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『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条の神功皇后東征譚において、「務古の水門(むこのみなと―摂津国武庫郡:兵庫県尼崎市―)」で祀られた神々は、次のとおりでありました。 「天照大神」 「稚日女(わかひるめ)尊」 「事代主尊」 「表筒男・中筒男・底筒男の三神―住吉三神―」 一方、それより前の仲哀天皇紀において、「群臣に詔して、熊襲を討つことを議らしめたまふ」ときに、神功皇后に神託した神々は、その時点ではなんという神であるかを名乗っておりませんが、のちに、仲哀天皇の崩(かむあが)った筑紫の「橿日宮(かしひのみや)―香椎宮:福岡県福岡市東区香椎―」において、問われて初めて以下の神名が明かされたことが、神功皇后摂政前紀にみえます。 「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命―以下:天疎向津媛―」 「尾田の吾田節の淡郡に所居る神―以下:淡郡の神―」 「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神―以下:厳之事代主神―」 「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、表筒男・中筒男・底筒男の神―以下:住吉三神―」 それで全てなのか、その他に神がいるのかどうかについては明かされておりませんが、岩波書店版『日本書紀』の校注陣―坂本太郎さん・家永三郎さん、井上光貞さん・大野晋さん―は、橿日宮で名をあらわした神々を務古の水門で祀られた神々にそのまま対応させて解釈しておりました。 ㈠ 天疎向津媛 → 天照大神―御心を広田国に居らしむべし ㈡ 淡郡の神 → 稚日女尊―活田(いくた)長峡(ながさ)国に居らむとす ㈢ 厳之事代主神 → 事代主尊―御心の長田国に祠れ ㈣ 住吉三神 → 住吉三神―大津の淳名倉(ぬなくら)の長峡(ながさ)に居さしむべし このあたり、かつて拙記事:「務古の水門に祭られた神々」にて触れておいたところですが、はたしてこの解釈を鵜呑みにしてよいものか、私の中では未だにどこか引っかかっております。 「㈠ 天疎向津媛」については既に何度か触れているので割愛しますが、「㈡ 淡郡の神」が「稚日女尊」というのもいかがなものか・・・。 岩波版校注陣の補注のとおりであるならば、この神は「伊雑宮(いざわのみや)―三重県志摩市磯部町―」の神に該当します。 しかし伊雑宮といえば、かつては「天照大神祭祀の本宮」であることを自称して、伊勢神宮内宮に勝るとも劣らない権威を主張して憚らない神社でありました―拙記事:「中・近世の伊勢志摩事情」参照―。 今でこそ“内宮の別宮”という地位にあまんじているものの、伊雑宮こそが本宮であるというかつての神人の主張は、当然ながら国家の宗廟たる内宮との軋轢を生みました。 寛文ニ(1662)年頃、両者の関係が破滅的な状態に陥っていることを憂慮していた朝廷は、内宮からの訴えもあってあらためて伊雑宮を“内宮の別宮”とする裁断を下したというわけです。 そのような顛末を鑑みるに、近世以前、それどころか伊勢神宮の権威すら確立していなかった記紀以前の古代の逸話にあって、伊雑宮の祀る神が生田神社と同じ稚日女(わかひるめ)尊を指していたものと理解することははたして妥当なのでしょうか。 稚日女尊は「天照大神の分身又は妹とされる神―『日本書紀(岩波書店)』―」とされているわけですが、伊雑宮の神人の主張していたところはあくまで“天照大神祭祀の本宮”なのであり、分身の属性を有する稚日女尊ではなさそうなのです。これがまるっきりの虚偽だとするならばあまりにあからさますぎますし、国家の宗廟相手に本家争いを仕掛けるなどあまりにリスクが高すぎるので、彼らがそう主張するに足るなんらかの自信はあったものと考えます。 