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江戸時代初期、仙臺藩主四代伊達綱村によって現在のかたちに定まる前の鹽竈神社には、一棟の左右宮の東側に「貴船宮」と「只洲(ただす)宮―下鴨社―」の祠が並んで祀られておりました。ただ、いつごろから祀られていたのかは、正確なところわかりません。 とりあえず、遠藤允信の「鹽社叢説―『仙臺叢書』所収―」には、「祠本在利府留守氏所崇奉明應中移而配祀于鹽廟。」と、元々留守氏―当時の鹽竈神社大神主―が利府(りふ)―宮城県宮城郡利府町―で祀っていたものを、明応年間(1492〜1501)に鹽竈神社に遷した旨が記されております。 一方、仙台市泉区小角の貴布禰神社境内に掲げられた仙台市教育委員会による説明板には、「戦国時代に留守氏が支配する利府で賀茂神社とともに祀られ、のちに伊達政宗により塩竈神社に遷された」とあります。 留守氏によって利府に祀られていたという部分については共通しておりますが、鹽竈神社境内への遷座の時期や施主については食い違っております。 遠藤が明応年間(1492〜1501)の留守氏によるものとしているのに対し、仙台市教育委員会は伊達政宗によるものとしております。 政宗ということは、その時期も仙臺開府の慶長六(1601)年以降、遡っても岩出山城―宮城県玉造郡岩出山町―移封の天正十九(1591)年以降ということになりそうですが、「鹽社叢説」の説とは100年ほどの時差があります。 仙台市泉区小角の貴布禰神社 また、留守氏支配下の鹽竈神職の中でもっとも勢力を占め、左右一禰宜の上位に座していたらしき鎌田家の「鎌田家覚書―古川左京『鹽竈神社史(國幣中社志波彦神社鹽竈神社社務所)』所収―」には、「〜只洲社も、元來其身屋敷之内ニ有之候を、當社貴船御垣之内ニ移申候へ而一所ニ建立仕、其守奉仕、御鍵持ニて奉仕來候由、是當社家之密傳ニて、貴船只洲同ク地主之神爲候由申傳候。〜」とあります。
なにやら留守氏でも伊達氏でもなく、神主家とも呼ばれた鎌田家の屋敷神たる只洲宮を鹽竈神社境内の貴船宮の御垣の内側に移したということのようですが、さすれば時期的には「鹽社叢説」に伝うところの明応年間に近いといえます。 ただ、それはあくまで只洲宮のはなしであって、貴船宮はそれ以前から左右宮と並んで鎮座していたことが窺えます。 なにしろ鎌田氏は、この貴船・只洲を塩竈の地主神とみていたようで、以前触れたとおり、山城の貴船神社―京都鞍馬の貴布禰総本宮―すらも、むしろ塩竈から勧請されたもの、と秘伝しております。 このあたり、法蓮寺―鹽竈神社別当寺―の住持の著述と思しき「鹽社由来追考―前述『鹽竈神社史』所収―」は、「只洲ハ、慶長年中鎌田藏人ト云者、私ニ貴船ト同格二建ト謂ヘリ。蓋山城ノ貴船ト云説ニ泥ミテ只洲ヲ建ルト見エタリ。爾レハ右兩社共ニ誤リ傳來ル者也」と否定しております。 『塩竈市史』所収の論考「塩竈神社史」の大塚徳郎さんは、「〜貴船・只洲の二社が江戸時代の初期に左右宮の一棟と並んで別々に存在したことも、この地主神が水の神であって、水の神として全國的に崇敬されていた貴船神と考えられ、京都における貴船神社が只洲神社の攝社としての關係をもつていることから、併せ祭られたのであろう」、「この家―鎌田家―の實力が、只洲社を鹽竈神社内に貴船と並んでおかしめることになつたのであろう」と推察しております。 以前私は、貴船・只洲とも鎌田家の屋敷神であったものと捉えておりましたが、当の鎌田氏が自らの屋敷神たる只洲宮を鹽竈神社境内の貴船宮の御垣之内に移したと語っていたわけですから、もしかしたら貴船宮の祭祀とはなんら関係がなかったのかもしれません。 だとしたならば、貴船宮は誰が祀っていたのでしょうか。本当に鹽竈の地主神であったのでしょうか。 地主神云々の議論はともかく、結論からいえば、貴船宮を祀っていたのは男鹿島太夫鈴木家であったものと思われます。 