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弘仁式の主税式などによれば、寺社の祭祀料の特徴として、神社よりも寺、特に諸国の国分寺は巨額になる傾向が見受けられます。これは、古代における神社と寺の性格の違いをよく表しております。 仏教は古代の日本においてはあくまで外来の新興宗教であったことは間違いなく、それ以前の日本人は自分の先祖というものを、宗派云々という概念を抜きにしてカミとして崇拝していたのでした。それが神社の一面での本来の姿でもあります。 だいぶ前になりますが、たまたま書店で見かけた本に“GODの和訳を神にしてしまったあやまち”のような旨の記述がありました。 また、宮崎駿監督の『もののけ姫』か『千と千尋の神隠し』のどちらかは忘れましたが、海外版として字幕をつける際、神様を妖精と訳したとかなんとか・・・・・。 唯一絶対の創造神を指すGODと、八百万(やおよろず)の神のニュアンスは確かに全く異なるものです。あちこちに神様がいるというのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの発想からはとても理解できないことだと思われます。 それもそのはずで、日本人にとって、自然神崇拝もさることながら、自分が最も信じる神とは基本的に自分のご先祖様であったと考えられます。単純に氏族の数だけ神様もいることになります。言うなれば、今私達が俗にお仏様と呼んでいるものに近い概念が、実はかつてのカミにはありました。 そのような背景もあって、古代の神社には自ずと氏子という名の信者――後援者・パトロン――が固定的に存在しており、特に税金から補助を受けなくても十分に経営が成り立っておりました。 それに比べ寺は、私的に仏法を信奉することは禁じられていたわけですから、原則“官寺”しかないということになりますので、パトロンはあくまで国家ということになります。 つまり、寺は保護を受けなければ立ち行かなくなるのはあたりまえで、国分寺に割かれた予算は特に巨額でした。 そのような事情を踏まえた上で、税収から祭祀料を割かれるような神社とは、一体どういう事情が考えられるでしょう。 私は思うのです。 鹽竈神社を含め祭祀料を受けていた4社は、氏子となるべき子孫が絶滅したか、あるいは絶滅していなくてもいわゆる奴隷で、過酷な労働のみを課せられながらも生きることだけが精一杯で、社会的な納税能力がなかったのではないかと・・・。 もちろん、そのような神社はこれら4社の他にも数多くあったと思います。そしてどこからも保護を受けられない多くの神社は早い段階で荒廃していったと思います。 しかしこの4社は、朝廷としてとても荒廃を放っておくわけにはいかない恐ろしい力を秘めた――少なくともそう思われた――神社だったのでしょう。 いずれ、当然これらは官寺と同様な扱いなわけですから、本来は当然に台帳に記載されるべきものであったはずで、実際に鹽竈神社以外の3社はいずれも延喜式神名帳という国家公認のリストに名を連ねられておりました。 残る1社、陸奥国の鹽竈神社はと言えば、税金の使い道を記録する主税式、いわば国家の家計簿のようなものにだけは辛うじて名前が見えるものの、国家が公認する神社名のリストには掲載されていない、つまり極端に言えば記録上非公認なのです。 識者の間では、それは総社――各国内の神に各々一ヶ所にお集まりいただく社――であったからだという説も根強くありますが、そもそも奈良期以前に遡る古社に対し、平安期以降の総社制度の観念をあてはめることに無理があるだろうことは、元宮司の押木耿介さんによって論破されているところです。 それでも尚、あえて後世の総社の前身であったと考えてそれを受け入れたとした場合、それでは他の国の当該社は一体どうなっているのか、という疑問が残り、やはり無理があると思うのです。 