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延喜式神名帳所載の磐城郡七座の一社「大國魂(おおくにたま)神社―福島県いわき市平菅波―」は、約1300年前に石城國政庁によって祀られたものと由緒に伝わります。同社の祭神は、事代主命、大巳貴命、少彦名命、といった出雲の神々でありますが、その飛び地境内には由緒上、石城國造「建許侶(たけころ)命」の墳丘と伝わる「甲塚(かぶとづか)古墳―同市平荒田目―」があります。 同地から国道6号常磐バイパス―通称:いわきサンシャインロード―を茨城県方面に3キロあまり進むと、こちらも磐城郡の式内七座の一社「佐麻久峯(さまくみね)神社―同市平中山―」がバイパスの右手に鎮座しております。 同社は、慶雲元(704)年に「紀伊國名草郡―現:和歌山県和歌山市―」に鎮座する紀伊國一之宮「日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮―式内名神大:旧社格官幣大社―」の分霊を勧請したとされております。 ただ、祭神が「五十猛(いそたける・いたける)命」のため、「伊太祁曽(いたきそ)神社―式内名神大:旧社格官幣中社―」と混同しているのではないか、という旨の見解もウェブ上に散見されます。 なるほど「日前神宮・國懸神宮」は、伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡(やたのかがみ)」に先行して造られたという「日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を祀る社であり、人格神としての五十猛命を祀るのは同じ和歌山市内の伊太祁曽神社の方であります。 なにしろ伊太祁曽神社の往古の鎮座地は現在の日前・國懸神宮の場所であり、垂仁天皇の御代、日前・國懸宮の御鎮座に伴いその地を明け渡したとされております。しかもこちらも紀伊國一之宮と言われており、たしかに混同する条件はそろっていると言えます。 しかし、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの著書『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』によれば、日前神宮を建てたのは「紀伊國造家」であり、紀伊國造家の祖が「高倉下(たかくらじ)命」で、その父こそが「五十猛命」であるようです。 一方、日前神宮と並び称される國懸神宮は、紀伊國造家との縁戚関係が密になった「五瀬(いつせ)家」が建てたようです。名草で戦死した彼らの始祖「五瀬命―神武天皇の兄―」を日前神宮の横に後から祭ったのだというのです。 さすれば伊太祁曽大神との混同云々以前に、ひとまず日前大神と國懸大神を切り離して考える必要があります。 斎木さんによれば五十猛命は「天香語山命」と同一人物であり、それは『先代旧事本紀』においては物部氏の始祖「宇摩志麻治(うましまぢ)命」の兄であるわけですが、一方の五瀬命は人皇初代神武天皇の兄であります。 各々“兄”の属性を有する両者ですが、度々触れているように、記・紀には“愚かな兄と賢い弟”の対比構図が随所にみられます。おそらくそういった編纂方針があったのでしょう。 例えば、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)兄弟や、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)兄弟などは、いずれも神武に敵対しようとする兄に弟が愛想をつかします。 侵略者を拒否する兄の態度はあたりまえの話のはずですが、そんな意固地で愚かな兄に愛想をつかした賢い弟は神武側に寝返り、兄の討伐に貢献し、その部族を守り継承していくこととなるのです。 見かたによっては、兄をさしおいて弟が相続したことの正統性あるいは理不尽を殊更に主張しているかのようでもあります。貸した釣針を弟の山幸彦に紛失された上に、それを責めた兄の海幸彦が神罰を受けて子々孫々弟の支配下に仕え続けることになる海幸・山幸神話などは、まさにそういった編纂方針を象徴していると言えるでしょう。 したがって日像鏡と日矛鏡の完成度が後発の八咫鏡に劣るという属性も、そのイデオロギーの延長線上にあるものと推察するわけですが、おそらく兄貴分の両者は五十猛命たる伊太祁曽大神と、五瀬命たる竈山大神の御魂代としての性格を示唆しているのではないでしょうか。 