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藩政時代「御宮町」と呼ばれていた「宮町―仙台市青葉区宮町―」は、仙臺藩主二代伊達忠宗が徳川幕府におもねり東照大権現―徳川家康の勅諡号―をお迎えせんと城下北東部に新たに縄張りした門前町であったわけですが、言い換えれば、それは「仙臺東照宮」の氏子の町として形成されたニュータウンであったということでもあります。 しかし、新興祭祀の神社を新設するというのは単にハードの部分さえ作れば勝手に機能してくれる類のものではありません。現在でこそ地域の氏神としてしっかり根付いて多くの市民から親しまれている仙臺東照宮ですが、おそらく草創期には怪しげな新興宗教となんら変わりがなかったことでしょう。 神社の管理運営には、すべからく氏子の信心と労力が不可欠なわけですが、御宮町の町人からしてみれば、それまで存在しなかった神社の門前町に強権的に移住させられて、以後貴殿らはこの社の氏子である、などといわれても、ほとんどの者がそれを義務感以上の感情では奉祀できなかったものと想像します。 例えば、同じ徳川時代に至って政策的に檀家制度を整えられた寺院の場合であれば、そこにご先祖様のお墓も用意されたわけですから、さほどの抵抗もなくそれに親しむことは出来たことでしょう。しかし、いかに祭神の本質が神君家康公とはいえ、自分たちと血縁はもちろん地縁すらもない神仏に対して公儀の域を超えて手を合わせることが出来ていた者などどれほどいたのでしょう。奉職を強制された町人やそこから選ばれた検断・肝入といった町役人、ひいては町奉行、仮に、一門、藩主に至るまでの武家社会全体を見渡してみたとしても、ほぼ皆無であったのではないでしょうか。したがって、おそらく東照宮の別当寺として開基された「仙岳院(せんがくいん)」には氏子の墓地も用意されて、そのまま檀家としても組み込まれたのだろうとは思うのですが、そのあたりは未確認です。 いずれ、宮町町人は、「御用捨(ごようしゃ)」といって諸役負担が免除され、かつ軽微な年貢負担のみが課された耕地を与えられたり、本来課せられるべき諸役を免除されるなど藩によって特別に優遇されてはいたようです―『仙台市史』参照―。 思うに、偉大すぎた藩祖政宗公亡き後の伊達仙台藩にとって、いわば東照宮御用特区の整備は、徳川幕府との円滑な関係を維持する上で最重要に位置づけられたプロジェクトであった事でしょう。実際に運営するのは東照宮と人的組織が一体の仙岳院であったわけですが、仙岳院が藩内寺格最高位の御一門格に位置づけられたのはそれ故でしょう。 さて、草創期の御宮町の町人は、そもそもどういった人たちで、どこから移住させられたのでしょうか。正確にはわかりませんが、実はそれを推し量る材料がないでもありません。享保十四(1729)年に起きた御宮町検断罷免事件にそれを透かし見ることが出来そうです。 『仙台市史』は、町方社会の中における御宮町の特殊性をみるくだりの中で、その事件を取り上げております。 事件は、「榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)」が御宮町の者をみずからの氏子とみなし、守り札を配るなどの宗教的行為を行ったことに端を発しました。 これは問題となって当然でしょう。藩の特命プロジェクトを覆しかねない横恋慕を仕掛けているに等しいからです。 ところが、この一件について町奉行が御宮町の上・下の街区の各々の検断(けんだん)―警察権のある町内会長のようなもの―に問い合わせたところ、両者ともに、御宮町の者は天満宮の氏子である、と回答したようなのです。しかも驚くことに町奉行はそれをすんなり承認しました。 さすがにこれには東照宮側も黙ってはいられません。 東照宮別当寺の仙岳院は、御宮町が東照宮の門前町であることと、町人が東照宮の氏子である旨を主張しました。もちろんこれは藩にも受け入れられ、藩上層部は町奉行の判断を誤りと裁定を下しました。 なにしろ仙岳院は仙臺藩内最高の寺格を誇る御一門格の寺なのです。町人あがりの検断が勝てる相手ではありません。仙岳院は両検断を罷免し、町奉行へは事後報告で済ませたとのことです。 しかし、藩上層部に誤判断と裁定された上に、検断の罷免という重要案件を事後報告で簡単に済まされてしまっては、町奉行のメンツが立ちません。さすがに後任の人事については譲らなかったようです。仙岳院は東照宮御用を理由に御宮町町人から選出すべしと主張したようなのですが、町奉行はそれを否定し、あてつけのように天満宮氏子意識をもたないであろう外部の人材を強行選任したようです。 ちなみに、新任の検断は国分町肝入りと染師町元検断であったようですが、このような御宮町と関係の希薄な検断が就任するといった事などを機に、東照宮御用を根拠にしていた御宮町の特権も徐々に忘れられ、他の町と同質化していったようです。 ともあれ、この事件の顛末から、御宮町の町人は自分たちが榴岡天満宮の氏子であるという意識の強かったことがよくわかります。 榴岡天満宮は、本来仙台東照宮の場所―國分荘玉手崎―に鎮座していた天神社が、東照宮の創建にともない社地を退かせられ、榴岡(つつじがおか)、すなわちかつて平泉軍が対鎌倉軍の総司令部を置いた「國分ヶ原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」の地に移転させられた上で天満宮と化したものであります。 おそらく東照宮の氏子として御宮町に集められた町人は、本来、小萩伝説を通じて平泉滅亡を憂い伝えていた國分荘玉手崎なり玉田横野一帯の里人であり、すなわち國分荘玉手崎時代の天神社の氏子であったのでしょう。 もしかしたら、新設の仙岳院が全く地縁のない平泉中尊寺の別当職を兼任しその運営および寺領支配を行うに至った理由もそこにあったのかもしれません。 余談ながら私はこの風景が好きです。日常生活ではわずらわしいばかりの踏切ですが、その新設は現行法令において厳しく制限されていると聞いたことがあります。将来的に消えゆく懐かしい風景と思えば、これもまた風情なのかもしれません。 |
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2017年02月20日
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