男鹿島太夫鈴木家は、御釜太夫鈴木家―御釜神社の釜守の家―の同族で、後の別宮一禰宜の一族です。 なにしろ男鹿島太夫は、「志賀家社列書上並留書」の貞享四(1688)年「御宮會所座席」に「貴船一禰宜」と位置付けられております。これが寶永元(1704)年改正の「御宮會所座席」には「別宮一禰宜」に改められており、綱村の改革によって消滅した貴船宮は別宮として生まれ変わったものと推察されます。 男鹿島家の史料上の初見は、明應六(1497)年の鐘銘でありますので、その頃には既に貴船宮が祀られていたのかもしれません。 御釜太夫家なり男鹿島太夫家なり、鹽竈神社の祭祀に深く関わることとなった鈴木家について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」としたうえで、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、と推察しております。 たしかに頼朝の社殿経営を機に鹽竈神社と関わったのかもしれませんが、その素性としては、私はむしろ奥州藤原氏と深く関わっていた名取の熊野別当の裔、あるいは名取の佐藤荘司の裔ではなかったか、とみております。 奥州藤原氏滅亡の折、彼らが鎌倉軍に投降して赦免された旨は『吾妻鏡』にも記されております。 名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって奥州一円に広がったのではないか、と私は考えております。 何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。 小萩伝説にはいくつかの流れがありますが、その類型のひとつに、和泉三郎忠衡の娘萩姫が巡礼のさなか常陸と石城の境で山賊の襲撃にあい小舟で沖に流されたものの、観音菩薩の加護により閖上濱に漂着したというものがあります。なにやら名取熊野那智本尊に関わる閖上(ゆりあげ)観音の漂着譚を示唆めかせておりますが、それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たち、また、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。 高貴な姫が船で漂着するという譚は、心なしか、玉依姫の乗る黄舟(きふね)が流れ着いたところに祠を建て水神を奉斎したことに始まったとされる京都鞍馬の貴船神社の由緒に通ずるものがありそうですが、それはひとまず置くとして、旧荒巻邑総鎮守の熊野神社は、土御門天皇(1198〜1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものであり、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。 創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。 なにしろ本場紀州の熊野別当系譜を事実上確立させた十代「泰敬―泰救?―」の母は、陸奥の女性であったとされております―「熊野別当代々記」―。 思うに、その母の実家が奥州藤原氏の保護の下に名取の熊野別当家になったのではないでしょうか。 『名字大辞典(ユーキャン)』は、「鈴木一族は熊野信仰とともに広がった。また、鈴木一族は一人の人物を祖とする名字ではなく、熊野信仰を広めた人々に共通する名乗りだったと考えられる」と記しております。 さすれば名取熊野別当家も、本姓はともあれ鈴木を称していたものと考えられますが、鹽竈神社の貴船一禰宜男鹿島太夫鈴木家や御釜太夫鈴木家もこの流れであったのではないのでしょうか。 先に、太白山山頂の貴船神社を祀ったのは、当地一帯の山守鈴木家の先祖ではなかったか、と推測しておきました。このエリアは地勢的に名取熊野の地盤であり、この鈴木家もおそらくはその一族であったものと推測しております。 