はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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栗原と糠部―後編―

 奥羽における信濃系の馬飼いの民に対する忖度の可能性については、例えば、鎌倉幕府による「由利中八維平」の論功行賞にもそれが窺えるものとみております。
 維平が奥州藤原四代泰衡の郎従「由利八郎」その人だとしたならば、彼は鎌倉軍に囚われても尚、主君泰衡を侮辱した敵の総大将源頼朝に啖呵をきった人物です。泰衡が恭順の意を示して命乞いをしても尚残酷に処刑されたことを鑑みれば、頼朝に啖呵をきった維平などは本来その場で有無を言わさず首を切られてもおかしくないところです。
 ところが維平はとりたてて咎もなく、何故か慣れ親しんだ旧領の由利地域を任せられました。維平からすれば願ってもない待遇を得たことになります。
 思うに、由利郡の信濃系土着民の手綱を握る上では、下手な鎌倉武士に地頭職を任せるよりも維平その人を生かしてそのまま留任させておいたほうが断然有効であるという判断を頼朝は下したのではないでしょうか。
 ところで、中世の由利地方には「多くが信濃より移住の士なるが如し」と『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんが評するところの由利衆―由利十二頭―なる在地領主層がいたわけですが、栗原との関係において気になっていることがあります。
 それは、栗原の「真坂(まさか)郷―栗原市一迫真坂(いちはさままさか)―」に起源をもつという真坂姓の分布が、何故か当の栗原ではなく、圧倒的に由利―秋田県由利本荘市―に集中しているようであることです―平成三十(2030)年十一月四日現在ウェブページ『日本姓氏語源辞典』調べ―。
 郷名を冠する一族が宗家もろともまるごと由利に移住したものか、あるいはなんらかの有力な姓をもつ真坂郷ゆかりの名族の分家が移住後に故郷の地名を名乗ったものかのいずれかなのであろうと想像しております。
 なにしろ栗原一迫の真坂郷周辺には、武烈天皇伝承と照井氏の痕跡が濃厚に混在しております―※拙記事:『5年に一度の供養会』『消えゆく照井一族の痕跡』参照―。
 彼らの本来の姓が何であったのか、大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)の裔を称する照井氏や武烈天皇伝承を伝える狩野氏ともなんらかの関連があるものか、いずれ別稿を設けて考えてみたいと思いますが、ここでは、信濃系移民という属性を共有する栗原と由利の相互に陸奥出羽の境を超えた一族移動―異動?―があった事実への着目にとどめておきます。

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狩野氏の居城であったとされる真坂舘跡には龍雲寺が建ち、伊達騒動をモデルにした「伽羅千代萩」の亀千代の乳母政岡のモデルとされる白河政岡の墓があります。

