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「花淵浜(はなぶちはま)―宮城郡七ヶ浜町―」に坐す宮城郡の延喜式名神大「鼻節(はなぶし)神社」の祭神は、「猿田彦(さるたひこ)神」とされております。 猿田彦神は、「伊勢二見ヶ浦(ふたみがうら)」の「夫婦岩(めおといわ)」を介して日の出を拝する「二見興玉(ふたみおきたま)神社」の祭神であることからもわかるとおり、日の出と密接な神様であります。 だからと言うわけでもありませんが、先日の夜明け前、冷えて澄みきった東の空が鮮やかな紫色に染まりはじめたのを目にし、もしかしたら今から向かえば太平洋からの日の出を拝めるかもしれない、という期待に動かされ、私は鼻節神社を訪れてみました。 鼻節神社を訪れるのは実に久しぶりです。おそらく拙ブログ『はてノ鹽竈』を開設して間もない頃に訪れたのが最後ではないでしょうか。 初めて訪れたのはその数年前、今から十年くらい前になると思いますが、知るほどに謎めく鹽竈神社への好奇心に突き動かされて、闇雲にフィールドワークを展開していた行動の一幕でもありました。 その時の私は、鬱蒼として神気に満ちた樹林の参道にやたらと緊張を高めていたことを覚えております。なにしろ、当時は一部で心霊スポットとしても囁かれていた神社であっただけに、どうしても構えてしまいます。 本殿に到達すると、太平洋を見晴らせました。 沖合いの岩礁のまわりには荒波が渦巻き、時にぶつかり、砕け散っておりました。 本殿は南向きで、私が東進してきた参道の左手にありました。 本殿―拝殿―正面へは、参道を左に折れて階段を十数段昇っていく形になっております。 ところが、反対に、右に折れて下に真っ直ぐ降りていく長い階段もありました。 下には海しかないはずですが、つまり私が進んできた参道と直交する形で本殿への階段が展開していたのです。 後にそちらこそが表参道であったことを知りました。私が進んできたのは裏参道であったのです。 鹽竈神社もそうですが、おそらく、往昔は海路から直接着岸して本殿に昇っていく類のものであったのでしょう。 参拝を終えると、とりあえずその階段を下ってみました。 当時はほとんど人の来ない場所であったようで、階段は苔むして滑りやすくなっておりました。 どうもまともに正面を向いて下りていくのは危険で、蟹のように横向きで下りることにしたのですが、懸念は的中し、見事に足を滑らせた私は瞬く間に数段ほど滑り落ちてしまいました。すり減っていた靴底も災いしたのでしょう。階段の下がどうなっているのかはよく見通せませんでしたが、海に通じていると思い込んでいただけに、にわかに恐怖心のスイッチが入りました。 このまま滑り落ちていったら沖合いの岩礁のごとく渦巻く荒海に・・・。 結局、日をあらためることにしました。 数日後、トレッキングシューズを履き軍手を着用して訪れた私は、左足を前に横向きになった上、右手は初めから上段について階段に寄りかかるようにし、一段一段慎重にゆっくりと下りて行きました。 いざ階段を下りきってみると、そこはすぐに海というわけでもありませんでした。しかし、往昔に海路から参拝していたことは間違いなかろう、と感じました。 当時鼻節神社を訪れたきっかけは、『七ヶ浜町誌』が引用していた「遠藤信道」の『塩釜神社考』における、「然るに今斎き奉れる神は、多力雄神に猿田彦神と塩土翁とを合わせ奉りて三座なり。しかるをこの浜の里人は、猿田彦一柱にして、塩釜の大神と同神にまします由云ひ伝うるなり」という一文と、鹽竈神社が『延喜式神名帳』に記載がないのは、同郡の名神大「鼻節神社」、あるいは同「志波彦神社」と同体であるから、という旨の先達の論を見かけたことでありました。 結果的に、私の見解としてはその論には賛同できない、というところに落ち着いているわけですが、だからと言って鹽竈神社と鼻節神社が無関係に存在していると考えているわけではありません。 なにしろ鹽竈神社の「藻刈(もかり)神事」の舞台が他でもない鼻節神社の鎮座する花淵浜の沖合であることは事実です。 「藻刈神事」とは、当地における古代製塩のおもかげを伝える鹽竈神社の特殊神事、すなわち「藻塩焼(もしおやき)神事」に先立って、必要な「ホンダワラ」という海藻を、海から刈り取ってくる神事です。 