はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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古代越中の神話

 越中―富山県―の古代史には大きく4つの転換期があったようです。あくまでご当地伝説にある程度の信を置いた上での話ですが、おおよそ次のとおりです。

1、出雲からの支援を受けた「布勢神」と越中豪族連合軍たる「日置神」の戦い
2、越中船倉山の「姉倉比賣神」と、能登杣木山の「能登比賣神」の戦い
3、四道将軍「大彦命」の越中平定
4、阿彦の乱

 さしあたり時系列順に並べてみました。
 これらを、多少の主観を交えながら概観しておきますと、「1」は越中豪族同士の争いではあるものの、超大国の出雲と縁戚関係にあった「布勢神―倉稲魂(うかのみたま)神:阿彦の祖―」が、出雲の支援を得て、「日置神」と争ったもののようです。出雲の越中侵攻計画の先兵が布勢神であったとみることも出来るでしょう。
 対する日置神には、「雄山神―天手力雄(あめのたぢからお)神?―」、「事勝国勝長狭―鹽土老翁神(?)―」、「早月神:八心大市彦(やごりおおいちひこ)―都努賀阿羅斯止(つぬがあらしと)子孫―」らが加勢したとされております。
 しかし、そのまま受け止めるには時代設定が支離滅裂と言わざるを得ません。出雲が勢力の拡張を図っているということは、少なくともいわゆる国譲り以前のことと思われるわけですが、だとすれば、この早月神が垂仁天皇時代の人物とされるツヌガアラシトの子孫のわけがありません。したがって、このように時間軸に矛盾がある場合は、さしあたり同系譜の混乱と捉えておきたいと思うところです。
 次に「2」の争乱は、既に「姉倉比売と伊須流伎比古の夫婦喧嘩」と題した拙記事にて触れているとおりですが、出雲の「大巳貴命」の介入によって収束しました。言うなれば喧嘩両成敗の仕置きがなされ、両比賣神ならびに各々両者に加担した勢力は処罰され、以後、越中と能登は出雲に支配されることになりました。
 このとき、「姉倉比賣」には「布倉姫」が、「能登比賣」には「加夫刀彦」が加勢したとされております。乱の鎮定にあたった大巳貴命に協力したのは、越中雄山の「手刀王彦(たちおうひこ)―雄山神の裔:天手力雄神の裔?―」、同船倉山の「オサヒメ命」、同篠山の「貞治(さだち)命」、同布倉山の「伊勢彦」、能登鳳至(ふげし)山の「釜生(かまなり)彦」の五神とされております。
 古代越中の精神基層とでも言うのでしょうか、言うなれば、越中人のアイデンティティ−が定まったのはこの頃かと思われます。
 越中には、「越中を造り賜いし大巳貴命」という概念が根強いようで、『「喚起泉達録」に見る越中古代史(桂書房)』の棚元理一さんは、出雲による支配は「諸豪族や国人には好意的に受け入れられた」としております。
 越中人である棚元さんは、越中に大巳貴命を祭神とする神社が今尚多い理由はそこにあると考え、大和から来た「大若子命」が地主神たる姉倉比賣の神託による出雲支配を認め、「阿彦」討伐を成し遂げた件もまた然り、というスタンスのようです。
 このことを意識すると、次の「3」の「大彦命」の越中平定がかなり示唆深いものに思えてきます。
何を隠そう、当地の伝説を眺めている分には大彦命が越中・能登勢力と戦火を交えた様子は見られません。
 既存勢力が温存されたままに越中・能登エリアが大和化されていったこと自体それを表していると言えるでしょう。
 つまり、出雲の大巳貴命の敷いた組織なり勢力を、大彦命は温存した、ということです。
 棚元さんは、「大彦命は、各地豪族たちを威圧し大きな戦火を交えることなく越中を平定し〜」とし、「統一国家を目指す大和王権への素直な期待感もあったのであろう」としておりますが、「越中を造り賜いし大巳貴命」と称えているような反骨の越中人が、はたして出雲を滅ぼした侵略者の尖兵を素直に受け入れたものでしょうか。