吉田東吾は、『大日本地名辞書(冨山房)』において『和名類聚抄』にいう名取郡の「磐城(いわき)郷」をこの地域とみて、「○今、生出村、秋保村、などにあたるごとし、井上郷の西北にして、名取川の山峡の中なり。磐城とは、石城國石城郷よりの移住などに因れるにや、又は、所在産出の埋木を、石木といへるに起れるにや、いかにとも定め難し」と記しておりますが、仮に石城國石城郷よりの移住云々の説を採るならば、先の萩姫閖上濱漂着譚の舞台として常陸や石城の地名が出てくることともなんらかの関わりを窺えそうです。 磐城郷は宮城郡や桃生郡にもみられ、邨岡良弼(むらおかりょうすけ)は宮城郡の磐城郷に塩竈周辺をあてており―『日本地理志料』―、留意しておきたいところです。 度々論じているように、茨城県北部から宮城県南部の太平洋岸に沿って展開する“タカ”なる言霊には、高舘なり多賀城の地名との因果も窺われますが、『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の語るところからみて、おそらくは本来石城國造家の屋号的な意味があったものと私は推察しております。 なにしろ、名取熊野発祥の発火点となった高舘那智社および羽黒神社は、遡れば閖上(ゆりあげ)湊周辺の地主神を起源としていた可能性が高く、おそらく名取熊野別当家は本来その地主神を祀る一族であって、石城國造家の祖ともなんらかの密接な関わりがあったものと考えます。 仮に、石城國造家の同族が太白山山頂に貴船神を祀り、鹽竈神社における貴船一禰宜を輩出した氏族でもあったとしたならば、彼らは貴船神とどのような関わりがあったのでしょう・・・。 |
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「太白山(たいはくさん)」がある「生出(おいで)地域―仙台市太白区―」は、昭和三十一(1956)年に仙台市に編入合併されるまでは、「生出(おいで)村」なる単独の「村」でありました。その地域の輪郭があたかも旧秋保町においでおいでと手招きしているように見えていたので、地図ばかり眺めていた少年時代の私の頭にはすんなり地名が入ってきておりました。 オイデなる村名は、太白山の旧称オドガモリにあてられた漢字表記「生出森」に由来するわけですが、古いアイヌ語であろう「オド」には「とんがっている」という意味があると聞いたことがあります。 「刀」や「乳房」、はたまた「神」の意味とも言われておりますが、ひとまずは“とんがっている”という語源があって、そこから各々転じていったものなのでしょう。 宮城県北や岩手県南ではよく似た形の山をみかけますが、結構な確率で山名にオド―ヲド―なりウトなりがみられます。今、手元の地図を眺めてみただけでも、宮城県栗原市の花山ダムの北に「大土ヶ森」、南に「大土森」、岩手県一関市から猊鼻渓に抜ける県道付近に「烏兎ヶ森」、同東磐井郡の川崎付近に「烏兎山」、同郡千厩(せんまや)と室根の境には「大登山」の表記がみえました。おそらくはおしなべて里から三角に見える山々なのでしょう。 また、栗原市栗駒には「雄鋭(おどの)神社」、同築館には「表刀(うえと)神社」なる神社があるのですが、特に後者について、『宮城県神社名鑑』は「表は袁の誤でヲトと訓むべきである」と注釈を付しております。それらの発音に対して「鋭」や「刀」の字があてられていることは留意すべきでしょう。 先日、十数年ぶりに太白山を登ってみました。 たかだか321メートルの山とはいえ、前回も結構苦労して登ったという記憶があり、だいぶ体力の衰えた今の私にはたして登りきれるものだろうか、という不安もありましたが、このたび梅雨の晴れ間を狙って挑戦してみたのでした。 快適に歩ける太白山一帯の遊歩道は、地主らで組織する「太白山ふれあいの森協力会」の厚意によって管理されているようですが、生出森八幡神社の石鳥居をくぐると登山道らしい雰囲気に変り、参道両脇の狛犬に迎えられながら進むと、社殿わきあたりから存在感のある巨岩が目立ちはじめます。 