ひとつ、看過できない情報をさしはさんでおきます。 出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの著書『古事記の編集室(大元出版)』に、「天武天皇」の皇太子「草壁皇子」の死を悼んだ「柿本人麿」の歌にからめて、次のようなことが書かれております。 ―引用― 草壁皇子の宮の舎人・人麿が挽歌(167)を、詠んでいる。題名は、日並皇子尊の荒城宮のとき作る歌、となっている。 〜中略〜 〔太陽の女神のような持統女帝が、高い立場から政策を指揮され ・・・日並皇子は明日香の浄見原宮で、神々しく国を支配されていたのに、この国は皇后が治める国だと遠慮されて、天国での永眠の扉を開け、神隠れしてしまわれた・・・〕 「天照らす」の言葉は「日女の命」の枕詞だったが、この歌の影響で「日霊女貴(ひるめむち)」という太陽神が、「天照らす大神」と呼ばれるようになった。「日女の命」は持統女帝がモデルになっている。 この長歌の反歌(169)がついている。 〜中略〜 〔持統女帝は輝くようにして君臨しているけども、草壁皇子は哀れにも、この世から隠され、夜空をさ迷う月となっている〕 そして、草壁皇子が月のように、影が薄く扱われ、月神(月読ノ神)の名が、「若ヒルメノ神」と呼ばれるようになった。 古事記と日本書紀を書かせたとき、女帝は高天原の主を「天照らす大神」とし、月読ノ神は書かないように指示された。 宇佐神宮では、主神だった月読ノ命を、姫大神と名を変えた。女帝が月読ノ神を嫌ったので、伊勢の外宮では主神の名を、豊受ノ神とした。 この神は天照大神の食事を作る神だと、説明するようになった。月読ノ神の社は、分けて別に建てられた。 なにやら、草壁皇子の急死は持統女帝の意思によることが示唆されているわけですが、それ故に女帝は草壁皇子を暗示する月神を嫌ったものと思われます。
稚日女は、日神を装いながらもその実はその名の憚られた“月神”であったということになりそうです。 一方同書によれば、伊雑宮の社家は通説どおり「井沢登美ノ命―伊佐波登美命―」を祖とする一族であり、祖たるこの人物はヤマトの出雲系豪族登美家出身の人物であったようです。 つまり、同社の祀る神は三輪山の神と同じ日神であるはずで、月神たる稚日女神であるはずがありません。何故なら、同書を信ずるならば彼らは月神を祀る豊国軍に攻められてヤマトや丹波を追われた一族であるはずだからです。 もちろん、『日本書紀』は伊勢神宮に坐す皇祖神天照大神の概念を創設したものでもあり、神功皇后時代の譚とはいえ編纂時の政策意図なり持統天皇個人の趣向なりが大いに反映されているのでしょうから、出雲神族の語る日神の概念をあてはめて考えること自体がナンセンスであるのかもしれません。 また、元々は月神なる言霊を憚るために創作されたらしきワカヒルメという概念は、もしかしたら、その後の憚られる概念を表現する上でいろいろと都合がよかったのかもしれません。 例えば、伊勢内宮の権威を高めるために伊雑宮の日神をワカヒルメにあてはめた可能性もあったのかもしれません。ただ、それを論証することのほうがむしろ難しそうな気もしますが・・・。 いずれ、橿日宮にあらわれた神々、務古の水門にあらわれた神々が、はたして神功皇后時代の面々をそのまま反映したものか、あるいは書紀編纂当時の思惑であてはめられたものか・・・。少なくとも神功皇后時代のそれであるならば、各々に互換性がないと言わざるを得ず、やはり伊雑宮の神は稚日女尊ではなかろう、というのが現段階の私の見解です。 さすれば、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」が「天照大神荒魂」であるという概念も、ムカツヒメをセオリツヒメの別名としている『ホツマツタヱ』を介さない限り成り立たない、ということになりそうです―拙記事:「瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛なのか―後編―」参照―。 |
