はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 インドで生まれた密教には、論理的に相容れないとされる二つの体系があったといいます。
 すなわち、精神性の原理を説く金剛経系――金剛界――と、物質の原理を説く大日経系――胎臓界――の両部がそれで、しかしそれらが実は一体のもの「両部不二」であろうことは、特に「空海」の師匠である唐の「恵果」などはおぼろげな気分のようなものとして気付いていたようです。ただ恵果の才ではそれを論理化するまでには至りませんでした。恵果ばかりか、それを実現した人物は、唐はおろかインドにすらいなかったのです。そのくらい難解な両部不二を、空海は見事に精製してのけ、帰国したのです。しかも、それを論としても完全な形に昇華した上で、首都平安京に現れたのです。これには嵯峨も歓喜したことでしょう。
 「最澄」は複雑な感情をもってその事実を受け入れたに違いありません。
 当時の天台宗は密教――遮那業――を司る唯一国家公認の宗門でしたが、それは両部のうち「大日経系――胎臓界――」のみでありました。
 そもそも最澄にすれば、法華こそを至上とするゆるぎない信念があって、それを極めんがために唐に渡ったようなものなのです。密教のごときは、せいぜい旅のついでに話のネタ程度に持ち帰ったものでありました。
 ところが、時が求めていたのは皮肉にもむしろその手土産の方でした。最澄はそれに流されるまま、重責を担ってしまっていたのです。
 それでも、これまで日本にはなかった大陸の洗練された経であったことには違いありません。最澄も、さしあたりは「良し」としていたことでしょう。たしかに、空海さえ現れなければそのまま円満に進んでいたのかもしれません。
 しかし、現実は最澄にとって最悪の流れでした。
 まさか空海が本場の大陸以上に密教を昇華させ、しかもこんなに早く日本に持ち込むなどとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
 それでも、そこからはさすが最澄なのです。
 最澄は、自らの至らなさを素直に認め、先の「円修」や、ニ代天台座主となる「円澄」「光定」「徳円」「秦範」といった明日を担う期待の天台僧らを率い、自らが率先して、この時点ではまだ格下と言える空海に教えを乞うことにしたのです。私はこの一事に最澄の偉大さを垣間見るのです。
 しかし運命の女神はその実直さに報いることなく、悲劇的な試練を比叡山に与えました。空海が織りなす本格的な密教に触れた天台僧の多くは、続々と比叡山を離れていったのです。円仁と同期の密教専攻年分度者「円修」もそういった顛末の中で離山したのでした。
 この頃に離山した者の中で、特に「秦範」などは、最澄にとっては仏法のつながりを超え、恋愛に近い感情の対象でもあったようです。
 しかしながら、当の秦範自身は完全に「空海」と「両部不二」に魅せられ、二度と最澄の下に戻ることはなかったのです。
 桓武の信頼を一身に受け、敵対してくる僧網らをばったばったと論破して、天台法華宗を国家の宗派に登りつめさせてのけた華やかなりし前半生とはうって変わって、最澄の後半生は愛すべき弟子たちとの決別、ライバル空海からの嘲り、僧網からの憎悪、徳一との論争などなど、哀愁と苦難に満ちた道のりとなりました。それでも、その感傷に浸ることも許されないほど、最澄にはまだまだやるべきことがあったのです。円仁を従え東国巡錫を決行し、全国六カ所に法華経各一千部八千巻を納めた宝塔を建立するという『六所造宝塔願文』を表し、先に触れた比叡山への大乗戒壇の建立を上表し、とにかくひたすらに駆け抜け続けた最澄は、その死の瞬間に至るまで念願の事業にはしっかり道をつけていきました。
 しかし、天台の本分である法華円経と真言密教の整合性を理論化する「円密一致」への課題についてだけは、何も出来ずに未解決のまま時が過ぎておりました。
 最澄はそのまま禍根を残しながら眠りました。気の毒なことに、決して穏やかな心持ちで他界出来たわけではなかったことでしょう。
 結論から言うと、この最澄の無念を果たすことになるのが円仁なのです。
 東国巡錫にも同行した円仁は、死の直前まで駆け抜けた師最澄の背中を見続けていたはずで、燃えたぎる情念のようなものを震わせていたのでしょう。
※――鎌倉時代の日蓮は、最澄には法華と密教を結び付けようとする思惑などなかったとしていたようです――
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 最澄亡き後、円仁は最澄の遺言的な方針に従い、比叡山で十二年間の行に入りました。