いずれ佐麻久峯神社は、とりわけ日前宮を建てた紀伊國造家の祭祀の精神を同家の祖神五十猛命として石城國に勧請したものなのでしょう。 『いわきのお宮とお祭り』によれば、佐麻久峯神社は「応仁の乱(1467〜1477)」にまきこまれて祭事を廃し、旧記や神領をことごとく失ったようです。その際、同社の神官「中山彦次郎」の娘が、一時矢田村に家を移し、神を勧請して、そこに郷民が社を建てたのだそうです。 ところが神霊は旧社を慕って毎夜中山の嶺に光を放つので、時の村主「植田平六」がいやがって社をとりこわしてしまったようです。 その後、いつの時代にか旧地に復された同社ですが、天和二(1682)年三月、落雷により再び焼失したものの、翌年の天和三(1683)年八月には、平城主「内藤義康」によって再建され、現在に至っているようです。 同社の鎮座する中山一帯は昭和五十四(1979)年頃からの団地造成により氏子区域の人口がだいぶ増えたようで、新興のこの地区にも「おひまつり」なる祭事が定着したと前述同書にあります。 社叢は「佐麻久峯神社社叢暖地植生」としていわき市の文化財―天然記念物―に指定を受けており、紀伊國―木の國―の神五十猛命らしく木種を蒔き田畑山丘の造化を歓び尊ぶ信仰でありつつも、七年に一度は「神輿の浜降り」があり、「光を放つ神霊」なり「おひまつり」なりと、その底流に日像鏡の神らしく太陽信仰が息づいていることをも窺わせます。 なにしろ、社殿は南東向きであり、冬至の朝日を指向したものと思われます。 尚、前述同書によれば一時は中山舘主でもあったという先の神官中山彦次郎は、歴代神職小野氏の祖であり、『神社誌(いわき市神社総代会第三部会)』には「神職中山内記なるもの祭事を勤むとあり之れ、人皇三十代敏達帝春日皇子の支流である」とあります。 いわゆる和邇(わに)氏の裔孫が神職を務めているということになるわけですが、同社周辺には「赤坂」という地名が散見されます。おそらく古くは一帯の大字が赤坂であって、ワニ系氏族たる中山氏の管轄する神領であったのでしょう。 一方、ウェブページ「玄松子の記憶」によれば、石城國造の祖「神八耳(かむやいみみ)命」を佐麻久峯神社の祭神とする異説もあるようです。石城國造の祖が神八井耳命であることについては、『古事記』の明記するところです。 なにしろ大國魂神社や甲塚古墳の存在からもわかるとおり、一帯は石城國造家の本拠地盤であり、おそらく、元々この社を建てたのも石城國造家であって、それ故にそういった異説が生じたのでしょう。 正史上、人皇二代綏靖天皇の“兄”として名の挙がるカムヤイミミはオホ氏の祖でもあり、この系譜が三輪山の神を祀り、代々神と天皇の間をとりもつ中ツ臣、すなわち宮廷祭祀氏族であったことはこれまでも散々触れてきたことですが、先の斎木さんの説くところを鑑みれば、その本質は奈良盆地を開拓した出雲系の登美家―クシヒカタ系譜―を指すものと思われます。 先の斎木さんによれば登美家は「磯城県主(しきのあがたぬし)」の家柄であるわけですが、その磯城県主は『新撰姓氏録』においてオホ氏と同祖です。 斎木さんは『古事記の編集室(大元出版)』の中で、磯城王朝「オオヒビ大王―人皇九代開化天皇:いわゆる闕史八代最後の天皇――」の後継者が「ヒコイマス―日子坐王(ひこいますのみこ)―」やその子「ヒコミチウシ―四道将軍丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)―」であったことを隠すためにワニの家名が創作された旨を語っておりました。 以前私は鳥越憲三郎さんの説をもとにオホ氏を祭祀天皇であったと仮定して、次のように想像しました。 ≪〜神八井耳命が弟の神淳名川尊に皇位継承権を譲る際に決定していた役割分担から私は想像するのですが、〜中略〜 軍事―政治―天皇と祭祀天皇がいて、その祭祀の部分を後にオホ氏と呼ばれた天皇が担っていたのではないか、その表裏一体でもって二元的に天皇家が成り立っていたのではないか、と想像してみるのです。私はそのような意味においてオホ氏が天皇であったのではないかと想像したいのです。その想定が許されるものであれば、オホ氏に皇妃出自の記録がないのは彼ら自身が天皇家なのだからあたりまえ、ということになります。 〜中略〜 ワニ氏は所詮“下の世話専門の卑賤の氏族”とでも考えられていたのでしょうか。いえ、ワニ氏を矮小化して考えることは出来ません。なにしろ、記紀最多の皇妃輩出氏族であることは間違いないのです。先の私の想像の延長でいくならば、もしかしたら陰に埋もれた祭祀系の天皇―オホ系天皇―はワニ腹から誕生していたのかもしれません。