はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 中世の多賀國府がどこにあったのかについては諸説ありますが、江戸時代に流路を変えられた冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―の新旧の分岐点付近―多賀城市新田(にいだ)付近―とみる説が特に有力とは考えております。
 ただ、留守氏の家伝である『奥州餘目記録』に「にかたけの郷を宮城本郷と申」という記述があり、宮城郡そのものの起点が苦竹にあったことも間違いなさそうで、時期によっては同地に國府があった可能性も消し去れないようには思います。少なくとも藩政時代には仙臺城下に物資を運ぶための梅田川を利用した曳き舟による物流拠点がそこにあったといいます。
 ともあれ、冠川は、新旧流路の分岐点より上流には川舟が遡ることが出来なかったのだといい、故に当時の河口であった湊浜からの商人船などもそこで荷揚げせざるを得なかったものとみられております。
 すなわち、陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―がそのあたりに開かれていたと考えられる所以であるわけですが、中世の奥州においてはもっともヒト・モノ・情報の行き交う繁華な地域になっていたのではないでしょうか。
 さすれば、冠川に沿う岩切から福室にかけてのそのエリアに、宮城郡の名神大社たる志波彦神―冠川明神―が勧請され、南朝の皇子を供養する西光寺のような寺が開かれたのも、その都市的な引力に引き寄せられたからに相違ないとも思うわけです。
 そのような一角に、「安楽寺板碑群―南安楽寺古碑群―」と称された古碑群があります。
 同地に赴くと、すぐ側に「安達昇板金」や「安達荘」などの看板が目に飛び込みますが、元寇の直後に陸奥守に就任した安達泰盛がいわゆる蒙古の碑に関わっていたとあらば、もしやこの古碑群にも安達一族が関係していたのだろうか、などとも想像させられます。
 「南安楽寺」なり「北安楽寺」なる地名から、おそらくはかつてそういった名称の寺がこのエリアに存在していたのでしょうが、もしやその「安」の文字も安達姓に関係するものであろうか、などとも頭をよぎり、さすれば奥州藤原氏供養の色合いを垣間見せる謎の「安養寺」ともなんらかの形でつながってくるのだろうか、などとも連想してしまうわけですが、『多賀城市史』所載の大石直正さんの論によれば、「安楽寺とは、安楽国、すなわち西方浄土を意味する寺号」であって、「七北田川の南北安楽寺の河原は鎌倉時代には春秋の彼岸念仏が大規模に営まれるところであった」のだそうです。とりあえず安達の「安」とは全く関係なさそうです。

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 『多賀城市史』によれば、これらの碑は七北田川改修により堤防その他から集められたものと伝えられているようですが、改修とは江戸時代の流路変更のことでしょうか。
 はたして、安楽寺の境内に建てられていたものが川沿いに散在していたものか、あるいは、七北田川の河原も含めて安楽寺の境内であったのか、いずれ明治の廃仏毀釈を待たず、その時代には既にこの寺は荒廃していたのでしょう。

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 さて、西方浄土云々の信仰か否かはどうあれ、私が気になるのは、筑紫―福岡県―の「太宰府天満宮」の別当寺の名称も「安楽寺」であったということです。
 この筑紫の安楽寺は、単に太宰府天満宮の別当寺という位置づけにとどまらず、そもそもその前身とでもいうべき存在であったようなのです。
 言わずもがな、太宰府天満宮とは菅原道真を祀る社です。
 謀略によって筑紫大宰府に左遷されていた「菅原道真」は、死後、門弟の「味酒安行(うまさけやすゆき)」によって政庁北東の「安楽寺」に葬られたわけですが、後に道真が激しく祟りを為したがため、それを鎮めるために安楽寺に眠る道真の亡骸の上に社殿が造営されて祀られたのがその創始といわれております。
 はたして、安楽寺は道真が葬られたことを機に建立されたものか、あるいは既存の安楽寺なる寺に道真が葬られたのかは定かでありませんが、なにしろ「遠の朝廷(とおのみかど)」たる大宰府の北東鬼門の方位に位置していることから、多賀城における荒脛巾(あらはばき)神社や鹽竈神社のごとく、なんらかの地主神がそこには祀られていたのではなかろうか、という推測も頭をよぎります。
 太宰府天満宮のHPには、「御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました」とありますが、そこが古来なんらかの忌々しき地であったことを示唆している由緒のようにも思えるのです。
 江戸時代、幕府による東照大権現の創出は諸国に忖度の波を広げ、天ツ神を祀る社が次々と菅公天神に塗り替わっていったらしきことは度々触れておりますが、塗り替えられた天ツ神の多くは、おそらくは男系の太陽神、すなわち、天照御魂神たる饒速日(にぎはやひ)命であったものと推測しておきました。
 なにしろ天満宮の「天満」という言霊は菅原道真に贈られた神号の「天満(そらみつ)大自在天」に由来すると言われますが、古来「そらみつ」は「やまと」にかかる枕詞でもあり、いみじくも饒速日命に由来するものであることが『日本書紀』に明記されております。
 加えて、太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』で「安楽寺」という姓をひいてみたところ次のような情報も見つけました。
 筑前の安楽寺別当は代々道真の子孫が相続していたことが菅家系図にみえるとのことですが、私の好奇心を刺激したのは、大和の安楽寺氏です。
 清和源氏多田氏の一族とされているこの系譜は、建保年間(1214〜1219)に満仲の九代高頼の嫡男経實なる人物が大和國廣瀬郡に入り、後に山邊郡に移っている、というのです。この情報元について、太田亮は「安楽寺和尚等物に見ゆ」としております。
 少し前、私は『いかるが―後編―』と題した拙記事で、大和川水系が一筋に収束して生駒山地と金剛山地の間隙を河内に放たれる聖徳太子ゆかりの斑鳩(いかるが)の周辺は、古来龍田の風神と廣瀬の水神が祀られてきた大和盆地の防衛ラインの要衝でもあり、『先代旧事本紀』に記されたところの「哮峯(いかるがみね)」がここであったりはしないだろうか、という旨の推測を掲げておきました。
 『先代旧事本紀』によれば天神(あまつかみ)の御祖(みおや)―祖先神―から十種(とくさ:あるいは十一種)の天璽瑞宝(あまつしるしのみずのたから)を授かった饒速日命は、河内の國の河上の哮峯(いかるがのみね)に天降ったといい、瑞宝はその後大和の国の山辺(やまのべ)の郡の布留高庭(ふるのたかにわ)なる石上の神の宮に遷し奉られたとされているわけですが、奇しくも大和の安楽寺氏はその経路を辿っていたようにも見えます。
 斑鳩の地が、仮に白村江の戦いの大敗を受けて防衛ラインとして強化されたという見方をするならば、大宰府政庁の北に隣接する大野城もまさにその目的の遺構であり、東照大権現創出に対する忖度による塗り替えの要素はままあれど、道真天神信仰のそもそもの底流にもなにか饒速日命に対するそれと相通ずるものが地下水脈のように流れているように思うのは誇大妄想でしょうか。

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 いずれ、七北田川―冠川―沿いに存在していたと思われる安楽寺は、古代多賀城にせよ中世多賀國府にせよ、もしかしたら大宰府にならって国衙を守護する立ち位置として建立されたものであったのかもしれない、などと、つい感慨にふけってしまうのでありました。

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