はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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2019年03月

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 東日本大震災から八年目となる平成三十一(2019)年三月十一日は、あたかも被災者の忘れ得ぬ感情が荒ぶったかのような荒天となりました。
 雪の少ないままに終わろうしている宮城の冬、乾燥しきった大気には飛散の本格化し始めたスギ花粉やら、一部にささやかれていたところのシベリア森林火災からのPM2.5とやらが充満していたものと思われますが、それらすべてが暴風に吹き払われ、雨に洗い流され、翌三月十二日の朝にはわざとらしいほどに真っ赤な朝日が禊ぎでも済ませたごとくに仙台湾の東の果てから昇りました。
 春彼岸まで一週間あまりのこの日、羽黒神社に因んで名づけられた羽黒台団地―仙台市太白区―の街路の東西軸にも遍く朝日が直刺(たださ)しておりました。

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 同地は、昭和四十一(1966)年、かつての名取郡山田村の総鎮守たる「羽黒神社」の坐す旗立山を切り崩し造成した住宅地であるわけですが、造成前の地形図の等高線をみると、現在の街路は羽黒神社の坐す旗立山山頂から延びる尾根に逆らうことなく区割りされていたことを知ります。思うに、同社はあえて彼岸の朝日の直刺す地形の山頂に奉斎されていたのでしょう。少なくとも造成に伴って移祀された先である現社地の社殿はほぼ彼岸の朝日に向きあっているようです。

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明治38(1905)年頃

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昭和39(1964)年頃

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昭和52(1977)年頃
※いずれも(財)日本地図センター発行『地図で見る仙台の変遷』より

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現在の同社

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現社殿と正対して望む朝日

 かつては毎年名取川河口の閖上(ゆりあげ)濱―広浦―まで神輿の渡御が行われていたというこの羽黒神社ですが、私はその神輿の主こそが後に那智神社となる名取高舘の羽黒権現そのものであったのではないか、などと考えるのです。
 高舘の羽黒権現は、養老三(719)年に広浦―閖上(ゆりあげ)―で引き上げられた御神体に由来するわけですが、件の羽黒台―山田―の社には和銅三(710)年に火災に罹った旨の伝説があります。
 それが再建されたのは、だいぶ下って天喜五(1057)年のこと、すなわち、陸奥守鎮守府将軍の源頼義が安倍頼時を討った翌年にあらためて勧請されたものと伝わっております。
 つまり、高舘のそれが創祀された養老三(719)年時点において、山田のそれは消滅状態にあったのです。
 『名取郡誌』によれば、高舘の社の御神体を引き上げた漁夫治兵衛は、郡誌当時の高舘那智社の神職山田氏の先祖であるとのことでした。
 なにやら、「閖上」との地縁や「山田」なる言霊を介して両社の属性が重なり合うわけですが、思うに、広浦の海底から引き上げられた御神体とは、その九年前の火災で焼失していた山田の社の御神体であった、あるいはそう信じられていたのではないでしょうか。

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閖上の朝日―平成三十一(2019)年三月十一日付河北新報朝刊一面より―
 大正十四(1925)年発行の『名取郡誌』には、名取熊野那智神社―宮城県名取市高舘―の神職山田氏は治兵衛の苗裔なりと傳ふ、とありました。
 「治兵衛」とは同社の由緒に現れる広浦―閖上(ゆりあげ)―の漁夫のことですが、彼が神職についた事情や、同社が高舘丘陵―宮城県名取市―に祀られた事情については、おおよそ以下のように伝えられております。

 人皇四十四代元正天皇の養老三(719)年の漁のふるわなかったある日のこと、海底に光るものを見つけた名取郡広浦―宮城県名取市―の漁師「治兵衛」は、怪しみつつも網をおろしそれを引き上げたが、それはなにやら異様な御神体であった。治兵衛はそれを大切に持ち帰り、自宅に安置して日夜尊崇した。
 しかしその後、毎夜西に向かって光がとび、広浦の西方10キロ余りの高山に留まるのを見たと広浦の人々が言い出した。御神体を不浄な自宅に留めておくことの不敬を懸念した治兵衛は、光のとどまるところを辿り、そのとどまった川上村の山上に御神体を奉遷し、同年の閏六月十五日、「高舘山羽黒権現」として崇め奉った。
 広浦はこの御神体のゆりあがったところであることから以後「ゆりあげ」と地名が改められ、御神体は近海の村落の守護神と崇め奉られ、治兵衛はその禰宜となった。
 その約400年後、鳥羽天皇の保安四(1123)年、名取の老女が紀州熊野三山のうち那智の分霊を羽黒権現に合祀し「熊野那智権現―俗に舘権現―」と号し奉り、その地を吉田と称した。―『名取市史』・『封内風土記』ほか参照―