「貴船神社(山頂)へ所要時間20分」と記された案内板をすぎると、急に傾斜がきつくなり、玄武岩に近い安山岩だという柱状節理の黒いゴツゴツとした岩肌には鉄鎖が張られ、それを手繰りながら這いつくばるように登っていくと、所要時間を10分ほどオーバーして山頂の貴船神社の鳥居が目に映りました。 無理をせず休み休みではあったものの、途中から木々の間に覗き始めた下界の風景を楽しみつつ、なんとか今の私でも頂上に至ることが出来ました。 さて、あえて久しぶりにこの山を登ってみたのは、「太白山の山頂に貴船神社を祀ったのは何者であったか」に興味を抱いた勢いでありました。 ことさらに興味を抱いた理由は、『仙台市史:特別編9:地域誌』に記載されていた以下の二つの情報が私の頭の中で化学反応したことにあります。 すなわち、『和名類聚抄』にいう名取郡の「磐城(いわき)郷」は、太白山のある生出地区のことではないか、という説があること――。 そして、仙臺城の背後の御裏林と一体の太白山や佐保山の藩有林の山守は代々鈴木家であったこと――。 「佐保山(さぼやま)」の地名についても思うところはあるものの、ひとまず通過しておきます。
山守の鈴木家は、その姓からみて熊野信仰の家柄であった可能性が高いわけですが、この地域は名取川の対岸を本拠に勢力を強めていた名取熊野の地盤でもありました。 名取熊野は鎌倉幕府に保護されたとはいえ、その本質は奥州藤原氏の残り形見的な存在とでもいうべきものであり、さすれば山守鈴木家は名取熊野別当の末裔であったのではないか、と私は睨んだのです。 名取熊野発祥の発火点となった高舘那智社および羽黒神社は、遡れば閖上(ゆりあげ)湊周辺の地主神を起源としていた可能性が高いわけですが、以前、それは高舘山古墳の被葬者と密接に関わりがあったのではないか、と推測しておきました。 その被葬者について、私は「多珂(たか)國造家」の本家筋と思しき「石城國造家」を輩出することとなる系譜の人物を想定しているわけですが、もし生出地域が名取郡における磐城郷であったというならば符合し得ます。 仮に、太白山山頂の貴船神社がその一族に祀られたものであるとしたならば、もう一段ギアを挙げた推測に発展する足掛かりとなってきます。 何故なら、『鹽竈神社史』所収の「鹽社由来考」に、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時十五位下也)竝同宮ノ神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之」という記述があり、“鈴木姓”の鹽竈神社別宮一禰宜男鹿島太夫が、伊達綱村の改革によって消失した「木舟宮」の一禰宜であったものと考えられるからです。 |
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梅雨ということもあってか、仙台市太白区の「太白山(たいはくさん)」がしばしば下界の靄(もや)の上に浮かんでいるような風景を目にします。 仙台市民にもっとも馴染みの深い山は?と尋ねたら、おそらくは泉区の泉ヶ岳とこの太白山が双璧をなすことでしょう。 城下町から発展した仙台の都心は、太平洋に臨む宮城野原方面以外は三方が100m級の丘陵地に囲まれていることもあり、大半の住宅地には坂道が多くなっております。しかしその分、その両峰は市内のどこからでも望める印象があります。 両峰とは言ったものの、標高1200mほどの泉ヶ岳に対し、太白山は320.61mと里山の親分みたいなこじんまりとした山です。付近の小学校に通っていた方は、標高を「3(さん)・2(にー)・1(いち)」と覚えさせられたと語っており、周辺住民の太白山に対する親近感が窺われます。 標高といえば、30年ほど前に太白山西麓の丘陵地に造成された茂庭台団地には高さ100mを超える33階建ての超高層マンションが一棟そびえ立っておりますが、最上階は太白山の頂上に合わせて建てられたと聞いたこともあります。