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現在、天照大御神・天之御中主神・月読神の三神を主祭神とし、常陸坊海尊を併祀していると公称している青麻神社ですが、『鹽松勝譜』の時代には必ずしもそうではなかったようです。 ―引用― 〜祭ル所。海尊仙ナリ。近歳伊豆佐賣神社ヲ以テ之ヲ稱ス。其實非ナリ。祠ヲ守ル者。遙(?)祀ニ属スルヲ嫌フ。而シテ幸ニ隣村ニ伊豆佐賣神社有リ。久ク廢絶セリ。〜 ※「遙」の文字は原文ではさんずいとなっている。 なにやら、現在の主祭神三神については全く触れられておらず、むしろ併祀に過ぎない海尊が主祭神の体をなしております。 さらに、式内社の伊豆佐賣神社と混乱していたことは興味深いところです。 現在の祭神三神は、おそらく明治以降にあてはめられたのでしょう。 平安時代に社家の遠祖穂積保昌が祀り始めたのはおそらくもっと古体を残した神祀りであったのではないでしょうか。物部系の氏族であったことからすると、もしかしたら饒速日(にぎはやひ)・登美夜毘賣(とみやびめ)・宇摩志麻遅(うましまじ)の三神であったのかもしれません。 いずれ、中世以降、叡山僧とも言われる海尊が関係したことによって、仏教的ないし密教的要素が強まり、江戸時代には社頭大石碑にもあるような青麻岩戸三光宮、あるいはより仏教的に青麻権現と称していたものと思われます。 すなわち、大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩として崇敬され続けたまま明治の廃仏毀釈を迎えてしまったようです。 『鹽松勝譜』に、海尊が当地の窟に移り住む際に久作なる村人と交わした会話のくだりがあります。 ―引用― 此窟祭ル所ハ何神ソヤ。久作答テ曰ク。村民嘗テ大日・不動・虚空蔵・三佛ヲ祭レリ。老人曰ク。幸イナル哉。吾カ念スル所ハ。日・月・星ナリ。今ヨリ當二三光窩ト稱スヘシ。 海尊の言葉にもあるとおり、神仏習合の思想下においては大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩は日神・月神・星神を意味するわけですが、明治の廃仏毀釈の思想下ではこれが天照大御神・月読神・天之御中主神になるようです。 それよりも、何故伊豆佐賣神社と混乱していたのか、むしろ私の興味はそちらに向きます。 ひとつ考えられるのは、京の白川神祇伯家から相伝された神楽を当社に持ち込み、「青麻神楽」として定着させた当社中興の祖「鈴木儀右衛門」が、同白川家から「鈴木對馬」の称号を許され、かつ、伊豆佐賣神社の兼任も認められたようなので、これに起因したものかもしれません―『利府村誌』『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』参照―。 当然ながら社務所発行のリーフレットにはそのようなことは一切書かれていないわけですが、海尊と久作との会話からみて少なくとも既に村人に祀られていた地主神がそこに坐していたことは間違いありません。それが穂積一族の祀る神であったのか、はたまた伊豆佐賣神であったのか、あるいはそれらは同一であったのか、あるいは窟そのものに対する原始的な信仰であったのか・・・。 窟に対する原始的な信仰という仮定で考察するならば、当社の社殿、および背後の崖は南東を向いており、そこに窟があるのだとすれば冬至の朝日が差し入るものと思われます。 すなわち、日光感精のための擬似子宮の役割がその窟にあったものと考えます。 リーフレットに印刷された「奥州青麻宮社図(江戸後期)―慶応義塾図書館蔵―」をみるに、かつての本殿は崖を登った高い位置にあったことがわかります。 おそらくは窟の位置に本殿があったのでしょう。 原初的な窟信仰の属性はきわめて女性的なものであり、もしかしたらそのあたりも廃絶久しい伊豆佐賣神社と混乱した要因のひとつになっていたかのかもしれません。
また、かつて私は伊豆佐賣神は志波姫神と同一ではなかったか、という仮説を展開しておきました。 立地的に志波彦神社の奥宮的な佇まいにも見え得る青麻神社であるわけですが、仮に青麻神社のその実が伊豆佐賣神であったとするならば、私論上、これを妻神(?)の志波姫神とみることも可能となり得ることになります。 著しく衰微していた志波彦神社は、宮城郡を代表する名神大の社としては境内の狭さが再建の障害となっておりました。 式外社の奥州一之宮鹽竈神社を國幣中社にまで引き上げる詭弁という側面はあったものの、基本的には境内の狭さ故に鹽竈神社境内に遷された志波彦神です。 しかし仮に青麻神社を奥宮と捉えることが可能であるならば、その実は県民の森全体を社叢としていたことも考えられるのではないでしょうか。 なにしろ、志波彦神は鹽竈神の製塩に必要な燃料、すなわち「柴」を供給していたという神話がありました。 ここに来てその神話も軽視できなくなりそうです。 |
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2018年01月09日
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