はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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牡鹿の考察

 「栗原(くりはら)」と「牡鹿(おしか)」、いずれも宮城県の両エリアは、ざっくり言えば北上川水系の上流と下流という位置関係になります。少し厳密に言うと、栗原は北上川というよりも、その支流の「迫川(はさまがわ)」の上流部に沿って広がっております。
 迫川の古名は「イジ川」であったといい、「上毛野田道(かみつけのたみち)」が蝦夷制圧中に戦死したとされる「伊寺水門(いじのみなと)」は、その河口、すなわち現在の「石巻(いしのまき)」であったと考えられます。川の河口の名称は上流の地名にあやかることが多かったらしく、現在でこそ北上川の河口都市という印象の強い石巻は、古代にはむしろイジ川――迫川――の河口と認識されていたようです。当然と言えば当然かもしれません。イジ川上流の栗原には、少なくとも奈良時代にはなんらかの形で朝廷の干渉が及んでいたわけですが、北上川本流上流部の岩手県北にまでそれが及ぶのは、早くとも平安時代以降の話だからです。
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 いずれ、「石巻(いしのまき)」の「イシ」は、その「伊寺水門」や「イジ川」の「イジ」に由来していると考えられ、「マキ」は、「馬柵(まぎ)」を指していたと考えられます。石巻には現在でも「牧山(まぎやま)」という地名が残っておりますが、makiではなく、magiと発音するのが正しく、かつての私は当地の訛りが生きたままで正式地名になったものか、なんらかの御当地言葉に適当なヤマト言葉があてはめられたものと考えておりました。しかし、高句麗系騎馬民について論を深めていくうちに、これは素直に「牧」に由来するものと考えるようになりました。もっと言えば、より軍事的な、栗原の高句麗系騎馬軍に関わる「馬柵(まぎ)」に由来する発音だったのだろう、と考えるようになりました。当地において坂上田村麻呂が供養したと伝わる「魔鬼女(まぎめ)」は、討伐された賊首の妻であるということですが、「魔鬼(まぎ)」は「馬柵(まぎ)」への当て字に違いなく、賊首が馬を操る人物であったことが窺えます。「魔鬼」などと、朝廷側はよほど騎馬に翻弄されたのでしょう。
 さて、その魔鬼女伝承のある石巻も含め、この河口エリアは広く「牡鹿郡」でありました。
 「牡鹿郡」が文献上はじめてみえるのは、『続日本紀』の天平勝宝五(753)年六月八日条の「陸奥国牡鹿郡の人、外正六位下の丸子牛麻呂・正七位上の丸子豊嶋ら二十四人に牡鹿連の氏姓を賜った――宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より――」という記事です。「郡」という縛りを解いて「牡鹿」という言葉にまで広げるならば、『続日本紀』の天平九(737)年四月十四日条に「陸奥国の大掾・正七位下の日下部宿禰大麻呂は牡鹿柵(宮城県桃生郡矢本町赤井星場か)を守備し、その他の柵は従来通りに鎮守しております――前述同書より――」という記事もあります。
 「柵」が軍事施設なのか役所的な意味合いを持っていたのかなど、それが「郡」の成立に先行し得たか否かの議論もあるところですが、いずれ、牡鹿という地名がそれ以前からあったと考えることに異論はないでしょう。
 「牡鹿」とは何に因む地名であったのでしょうか。とりあえず有力とされているのは丘陵地をさす「丘」「ヲカ」に由来するという説のようで、並行してよく見受けるのは、そのまま動物の鹿に因む地名由来です。
 前者については、古代牡鹿の中心エリアが矢本から石巻にかけての平野部であろうという説が出る前であったのか、牡鹿半島のイメージに引きずられた発想のようです。
 後者にもそのきらいはあるものの、奈良公園のような信仰としての神鹿に因んでいるのかも知れず、そういう意味では必ずしも無碍には出来ません。事実、仙台平野「宮城野原」の平坦地にある「陸奥國分寺」にも、かつて鹿が放たれていた旨が史料から窺えます。そして、なにより、牡鹿エリアに土着していた丸子氏――牡鹿連――にワニ系氏族の意識を垣間見れるところも侮れません。私はこれを、「鹿島御子神」を奉斎して北上してきたオホ氏の裔であろうと疑っているので、より「鹿」との結び付きを感じるのです。
