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平成最後の晩秋のとある早朝、栗原市築館(つきだて)の国道四号を北上する私の車のフロントガラスに冠雪まもない栗駒山が朝日に染め上げられて現れました。 ふと、高校時代のさもない記憶が蘇ります。 良く晴れた日の仙台市内のとある丘陵地にて、まだ冠雪していない晩秋の泉ヶ岳の向かって右、すなわち東の山麓にぽつりぽつりと居並ぶ七ツ森の山々に紛れて、白いアイスクリームのような山容が顔をのぞかせていることに気付いたのです。 「あの山はなんだ?」 とりあえず私は隣にいた友人に訊ねました。 「まあ、七ツ森ではないな」 「そりゃ〜あの山容からすればそんな低い山ではないよ。泉ヶ岳がまだ冠雪していないわけだから、たぶん泉ヶ岳よりも高い山だ・・・」 「船形山じゃないか?」 「・・・う〜ん・・・船形山ってあっちかなぁ・・・」 船形山は泉ヶ岳の北西やや西寄り、宮城・山形の県境に峰を連ねる奥羽山脈の山でありますが、私にはもっと東の大崎平野方面に思えていたのでした。 「・・・じゃあそのあたりで他に泉ヶ岳より高い山ってあるか?」 「・・・いや・・・思い当たらない・・・」 とは言ったものの、あわよくば岩手県の北上山地、地理の授業で習ったばかりの「残丘」の例に出されていた「早池峰(はやちね)山」であったりはしないだろうか、などとも頭をよぎっておりました。おしなべてなだらかな北上山地にあってひときわ高い2000メートル級の高い山。 しかし、それを言うと友人に鼻で笑われそうな気がしたので言葉を呑み込みました。そもそも、まさかそんなはずはなかろう、というもう一人の自分の賢しらな常識が自動車のABSのようにじわりと発言衝動を締めあげていたのでした。 それでもどこかに期待はあり、友人を驚かせてやりたい、という気持ちを抱いたまま帰宅した私は、その夜、地図を開いてみました。 地図上に定規をあてがい、泉ヶ岳と七ツ森の位置関係から白い山の方向を推測してみたのですが、ひとまず船形山には行き当たりそうにありません。 (だよな・・・。船形山ならもっと泉ヶ岳と重なるはず・・・) とは言え、早池峰山に行き当たるわけでもありませんでした。 やや落胆していたその刹那・・・。 (これは・・・) 意外にも、定規の延長線上には栗駒山が重なっていたのです。その選択肢は持ち合わせておりませんでした。それはいわば、自らの想定という将棋盤の外の駒でありました。まさか、栗駒山が仙台市内から見えるとは考えてもみなかったのです。 古来、信濃系の馬飼い集団の扶植地として代々の領主から特別視されてきたのであろう栗原郡―宮城県栗原市―。 三善光寺の一とされる奥州善光寺は、その馬飼いの彼らの信仰の名残であろうと考えられるわけですが、栗原一帯を見下ろす栗駒山もまた畏敬の対象であったようです。 栗駒山は、古く「駒形嶽(こまがただけ)」と呼ばれていたようですが、その山名は、炎暑にあっても尚残る斑馬(ふちうま)の雪形に因み名づけられたものと言われます。 裏を返せば、その雪形を神懸った馬の形と信じたい人たちが麓に暮らしていたということでもあるのでしょう。 また、栗駒山には「大日岳(おおひるだけ)」という別称もあり、栗駒山の神とされる「大日孁貴(おおひるめのむち)尊 ―天照大神の異称―」の又の名が「午日(むまひる)尊」であることから、「午峰(むまのみね)」、あるいは「駒ヶ岳」、あるいは「駒形峯」、あるいは「駒形岳」などと転じたものとも言われているようです―「陸奥国栗原郡大日岳社記」より―。 大日岳なる別称は特に秋田県側からそう呼ばれていたらしく、おそらくは出羽國雄勝(おがち)から由利郡周辺に土着していた信濃系の人々からみて、この山が「日の出の山」であったからなのだろうと想像しております。 度々触れてきているとおり、古来呉人(くれびと)―高句麗系渡来人―と密接と思しき信濃系の馬飼いの人たちには濃厚な太陽信仰があったと考えられます。 とりわけ冬至の日の出の方位に大日岳―栗駒山―を拝むこととなる由利郡ですが、その地名の「由利(ゆり)」については、前にも触れたとおり、古代朝鮮語で「日」を意味するユルなりイルに由来したものではないか、と私は勘繰っております。 古代朝鮮に限らず、日本においても先の「大日孁貴(おおひるめのむち)」など、「日」をヒルと読む用例が少なからず存在しているわけで、それらを鑑みるならば、もしかしたらこれは環日本海に遍く通ずる訓であるのではないでしょうか。さすれば「昼(ひる)」の語源もおそらくは同根でしょう。 栗駒山―大日岳―の神を祀る「駒形根神社」は、『延喜式神名帳』に載る栗原郡七座の一であるわけですが、「日宮(ひるみや)」とも呼ばれ、神仏混淆の時代には天台宗支配の「駒形山大昼寺」と別称されていたようです。 天台教徒が広めたのであろう全国の慈覚大師円仁伝説地にはたいてい「日吉(ひよし)山王神社」なり「日枝(ひえ)神社」なりと呼ばれる社が展開しておりますが、「日枝(ひえ)」はおそらく天台宗の震源地たる比叡山の地名に由来するものと思われます。 比叡山延暦寺を建てた最澄は後漢孝献皇帝の裔と伝えられており、その実は馬産に精通した高句麗人に近い属性を有するツングース系の渡来人とも考えられるわけですが、「日枝(ひえ)」を先のように古代朝鮮語の例に準ずるならば「ユルギ」とも訓めます。もしかしたら、むしろ比叡山の地名こそが日枝(ゆるぎ)に由来するものであるのかもしれない、などとも想像しております。 なにしろ栗原郡の武烈天皇伝承地のひとつとして、「ゆるぎの松」なるものがあります。 この地に下った武烈天皇が船をつないだ松とも伝えられております。 もしかしたら栗原の武烈天皇伝承の本質を解く鍵はこの「ゆるぎ」なる言霊の中に埋もれているのかもしれません。 余滴―。
気がつけば拙ブログ「はてノ鹽竈」も平成二十(2008)年十二月十日の開設から10年を経過しておりました。 平成最後の年末ということもあってか、ふとこの10年間を振り返ってもみるわけですが、その間、東日本大震災という未曽有の天災も体験し、父も他界しました。 その一方、このブログを開設したことによってかけがえのないご縁にも恵まれ、かつて唯物論者と罵られていた私が、神仏を尊び、自分の役割なり「縁(えん)」というものを深く考えるようにもなりました。 かの西行法師は伊勢を訪れた際に、「なにごとのおはしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだといいますが、その感覚もここにきてようやくわかるようになってきたような気がします。 もちろん、単に歳をとっただけなのかもしれませんが・・・。 |
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