とにかく、非公認の神社に他の3社の5倍以上、もっと言えば、他の3社を全て合計しても4,800束なのに対して鹽竈社のそれは単独で10,000束と、実に2倍以上にもなる破格の税金が使われているのですから、今なら野党にさんざん追及されるような問題です。 そんな鹽竈神社が、“分家の社”であるとはとても思えないのです。 しいてあげれば、多賀城に近い神社だから特別待遇であったとは一応言えるかもしれません。 しかし、それであれば、他の国府の近くにも似たような性格の大社があって然るべきで、あるいはその場合、鹽竈神社の本家に該当するような社――福島県田村郡の鹽竈社(?)――が延喜式神名帳の大社に列されていてもいいような気がします。 そこで私は、これは、「丈部系安倍氏」と「鹽竈社異例の厚遇の謎」は、無関係ではないものの一旦分けて考えなければならないのではないかと思い至るのです。 確かに鹽竈神社には安倍氏が強い影響力を持っていたことは事実なのでしょうが、究極の結論を言えば鹽竈大神は鹽竈・松島に自然発生した縄文人の素朴な信仰であったと考えております。そこに朝廷にとって何か重大なものが被り、それ故に安倍氏が関わらざるを得ない状況が訪れたのではないかと思うのです。 つまり、鹽竈・松島エリアが縄文の昔から国内最大の製塩地帯であった頃の記憶と、後の丈部系安倍氏による祭祀との時間軸の差を見つめなければならないと考えております。秘密はその時間軸のなかに埋もれているのだと思うからです。 鹽竈桜
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アベと鹽竈
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古代東北地方を独立国と仮定するならば、紛れもなく筆頭王家と呼べるだろうアベ一族。
その一族が東北最大の古社となんら無関係に歴史の舞台を歩んでいたとは考えられません。
両者の関係にスポットライトをあててみたいと思います。
その一族が東北最大の古社となんら無関係に歴史の舞台を歩んでいたとは考えられません。
両者の関係にスポットライトをあててみたいと思います。
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『鹽竈神社史料』所載の集計表から、香川県と岡山県の備讃エリアには鹽竈神社が27社も集中していることがわかるわけですが、この理由は比較的想像しやすいものがあります。 何故なら、近藤義郎さん編集の『日本土器製塩研究(青木書店)』に執筆されている岩本正二さんや大久保徹也さんの論稿によれば、この備讃エリアは少なくとも弥生時代中期後半から土器製塩が開始されていたことが発掘成果からわかっており、これは西日本における最初期であるとともに、且つ土器製塩活動の中心地であったと考えられるからです。 また、宝賀寿男さんはこのエリアに鹽竈神社が多いことに触れ、その中に有力な社がみられないことから、それらは総じて塩生産に基づいたものであり、起源も比較的新しいのではないか、と考えております。 とは言え、讃岐国造一族や阿波国造一族らも少彦名(すくなひこな)神一族の流れをひくものであることから、自然と鹽土老翁神が奉斎される基礎は備わっていたという旨を補足しております。 では、17社も存在する福島県はどういう事情なのでしょう。 同じく宝賀さんの仮説、論稿『塩の神様とその源流』を見てみます。 ――引用―― 石城地方の本拠地であった磐城地方をみると、塩竈神社は管見に入ってこないが、この地域には諏訪神社が多く(いわき市域で少なくとも20社はある)、塩をつけた地名も多い。また、石城国造の勢力圏であった福島県田村郡小野新町(現在は三町村合併で小野町)には有力な塩竈神社があり、塩土老翁を祀る。その社伝によると、延暦年中の坂上田村麻呂の征夷に際し、陸前塩竈大神に祈願したところ神験が著しかったので、奉賽のため祭祀したことに創まるといわれる。 これを額面通りうけとめるよりも、私はむしろ田村郡の当社のほうが塩竃大神の起源に近いのではないか、また、丈部一族の陸奥北方への進出に際しての塩竃祈願ではないかと考えている。