はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 先日、平成27(2015)年4月17日付の河北新報朝刊に次のような記事が掲載されておりました。

―引用―
陸奥国府の可能性も 多賀城・八幡沖遺跡
 多賀城市教委は16日、同市宮内の八幡沖遺跡第9次調査の結果を発表した。儀式や宴会用に使う素焼きの土器が大量に捨てられた11世紀後半のものとみられる穴を新たに確認。多賀城政庁が使われなかった時期に当たり、多賀城以後の陸奥国府かその機能の一部があった可能性がある。
 土器はおわんや小皿など60〜70点。多くが完全な形で復元できるという。周辺に儀式などを行う場所があったと推測され、儀式や宴会で使用後、清浄さを保つため、まとめて捨てたとみられる。
 八幡沖遺跡は八幡神社を含む南北約370メートル、東西約200メートルの区域。神社の西側約1200平方メートルを調査し、穴は調査区域の南側で見つかった。
 八幡神社は13世紀に今の場所に置かれたとされる。これまでの調査で10〜12世紀の土器などが多数出土していた。市埋蔵文化財調査センターの村松稔研究員は「周囲に一般の人が住んだ形跡はなく、不明だった陸奧国府、または国府の機能の一部が置かれていた可能性がある」と話した。
 現地説明会は18日午前10時半。連絡先は多賀城市埋蔵文化財調査センター022(368)0134。

 大変興味のある出土であり考察であり、出来れば現地での説明を拝聴したかったのですが、残念ながら参加できませんでした。
 記事によれば、この地に不明だった陸奥國府、または國府の機能の一部が置かれていた可能性があるとのこと――。
 しかし、そこは東日本大震災の大津波に呑まれた場所です。おそらくは9世紀の貞観大津波の際にも呑まれたことでしょう。時の中央政権は何故そのような場所に國府、あるいは國府機能の一部を設置したのでしょうか。大津波のことを知らなかったのでしょうか。
 いえ、知らなかったとは考えにくいものがあります。
 出土品の推定年代は11世紀後半のものということですが、その約200年前の大津波で多賀城が壊滅した旨は、『三代実録』なる国家の公式な史書にも記されております。
 さらに、「猩々(しょうじょう)―伝説上の生物―」の託宣を得て「末の松山」に逃れた者だけが津波の難を逃れた旨の伝説が、現在に至るまで語り継がれていることもまた事実です。
 また、当該地区の「末の松山」が『古今和歌集』などで「浪が越えない」代名詞の歌枕として用いられるようになった由来が、私の想像どおり大津波から逃れた土民の体験談に起因していたとするならば、恐ろしい津波の情報は当時においてまだ生々しく記憶に残っていたものと考えて差し支えないでしょう。※2010年10月9日付拙記事参照
 まだ現代人のような文明へのおごりがなかった時代、多賀の國府機能を再現しようとする為政者が、ほんの200年前にその府中を壊滅せしめた災害の情報に無知であったとは思えません。
 ここで私が注目するのは、当該遺跡の約200年後、13世紀に今の場所に置かれたとされる八幡神社です。
 まずは、この八幡神社の由緒を確認しておきます。

―引用:『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』―
本社は宝永四年火災に罹り社殿並びに社蔵の古記録を失ったので由緒を詳にし得ないが、元正天皇の養老五年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺磐若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉遷した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いて此地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是也。田村将軍多賀城に在る日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。里俗末松山八幡宮、興の井八幡等と称した。社傍に田村麿軍兵を屯集せし所と伝える地を方八丁といい、頼義父子賊魁を征するや田村麿の例を以て兵を方八丁に置き此の社を祈って軍功あり、建保年中将軍頼朝其の地を平右馬介(留守伊澤氏の家人八幡介)に与う。右馬介城を末松山に築くにあたり社を今の地に遷した。当時祠田二千石子院二十四、祠官三十人といわれる。伊澤氏領土を除かれ社は遂に荒廃したが、羽州天童城主甲斐守頼澄伊達政宗の臣となり、慶長年中八幡の地に封ぜられるに及んで、伊達家の尊崇極めて篤く、貞享元年六月藩主綱村再造し祠殿を旧に復した。宝永四年の火災に罹った。藩主吉村の社参のことあり今に奉納の短冊並びに鉄砲玉を蔵している。
祠側に騎馬場あり、伝えて千熊の騎馬をしたところという。千熊は田村将軍の子である。現今の馬場は元例祭の折、流鏑馬をしたところであったが今は行わない。郷社に列せられた年月は明でない。明治四十三年三月供進社に指定、後に二社を合祀している。

 この神社名鑑には、おそらく各神社から提出されただろう由緒が掲載されているのですが、時に、神社庁としての所見などが補記されていることがあります。この八幡神社については次のような補記があります。

―引用:前述同書―
膽澤の鎮守府八幡も延暦年中の創祀とする。豊前の宇佐の神を八幡大神と称し僧行教が始めて山城の男山に遷したのは、貞観(八五九)元年であるから田村麿が此の神を勧請すべき理はない。武家の守護神として崇敬し、諸国に移祀したのは頼義親子に始まることである。しかして彼が東国に於ける勢力の標章というべき鎌倉の鶴岡八幡宮は、康平六年(一一一八)に創祀されているのである。尚、方八丁は膽澤城趾にもあり、其の他奥州の処々にある。蓋し上古の城柵であろう。まことに信憑性に乏しい由緒であるが、観迹聞老志、安永風土記書上、封内風土記などの地誌によって書き綴った。

 なるほど、この所見はしごくまっとうであると思います。
 一般に坂上田村麻呂が戦勝祈願したとされるのは十一面観音であり、八幡神ではありません。八幡神を武家の守護神として崇敬し始めたのは源頼義、八幡太郎義家の親子であり、しかもそれを東国においてブランド化したのは鎌倉に鶴岡八幡宮が創始されて以降のことであります。
 ということは、この社はそれ以降に勧請された社であるか、あるいは武神として祀られたものではなかったか、あるいは、勧請の当初においては八幡神を祀る社ではなかった可能性も疑われます。
 穏当に考えるならば、やはり12世紀以降に勧請されたものということになるのでしょうが、猩々の伝説からこの地区に秦氏が居住していたとも想像している私としては、簡単には割り切れません。
 また、八幡地区を流れる砂押川なり勿来(なこそ)川の上流域にあたるお隣り利府町の民間伝承によれば、大津波で流されてきたこの社の御神体を拾い上げて祀ったとされる利府町町加瀬の八幡神社が、俗に「流れ八幡」などと呼ばれ、祭神が通常の八幡神と異なり「大鞆別(おおともわけ)命」と表記されていることも気になります。
 引き続き、考えていきたいと思います。

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震災前平成二十二年の八幡神社

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震災後平成二十七年の八幡神社
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