はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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19、青麻神社と常陸坊
 奥州藤原氏滅亡後、陸奥國府の国司代行として源頼朝に派遣された留守氏―伊澤氏―は、南北朝時代に北朝方についた奥州管領畠山国氏の居城であった高森山の岩切城を、畠山国氏討死後のいつの頃からか居城にしていたものとされております。それもあってか、かつては中世の陸奥國府―多賀國府―も同地にあったとみる見解をちらほらみかけました。
 しかし、『仙台市史』などは、冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―左岸の冠屋市場址―多賀城市新田―あたりに多賀國府があったのではないかと推定しており、私もそれを支持するところではあります。
 一方で、もしかしたら國府の掌握をめぐるめまぐるしい宮城府中の覇権争いのさなかにあっては、その機能が畠山氏や留守氏によって自らの居城に持ち込まれたこともあったのかもしれぬ、などとも思います。
 いみじくも高森山の「高(たか)」は「多賀」に由来するものとも考えられます。
 さて、その高森山から北の一帯は広く深い森に包まれております。
 あたりは現在「県民の森」と呼ばれ、宮城県民の憩いの森林公園となっておりますが、森に通ずる街道の辻では随所に古めかしい石の道しるべを目にします。
 塩竃街道側の岩切の森の入口には「青麻道」、利府から鶴巣に抜ける街道の利府側の森の入口には平仮名まじりで「あ找道」(あ麻道?)などと刻まれ、なにやら明治以前にはあたかも県民の森のすべてが「青麻(あおそ)神社」の境内のごときであったかに思われます。森を貫く道もすべからく参道そのものであったことが窺い知れますが、この青麻神社の信仰圏が相当広域に展開していたことも推して知るべしでしょう。
 それにしても、岩切側の道しるべ付近にはかつて志波彦神社という宮城府中屈指の名神大社があったはずですが、青麻神社はそのお膝元から参拝者を引っ張りこんでいたということなのでしょうか。さすればかなり強引で攻撃的な布教活動が行われていたかにも思えてしまいますが、ただ先の記事でも触れたとおり、『鹽松勝譜』の志波彦神社の項には「延喜式神名帳二載スル所。宮城郡大社四座ノ一。祠廢シタリ。」とあります。どこまで遡れるのかはわかりませんが、少なくともその時代―文政五(1822)年頃―には既に志波彦神社の表立った祭祀活動の実態は消滅していたようです。
 さて、そもそも青麻神社がどのような神社なのかについて触れておかねばならないでしょう。
 かつて私の従兄弟が「俺の守護神です」と語っていたのは、のんべえの彼が痛風の人であるからに他なりません。
 社務所発行のリーフレットには「三度詣でれば生涯中風の難よりのがれる」とあります。
 その「中風病退除」をはじめ、この社には古来「海上安全」、「眼病治癒」といった特殊信仰が伝わります。
 境内は榎川の源流にあたり、森に育まれた綺麗で豊かな清水が絶えずこんこんと湧き出ているわけですが、手水社に利用されていることはもちろん、痛風に効くやら眼病に効くやらと人づてに広まっているのか、朝早くからたくさんの善男善女がこの御神水を汲みにやってきております。
 社務所発行のリーフレットが記す由緒は次のとおりです。

―引用―
 元禄十一年(西暦一六九八年)、山火事により古記録等を焼失せるにより不詳なれども、社伝によれば、第五十五代文徳天皇の御世の仁寿二年(西暦八五二年)、現社家の遠祖穂積保昌が山城国(現京都府)よりこの地に来たり、里人に麻の栽培を教え、且、一族の尊崇せる日月星の三光神即ち天照大御神・天之御中主神・月読神の三神を清水湧く山峡の岩窟中に奉祀せしが本杜の創始と伝え、社名・地名も麻の栽培より起り、神紋も又麻の葉を用いる。仙台藩封内風土記(西暦一七七二年成立)にも、「岩切邑 本邑山中青麻と号する地あり 往古この地麻を植う 故に以て地名と為す 岩窟あり高さ一丈余・・・」と記している。天和二年(西暦一六八二年)源義経家臣なりし常陸坊海尊(清悦仙人とも称する)下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し給いしにより併祀する。
〜以下省略〜