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 さて、文治五(1189)年の奥州藤原氏滅亡の直後、大河兼任の乱で戦死した維平を継承して由利郡を領していたのは「由利中八維久」なる人物であったようです。このことは元久二(1205)年の大日霊神社の棟札や大日如来の背面の銘などから裏付けられております―『象潟町史』『東由利町史』―。
 ところがこの維久、その後建暦三(1213)年の「和田合戦―二代執権北条義時とライバルの和田義盛が争った戦乱―」の後に地頭職をはく奪されております。
 なにやら、北条方として参戦して数人の和田方を倒した維久の射た矢が、そのまま和田方によって射返され、こともあろうに義時の子、泰時の鎧をかすめたというのです。泰時自身は難を逃れたものの、かすめた矢に維久の銘があったがため、維久は由利の地頭職をはく奪されたのです。代わりに就任したのは、女地頭「大弐局」でありました―『吾妻鏡』『象潟町史』―。
 大弐局は“信濃守”小笠原遠光の娘であったといいます―『象潟町史』―。
 この「小笠原遠光」という人物、大弐局の父ということは南部氏の始祖とされている「南部光行」の父「加賀美二郎遠光」と同一人物と思われますが、おそらく、彼の子―南部光行の兄弟―長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで高倉天皇から小笠原姓を賜ったことから、父遠光の姓にも混乱が生じているのでしょう。
 由利郡の地頭職が南部氏の祖と同系の甲斐源氏であり、しかも“信濃守”一族であったことは栗原と糠部の関わりを探る本稿の目的において看過できません。
 なにしろ甲斐源氏の縁故地たる甲斐國巨摩郡は、信濃同様、高句麗系渡来人の郷であったと考えられている地域です。
 また、奥州南部氏の始祖とされる光行が、父遠光の官位“信濃守”を受けて「信濃三郎」を称していたことも見過ごせません。
 そもそも甲斐國といえば「甲斐の黒駒」伝説でも知られる馬の名産地であり、特に巨摩郡の巨摩(こま)などは高麗(こま)に由来する地名と思われ、事実同地には高句麗人の扶植を裏付けるような積石塚古墳も多数確認されております。
 また、同地には『延喜式』に載る真衣野牧・穂坂牧・狛前牧なる三御牧があり、やはり朝廷に駒を貢進していた地域でありました。
 そういった地域の属性を背景にしていた南部氏が糠部をすんなり支配していたことは、やはり糠部の馬産文化も高句麗由来の信濃系のそれであったが故ではないのでしょうか。
 糠部エリアには、「階上(はしかみ)」の地名も見受けられます。
 宮城県民としては、ふと、我が県の本吉郡における同じ地名が頭に浮かぶわけですが、「本吉」は先に触れたとおり、奥州藤原二代基衡が増徴を拒否して惡左府藤原頼長と熾烈に駆け引きを展開した「奥羽五箇荘―高鞍(宮城県栗原地方)・本吉(同本吉地方)・大曾禰(山形県村山地方)・屋代(同置賜地方)・遊佐(同庄内地方)―」のひとつでありました。
 これも本来高句麗系渡来人由来の信濃系扶植民との関係が推察される多賀城近郊の大伴家持の建てた権郡「科上(しなのえ:階上)郡―大和岩雄さん『日本古代試論』―」と縁浅からぬ地名ではないか、と想像しているわけですが、この階上(はしかみ・しなのえ)地名からも糠部周辺に同系の馬産文化が扶植されていたことが推察できるのではないのでしょうか。
 一方、八戸市内のど真ん中に「新羅神社」があり、やや混乱させられます。
 南部領総鎮守なり南部一之宮として尊崇を集める「櫛引(くしびき)八幡宮」なり、その「お浜入り」の地たる馬淵川(まべちがわ)河口の地主神「御前(みさき)神社」に伝わる神功皇后伝説に関わりがあるものか、さすれば、同地の土着の民は新羅系であったものか・・・。
 しかしこれは、だいぶ時代が下った延宝六(1678)年の盛岡南部二代藩主直政の勧請によるものらしく、南部氏の遠祖「源義光」が、“新羅三郎”と呼ばれていたことに由来するようです。尚、義光が新羅三郎と呼ばれたわけは、近江新羅明神―三井寺新羅善神堂―で元服したからと伝えられております。したがって、これは八幡太郎義家の弟義光に連なる甲斐源氏たらんとする南部氏の都合による勧請であって、古来の糠部の地主の属性とは直接的には関係がなさそうです。
 なにしろ『東夷伝』によれば、馬韓―後の百済―では牛や馬を蓄うことを知らず、ただ葬式のときだけ使うとあり、辰韓―後の新羅―でも同様で、牛馬を使う場合も車をひかせるためであって、高句麗のように戦闘には使っていない、とのことでありました―『日本古代試論(大和書房)』―。
 高橋富雄さんが力説するように糠部の駿馬が軍馬として優れているというのであれば、やはり新羅系ではなく高句麗系のそれであったと思うのです。
 もちろん、高橋富雄さんはあくまで「エゾ馬」であるとして、一騎当千のエゾ馬とその民の強さを力説しているわけですが、それを否定しようというのではなく、エゾ馬自体がそもそも高句麗由来のそれ、あるいは同系種であったのではなかろうか、と私は思うのです。
 もっといえば、陸奥において蝦夷とよばれていた存在の主体が、それら同種の馬産文化を継承していた人たちであったのではなかろうか、と考えているのです。
 糠部の馬文化が栗原同様、高句麗由来の信濃系のそれであるとしたならば、もしかしたら、豊臣秀吉の天下統一後の九戸一揆の首謀者「九戸政実」が、わざわざ栗駒三ノ迫―栗原―で斬首されたこととも関係があるのかもしれないと疑っております。
 そもそも九戸一揆を“一揆”と呼んで良いのかという疑問もあります。秀吉の天下統一は、一般に、小田原北条攻めの勝利をもってそれが成ったように伝えられており、歴史の教科書におけるその後の戦乱は「一揆」という扱いに矮小化されておりますが、その鎮圧に動員された兵力は六万を超え、一説に十万ともいわれる大軍でありました。
 しかもその面々は関白秀次を総大将に、浅野長政、蒲生氏郷、徳川家康といったオールジャパンの正規軍であったのです。
 その規模と質からみて、おそらく真の目的は既に秀吉に恭順の意を示しておきながら相変わらず不穏な動きをみせていた独眼竜伊達政宗への威嚇であったものと思われますが、思いのほか食い下がったのは南部の反乱分子「九戸政実」でありました。
 南部一族最強の実力をもつ政実は、南部二十四代晴政との関係を悪化させていた晴政の養子信直が当主の相続に成功したことを苦々しく思っておりました。政実が信直の直接討伐に動くのは時間の問題であったのですが、機を見るに敏な信直は、早々に秀吉にとり入って身の安全を担保したのです。秀吉は信直を南部の宗家と公認し、政実を反乱分子とみなしました。
 この政実について、実は南部一族ではなかったのではないか、という意見もあります。
 『日本史大戦略』なるブログを主宰する稲用章さんによれば、政実の地元の九戸では、政実は小笠原氏の子孫である、という説が根強く残っているのだそうです。
 稲用さんは、それを補強する史料として江戸時代に書かれた『九戸軍談記』なる書物を取り上げております。そこには、九戸城の戦いの前哨戦である姉帯城の戦いの際に、政実同族の姉帯兼信が戦場で名乗りをあげたときの次の台詞があるというのです。

