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今回の慰安旅行の最大の収穫は、湊町酒田と本間家の発祥伝説の中にありました。 初めて知ったのですが、湊町酒田を創り上げたのは、どうも奥州藤原氏滅亡後の亡国の一団であったようで、本間家のご先祖様はその一人であったかもしれないようです。 ただし、補足を挟んでおかなければならないのは、それはあくまで現在に通じる湊町酒田の発祥譚です。 おそらく、このエリアには、幾度かに渡って「出羽国府」の置かれた時期があったはずなので、最上川河口そのものは“国府の湊”としてそれなりの繁栄の面影もあったに違いありません。酒田港やや北側「古湊町(こみなとちょう)」の地名は、「新しい湊」に対して「古い湊」というような字義どおりの由来譚とは別に、「国府津(こうつ)」がなまったものとも考えられております。 酒田は、江戸時代の繁栄ぶりから、よく太平洋側の北上川河口「石巻―宮城県―」と比べられますが、古代においては、むしろ「塩竈―宮城県―」と性格が似ていたのかもしれません。塩竈も陸奥国府・多賀城の表玄関として発展したと思われ、塩竈市内の「香津町(こうづまち)」という地名も「国府津(こうつ)」の名残と言われております。 いずれ、金や馬をはじめ、奥州以北の特産物を武器に、京をはじめとする国内外との交易を展開していた奥州藤原氏にとっても、酒田湊はそもそもの地縁の強いエリアであったのではないか、と想像しております。 さて、話を本間家に戻します。 本間家は、江戸時代、最上川を拠点にした海運や金融、不動産で富を築いた酒田の名族です。大げさな話ではなく、三井家・住友家にも劣らない全国屈指の大豪商でした。 当時、全国の大名諸藩は、転封(てんぽう)や天下普請、参勤交代など、徳川幕府の策略によって意図的に財力を消耗させられていたこともあり、慢性的な財政赤字に悩まされておりましたが、現代の企業と異なり破綻することさえ許されず、したがって、ひとたび領内に飢饉などの災いが広まろうものなら領民は無間地獄(むげんじごく)を絵に描いたような苦しみを味合わざるを得ませんでした。 本間家は、そんな諸藩や領民への財政支援にも貢献し、世の人々に「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」などと言わしめるほど隆盛を極めていたのです。 ちなみに、以前私は[「日本のファンド系の元祖かもしれない」などと表現しましたが、「本間家家憲」なる本間家代々の家訓に「一、投機事業に従事することを許さざること」というものがあるようなので、怒られてしまいそうです。 さて、結局私は日をあらためて酒田にやってまいりました。 どうしても「酒田三十六人衆」と「徳尼」のことが頭から離れないのです。 今回は、『【ジュニア版】酒田の歴史(酒田市教育委員会)』なる中学生向けの読本をガイドブックに選びました。これは、慰安旅行中、「山居倉庫」の土産売り場で見つけたものです。 パラパラめくってみると、さすが中学生向けの読本なだけあって、写真や図が豊富で大変読みやすく、「酒田三十六人衆」や「徳尼伝説」のこともしっかり書いてありました。 この本の隣には硬派な『酒田市史』なども置いてあったのですが、さらりと眺めてみたときに「徳尼伝説」に関する記述を見つけられなかったので、私はこの中学生版を買い求めることにしたのです。 同書から徳尼伝説のあらましを引用しておきます。 ――引用―― 〜その昔、徳尼公が平泉より落ちのびて袖の浦の飯盛山の西ふもとに泉流庵を建て、念持仏の薬師如来を信仰し、秀衡、泰衡及び源頼朝との合戦で亡くなった人々の菩提を弔っていた。一二一七年(建保五)、平泉から一緒に来た三十六人の遺臣につきそわれてこの地で亡くなった。その後、比丘尼庵として続いていたが、十六世紀はじめに曹洞宗のお寺となった。これが泉流寺のおこりと言われている。 泉流寺には現在三十六人衆のだん家は一軒もない。これは、比丘尼庵はだん家をとることができなかったので、各家は別の寺のだん家となったためと伝えられている。 〜以下省略〜 徳尼が建てたという「泉流庵」は、「袖の浦の飯盛山の西ふもと」にあったようですが、現在の「国体記念体育館」や「土門拳記念館」あたりでしょうか。 同書に掲載されている文明の頃(1469〜1486)の河口の地図をみるに、そのあたりには「向酒田(むこうさかた)」があり、当時1500〜1600軒の戸数があったようです。 それに対して、対岸、現在の酒田市街にあたる「当酒田(とうさかた)」の戸数は約十分の一の150軒ほどであったようですから、なるほど当時の湊町の中心拠点が最上川左岸の向酒田であったことが窺えます。 最上川の氾濫に悩まされた彼らは、特に文正元(1466)年の「白髭水洪水」の被害に辟易し、明応元(1492)年頃から反対岸の当酒田への移転の気運が生まれたようです。 なにしろこの洪水は七日間も続き、五十三町歩もの田畑が流されたというのですから、かなり切迫した問題であったことでしょう。 同書によれば、当酒田への移転の時期ははっきりしないものの、永正二(1504)年頃から約100年にわたって行われたようで、三十六人衆も大永元(1521)年に宮野浦の日枝神社に連夜のように集まって相談し、興亡をかけた大移動を決断したと伝えられているそうです。 日枝神社が単に集会の場所であったのか、重大な決断に際してなんらかの神託を仰いでいたのかはわかりませんが、少なくともこの日枝神社の神は彼らにとってかなり重要な神であったようです。それについては後にまたあらためて触れます。
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2013年10月29日
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