≫ オホ氏が磯城県主の家柄ですなわち登美家のことであったとするならば、むしろオホ氏の腹から天皇―大王―が生まれていたということになりそうです。もちろん、同家の女性が斎木さんの語るところの三輪山の姫巫女であったという意味で祭祀天皇という考え方もあながち外れてはいなかったのかもしれませんが、ワニ家が闕史八代の天皇家そのものであったという部分については想像の上をいっており、驚くばかりです。 ところで、何故佐麻久峯神社の周辺事情をくどくど語っているのかと言いますと、実は、この社の俗称が「木船明神」であったようだからです。大正十一(1922)年発行の『石城郡誌』によってそれがわかります。 先の玄松子さんは、「当社の近くの貴船神社との混同なのだそうだ」としておりますが、はたしてそうなのでしょうか。これまでみてきたとおり、石城國造一族が貴船祭祀と結びつき得る気配は随所にあります。 思うに、もしかしたら佐麻久峯神社の地には元々木舟明神が祀られていて、慶雲元(704)年の日前大神の勧請によって鎮座地を追われて“近くの貴船神社―いわき市平小泉―”になったのではないのでしょうか。 偶然かもしれませんが、佐麻久峯神社から南東1キロ余りの場所に鎮座する同社は、佐麻久峯神社と同様、南東向きに祀られております。もしかしたら、あえて佐麻久峯神社の南東方向に遷されたのではないでしょうか。 ちなみに、仙台市太白区生出の太白山の頂上のそれも、同市泉区小角のそれも、同上谷刈丸田沢のそれも南東向きです。また、松島瑞巌寺の北にある「金毘羅神社」の鎮座地はおそらく『鹽松勝譜』にみえるところの「東明神・西明神」の鎮座する「上岡・下岡」の「上岡」であり、この山は通称「金毘羅山」とも呼ばれ「東明神」と呼ばれた「貴船祠」が祀られていた山と思われます。仮に現在の金毘羅神社の前身がその貴船祠であったのであれば、これも南東向きとなっております。これらははたして偶然なのでしょうか。 貴船神社そのものの謎解きは今の私の能力を超えるのでやめておきますが、石城國造一族とのつながりのせめてもの風景を眺めておきたく、あえてもう一度京都鞍馬の総本宮に触れておきます。 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」の奥宮は、玉依姫の乗った黄船が辿りついた“黄船宮”の創建の地とされているわけですが、その本殿脇には石垣のように積みあげられた石の壇があり、「御船形石」と名付けられております。この壇の中には玉依姫の乗ってこられた黄船が包み隠されているといいます。何故かくも厳重に隠されたのでしょうか。もちろん、創建にかかわる神聖な御神体でもあるわけですから、人目に触れないよう厳かに秘されて然るべきではあるわけですが、どこか積石塚古墳のような印象も受けます。祭神の高龗神は別として、この社にとって事実上最も重要視されたのは、おそらくその黄船によって運ばれてきたモノ、すなわち、玉依姫になぞらえられた何某かの御魂代こそがそれであろうと思われます。やはり貴船の社名由来となった黄船の語源は、舟葬の棺を示唆する「木船」にあったのではないのでしょうか。 『泉市誌』によれば前述の仙台市泉区上谷刈丸田沢の貴船神社には、木製の舟の模型が絵馬代わりに奉納されているようです。私は残念ながら見かけたことがありませんが、他の貴船神社にも同様の習慣が存在するのでしょうか。 ともあれ、玉依姫を象徴し得る属性の最たるものは、人皇初代神武天皇の母たることにあると推察するわけですが、斎木さんの語るところでは神武天皇は五十猛と「穂屋媛」との間の子「天村雲」をモデルにした架空の存在であり、仮に天村雲に比定しておくならば、その母は「穂屋媛」ということになります。 また、神武天皇をあくまで架空の存在、ワニ家と名を変えられた磯城王朝の王家の象徴的な存在と捉え、あるいは鳥越憲三郎さんの説でいうところの葛城王朝、いわゆる闕史八代の象徴としてのみ捉えるにとどめておくならば、少なくとも二代綏靖天皇から八代孝元天皇までの母は、日本書紀では事代主系、古事記では志木系、すなわち斎木さんが語るところの登美家の女性でありますので、いわゆる玉依姫の示唆するところも登美家の女性であったと考えることができそうです。 三輪山の太陽神祭祀を司る姫巫女は登美家の女性であったとのことでしたが、仮に陸奥各地の貴船神社に石城國造一族が関わっていたとするならば、登美家の祖であるクシヒカタの母「活玉依姫(いくたまよりびめ)」こそが黄船に乗った玉依姫の象徴であったとは考えられないでしょうか。名前が似ていることもさることながら、彼女の実家「三島家」は「巨椋池(おぐらいけ)」をおさえていた有力豪族であったようです。なにしろ、貴布禰総本宮貴船神社は巨椋池を桂川に遡った鴨川の上流に鎮座しているのです。 三輪山に昇る太陽の神の祭祀を司る登美家の女性を皇后としてきた磯城王朝が、十代祟神天皇ないし十一代垂仁天皇系の王朝に入れ替わり、それが伊勢神宮の創始にとどまらず、後に貴船信仰の創始にもつながったのではないかと想像するに至るわけですが、さすればおそらくは石城國造一族が陸奥國各地に朝日を指向した貴船宮を祀ったと思しきことにもつじつまが合うように私は思うのです。