「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類姉帯大学兼興が舎弟五郎兼信と申す者なり」

 稲用さんは、元弘三(1333)年―正慶二年―十二月十八日に九戸は結城親朝に与えられたので、九戸氏はその結城氏の子孫だと考えることもできるが、「惣大将」と言われているので「永享十二(1440)年の結城合戦に信濃国守護(惣大将格)として出陣した小笠原政康」という意味ではないか、としております。
 その上で次のように続けます。

―引用―
 『九戸軍談記』は軍記物ではあるが、上記の台詞から、江戸時代になっても九戸家が南部家の子孫ではなく、小笠原家の子孫であることが、民間に知識として残っていたことを表わしていると考えられる。政実が小笠原氏の子孫だというのは信憑性が高いのではないだろうか。小笠原家では嘉吉2年(1442)に政康が死ぬと、その跡目を巡って内紛が起きているので、このとき政康の子の誰か(庶子であり系図に残っていない人物)が九戸に移ってきて、それが政実に繋がるのではないかと私は考えている。

 なるほど、実に興味深いので、その『九戸軍談記』―『南部叢書(南部叢書刊行会)』所収―なるものに目を通してみました。
 すると、稲用さんが引用した部分のみならず、「奥州 ○糠部宮野の城主 小笠原左近将監正實」という表現が随所に見られ、蒲生氏郷と井伊直正から徳川家康と上杉景勝宛てに送られた書状に記された「奥州糠部宮野之城主九戸左近将監正實」の「九戸左近」の後に、わざわざ「○小笠原左近」という注記もなされておりました。この注記がどの段階で差し挟まれたものかはわかりませんが、末尾に「小笠原謙吉 校訂」とありましたので、おそらくその人物が挿入したのでしょう。小笠原姓であることからすると、もしかしたら九戸家を小笠原家であると伝えている火元たる裔孫の方で、多少なりバイアスがかかっている可能性はあるのかもしれませんが、私は、概ね信頼できるのではなかろうか、と考えております。
 小笠原家は、先に触れたとおり、南部氏の始祖とされている「南部光行」の父「加賀美二郎遠光」の子―南部光行の兄弟―長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで、高倉天皇からその姓を賜った“信濃守一族”でありました。
 稲用さんは「九戸政実の乱」について次のように結論づけております。