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那智神社の遥拝所

 名取老女による高舘丘陵への那智奉斎については、老女の墓のある下余田(しもよでん)地区―名取市下余田―にやや異なる伝説もあります。
 すなわち、ある敬虔な熊野巫女―名取老女―が、老いて紀州熊野への参詣がままならなくなったがために自宅周辺の下余田の地に熊野三山の神々を勧請し奉斎していたが、それが後に高舘の地に奉遷されて現在の名取熊野那智神社となった、という旨のものです。
 仮にこの伝説に重きを置くならば、羽黒信仰者らしき漁師治兵衛と熊野信仰者の名取老女の間にはなんら関係のなかったものが、奥州藤原氏の強大な権力によって統合されたものと考えられます。

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名取老女の墓

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 また、市史には「名取老女は、もともと独立の地主神、この地の産土神であったと思われるが、熊野の神々が新しく勧請された時点で、否応なしにその勧請者に仕立てられ、新たな権限を前に雌伏しかつ奉仕する地位に下るのを余儀なくされたのである」とあります。
 さすれば名取老女は、もしかしたら治兵衛の祀る羽黒権現に極めて近しい神であったのかもしれません。
 あるいは、そもそも治兵衛と羽黒権現の関係自体も、後の熊野信仰同様、当地への羽黒信仰の広まりによって後付られたものなのかもしれません。
 いずれ羽黒権現は、いわゆる出羽三山信仰の一角をなす神であります。
 原始的な祖霊信仰のかたちにおいて、先祖の霊魂が神として昇華するいわゆる「深山」を「月山(がっさん)―山形県―」に求めていた山形県庄内地方の人々にとって、死後まもない霊魂が留まる「葉山(はやま)」は里に近く登るに易い「羽黒山」であったものと思われます。

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 羽黒山の麓、宿坊街の余韻を残す羽黒町手向―山形県―の「正善院」には、羽黒権現を偶像化したものがあります。「羽黒神(うぐろじん)」の像と称されるそれは、長い髭を生やしたリアルな翁の顔をした蛇の像で、かつてのこのあたりでは祀る例が多かったといいいます。
 それについて私は、任那(みまな)を「蜂」、新羅(しらぎ)を「蛇」と喩えていた『日本書紀』の記述などから新羅系の神であったのではないか、と考えたりもしておりましたが、あらためて思うに、竜蛇族を自称する出雲系の神であったのかもしれません。

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正善院

 身近な葉山であった羽黒山に対して、遥拝の対象たる深山の月山山頂に鎮座する「月山神社―山形県鶴岡市―」は、明治の近代社格制度における東北地方唯一の官幣大社に位置づけられておりました。
 もちろん、近世以降の創作とも言われる蜂子皇子伝説も絡んでのことであろうとは思いますが、そもそも古く『延喜式』の「神名帳」における同社は名神大と最高格であったうえ、「主税式」には「出羽国月山大物忌社二千束」と、全国に四例しかない正税から祭祀料を受けていた稀有な大社でありました。
 山名からもみてとれるように、月山神社の祭神は月読神であり、この山には月神信仰があったものと思われます。羽黒権現が名取において朝日の昇る閖上と結びついたのは、出羽三山信仰に包摂されていたのであろう原始的な「日月信仰」に起因したものかもしれません。

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山頂に鎮座する月山神社本宮:これより先、石鳥居・石垣内は撮影禁止

 ところで、神職山田氏が漁夫治兵衛の裔と伝わっているということなので、念のため、太田亮の『姓氏家系辞典(角川書店)』をひいてみると、山田姓だけで20ページも割かれておりました。
 それだけ同名系譜が多岐にわたるなかで、名取郡の地理的、あるいは羽黒権現にからめた属性的に私の琴線にひっかかったところを列記してみます。

1、陸奥菊多郡(磐城)に山田郷(山田邑存す)

2、磐瀬郡(岩代)に山田郷(今石川郡) 