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たびたび触れている東鹽氏の伝――。 東鹽氏とは、江戸時代の仙臺藩の儒者「舟山萬年」による『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』と、明治時代の鹽竈神社権宮司「遠藤信道」の『鹽竈神社考』に“のみ”その名のみえる、幻の“鹽竈神社旧祠官一族”であるわけですが、特に遠藤信道はその一族の家伝なるものを重要視しておりました。 東鹽氏なる一族が実在していたのか否かは私にはわかりませんが、なんら利害のなかろう舟山萬年が殊更に誇張することもなく、ニュートラルな立ち位置で同一族の家伝を取り上げているところをみると、少なくともその体を成した文書については、『鹽松勝譜』の書かれた文政五(1822)年頃には実在していたのでしょう。 ただその時代、もっともらしい古文書の体で様々な怪文書が出回っていたものとも思われます。 例えば、舟山のとりあげた『先代旧事本紀―以下旧事紀―』の内容は、現在我々の目に触れ得るそれとも異なっていたようなのです。 とりわけ「僧潮音―潮音道海―」の名が取り沙汰されていることから、『先代旧事本紀大成経―以下大成経―』との混乱はあきらかなわけですが、注意すべきは、その大成経にすら確認できない内容が含まれていることです―※拙記事「鹽松勝譜をよむ:その11―先代旧事本紀大成経のこと―」参照―。 さすれば東鹽家の秘伝なるものも、もしかしたらその時代ならではの一過性の怪文書の類に過ぎないものなのかもしれません。 ともあれ、後世の遠藤信道は「東鹽家秘録」なるものを引き合いに、氏の考えるところの“鹽竈神社の真実”を語ろうとしておりました。もしかしたら、単にそもそもの遠藤のイデオロギーに半世紀前の怪文書が利用されただけであるのかも知れませんが、ひとつ語ってみたいことがあります。それは、東鹽家の伝という触れ込みで遠藤が語るところの鹽竈神社別宮の祭神なり神裔なりに、遠藤の如何なるイデオロギーが投影されていたものか、という私の身勝手で無責任な“邪推”です。 先に、拙記事:「鹽松勝譜をよむ:その10―東鹽氏の傳:後編―」において、鹽竈神社の別宮に「國別鹽土翁神」と、その“妹”の「國別日東吾妻神」の二柱が祀られるべき、と遠藤が口惜しがっていることに私は着目しました。 とりあえず私は、以下の推測をもって一応の私論としておきました。 1、「國別(くにわけ)」とは、「國分(こくぶん)」の示唆では? 2、「妹」は長髄彦―登美毘古―の妹「鳥見屋媛(とみやびめ)―登美夜毘賣―」の示唆では? 今なお、その考えに変わりはないのですが、例えば後者について、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの語るところでは、長髄彦―登美毘古―は四道将軍大彦命のことでありました。 さすれば、妹は誰に該当し得るものでしょうか。 三段論法的に仮説の上塗りを試みておくならば、『日本書紀』では大彦命の同母妹として「倭迹迹姫(やまとととひめ)命」が見えます。 この女性について、斎木さんは「大和モモソ姫」のこととしております。紀において三輪山の大物主との神婚譚が語られている人物です。倭迹迹姫がそのモモソ姫のことであるならば、『古事記伝』における本居宣長の主張が正しかったということになりそうですが、斎木さんの説くところでは、この兄妹は、八代孝元天皇の子ではなく、七代孝霊天皇の子であったようです―斎木雲州さん『古事記の編集室(大元出版)』参照―。 ここでのモモソ姫は「磯城王朝」における当代の三輪山の姫巫女であったとのことです。 