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安本美典さん監修・志村裕子さん訳『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』は、「高(たか)の国造」の由緒地として「佐波波地祇(さわわくにつかみ)神社―茨城県北茨城市―」を挙げておりました。 同社の祭神「天日方奇日方(あまのひかたくしひかた)命―以下クシヒカタ―」は、『先代旧事本紀―以下旧事紀―』の記述上、人皇初代「神武天皇」の皇后「鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」の兄であるわけで、神武の長男「神八井耳(かむやいみみ)命」の裔とされる高―多珂―國造家からみて直系の祖にはあたりません。 とはいえ、鹿島神とされるタケミカヅチ神系譜という視点で考えるならば、なるほど彼らの始祖であったともいえそうです。 『常陸國風土記』の記述を信じるならば、人皇十三代「成務天皇」の時代に「多珂―高―国造」に任命されたのは、出雲臣同族の「建御狭日(たけみさひ)」という人でありました。 同風土記によれば、「多珂―高―の國」は広大で域内の往来に不便であったがために、人皇三十六代「孝徳天皇」の時代、國造家らの嘆願によって多珂郡と石城郡に分けられたようです。 諸国の風土記は和銅六(713)年に人皇四十三代「元明天皇」の詔を承けて編纂されたものであるわけですが、その当時の石城郡が陸奥國の域内にあったことも同風土記には補記されております。 『続日本紀』の養老二(718)年五月二日条には陸奥國の石城・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)・亘理(わたり)・常陸國の菊多の六郡を分離して石城國を設置したとあり、風土記の補記が裏付けられます。 尚、続日本紀の同条には、白河・石背(いわしろ)・会津・安積(あさか)・信夫の五郡を分離して石背國を設置し、常陸國の多珂郡の郷二百十戸を分離して菊多郡と名付け石背國に所属させたともありますが、もしかしたら常陸から陸奥一円に及んでいたのであろう石城國造家の勢力圏が中央政権によって事実上解体縮小され、菊多郡以北―勿来(なこそ)以北―に封じ込められたということなのかもしれません。 ともあれ、多珂と石城が分けられた際の多珂國造は「石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)」なる“石城”を名乗る人であったわけで、多珂國造家が「石城(いわき)一族」から分かれた家であったことを窺わせます。 さすれば分立した石城國造家もまた、クシヒカタに対して多珂國造家同様の尊崇の念を抱いていたことが推察されます。 『古事記』と旧事紀におけるクシヒカタは、いわゆる事代主―大物主―の子であり、さすれば『ホツマツタヱ』における六代オオモノヌシのクシミカタ―ワニヒコ―に該当し、同書の前半部を編纂した人物ともされております。 ホツマに対する真偽の議論はともかく、少なくとも三輪山祭祀のイデオロギーにおいて核に位置づけられる存在であったことを窺い知ります。 それもそのはず、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんが、同族の経営と思しき大元出版発行の著書の数々にて語るところでは、クシヒカタは三輪山を仰ぎみる奈良盆地の開拓者でありました。 クシヒカタはのちに「磯城県主(しきのあがたぬし)」を輩出した登美家の祖、すなわち、いわゆる闕史八代の主軸たる磯城王朝の母系系譜の祖ということになります。 斎木さんによれば、クシヒカタは奈良盆地が沼地で人の住めなかった開拓の当初、葛城地域の葛城川左岸に本拠を構え、付近に父の事代主神をまつる「鴨都波(かもつは)神社」を建立したといい、これが全国に分布する加茂社の源となったようです。 