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利府町―宮城県宮城郡―町加瀬地区の八幡神社が「流れ八幡」と呼ばれていたのに対し、多賀城八幡沖遺跡の八幡神社は、土地の古老に「泥八幡」と呼ばれていたといいます。 『利府町誌』はこれについても津波と結びつけて考察しておりましたが、『多賀城市史』はこれを雨に結び付けております。すなわち、例祭である七月十四日に雨になることが多いのでこの名があるのだというのです。 同市史は、砂押川の上流にあたる南宮(なんぐう)―多賀城市―の八幡社が「浮八幡」と呼ばれていることも併せて触れております。出水のたびに社地が水浸しになることからそう呼ばれていたというのです。 このあたり、「末の松山」に比肩する当地の歌枕「浮島(うきしま)」にも通ずるものがありそうですが、それはともかく、「泥八幡」の名の由来について、私は『利府町誌』が説くところの津波由来を支持します。 たしかに、現在でも八幡地区から七北田川下流域の一帯が大雨で冠水しやすいことは事実ですが、例祭のたびに御神体が泥にまみれるというのは現実的ではありません。それでは社人がその対策を怠っていたと言っているようなものであり、一歩間違えば彼らの信心に対する冒涜になりかねません。 仮に、御神体ではなく、祭りに参加する者たちが泥にまみれるのだ、ということだとしても、神様を“泥”呼ばわりする理屈にはなり得ないでしょう。 ここはやはり、実際に御神体が泥にまみれる忌々しき絵が人々の記憶に鮮烈に焼き付いたからこそ、その名で呼ばれることになったのではないでしょうか。 それはすなわち、大津波で鎮守の神様が流されてしまった際の記憶でしょう。 いずれ、多賀城の八幡神社周辺が大雨で冠水しやすいことは間違いなく、八幡沖遺跡が仮に陸奥國府の痕跡であったのだとすれば、津波に呑まれずとも比較的日常的に水害に見舞われるような地にそれが置かれたということになります。何故そのような場所に國府を置かなければならなかったのでしょうか。 ここで言う「陸奥國府」を、13世紀頃のいわゆる「多賀國府」と同義に捉えていいものかどうかはわかりませんが、少なくとも多賀國府の候補地としては多賀城市内の新田(にいだ)や高橋から、仙台市宮城野区の岩切にかけてのエリアが有力とされておりました。 政庁そのものを確定させるような遺跡は見つかっておりませんが、岩切の七北田(ななきた)川―冠(かむり)川―の左右両岸には「河原町五日市市場」があったとされており、そのやや下流の多賀城市新田南安楽寺付近には「冠屋市場」があったとされており、宿に生活し交易に従事する人たちが往来していたと考えられております。 『仙台市史』はこの二つの市場に挟まれたあたりに多賀國府が存在していたと推察しており、いみじくも河原町五日市場があったとされる岩切の「鴻巣(こうのす)」は「国府津(こうづ)」が転じたものとする解釈もあります。 はたして今回の八幡沖遺跡の出土がそれらの可能性を覆すだけの痕跡たり得るのか、今後の研究に注目したいところではあります。 利府町加瀬「八幡神社―流れ八幡―」 現地説明会などで詳しい解説を聞いていないので的を外しているかもしれませんが、大量に捨てられていたという儀式や宴会用に使う素焼きの土器は、もしかしたらその土地のなんらかを鎮める継続的な鎮魂なり神事に使われたものではないのでしょうか。 八幡神社は、13世紀にその地に置かれたとのことでした。由緒等によれば、それ以前には末の松山に鎮座していたということでありました。 ここでふと、気になる点があります。 先に触れたとおり、末の松山は大津波から逃れた地であったと考えられるわけですが、その地に鎮座していた八幡神社の御神体がはたして津波に流されたものでしょうか。 ましてや、より頻度の高い雨ごときで流出するものでしょうか。 つまり、伝説の元となった頃の八幡神社は、末の松山に鎮座していたわけではなかったのでしょう。 穏当に考えれば、13世紀以降、現在地に遷された後にそれらの伝説が生まれたとみるべきかもしれません。17世紀には慶長の大津波もありました。 しかし私は、いみじくも八幡沖遺跡が存在する事実によって末の松山よりも先に現在地に鎮座していたものと想像しております。 当地に鎮座していた八幡神社、あるいはその前身たるなんらかの鎮守は、9世紀の貞観の大津波に呑まれてしまい、むしろ再建の際に津波を逃れた末の松山に遷されたのではないのでしょうか。 その後この地を支配する権力者なり國府関係者が、本来そこにあるべき鎮守の跡地を代々鎮め続けていたものと想像します。 それこそが、今回出土した遺跡の本質なのではないでしょうか。つまり、その遺跡は國府が所在した故の儀式の跡ではなく、その土地神そのものへの切実な鎮めの儀式が行われた跡ではなかったのでしょうか。 一神社の元位置にそこまでするだろうか、という疑問も生まれるかもしれませんが、その鎮守の神が祟りを為しかねない、あるいは実際に祟りを為したと判断されたならば、十分あり得るでしょう。 おそらく13世紀に八幡神社を末の松山から現在地に遷した「平右馬介―留守伊澤氏の家人八幡介―」はなんらかの事情を知っていたのではないでしょうか。 そうでなければ、せっかく安全な地に鎮座している所領の鎮守を、わざわざ浸水し得る地に遷すはずがありません。 右馬介には、この神を然るべき場所―現在の鎮座地―に遷さなければならない、という強迫観念のようなものがあったのではないでしょうか。 出土した土器の推定年代の11世紀後半、陸奥に何があったか、と思い起こすならば、前九年の役や後三年の役が終わり、奥羽の実質の支配者であった安倍氏や清原氏が滅んだ時期です。 すなわち、堀河天皇が鹽竈神社の鹽竈桜について「〜櫻の本に海人のかくれや」と御製の歌を詠まれた頃です。 もしかしたら、八幡沖遺跡の地は安倍氏か清原氏の内の有力な人物の神あがりの地なのかもしれませんし、あるいは、流れ八幡の祭神が「大鞆別(おおともわけ)命」であることから推して、大伴姓の人物のそれかもしれません。※注1 大伴姓と言っても、道嶋氏を輩出した丸子一族の中に大伴姓を名乗ることを許された人物も少なからず存在しますので、その内の誰かと考えておくのが無難かとは思いますが、陸奥に赴任した国司の中にも、朝廷側に祟る可能性を秘めた大伴姓の大人物がいなかったわけではありません。 例えば、「伊治公砦麻呂(いじのきみのあざまろ)」の反乱の際、何故か蝦夷側に多賀城まで護送されて生き延びたものの以降史書から消滅した陸奥介「大伴真綱」、あるいは、その後の混乱を鎮めるため陸奥按察使持節征東将軍に任命された「大伴家持」あたりが浮かびます。 特に家持は陸奥赴任中に他界したとも言われ、しかもその後冤罪で埋葬を許されなかったという顛末が伝えられております。 もちろん、真実はわかりませんが・・・。 ※注1:平成28年3月2日補足
『古事記』に目を通しておりましたら、大鞆別命とは、品陀和気(ほむだわけ)命ー紀では誉田別尊ー、すなわち、応神天皇ーいわゆる八幡神ーのことであるようです。恥ずかしながら、初めて知りました。自戒の念もこめて、記事はそのままにしておきます。 |
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