磯城王朝とは、「天香語山」の子「天村雲」に連なる父系と出雲由来のいわゆる「事代主」の裔たる登美家を母系とするヤマト地方の三輪山の神を祀る王朝で、俗にいう闕史八代を指すわけですが、鳥越憲三郎さんが『神々と天皇の間(朝日新聞社)』で便宜上定義したところの「葛城王朝」の概念に近いかもしれません。 斎木さんによれば、磯城王朝当時、九州には物部・豊―宇佐―の連合王国が成立していたのだそうで、同連合王国にもヤマトのモモソ姫同様の姫巫女がおり、それが「宇佐豊玉姫」であったようです。 斎木さんは、『三国志』「魏書」―いわゆる魏志倭人伝―にみえるところの卑弥呼(ひみこ)は、魏と国交のあった後者の宇佐豊玉姫と前者の大和モモソ姫と同一視したものであったといいます。 いずれ、なにやらこの九州の連合勢力が東征してきて磯城王朝を滅ぼし、政権が交代したらしいのですが、殊更に私が注目するのは、この滅びた磯城王朝の、特に「開化天皇」系譜こそが記紀にワニ家と表現された一族であったらしきことです。 記紀における人皇十代「祟神天皇」は、いわゆる闕史八代最終の九代開化天皇の“子”として王権を継承したことになっているわけですが、斎木さんの語るところを信じるならば、実はそこに親子関係などなかったようです。 当時、磯城の王権を継承していたのは開化の孫「ヒコミチウシ―いわゆる四道将軍丹波道主命―」で、それは父である「ヒコイマス」から正統に継承していたものでありました。彼らの王権はワニの地―奈良県天理市和爾町付近―を都に存続していたようです。それを、祖父開化と協調していたはずの九州王朝の祟神―厳密には次代の垂仁―が攻撃を加え、ヒコミチウシ大王を丹波に追い払い、生駒山の東で最後まで抗戦していた「狭穂彦(さほひこ)―ヒコミチウシ大王の兄―」の軍を討ち、そのまま磯城の王権を簒奪したというのが史実のようです。 いみじくも先の鳥越憲三郎さんは次のように語っておりました。 ―引用:『神々と天皇の間(朝日新聞社)』― 前王朝の最後の王、開化天皇の弟と孫とが成立したばかりの大和朝廷の二代にわたって、天皇を殺して皇位を奪おうとしたことには注意してよかろう。それは明らかに、旧王側の復活をもくろんでいたものであった。こうして二回にもおよぶ謀反がくりかえされたことからみても、葛城王朝はなんらかの反逆にあって倒れ、それに代わって新しい実権者として祟神天皇が出現したことは、認めないわけにはいかないであろう。 補足しておきますと、この弟と孫の二回の謀反とは、紀における開化の異母弟「武埴安彦(たけはにやすひこ)」・「吾田媛(あたひめ)」夫妻と、同じく開化の孫の「狭穂彦」・「狭穂姫」兄妹のそれを指しております。幻のヒコイマス大王の兄たる狭穂彦と垂仁妃の狭穂姫が“兄妹”であることも、本稿の主旨からすれば取り上げておくべきと考えておりますが、ひとまず置いておきます。 鳥越さんに限らず、十代祟神天皇が初代神武天皇と同じハツクニシラスと紀に記されていることから、ここになんらかの王朝交代があったとみる研究者も少なくありませんが、一方で神武と闕史八代を架空なものとして切り捨ててしまう向きが多数派である感も否めません。その中で斯様な思考停止に陥ることなく向き合っていた鳥越さんには、あらためて敬意を表します。 いずれ、斎木さんによれば、記紀の編集方針が万世一系であるが故に、同じ時代に並立していた二つの王朝を一つにみせかける必要から、和爾(わに)の地を本拠としていたヒコイマス・ヒコミチウシの二代が大王であった事実を隠し、彼らを有力分家のように扱うために“ワニ家”なる家名が後から作られたのだそうです。 なるほど腑に落ちます。それを前提に考えるとカグヤマやワニに抱いていた数々の疑問や矛盾がだいぶ氷解していく感があります。 さて、遠藤信道にもそういった認識があったのでしょうか。 仮にあったのだとすれば、東鹽家の秘録なる怪しげな情報をタテに彼の主張する鹽竈神社別宮の真の祭神、國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神なる兄妹神の示唆していたものは、やはり磯城王朝末期に東征勢力に抗い続けた大彦命と大和モモソ姫、あるいは、狭穂彦・狭穂姫の兄妹であったものとも推察されます。 