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「慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)」開基と伝わる寺院が多い東北地方に生まれた私としては、仏教について考えるとき、どうしてもこの偉人を意識せざるを得ません。円仁は、あきらかに最澄や空海よりも身近に感じる高僧で、それが蝦夷の国にとって有り難い存在であったか否かはわかりませんが、少なくとも地元において「円仁さん」と呼ばれ続けていることは間違いありません。 円仁が「下野国――現:栃木県――」に生まれたのは、平安遷都の年、すなわち延暦十三(794)年のことでした。彼は、九歳にして「道忠教団」と呼ばれる教団の僧「広智」の下で仏法を学んでおります。 この「道忠教団」のリーダー「道忠」は、あの「鑑真」の高弟です。鑑真についてはあらためて言うまでもないかもしれませんが、念のため触れておきますと、日本人に戒律を再認識させるために命をかけて来日した唐の学僧です。「東大寺」に日本初の戒壇を設けたのも、戒律道場としての「唐招提寺(とうしょうだいじ)」を建立したのもこの僧です。 道忠はその偉大な鑑真の弟子の中でも「持戒第一弟子也」――『叡山大師伝』――と謳われたほどの高弟であったようです。 辺境に生まれた円仁がそれほどの僧の身近に存在し得たのは、彼の故郷下野国に「東大寺」「筑紫観世音寺」と並ぶ「三戒壇」のひとつ「下野薬師寺」が存在していたからでしょう。この寺は七世紀半ばに地方豪族の下毛野氏によって創建されたのですが、その後、何故か国家経営の官寺として整備されたのです。やはり、「下毛野氏」の祖たる東国屈指の古代氏族「毛野氏」の威光にその理由を求めておくべきなのでしょうか・・・。 下野薬師寺の存在は、天台宗を筆頭に東国に多くの高僧を輩出しました。 現在、世界遺産である徳川家康の霊廟「東照宮」の色合いが強い日光、その日光を開山したという「勝道上人」も、天平宝字五(761)年、下野薬師寺にて受戒得度しております。今ひとつ謎に包まれた勝道上人ではありますが、「ニ荒山碑(ふたらさんぴ)」によって少なくとも空海との間になんらかの交流があったことは確実で、またその謎めいた碑において空海は彼の事績を讃えております。もちろん空海の賛辞にはおよそ華美な装飾が多いのが特徴でもあるので、全てを本質として捉えることは危険ですが、ある意味で剛腕嵯峨帝をも籠絡していた空海にそれだけのことを書かせたというその一事だけでも相当な人物であったことを窺い知れるというものでしょう。 また、下野薬師寺と言えば、前に触れたとおり、宝亀元(770)年、「宇佐八幡神託事件」を経て「称徳女帝」が崩御した後、庇護者を失った「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」が別当として配流された寺でもあります。 このように下野国における仏教エピソードが日本史級の人物を巻き込むほどのものであることは注目すべきと考えております。 それはともかく、道忠は、おそらく戒律を授ける人員として下野薬師寺に派遣されたのでしょうが、そのまま下野国の「大慈寺」、上野国――現:群馬県――の「縁野寺――浄土院――」、「武蔵国――現:埼玉県――の慈光寺」を開基し、大規模な教団を組織したようです。 上野国縁野寺には、この道忠の弟子で後の天台ニ代座主の「円澄(えんちょう)」がおりましたが、幼い円仁はその円澄の兄弟弟子でもある下野国大慈寺の広智に学んでいたのです。 彼らと最澄との縁は、延暦十七(798)年、道忠が既に菩薩戒を与えていた円澄に比叡山を登山させたことに始まりました。 大同三(808)年、あるいは一説に大同五(810)年には、道忠の後継者となっていた広智が円仁を伴って比叡山に登り、これ以降、円仁は最澄の弟子となります。 それにしても道忠教団は何故比叡山に有能な人材を送り、最澄に接近したのでしょうか。野暮に想像するならば、単に桓武政権におもねったことも考えられます。 しかしその想像は、延暦年間の円澄の叡山登山の時期であればこそ成り立つものです。既に桓武帝が崩御し、次代の平城帝の世である大同三年ないし五年となると、最澄の立場が必ずしも確固たるものには思えません。 それでも、道忠の師である鑑真その人が、そもそも天台宗の四祖とされていたこと、及び、日本に天台経典を請来した人物である以上、当時日本の天台宗を背負っている最澄と密にしておくことは、必然であり、責務でもあったことでしょう。 なにしろ、この時期に何が起っていたのかを考えると、勝手な想像ながら、水面下で虎視眈々と復権を狙う旧勢力、すなわち南都六宗の影が見え隠れするのです。 ふと、時期的・地理的に、ある人物が頭に浮かんできます。 会津の怪僧「徳一」です。 彼は、常陸の筑波山や会津の磐梯山といった辺境にありながら、南都六宗の法相宗の僧として本場奈良の誰よりも論を極めていた人物でした。 高橋富雄さんは次のように語っております。 ――引用:高橋富雄さん著『徳一と最澄 もうひとつの正統仏教(中央公論社)』―― 大同初年ごろ、東国に下ったはずの徳一は、いったいまずどこに下り、本拠をどこに定めたのであろうか。東国における徳一の拠点は二つあって、その一は常陸筑波山、そのニが奥州会津恵日寺であることは、いうまでもない。 〜中略〜 しかしこの問題はそれほど自明ではない。中世の徳一伝にも、筑波から会津へではなしに、会津から筑波への徳一を語っているものもあるからである。われわれはそれらも批判的に史料化しながら、徳一行年六十二歳、卒年承和九年(八四二)、生年天応元年(七八一)という徳一年代記を推定復元した。もしこの考えかたに立つなら、弘仁六、七年(八一五、六)年ごろにはすでに会津の学僧として広く世に知られている徳一が、それ以前、常陸で長期にわたる教化の仕事を終えてここ会津に移り住んでいるものとは、とうてい考えられないのである。 まず会津へ。然るのち会津から筑波へ。東国徳一伝は、そういう順序になる。 ひとまず会津が先か筑波が先かはどうでもいいのですが、注目すべきはこの時期の徳一がさかんに勢力を拡大していたということです。地図上で考えると、この勢力図はあきらかに下野国を包囲しつつあります。
つまり、おそらく道忠教団は、徳一の脅威から身を守るために最澄に近づいたのでしょう。なにしろ徳一は、南都六宗の僧網が総がかりでも叶わなかった最澄とたった一人で対等に渡りあえる怪物なのです。 そのような事情が渦巻く中、円仁は比叡山に登り、最澄の弟子になったのでした。 怨霊を恐れる桓武天皇から、平安京の鬼門を守護すべく「伝教大師最澄(でんきょうだいしさいちょう)」に委ねられた「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」は、その“伝教大師”の名が示すとおり、後に多くの優れた高僧を世に輩出する一大アカデミーの様相を呈していきます。もちろんそれは元々最澄の志向していたものでありますが、特に最澄が死の前日に言い残した言葉によって確固たるものになったのではないかと私は考えております。 最澄は、天台法華宗に割り当てられた「年分度者」の二人について、十二年間比叡山から出ることを許さないという厳しい修行を義務付けることを宣言しました。 「年分度者――年分得度者――」とは、得度僧の定員のことです。持統天皇十(698)年から始まったとされる年分度者の制度は、国家として毎年一定数の僧を「得度」させるというものでした。 「得度」とは、「出家」のことと捉えておいて差し支えないと思います。 それにしても、本来出家とは俗世の一切から離れることであり、国が出家させるというのはどうにも違和感があります。しかし、古代における日本の仏法とはそういうものであったようです。原則として個人の出家は禁じられておりました。もちろん信仰心というものは、その個人にとって国家という枠組みよりも上位にあり、そうそう抑制できるものではありません。やはりどうしても国家と無関係に仏法に帰依する者もおりました。そういった人物は「私度僧」と呼ばれ、“犯罪者”にあたりますが、仏法の本来的な意味からすれば本末転倒と言うべきでしょう。 話を戻します。 持統天皇時代来の年分度者は、奈良時代を通じて“定員十名”と定められておりました。当然ながらその十名は南都六宗の人材から各々「華厳」「律」「三論」「成実」「法相」「俱舎」を専攻する定員が選ばれます。 桓武の信頼と期待を一身に受けていた最澄は、そこに天台宗を割り込ませました。時の人最澄は、そこに天台宗のニ名を加えた総勢十二名の枠を提案し、それを僧網に認めさせたのです。天台宗が担う専攻科目は「遮那業」と「止観業」の枠でした。「遮那業」とは、「大日経」、すなわち“密教”です。 以前、東北歴史博物館の企画展で拝見した最澄自筆の『天台法華宗年分度学生名帳』――延暦寺所蔵――には、「僧圓修〜遮那経業」とあり、それに続けて「僧圓仁〜止観業」とありました。そこには朱書きで「己二人弘仁五年分得度者」と校訂が加えられてありました。 つまり、弘仁五(814)年分得度者となった円仁は、選りすぐりの年分度者の一人ではあったものの、実は、この時点で「密教――遮那業――」を専攻していたのは円仁ではなく、同期の「円修」であったのです。後に密教を会得して天台宗を救う円仁の専攻は、この時点では密教ではなかったのです。 この頃、最澄の天台宗は大きな悩みを抱えておりました。 最澄がせっかく確保した年分度者の枠でありましたが、肝心の得度者の流出が激しかったのです。特に遮那業の学生においてそれは顕著でした。円仁の同期で遮那業を担った円修もその例に漏れませんでした。ここには明確な理由があります。 入京した空海の影響です。 |
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2012年09月28日
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