はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 加来耕三さんレギュラーのラジオ番組において、いいタイミングで「生類憐みの令」が取り扱われておりました。常に独自の知見で歴史を斬る加来さんだけに、どのような見解を示されるのか興味深く耳をそばだてて聴いてみました。
 ところが意外にも、一般的な通説に実に素直な話が繰り出されておりました。
 真っ先に例に挙げられたのは、頬の蚊を殺したらそれを目撃していた者に通告されて蟄居流罪せられた例でした。その他、この令が祈祷師の勧めによって出されたものであることや、五代将軍徳川綱吉が戌年であったことで犬が大切にされたこと、水を撒くとボウフラが湧いて、それを踏んで殺してしまうと処罰されてしまうので町人は水も撒けなかった、などなど、とにかくよく言われる話がそのまま使われておりました。
 加来さんは、それでも個人的には綱吉のことが好きであることを補足しておりますが、短いラジオ番組のためか、その理由については触れられておりませんでした。もしかしたら、次回以降に続きがあって反証されているのかもしれません。
 いずれ、このあたりの具体的検証は割愛するつもりでしたが、気が変わりました。多少なり触れておくことに致します。世間の誤解が甚だしいままであることを知りながら、記事化が面倒で私自身が逃げているように思えて来たからです。
 まず、今私の手元に『【読める年表】日本史(自由国民社)』なるものがあるので、「生類憐みの令」の記事をひいてみました。すると、「滑稽にして深刻―生類憐み令―」と題したコラムの中に、★男子出生祈願、★ツバメと人類と、★犬分け水、といった小項目がありました。
 男子出生祈願は、跡継ぎにめぐまれない悩みに対する僧隆光の進言の件で、既に論破済みですが簡潔に繰り返しておきます。
 そもそも、隆光が江戸入りする前から綱吉は憐れみ政策にとりかかっております。
 また、養子によって跡継ぎ決定後も政策は継続されております。
 更に、筆まめな僧隆光の日記には全くこの政策のことが触れられておらず、この法令に全く関心を寄せていなかったことがわかります。
 これらの事から、隆光進言説はゴミ箱行きでよかろう、という見解です。
 続いて、ツバメと人類云々については、次のように記されております。

――引用:『【読める年表】日本史(自由国民社)』――
〜綱吉には多分に偏執症の気味があり、それが生類すべての殺生を禁止するのだから歯止めがきかない。顔の蚊を叩き殺した小姓を流罪にしたことがあるが、こんなものは序の口である。溝の水を往来に撒くこともいけないとされた。ボーフラが死んでしまうではないか、というわけである。
 子供の病気にはツバメが何よりの薬と聞いた中奥小姓が吹矢でツバメを射落とし、死刑、子供は追放された。これが死刑の最初とされるが、ツバメと人間とどちらが大事なのかと考えるバランスさえ否定されてしまったのである。

 では、山室恭子さんの検証を見てみます。

――引用:『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』――
まあ、なんてひどい御政道、どうにかして難病の息子を治してやりたいという親心を斟酌もせず、いたいけな幼児もろとも小塚原でばっさり、なんてねえ。
 とてもわかりやすい話。まあ、なんてひどいと眉を顰める以外の反応を聞き手に許さない、じつに典型的な話として語られている。
 しかし。
申し渡す覚  秋田淡路守家来 只越甚太夫
〜中略〜
申し渡す覚  同人家来 山本兵衛
〜中略〜
内閣文庫の棚にぎっしり並んだ幕府側の正式記録である。判決文に拠れば、このとき死罪になったのは只越甚太夫なる者ひとり、あわせて吹き矢に参加した同僚の山本兵衛が八丈島に流されたことがわかる。量刑が重くなったのは、「その上八日の儀に候へば」、こともあろうに先代の将軍家綱の命日である八日に殺生を働いたからであった。
 ぜんぜん違う。難病の息子なんてお涙ちょうだいの話はどこにもなく、先代の命日を吹き矢遊びにて犯した不心得者をかように処罰いたしたと、乾いた口調がそっけなく告げるばかり。
〜中略〜
 これは心してかからねば。にわかに身が引き締まる。生類憐れみの令にまつわる話は、たった今まのあたりにしたように、その珍奇さゆえに噂の種になりやすい。噂はどんどん増殖する。無責任な衆口は、自らの好みにしたがって、もとの話を俗受けするお涙ちょうだい節へと勝手に作り替えてゆく。我々がつかまされているのは、そうした噂によって水ぶくれした情報である恐れはないか。
〜中略〜
 もう一度、『御当代記』とじっくり向き合ってみる。通説の頼もしい柱となっているこの書物、よくよく耳を傾けてみると、ずいぶん要注意情報に満ちていることに気づく。たとえば、
〜中略〜
三つの例が報告されている。増山兵部の家来の切腹、土屋大和守の家来の追放、そして土井信濃守の家来の免職、噛み付いてきた犬から身を守るべく、つい刀を抜いてしまったばっかりに切腹だの追放だの、気の毒な侍たちの姿をこうも並べられると、なんてひどい御政道だろうねえと型通りに慨嘆してしまいそうになるのだけれど、ちょっとブレーキ。
 三人目に挙げられている土井信濃守である。『寛政重修諸家譜』を繰ってみると、この名乗りの侍は第五巻二五九ページに登場する利直しかいないが、彼は十年前の延宝五年(一六七七)に既に没している。
 おかしい。もっともらしく名前を挙げられている侍が、十年も前に死んだ者だなんて。そう言えば「犬目付」なんていう役人がのし歩いた形跡も、他の史料にはとんと見えない。

 長々と引用してしまいましたが、山室さんの地道な史料精査によっていかに通説が怪しい根拠に基づいているかを実感せざるを得ません。
 山室さんによれば、『御当代記』の作者戸田茂睡という人は、当時録を離れて牢人中であったとのことで、「どうも政治向きの話題になると大仰に眉を顰め、批判がましく語る癖があったよう」です。
 こうした尾ひれをもぐために、山室さんはこの後、生類憐れみの令違反の咎で処罰された事例を、各種の史料から拾い上げたわけです。その結果、現存史料から確認出来る総数は、先に触れたように24年間で69件であることがわかりました。特にそのうち13件確認出来るという死罪の内容も、山室さんは全て調べあげて列記しております。
 なにより私たちがあらためて認識しなければならないのは、あれだけひどい歴史として伝えられている「生類憐れみの令」について、同時代の日記類にはほとんど姿を現していない事実です。それどころか、山室さんが列記した死罪の13件目の町人について、「あいつは三度も勘当された親不孝もんだから、その報いでこうなっちまったんだろうよ」といった噂すら人々に囁かれていた実態が、『元禄世間拙風聞集』には残されているようです。山室さんは「苛烈な生類憐れみの令に対する怨嗟の声が巷に満ち満ちていたならば、出てくるはずのない言辞である。憎しみの対象となるほどの大きな威圧感を、この法令は備えていなかったのだ」と語りますが、たしかにそうとしか思えません。

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