)に化けて這いまわり身をよじらせていたのでした。驚いたホヲリは恐ろしくなり逃げてしまいました。それを知った彼女は恥ずかしさのあまり、生んだ子を残し、海との境をふさいで海神の国に帰ってしまったのだそうです。 このとき生まれた子が「鵜葺草葺不合(うかやふきあえず)命」なのだそうです。 ショックのあまり、海との境界を閉鎖してまで交流を断絶した豊玉毘賣でしたが、それでも尚夫と我が子が気になり、我が子の養育に妹の玉依毘賣を遣わしました。ウガヤフキアエズは、後にこの伯母の玉依毘賣を娶り、「五瀬(いつせ)命」、「稲氷(いなひ)命」、「御毛沼(みけぬ)命」、「若御毛沼(わかみけぬ)命=豊御毛沼(とよみけぬ)命=神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命」すなわち「神武天皇」を生むことになるのです。 どこか「浦島太郎」や「鶴の恩返し」、「天女の羽衣」、はたまた「黄泉の国のイザナミ」や「三輪山の巳さん」などのお伽話や神話に通じるものがありますが、なにより、玉依毘賣が海神の女(むすめ)「豊玉毘賣(とよたまびめ)命」の妹であり、姉の豊玉毘賣の正体が「八尋(やひろ)和邇(わに)」であると言うわけですから、この姉妹はもちろん、海神一族自体にもワニの気配が漂います。
「丸山神社を指す“伯母”が豊玉毘賣を指している証拠などどこにもない。こじつけに過ぎない」と言う方もいらっしゃるかもしれません。たしかにそのとおりなので、違う角度からの話もしておきたいと思います。 「竹駒神社に対して伯母明神」とあるところのその「竹駒神社」は、例年の初詣の参拝者数が、東北最多の鹽竈神社に匹敵しており、一説にここ数年は鹽竈神社を超えているとも言われております。最近鹽竈神社が初詣の参拝者数を公表しなくなったのはそのためだとかなんとか、まことしやかに噂されてもおりますが、それは下衆の勘繰りと片付けておくことにして、それにしても竹駒神社がそれだけ信仰を集めている神社であることは疑う余地もありません。 一説に「日本三稲荷」とも讃えられる竹駒神社について、この稿でもっとも注目しておきたいのは、「小野篁(おのたかむら)」によって勧請されたという由緒です。その真偽のほどはわかりませんが、小野篁という名が出てくること自体を私は重要視するのです。 小野篁は、「小野妹子」の子孫とされ、また、絶世の美女「小野小町」の祖父とも言われる人物です。彼の人物像については、後に「伴善男――応天門の変の犯人とされた最後の大伴系大納言――」との絡みの中で触れたいと思いますが、ここで私が強調しておきたいのは、小野氏が春日氏系、すなわち和邇系氏族とされている事実です。少なくともこの神社に和邇系氏族あるいは陸奥丸子氏――道嶋氏:牡鹿連を輩出した氏族――が関わっていたと推察するに難くありません。 竹駒の「駒」もなにやら気になりますが、この神は明治以前「武隈(たけくま)明神」と呼ばれていたようで、「竹駒」はその「武隈」が転訛したものとも言われており、そもそも「武隈」とは「阿武隈川」に由来する当地の旧地名のようですので、そこは矛を収めておくことにします。 逆に、語源が「武隈」であれば、それはそれで想う事があります。タケクマの語感から、和邇氏の祖とされる「タケフルクマ命:建振熊(たけふるくま)命――難波根子建振熊命――」を思い起こしてしまうからです。もちろん、あくまで感覚的な事ですが・・・。 いずれ、『日本後紀』には阿武隈川の上流域安積(あさか)郡の丸子部古佐美(まるこべこさみ)が「大伴安積連」を賜った記事があります。 また、河口付近の亘理郡には「鞠子雅楽之助義信」を祖とする「鞠子(まりこ)姓」の一族が土着しており、これが丸子氏の同族と考えられる他、『延喜式神名帳』は、この河口付近に阿武隈川の神とされる「安福河伯(あふくかはく)神」と併せて、「鹿島緒名太神」「鹿嶋天足和氣神」「鹿嶋伊都乃比氣神」といった鹿島神系の三社を記載しております。それらのことから、阿武隈川流域には丸子氏に代表される春日系中ツ臣氏族の痕跡が濃厚であると考えております。つまり、竹駒すなわち武隈の語源である阿武隈川にワニの気配が濃厚であるようなので、竹駒の神の伯母にあたる丸山神社も推して知るべしということでしょう。少なくとも、丸山神社の底地は平地であり、地形から来た命名でないことはあきらかです。 ついでながら、最後に、竹駒神社の創建が、承和の変のあった「承和九(842)年」と伝えられていることを特筆し、とりあえずこの稿を締めくくっておきたいと思います。 |
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2012年07月25日
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