―引用―
 もとをたどると南部家の祖光行と小笠原家の祖長清は兄弟だ。平安時代末から鎌倉時代初期の甲斐国(山梨県)の武将加賀美(加々美)遠光の子らである。もし九戸家が小笠原家の子孫だとすると、南部・小笠原ら兄弟の子孫どうしが、それぞれ糠部地方にやってきて、永い期間に渡り勢力争いを演じていて、その総決算が「九戸政実の乱」ということになる。

 なるほど、その通りであったのではないでしょうか。
 信濃守小笠原家の裔孫たる政実は、おそらく糠部を直接的に管掌し得る立ち位置にいたのでしょう。
 『九戸軍談記』には、「其頃正實は天下に並びなき馬の名人也 ○天下に聞得し、馬上の名人也」と評されており、政実は大名並みの領主でありながら、一方で「馬賊の頭目」そのものでもあったかのようです。
 秀吉は何故南部の反乱分子として扱った政実をわざわざ伊達領内の栗駒三ノ迫―栗原郡―まで召し出して処刑したのか・・・。

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 おそらくは伊達領内で執行することで政宗へのけん制をより強める狙いもあったことでしょうが、加えて、まつろわぬ馬賊の頭目は処刑されるという一大デモンストレーションを、信濃系の馬飼いの民らの面前で演じておきたかったのではないでしょうか。

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栗原と糠部―中編―

 奥州藤原氏の滅亡後、いつの頃からか駿馬の産地「糠部(ぬかのぶ)」を領することとなっていたのは南部氏でありました。
 南部氏は、八幡太郎「源義家」の弟である甲斐源氏「源義光」の流れをくむ武田氏の氏族とされているわけですが、奥州南部氏の始祖とされている「南部光行」は、父の「加賀美二郎遠光」から甲斐國巨摩郡南部郷―現:山梨県南巨摩郡南部町―を与えられたことを機に南部氏を称したようです。
 その後、奥州征伐の論功行賞により源頼朝から糠部の地を与えられたと伝えられ、すなわち、ここにいわゆる「三戸南部氏―後の盛岡藩南部氏―」が発祥したのだというのです。
 しかし、『岩手県史』を信ずるならば、その情報を補強する史料は奥州南部氏の家伝以外に存在していないようです。 
 鎌倉幕府による当地の支配が文献上にあらわれる最初は、寛元四(1246)年のそれ―『鎌倉遺文』所収6768号「小田部庄右衛門氏所蔵文書」―、すなわち「陸奥国糠部五戸」の正地頭たる「北条時頼―鎌倉五代執権―」が左衛門尉「平盛時―三浦盛時―」に地頭代職を給与した旨を記したそれとされております。
 なにやら、少なくとも奥州征伐から半世紀後の糠部を領していたのは執権北条氏であり、その補任を託されたのは三浦氏であって、甲斐源氏系の南部氏ではなかったということになりそうです。
 七海雅人さんは、『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』の中で大石直正さんの2007年の論稿をひいて、「幕府は平泉藤原氏の権限を取り込んで、朝廷に対する貢馬送信の役割を継承していた。国家的な軍事・警察権を保持し、東国を固有基盤とする幕府は、この貢納儀礼を通じて、国制上の位置づけを朝廷との間に確認していたのである」としておりますが、さすれば、糠部は執権北条氏の支配下にあって然るべきといえそうです。やがてそれは、「元寇」という未曽有の国難を経て、いみじくも七海さんが論ずるところの「安達泰盛の東北政策―『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』―」につながっていくのでしょう。※拙記事:「蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―」参照。