しかし何故か私には太白山の方が高いように見えるのです。太白山が手前となる南東方面から見ている分にはあたりまえだと思うのですが、秋保方面から都心方面に戻ってくる道中、すなわちマンションが手前になるはずの南西方面から見てもそう見えてしまうのは目の錯覚なのでしょうか・・・。 富士山を縮小したような円錐状の独立峰たる太白山は、遠望すると綺麗な正三角形に見える山容だけに、それを富士山だと思っていた幼馴染、はたまたピラミッドと信じていた幼馴染もおりました。単に可愛らしい子供の戯言とばかり思っておりましたが、ウェブを眺めていると、わりと大真面目にピラミッド説を語っているページもあり、驚きました。 ちなみに、このような円錐状の山には時折UFO目撃談なども聞こえてきます。太白山については特に耳にしたこともありませんが、それらはあながちオカルト趣向者の妄想だけでもなさそうで、20年ほど前、たしかテレビ朝日系の「特命リサーチ(?)」なる番組でその真相を科学していた記憶があります。 それによると、なんらかの鉱物を含む地質の円錐状の山は、条件がそろうと磁気によって山頂上に発光現象を生じることがあるのだとか・・・。土葬の墓地でみられる人魂(ひとだま)みたいなものでしょうか・・・。 いずれ、ピラミッドやUFOはともかく、太白山は古くから信仰の山でありました。 かつてよく耳にした伝説に、閖上(ゆりあげ)の漁師が太白星―金星―の落ちる山「太白山」を目安に舟の位置を確認していた云々というものがありました。 したがって私は、閖上の漁師には太白信仰、すなわち道教の影響も少なからずあったのではないか、と考えたりもしておりましたが、あらためて『仙台市史 特別編9地域誌』に目を通しておりますと、幾つかの話が混ざっていたことに気付きます。 すなわち、「金星が落ちて出来た山」という伝説と、「太白山を基点に漁場を確認し合っていた」という話、「仙台湾を横切る千石船が太白山をみて船の位置を確認していた」という話が一緒くたになっていたようです。 後者二者は、金星云々はあまり関係がなく、単に三角のお山を目印にしていたというだけで、その山がたまたま太白山という名であっただけのようです。 また、厳密に言えば太白山という山名も明治以降のもののようで、江戸時代までは、おそらくはアイヌ語に由来するのであろうウトガ森なりオドガ森と呼ばれていたようです。この訓に対し「烏兎峰」という漢字表記がなされていることから、前述市史は「烏(からす)」を「太陽」、「兎(うさぎ)」を「月」になぞらえる故事に照らして、太白山が季節を知る上での天のめぐりの目安になっていた旨を推察しておりました。 なるほど、閖上の漁師に浸透していたであろう羽黒信仰の日月祭祀の側面とも符合するものであるように私には思えます―拙記事「高舘山古墳の被葬者についての一考察」参照―。 先に触れたとおり、それは奥州藤原氏の平泉政権によって名取高舘の独特な熊野信仰に包摂されていったものとみられるわけですが、平泉政権の滅亡後は源頼朝の鎌倉政権に継承されていきました。 現在太白山には、中腹に「生出森(おいでもり)八幡神社」、山頂に「貴船神社」が祀られておりますが、生出森八幡神社は鎌倉政権が「鶴岡八幡宮」より勧請したものと伝わっております。 この生出森八幡神社には、かつて太白山周辺の旧茂庭村に祀られていた神社、すなわち、源頼朝を祀った白旗神社、熊野十二社権現社、雲南神社、武内権現社、道祖神社等が、明治の時代に合祀されて今日に至っているとのことですが、個人的にはその際に山頂の「貴船神社」が合祀を免れたことが気になっております。
同社は大同二(807)年に京都から勧請されたと伝わっており、鎌倉時代に勧請されたのであろう生出森八幡神社よりも古いということになります。それを祀ったのは何者であったのでしょうか。 |
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