3、大伴山田連 大伴氏の族にして、延暦十六年正月紀に「陸奥國遠田郡人外大初位上丸子部八千代に、姓を大伴山田連と賜ふ」と載せたり。

4、山城 月讀社方に山田氏あり、藤原姓と云ふ。又藤原兼通の曾孫致貞の女を山田中務と云ふ

 「1」、「2」については、菊多郡なり磐瀬郡なり―いずれも福島県―からすると、どこか石城國との地縁がありそうにも思えます。ただ、なにしろ20ページも割かれた中でのことなので、この情報だけで論を展開するのは無謀な気もします。
 とはいえ、「3」、すなわち、丸子一族から大伴山田連なる人物が出ていることを絡めて考えてみると、あながち無縁でもなさそうに思えます。ここでは遠田郡の人となっておりますが、丸子一族自体が鹿島御子神やタカ神、ニワタリ神の分布とシンクロして宮城県南に縁の深い氏族であり、漁夫治兵衛がこの系譜から出た人物である可能性は十分あろうかと思うのです。
 また、「4」については、とりあえず山城―京都府―のことではあるものの、月読社に関係する山田氏が存在していたことがわかります。羽黒信仰の核にある月山との関係からすれば、これも気になるところではあります。
 そもそも高舘丘陵の北、名取川を挟んで対岸の羽黒神社は旧名取郡山田村―仙台市太白区山田―の総鎮守であり、羽黒信仰は山田の言霊となにかしら関係があるのかもしれません。
 いずれ、後に那智神と結びついた羽黒権現は神の光のとどまった場所にて奉斎されたわけですが、そこに仙台平野最古級―すなわち四世紀末以前―と目される「高舘山古墳」があることは、おそらく偶然ではないでしょう。むしろ広浦―閖上―の人々がそこを古くからの神聖な場所と認識していたからこそ、神の光がとどまったと言い出したのではないでしょうか。

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 この古墳は東北地方には珍しい前方後方墳となっているわけですが、私がそのことを殊更に注目するわけは、行方郡―福島県南相馬市―の新田川流域に展開する「桜井古墳群」最大の一号墳がそうであるからです。
 なにしろ行方郡は、陸奥國太平洋沿岸におけるタカ系式内社の鎮座地という意味において名取郡と共通します。
 度々論じているように、茨城県北部から宮城県南部の太平洋岸に沿って展開したと思しき“タカ”なる言霊には、高舘なり多賀城の地名との因果も窺われますが、『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の語るところからみて、おそらくは本来石城國造家の屋号的な意味があったものと推察しております。
 さすれば、この古墳の被葬者についてもひとまずは石城國造の同祖系譜であろう丈部(はせつかべ)氏―陸奥安倍氏―の祖を疑っております。
 一方で、ユリの言霊からは「由利氏」を輩出したと思しき「中原眞人系氏族」の祖、また、『続日本紀』に「上毛野名取朝臣」の姓氏を賜った記事のみえることから「吉弥候部(きみこべ)氏―その実は物部氏か?―」あたりも疑ってみるわけですが、特に後者には違和感も残ります。
 何故なら、上毛野氏に関係する氏族であれば、上毛野氏の本拠―群馬県―の天神山古墳などにみられるような「前方後円墳」を造っていたはずと思われるからです。そういった意味からすれば、遠見塚古墳や雷神山古墳といった東北地方最大級の前方後円墳については当該系譜を疑ってみてもよいのかもしれません。
 もちろん古墳の形状に古代人のどのような思惑が込められていたのかはっきりしたことはわかりませんが、出雲神族の継承者と思しき斎木雲州さんが『出雲と蘇我王国(大元出版)』の造山古墳―島根県安来(やすぎ)市―のくだりで、「方墳を造らせたことは、イズモ発祥の四隅突出古墳の伝統を、形の一部に残したことを意味する」やら、「普通の大豪族なら、前方後円墳を造るであろう。それを後方墳にするところに、出雲王国は亡びたけれども、その伝統は忘れない、という出雲人の意地を示している」などと記していることは気になります。
 斎木さんや、同じく大元出版から出ている『幸の神と竜』の著者谷戸貞彦さんによれば、方墳の原型は四隅突出古墳にあり、その意味は新しい命の誕生のための男女の交合―掛けじるし―であり、大根の交差紋や鳥羽の交差紋・交差鉾紋などの家紋に採用されている思想と同根であるようです。
 それらのことを念頭に置きつつ、高舘山古墳がタカ神祭祀を通じて名取郡と属性を共有する行方郡の桜井古墳群最大の一号墳同様の「前方後方墳」であることを鑑みるならば、私はやはり人皇八代孝元天皇の裔を称しつつ、長髄彦一族の裔をも称する氏族、すなわち陸奥安倍氏の先祖とも思しき石城國造家を輩出することとなる一族の人物がこれら古墳時代前期の前方後方墳の被葬者であったのではないか、と思うのです。

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