 もちろん、「鹿島神」はもともと「香島神」であって、鹿の文字は後付けられたものです。もしかしたら、オホ氏の鹿島神やワニ氏の春日神が、藤原氏の氏神に変質させられるときに鹿の縁が生まれたのかもしれません。常陸の鹿島神が白い鹿と共に奈良の三笠山に遷ったという春日大社の縁起はその象徴なのかもしれません。
 しかし、奈良公園の神鹿をツングースの馴鹿習俗の名残とみている私としては、これは藤原氏というよりも高句麗系――ツングース系――渡来人と密接なオホ氏に由来するものではないかと勘繰っております。
 陸奥のオホ氏は、おそらく同族の信濃國造の縁で、浅間山の火山灰で壊滅させられた信濃を逃れ栗原に移住したであろう高句麗系騎馬民とも密接であったと考えます。その栗原を上流域とする迫川の河口にあたる牡鹿エリアであればこそ、鹿島御子神を奉斎して常陸から北上してきた軍馬の仲介人たるオホ氏にとって利便性が高く、それが丸子氏の正体であったのだろうと考えているわけです。
 オホ氏は、三輪山祭祀に代表される神と天皇を結び付ける“中ツ臣氏族”としての座を、かなり早い段階でワニ氏に上塗りされていたかに思われ、辺境に散ったオホ氏の多くも、徐々にワニ色に染められていったのではないでしょうか。陸奥丸子氏はそういったオホ氏の最大派閥であったものと私は考えているのです。だからこそ、陸奥の鹿島苗裔神三十八社は藤原氏の氏神と変質した本家常陸鹿島神宮の要求をつっぱねて憚らない芸当も出来たのでしょう。
 丸子氏にはそのようなオホ氏の本質に加えてワニ系氏族としての意識も混在していたと思われ、この紛らわしさによって“奥州経営の鹿島神奉斎氏族を和邇系中臣氏とみる見解――角川源義さん論考――”が生まれたのでしょう。もちろんこれはオホ氏とワニ氏と中臣氏の混同故の論でしょう。
 このような私論を下地にしてワニ氏の系図を眺めると、ある人物が私の目を惹きます。それは、人皇六代「孝安天皇」の后で七代「孝霊天皇」の母でもある「押媛(おしひめ)」です。この人物について、「駿河浅間大社」大宮司家に伝わるワニ氏の系図には「一に忍鹿比売命」とあります。『古事記』における孝安天皇の姪「忍鹿比売(おしかひめ)命」のことでしょう。
 「姪」とありますが、では誰の娘なのかと言えば、『日本書紀』に孝安天皇の兄「天足彦国押人命――天押帯日子命――」の「女(むすめ)か」とあります。彼はワニ氏の祖「和邇日子押人命――稚押彦命――」の父にあたります。押媛はこの「和邇日子押人命」の姉にあたるようです。
 ワニ氏は、人皇五代「孝昭天皇」の子、すなわち六代「孝安天皇」の兄弟「天足彦国押人命――天押帯日子命――」の子、「和爾日子押人命――稚押彦命――」が始祖とされているわけですが、これらの名から、“押(おし)”が、発祥時のワニ氏によく用いられた言霊であることに気付きます。
 ワニ氏初祖の「天足彦国押人命」の母である孝昭皇后「世襲足媛(よそたらしひめ)命」の父は「天忍男命」でありますが、「押媛(おしひめ)」の又の名が「忍鹿比売(おしかひめ)」であることから、この「忍」も「押」と同韻であったと推察されます。「押」であれ「忍」であれ、「オシ」は、ワニ氏の母系から連なっていた言霊なのでしょう。正直なところ、ワニ氏を孝昭天皇裔族、すなわち天孫系に分類することには躊躇があります。したがって「オシ」はワニ氏の本姓から連なっていた言霊なのだろうと言いたいのが本音です。
 さて、繰り返しますが、押姫の又の名は「忍鹿(おしか)比売命」でした。もしかすると、この一族の祖系に付された「押」は、本来全て「忍鹿(おしか)」であったのかもしれません。
 もう既にお気付きでしょうが、私はこれを「牡鹿(おしか)」の地名由来と考えているのです。
 もしそうだとしたならば、既に蝦夷として扱われていた丸子氏にとって「牡鹿連」の姓を賜ったことは大変栄誉であったことでしょう。

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