 ところが、最澄亡き後の比叡山情勢は、円仁が一個人の得度者として悠長に構えていることを許さず、教団の面々は彼に民衆教化の活動に専念するよう強く請い求めました。結局円仁は然るべき時効を満了することなく下山せざるを得なかったようです。
 ここから円仁はその才覚を世に解放することになります。
 まず、下山した天長五(828)年の夏、法隆寺において法華経の講義を行い、翌年天長六(829)年の夏は、四天王寺において法華経・仁王経の講義を行いました。これらは大変評判が良かったようですから、教団の要請には十分応えたと言えるでしょう。
 宮城県の「瑞巌寺」の伝承では、その前身である天台宗の「延福寺」が円仁によって天長五(828)年に開基されたことになっており、この寺名には比叡山の「延暦寺」に比肩すべき意味がこめられていたとも伝えられております。それらの真偽のほどはわかりませんが、少なくとも『慈覚大師伝』には、天長六(829)年、出羽国――現:山形県及び秋田県――に出向いた記録があり、この時期に円仁が東北地方を巡錫していてもおかしくはありません。
 いずれ、この時期の円仁は、あたかも最澄の霊が乗り移ったかのように東奔西走していたようです。しかし、無理が祟ったのでしょうか、天長十(833)年、比叡山に戻った四十歳の円仁は、視力の衰えも含めなんらかの病に悩ませられ、横川の草庵に籠ることになってしまいました。
 この年、「淳和天皇」は、おそらく当初から決めていたのでしょうが、先帝の嵯峨と同じく、即位10年にして皇太子の「正良(まさら)親王」に譲位しました。すなわち「仁明天皇」の誕生です。
 年号もいよいよ「承和」に変わり、この年の七月、円仁に先んじて比叡山に入っていた「道忠教団」の先輩「円澄」が二代目の「天台座主」になりました――初代は「義真」――。
 ちなみに、後の「日蓮」は、『報恩抄』の中で、「比叡山の仏法はただ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代だけであったのではないだろうか」と語り、尚その内、円澄については「半分は伝教大師のお弟子であるが、半分は弘法大師の弟子である」としております。
 たしかに、円澄は天台座主になる三年前の天長八(831)年、空海に灌頂を受けることを請うておりますし、後に、いわば密教を極めさせんがために円仁を遣唐使として推薦した張本人でもあります。
 ちなみに、日蓮は円仁について「慈覚大師は最初は伝教大師のお弟子に似ていたが、御年四十歳の時中国に渡ってからは、名前は伝教大師のお弟子で師の跡をお継ぎになったけれども、法門の内容はまったく伝教大師のお弟子ではない」と痛烈に批判しております。
 法華経を最上とする後世の日蓮が苦々しく振り返るとおり、比叡山の毛色が密教色に移ろいつつあったこの頃、斯界の雄空海の権威は絶対的なまでに大きくなっておりました。 
 天長九(832)年高野山に建立した空海自身の理想の寺を「金剛峯寺」と称し、承和二(835)年には、ついに空海の真言宗にも年分度者が許可されました。しかも、「金剛業」「胎臓業」「声明業」に各一名、合計三名の枠が定められ、天台宗の定員ニ名を上回ったのです。そればかりか、それまで唯一密教を専攻する宗門であった天台宗は、先に触れたとおりあくまで「遮那業」、すなわち「胎臓界」のみであっただけに、両部を専攻する真言宗が公認されたことで、その相場は著しく下落したと言わざるを得ません。
 ところが、この三ヶ月後、巨星が落ちました。承和二(835)年、ついに空海が没したのです。
 最澄に続き、空海をも失ったことで、密教に傾きつつあった円澄は動揺しました。天台座主としてライバルが消えたなどと構えてはいられないのです。純粋な仏教人としての円澄としては、頼れる密教の師を失ってしまったのです。当然円澄の意思としては、真言宗から教授されていたつもりはなく、あくまで空海という普遍的天才個人から教授されていたつもりであったことでしょうから、この事態は天台宗として、以降の密教の発展の道を失ったも同然であったことでしょう。
 いずれ、ここに天台宗は国立密教大学の立場を、ついに真言宗にとって代わられてしまったのです。
 しかし、おそらくこの空海の死は、嵯峨上皇にとって最もショックが大きかったに違いありません。これがきっかけになったか否か、相前後して第十七次の遣唐使派遣が決まり、円仁に入唐求法の命が下りました。円仁を推したのは円澄でしたが、とにかく嵯峨や淳和、仁明らは、空海の後継となるような密教のスペシャリストを渇望していたのではないでしょうか。

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