 また、新王権の支配を推し進めるべく進軍してきた将軍が、先代の王権に固執する反骨の既存勢力をそのまま温存するものでしょうか。
 ちなみに、「布勢の円山」に鎮座する延喜式式内社「布勢神社」の祭神は大彦命とされているわけですが、当地において大彦命は布勢一族の祖先神と伝えられております。
 先の「1」において、出雲の支援を得て日置神一族と争った布勢一族は、いわば阿彦の祖先であるわけですが、伝説を信じるならば、越中を平定した大彦命は後に反乱する阿彦の祖先神であるということになります。
 ここでの深入りは避けておきますが、いずれ、戦火を交えることなく大彦命が越中を平定できた意味、出雲色の越中既存勢力が温存された意味は、小さからぬものがあると私は見ております。
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 さて、大彦命によって大和化されたとされる越中の統治を託されたのは、「手刀摺彦(たちずりひこ)命」でありました。彼は、姉倉比賣と能登比賣の争いの際、そのいずれにも与せず、鎮定に介入した大巳貴命に協力した「手刀王彦」の裔です。
 この一族は、なにやら「天手力雄(たぢからお)神」の一族を示唆しているようなのですが、言わずもがな、天手刀雄神は、「天照大神」が弟「素戔鳴(すさのを)尊」の狼藉に辟易して「天石窟(あまのいわや)」に引き籠ってしまった際、あえて騒がしく宴に興じた外の神々の様子を覗き見ようとした天照大神が、わずかに磐戸(いわと)を開いた刹那すかさずその手を掴み、力任せに外界に引き出したとされる神です。
 この神話が何を示唆しているのか正確なところはわかりません。皆既日食に恐怖を抱いた古代人の神事・祈祷の描写であるという説も何かの本で読んだことがあります。いずれにせよ天手力雄神が暗闇の地上に光を取り戻した最大級の功労者として伝えられていることは間違いないでしょう。
 大巳貴命の越中平定に協力した「手力王彦(たちおうひこ)」、そしてその裔の「手刀摺彦」は大彦命に越中の統率を託されました。これだけの輝かしい経歴であれば、この一族も十分「越國造」の候補として挙げることが出来るでしょう。
 富山市太田南町の「刀尾(たちお)神社」は、この一族を祀っていると思われます。
 『越中国式内等旧社記』は祭神を「立山第一之御子神」とし、『富山県神社誌』は「天之手力男神」他を祭神としているわけですが、神社誌によればこの神は「刀尾権現」とも呼ばれているようです。
 実は私は、「刀尾(たちお)」は本来「刀尾(とび)」であったのではなかろうか、とも思っているのですが、今のところそれを裏付けるものはありません。
 ただ、「富山」の地名が「外山(とやま)」に由来していることを鑑みるならば、あながち的外れでもなさそうに思うのです。
 富山地名については拙稿『富山の地名由来を追う』にて語っているので割愛致しますが、なにしろ「外山」の表記は大和盆地にあって「トビ」と訓まれております。
 先の棚元さんは、医師で郷土史家でもある飛見丈繁(ひみたけしげ)さんの著書『富山県郷土史年表』に「神武四年、天香語山命、越の国造となり、今の富山市掛尾地方を開拓す。命は饒速日命の長子」とあるのを受け、「出典は不明であるが」としたうえで「太田本郷地方は早くから開けていたのであろう」としております。
 たしかに、その掛尾地方の「掛尾町集会所」には隣接して旧村社の「弥彦神社」があります。
 いえ、正確には弥彦神社の境内に集会所が建てられたのでしょうが、弥彦神社は言わずもがな天香語山命を祀る社であり、おそらくは飛見さんの語る情報と無関係ではないでしょう。
 いずれ、大彦命に越中の統率を託された手刀摺彦に、越中最強の豪族「阿彦」が反乱しました。それが「4」の「阿彦の乱」で、それを鎮定したのが度會氏の祖「大若子命−大幡主命―」であったと伝えられているのです。

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