花淵浜の沖合は、単に鼻節神社の沖合であるばかりではなく、その海底には、鼻節神社の奥ノ院とも言われる大根明神があるとされていることを忘れるわけにはいきません。 一説に、鼻節の神ははじめそこに天降ったとされており、かつてそこは海底ではなく、貞観地震の際に水没したと伝えられているのです。 すなわち、大根明神は、海底の火山岩窟で、西ノ宮と東ノ宮に分かれており、本来、鼻節神社もそこに鎮座していたとされているようですが、かの貞観の大震嘯の際に地盤が陥没し、その結果「垂水(たるみず)―現在地―」に遷宮したと伝わっているのです。 しかし、「ほうが崎」に鎮座していたものが度々潮風に侵され破損するを以て宝亀元(770)年に垂水に遷し奉られた旨も伝えられているので、真偽のほどはわかりません。 『七ヶ浜町誌』によれば、「大根明神」は「花淵崎東海上七キロの沖合海底の岩礁」にあるらしいのですが、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』には「東方二〇粁の海中」とあります。 7キロと20キロではだいぶ違いますが、町誌によれば、その境内は大根岩礁堆で、南北2.5キロ、東西2.5キロ、干潮面下浅い所で2.3メートルの深所にあり、接続する高根群礁等合算すると、その面積はほぼ七ヶ浜全域に匹敵するのだそうです。 ちょっとしたアトランティス伝説といった趣です。 関連して、興味深い伝説があります。 ―引用:『七ヶ浜町誌』― 『奥州名勝図絵』(意訳) 大根の神窟は、高閣石門等備わらざるなく、常に蒼浪の静かな時でも、舟が近づこうとすると、逆浪が急に起って船を転覆しようとするので、漁夫や舟子はこれを語り伝え聞き伝えてこの難所をさけ、ただ、遠く恐れ敬拝して航行するのである。いつの頃であったか、鮑取る漁夫が潜って宮殿に行って見ると、そのさまは楼閣の如く、窓や柱にいたるまで、珍しい貝や絵などで飾られ、荘厳の限りをつくし、海藻は自然の色を以て色どり、底の砂は珊瑚を敷き詰めたようで、まるで常世の国竜宮とはこのようなところをいうのであろうと語ったという。常にこの上を航行する船はいないが、たまたま想い誤ってここを通り、天気がよいので宮殿を見ようとすると、たちまち激浪が逆立ち舟を転覆しようとする。 なにやら、この沖合の海底には竜宮城があるようです。 おそらくは、海幸彦・山幸彦の神話と同根の伝説かと思われます。 『古事記』において「山幸彦」こと「火遠理(ほおり)命―神武天皇の祖父―」を海底の海神(わだつみのかみ)の宮―竜宮城―に導いたのは、鹽竈神社の祭神とされる「鹽土老翁神」であり、海神の娘「豊玉毘賣(とよたまびめ)―神武天皇の祖母―」の正体は“鰐(わに)”でありました。 いずれ、境内から見える岩礁も荒波に揉まれているわけですが、このあたりには岩礁が多く、常に逆浪が立ちさわぎ、航行が危険であるということで大海津見神と住吉神も祀られたようですから、そのあたりが現実的なところかもしれません。 しかし、海底の竜宮城のロマンも信じてみたいところです。 表参道の階段をそのまま落ちていったならば、私は竜宮城に招かれていたのかもしれません。 ともあれ、鼻節神社の境内には「大根明神」の仮宮二基―東ノ宮・西ノ宮―が設けられており、常の遥拝所となっておりますが、もしかしたら、大根明神とは、オホ氏―「大」―の先祖―「根」―の明神という意味ではないのでしょうか。
もしそれが妥当であれば、私論に整合します。 何故なら、度々触れているとおり私は、陸奥國においてワニを名乗った「丸子(わにこ)氏―陸奥大國造・道嶋宿禰・牡鹿連・靫大伴連の祖―」は、その実「鹿島御子神」を奉斎して北上してきた「オホ氏」の裔であろうと睨んでいるからです。 ちなみに鼻節神社の境内社の「八幡社」は、創立年月は明らかではないが花淵城主の崇敬社と伝えられているようです―『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』―。 花淵城主とは、「花淵紀伊」のことなのでしょうか・・・。 |
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2014年12月24日
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