 司馬遼太郎さんが面白いことを語っております。

―引用:『街道をゆく(朝日新聞)』より―
「そういう土地がある」
 という情報を、鎌倉期のいつのころか、甲斐国(山梨県)巨摩郡南部村に住んでいた人物が耳にして大海に押し出し、いまの八戸あたりの海岸に上陸して冬の過ぎるのを待ち、そのあとじりじりとこの広大な土地を切り従えて行ったのがその後の南部の殿様の先祖だというのである。
 私は、時代の推定が困難ながら多分に真実性をもったこの南部伝説が好きで、日本の歴史のなかで冒険的征服ということが存在した唯一の例ではないかとおもわれる。
 豊臣期に大名として公認?される南部家は、徳川期にもっともらしい草創期をこしらえたが、それによると源頼朝から封ぜられたと言い、決して先祖は馬賊の頭目のようなものではないという印象をあたえるようにしつらえてある。
 が、これはあやしい。むしろ、
「承久元年(一二一九)十二月、甲州を発し・・・」
 という伝承のほうが、真実性がありはしまいか。大船に乗り、その人数は七十五人だったとも言い、ただの八騎だったともいうが、おそらく八騎であろう。

 司馬さんは甲斐源氏の流れを自称する南部の家伝を信じていないようです。
 司馬さんに限らず、研究諸氏の間にも甲斐源氏系譜は北奥支配の正当性を主張せんが為に創作された家伝とみる論調を少なからず見かけます。
 ただ「馬賊の頭目」という意味では、そもそも甲斐源氏自体もその属性を有する一党であったものと考えております。
 おそらく、元弘元(1331)年に勃発した「元弘の乱」の際、南朝勢力の陸奥守に就いた「北畠顕家」に従い糠部入りした「波木井南部氏」の「南部師行」のイメージ、すなわち八戸に「根城」を築き、糠部一帯を支配するようになった彼のイメージを、「源頼朝」ないし「北条時政」と「南部氏初代光行」の関係に置き換えたものが、今に伝わる南部氏の家伝なのではないでしょうか。もしかしたら過去の南朝武士の色への憚りも入り混じってのことなのかもしれません。
 いずれ、家伝の真偽がどうあれ、少なくとも南部氏は甲斐源氏の権威を背景に糠部を統治していったのでしょう。
 おそらく南北朝の頃に初めて糠部入りしたのであろう南部氏は、あたかも幕末の錦の御旗の如く源氏の白幡を振りかざしながら堂々と馬淵川(まべちがわ)の河口に入り、八戸に根城を築いたのではないでしょうか。

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新井田川河口―旧馬淵川河口―と八戸大橋

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かつては馬淵川と新井田川が合流して太平洋に注いでおりましたが、長年水害に悩まされ続けたため、近代になって河口を分けられたのだそうです。現在、新井田川を挟んで住吉神を祀る御前神社と祓戸神を祀る川口神社が河口を鎮めております。

 ともあれ、「糠部駿馬」の初見が奥州征伐の戦後処理中の文治五(1189)年九月十七日―『東鑑』―にまで遡るとあらば、奥州藤原氏の時代には既にそれがブランド化されていたことになるわけですが、そのような特殊なエリアに溶け込みすんなり統治できたからには、やはり「馬賊の頭目」的要素があったのでしょうし、むしろそれであればこそ、南部氏は中・近世を通じて馬産業を背景にした北奥における支配者の地位を維持し得たのではないでしょうか。
 このことは、仙臺藩の伊達政宗や久保田藩―秋田藩―の佐竹善宣が真田幸村の遺児を匿ったことと同根の事情があったものと私はみております。
 すなわち、仙臺藩や久保田藩―秋田藩―は、各々領内に栗原郡なり由利郡といった、古来馬産に精通した信濃系移民の土着する地域を抱えていたわけですが、おそらくは軍事的に重要なその特殊な馬産集団の手綱を握る上で、古来信濃牧監一族の裔とも言われる真田家の子孫を保護することは極めて有効であったのではなかろうか、というのが私の仮説でありました。
 こと信濃系の馬産地域においては、すべからくそのような特別な事情が推察されるものとみるのです。※拙記事:「伊達家による真田幸村遺児保護についての試論」参照。

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