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 ちなみに痛風や眼病への御神徳は常陸坊海尊の霊験に由来し、海上安全は現社家の遠祖穂積一族が水運に携わっていたことに因むようです。
 穂積一族は物部氏の同族であるわけですが、何故に山城國から陸奥國にくだり、よりによって斯様な幽谷にこもってしまったのでしょうか。
 もちろん、当地に神聖なる清水の湧き出ずるが故に物部系氏族の神力が引き寄せられたということになるのかもしれませんが、なにしろ文徳天皇は度々触れている「承和の変」、すなわち謀略に嵌められた恒貞親王の失脚によって即位に至った天皇でもあり、何かきな臭さを疑わずにはいられません。
 また、併祀の常陸坊海尊は、何故この地に移住することを決めたのでしょうか。
 想像をいえば、以前にも触れたとおり、鎌倉色の地頭の存在しない國府直轄地たる宮城郡なり陸奥國分荘の寺社は、奥州藤原氏の落ち武者にとって隠れやすかったのではないか、ということがあります。
 また、例えば『利府村誌』は岩切を「往昔、岩城の里〜」としており、すなわち、岩城里(いわきり)たる岩切は岩城系移民の居住区、『和名類聚抄』に載るところの宮城郡磐城郷であったとも考えられます。
 なにしろ「石城國造」は、『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の記述から常陸の「多珂國造」と同族であったものと思われます。
 つまり、仮にこれらの推測が妥当であったならば、いにしえの茨城県人会は岩切の地になじみやすかったのではないか、とも思うのです。
 この海尊について、『鹽松勝譜』は何故か「壺碑」、「多賀城墟」につぐ字数を費やすほどの熱量をみせているのですが、そこを乱暴に要約させていただくならば、海尊は、下野―栃木県―の山中大日窟に隠れたものの、青麻神社の窟に移住することを望み、併祀に至ったようです。
 また、源義経の家臣であった頃の話でしょうか、海尊は衣川上流で出会った老翁に振舞われた怪しげな赤魚を食べたことにより不老不死となり、四百年も後となる岩出山時代の伊達政宗に請われて奥州藤原氏滅亡の譚を聞かせ、源義経の書を見せたようです。
 もちろん、現実離れした伝説ではありますが、栃木や青森には、奥州征伐に至る前に義経の子を託された海尊が、それを常陸入道念西―伊達初代朝宗―に托した旨の伝説があるようですので、それが政宗との逸話に置き換えられたのでしょう。
 それにしても、後の真田幸村の遺児といい、もしかしたら伊達家には、優秀な遺伝子とみるや敵味方問わず秘密裏に身内に囲い込む家訓でもあったのでしょうか・・・。

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 余談ながら、昭和五十八(1983)年四月二十七日、東北地方のあちこちで山火事が発生しました。
 件の県民の森も、折からの強風に煽られ、三千三百ヘクタールをも焼き尽くされる未曾有の災害に見舞われました。
 一晩中燃え続けた炎は、夜空を真っ赤に焦がし染め上げ続け、仙台市内のどこからでもそれとわかりました。
 ところが、それだけの大火災のド真ん中に坐していたにもかかわらず、青麻神社の社殿は奇跡的に類焼を免れたのです。
 先のリーフレットは「神威の御加護」としておりますが、なるほど青麻神社の強力な水神の神威が邪悪な炎をはねのけたのかもしれません。
 そういえばその事実を教えてくれたのはのんべえの従兄弟でありました。
 彼の名誉のために補記しておくならば、彼に「俺の守護神」と言わしめていたのは、必ずしも痛風の御神徳だけではなかったのかもしれません。
 

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