弥生時代の出雲では神をカモと発音したらしく、クシヒカタに始まった登美家は葛城のカモ家とも呼ばれていたようで、したがって“カモ”はいわゆるトーテム―祖霊神―とは関係のない言霊であったわけですが、後に「鴨」の字があてられるようになったがために、この一族の事績が八咫烏(やたがらす)なり金鵄なりと鳥類の霊験で示唆めかせられる傾向も生じたようです。 いずれここに、クシヒカタの裔孫と思しき石城國造家がカモ社への信仰とも無縁ではなかろうことが透かしみえてきました。 なにしろ貴船社は近世以前には上賀茂社の摂社とされておりました。現在のような独立した社になったのは明治以降のことのようです。 ただ、厳密には11世紀の水害で被災した際のどさくさに上賀茂社の摂社とされたようですから、現在のかたちはむしろ旧に復されたものといえます。 仙臺藩主四代伊達綱村による鹽竈改革の真相を探る上では、時代的にひとまず上賀茂社の摂社とされていた貴船社のかたちを念頭に置くべきでしょうが、本稿の目的は、鹽竈神社に存在した貴船宮なり、太白山山頂に祀られている貴船神社が石城國造一族によるものであったのではないか、という仮説を試みるものでありますから、十一世紀以前の本来の貴船神社のかたちにこそこだわっておく必要がありそうです。 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」は、貴船大神―高龗(たかおかみ)神―が太古丑の年の丑の月の丑の日に貴船山の中腹鏡岩に天降ったことに始まったと伝わっております。 有名な“丑の刻詣り”は本来この由緒に基づく心願成就の方法であり、藁人形に五寸釘を打ち込む呪詛は後世に曲解されたもののようです。 ともあれ、少なくとも人皇四十代「天武天皇」白鳳六(666)年には既に社殿造営のあったことが社伝にみえ、また、由緒の別伝によれば、人皇十八代「反正(はんぜい)天皇」の御代に人皇初代神武天皇の皇母玉依姫命が顕れ、「吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宜り給い、黄船に乗って淀川から鴨川をさかのぼり、その源流たる貴船川上流の現在の奥宮の地に至ったがためにそこに祠を建て水神を奉斎したのが同社の始まりであったとも伝えられているようです。 もちろん、この“黄船”こそが“貴船”なる社名の由来とされております。 反正天皇の御代という括りに対する勘繰りはひとまず置くとして、貴船という字面でふと頭をよぎるのは、貴人の納棺を意味する「御船入り」なる表現です。 カシオの電子辞書EX-word所収の『ブリタニカ国際大百科事典』の「舟葬」の項には次のような解説があります。 ―引用― 舟葬[しゅうそう](boat burial) 死体を小舟に乗せ川や海に流し,あるいは舟形の棺に入れて埋葬するなどの習俗。前者は水葬の一種であり,代表的な例はポリネシアにみられるが,ミクロネシアやメラネシアの一部にも分布している。台上葬においても棺を舟形にする例がインドネシアにみられ,これらはいずれも海上他界ないし海底他界の観念と結びついている。日本では棺を一般にフネ,入棺をオフネイリといい,舟葬の名残りともみられるが,これは舟で島嶼,あるいは陸行できない海岸の葬地に運んだ習俗に由来するものであろう。奄美大島宇検湾の伊里 (えざと) 離れという無人島には,かつて夜間ひそかに死者を舟で運び葬ったといわれているが,こうした例は南島に広範に分布している。 黄船が鴨川をさかのぼったという由緒について大胆に憶測するならば、玉依姫なり、そう例えられ得る人物なりの、遺骸、あるいはそれに相当し得る御魂代のような重要な何かがこの地に遷されたことを示唆するものではないのでしょうか。
なにしろ伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡」は、舟のかたちをした木の箱に奉安されているといいます。 國學院大學の名誉教授であった西田長男さんなどは、『日本宗教思想史の研究』所収の「薬師の浄土」なる論稿で、「伊勢の大神宮の御正体を奉安する箱を御舟代といふのは、恐らくこの太陽神を海の彼方の常世国から迎え又は送り奉った風習のあったことを意味するものであろう」と語っているわけですが、思うに、貴船の語源たる黄船とは、棺を示唆する“木船”のことであったのではないでしょうか。 |
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