はてノ鹽竈

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駒形大神の遷幸

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 「陸奥国栗原郡大日岳社記」―駒形根神社の由緒記:以下社記―によれば、栗駒山―大日岳(おおひるだけ)―そのものを神の宮殿として崇める栗原の里人は、その恐舊(きょうく)の感情から山の頂に登る人はいなかったようです。
 山の南方には大神の鎮まり坐す石窟―霊窟(かみのいわや)―があり、里人はそちらに参拝―郷俗此ノ處ニ詣デテ敬礼拝謝―していたというのです。
 一方、それとは別に、東麓の沼鞍村―三迫:栗原市栗駒町沼倉―に里宮―麓宮・御駒宮―が設けられていたことも社記にみえます。一般に「駒形根神社」といえばこれを指し、現在鳥居には「勅宣日宮」の扁額が掲げられ、宮司鈴杵家の祭祀の拠点となっております。

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 この沼倉地区では、現在も不定期ながら駒形大神の巡幸神事が行なわれていて、それは宮城県の「県指定無形民俗文化財―風俗慣習―」に位置づけられております。宮城県はその起源を明和五(1768)年まで遡ることができるとしておりますが、社記にはそれとは異なる駒形大神の遷幸なる古来の神事があったこともみえます。

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 巡幸神事は駒形大神が櫻町天皇の御宣命を拝受した際の勅使下向の古事を偲ぶもののようなので、駒形大神そのものの遷幸とは趣も異なりますが、社記によれば、駒形大神の遷幸に際しては栗駒二迫の文字地区、並びに三迫の沼鞍地区を行宮(あんぐう)とし、多くの馬を走らせ、流鏑馬(やぶさめ)もあったようです。同社記にみえる郷俗の言い伝えによれば、一度この馳道(ちどう)に出た馬は必ず幸があったといい、畜馬の者は各々競って出場していたようです。
 なにしろ社記には「奥羽ノ馬斯クノ處ニ来タリ集マラザルハ無シ 故ニ天下ノ駿馬ノ多クハ奥羽二州ヨリ出ズルヲ以テ良キ者有ル哉」とあり、栗駒山の駒形大神の行宮する栗原郡栗駒の地は天下の駿馬の一大聖地であったことがあらためて窺えます。
 この神事、驚くことにかつては数万もの馬を走らせるという壮大なものであったようです。
 しかし、「此ノ式亦廢ル」ともありますので、社記の書かれた元文五(1740)年におけるそれは既に過去のものであったようです。
 社記には、故あって「文治(1185〜1190)ノ度」にその舞台が栗駒町岩ヶ崎地区―三迫―に移されたとあり、なんらかの理由で文字地区から岩ヶ崎地区に移され、「奥州三迫ノ日市」と称された遷幸神事は、「上古ノ走馬ノ遺風」ではあるものの、文治年間(1185〜1190)に至って古来のかたちが変わっていたことになります。
 近年の岩ヶ崎は、栗原電鉄の栗駒駅が設けられるなど、栗駒全体の中心拠点的印象の強い比較的賑やかな町ですが、文治年間にいかほどのものであったのかはわかりません。
 ただ、奥羽各地から数万もの馬が集まってくるとするならば、特に狭隘な文字地区では難しいようにも思え、それが故に岩ヶ崎地区に移されたものかもしれない、という気がしないでもありません。
 いずれ、文治年間は、壇ノ浦で平家が滅亡したことに始まり、奥州藤原三代秀衡が没し、相続した四代泰衡が源頼朝の圧力に抗しきれず結果的に滅ぼされた年号でもあります。
 さすれば遷幸神事の岩ヶ崎移転については、対鎌倉との緊迫感の高まり、いわゆるエマージェンシーにおける戦略的意図に起因したものとも推察します。
 少なくとも、当時最高の軍事兵器たり得る駿馬が、陸奥出羽の両州から数万もの規模で集まり走駆したというのは尋常ではありません。これは、平家滅亡後に圧力を強めてきた頼朝に対し、秀衡が駒形大神の遷幸なる神事の名を借りて軍事デモンストレーションを展開したものと私は考えます。

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 駒形根神社の鎮座地、かつ、駒形大神遷幸の行宮の地でもある沼倉地区には「源九郎義経」の墓と伝わる「判官森(はんがんもり)」があります。
 地元では、義経を逃すために義経になりすまし身代わりとなって死んだ「杉目太郎行信」なる人物の墓とも伝わっているわけですが、栗駒古舘の城主は行信の弟とされる「沼倉小次郎」なる人物でありました。
 源頼朝は、平家討伐最大の功労者であった弟の義経を朝敵に貶め、それを匿う奥州藤原氏に脅しをかけ続けておりました。それをのらりくらりとかわし続けていた三代秀衡の没した後、圧力に抗しきれなかった四代泰衡は、義経を殺しその首を差し出したとされております。
 しかし、栗駒では、それは身代わりとなった杉目太郎の首であったと伝えられているのです。
 こういった伝説の存在は、文治年間のエマージェンシーに駿馬の聖地たるこの地が安穏としていられなかったことを窺わせます。
 菅原勇喜さんの『栗原の伝説』に次のようなコラムがあります。

―引用―
源義経と伝説
 牛若丸の名で知られる源義経は、栗原の伝説の中にしばしば登場する。それだけ、むかしから、たいへん親しまれた武将であった。
 平泉の藤原氏とつながりの深い義経は、何度か栗原の地を通ったことであろう。義経はその平泉で、若い生がいを閉じた。悲しい運命をたどった義経に、人々は心を引き付けられていった。
 栗駒町では、毎年七月末に夏祭りが行われ、十台の山車が町内をはなやかに練り歩く。このお祭りは伊達藩の時代に始まり、豊作を願う当時の農民や商人、職人たちみんなで楽しんだと伝えられている。平成の時代になっても山車かざりを一きわ引き立たせているのが、源義経の人形姿である。亡くなって八百年以上過ぎた今なお、義経は人々の心の中に生き続けている。

 これが義経に対する栗原の人たちの想いであるのでしょう。
 十七万騎もの精兵を擁する奥州藤原三代秀衡にとって、源氏の正統たり得る義経は対頼朝戦略におけるパンドラの箱であり最終兵器でもありました。騎馬を駆使し、際立つゲリラ戦法で瞬く間に平家を滅ぼした義経ですが、思うに、彼は心の父である秀衡の意向によってこの栗駒の地で鍛錬させられ、馬に精通した当地の人々から徹底的に馬の習性を叩きこまれていたのではないでしょうか。

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