もし遠藤がとりたてて自らのイデオロギーをタテにしたわけではなく、東鹽家の秘録なるものが実在して別宮の祀るべき兄妹神についても記載されていたのだとすれば、その文書を残したなんらかの人物なり一派には磯城王朝なるものへの認識なり思惑があったものと考えられるのではないでしょうか。 あらためて、先に割愛した狭穂彦・狭穂姫兄妹の謀反劇に触れておきますと、紀によれば、謀反に加担しかけながら徹しきれなかった妹狭穂姫は、夫垂仁天皇に兄の謀を白状し、その責を負って兄と心中しました。その際彼女は何故か四道将軍丹波道主命の娘五人を後宮に入れることを天皇に遺言し、受け入れられております。
丹波道主命のその実が記紀に隠された幻のヒコミチウシ大王で、かつ彼女のもう一人の兄であったのだと知ればなるほど納得のいく顛末であるわけですが、斎木さんによれば、この狭穂姫、実はここで死んではいなかったようです。 なにやら彼女は、モモソ姫同様三輪山の姫巫女となって「オオヒルメムチ」と呼ばれていたらしいのですが、一連の動乱にともない狭穂彦から護衛をつけられ、東国に逃れていたようです。 その後、丹波国の海部家に誘われ、眞名井神社にて太陽の女神への信仰を広めていたらしいのですが、同地に豊国宇佐由来の月神の信者が増えると、太陽の女神の神霊を移す場所を求めて伊勢に移り、伊勢からさらに志摩に行き、伊雑宮の社家「井沢登美命」の協力を得て“五十鈴川”のほとりに内宮を建てたというのです。 まるで「倭姫命」ですが、もしかしたら、垂仁天皇を裏切った狭穂姫の功績を書き残すわけにはいかなかったが故に、狭穂姫は兄狭穂彦と心中したことにして、極めて重要な内宮の創始譚を倭姫の経歴に上書きしたのかもしれません。 さて、私は、鹽竈神社が仙臺藩主四代「伊達綱村」による元禄の造営によって左宮・右宮の両宮に別宮を併せた「二拝殿三本殿」形式の社殿になったのは、綱村が多分に大成経の影響を受けていたからではないか、と推測しておきました。 すなわち、大成経が焚書発禁となった原因とも言われる、伊勢「二社三宮図」なるものと関係があるのではないか、という推測に至ったのです。 その図は、「別宮」であるはずの「伊雑宮」が「内宮・外宮」よりも上位であることを露骨に示唆するものであるわけですが、左右宮しかなかった鹽竈神社にあらためて別宮がおかれたのは、綱村によるこのイデオロギーに基づいていたのではなかろうか、と考えました。 もしかしたら、遠藤、あるいは東鹽家秘録の筆者もそう考えていたのではないのでしょうか。 斎木さんによれば、垂仁天皇軍の攻撃により丹波からも追われたヒコミチウシ大王は、垂仁と和睦することになり、「彦多都(ひこたつ)彦」と名を変え、旧事紀の「國造本紀」にもあるとおり、「稲葉國―因幡國の古い表記―」の國造となったようです。そしてその御子は、磯城王朝の直系であることを誇りとして「朝廷別(みかどわけ)王」を名乗り、三河の豪族となったのだそうです。 遠藤によれば、東鹽家秘録において留守氏の鹽竈神社再建方針に意見し官職の貶められた神職は、鹽竈多賀両社の齋主大宮鹽竈司「東鹽“丹波守”照行」と鹽竈神社宮主「五十鈴“因幡守”盛重」の二名でありました。ここにヒコミチウシ大王と狭穂姫兄妹の流転を彷彿とさせる「丹波」、「五十鈴」、「因幡」なる地名が差し挟まれているのは偶然でしょうか。 また、國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神の「國別(くにわけ)」が、「朝廷別(みかどわけ)」なる言霊を意識しているように思うのは、さすがにこじつけに過ぎるでしょうか。 |
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