福島県には東北地方で塩竃神社が最も多く、17社の塩竃神社が鎮座することも、その傍証かもしれない。 福島県田村郡の鹽竈神社 ・・・タイムスリップ(?)・・・いやビックリした! 補足しておけば、宝賀さんは諏訪神も少彦名系と考えております。 とにかく、鹽竈神社の本場は“福島県にあり”というのが宝賀さんの想像です。 なるほど、興味深い想像です。 そういえば、実は「こっちが鹽竈神社の本家だ」と言われる神社が、少なくとも同じ福島県内にもう一社ありました。福島県福島市大笹生(おおざそう)の鹽竈神社がそれです。 福島市大笹生鹽竈神社
宝賀さんの仮説には学ぶところが多く十分に納得がいっております。 しかし、どうしてもあと一歩のところで私の疑問が解決されないのです。 仮に、福島県田村郡の鹽竈神社が本家だとした場合、宮城県塩竃市の鹽竈神社は――理屈としては――いわば分家のようなものになるということでしょう。そのたかだか国造一族祭祀の分家に過ぎない神社が、何故神社として国内最高額の祭祀料を受けていたのでしょうか。遠の朝廷(とおのみかど)多賀城が近いからでしょうか。 あるいは、出雲において、国造家が祀った熊野大社と、朝廷側の思惑で祀った出雲大社の違いのようなものなのでしょうか――本来の出雲神族らしき富氏は出雲大社東方約950mにある出雲井神社を信奉しており、事態はもっと複雑ですが・・・――。 |
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宝賀寿男さんは、石城(いわき)――磐城――国造家に連なる丈部系安倍氏と安倍貞任一族を同族と考えておりましたが、その仮説を援護射撃するような伝承もあるようです。 『よみがえる史上最高の名僧 徳一菩薩(いわきふるさとづくり市民会議)』の著者、菊地勇さんは、北茨城といわきの坂上田村麻呂伝承がある寺社について調べ、その伝承に触れるくだりで、次のようなことを書いております。 「共通して特異なことは、陣立して菊多の里から戦闘を開始したと伝えることです。この伝承を信じるとすれば、一〇六二年代に、いわきは安倍一族に味方していたことになるわけです」 菊多とは、茨城県と福島県の境のことです。 しかし、これは安倍貞任一族の勢力圏が後の奥州藤原氏のように現在の東北地方全体に及んでいたというよりも、「石城(いわき)――磐城――」という地盤が貞任一族らに加勢したと捉えておく方が穏当なのではないでしょうか。そうなると、この解釈は宝賀さんの仮説と符号し、かつ補強することになります。 初代国造墓が神社となったという磐城国造神社 さて話しは変わりますが、大正15年に國幣中社「志波彦神社・鹽竈神社」社務所から発行された『鹽竈神社史料』――宮司山下三次さん編著――には、当時の全国の鹽竈神社リストや都道府県別の集計表などがあります。私が和歌山県和歌浦の鹽竈神社に「はてノ鹽竈」伝承があることを知ったのもこの史料集からでした。 同書の統計表にて確認できる範囲では、当時、鹽竈神社は全国に111社ありました。都道府県のランキングにすると、最多が福島県と香川県の17社、続いて岡山県の9社、新潟県・徳島県7社、長崎県6社、愛知県5社という順になります。そしてなんと本場宮城県はそれらに続く山口県と同数の4社で、辛うじてベスト10に入っている程度なのです。 鹽竈神社の性格上、当然に製塩のさかんな場所で祀られる傾向があり、上位の都道府県はさすがにいずれも海と密接な印象を受けます。それにしても福島県と香川県の17社は、続く岡山県のほぼ2倍の数字ですので、もはや偶然の為せる業ではないでしょう。かなり特異な印象を受けます。 また、第三位の岡山県について補足すれば、これは瀬戸内海をはさんだ香川県と不可分のエリア、しいて命名するならば備讃エリアとでも呼ぶべきで、両県合わせると26社という圧倒的な鹽竈神社集中祭祀地区となります。 ただし、福島県と備讃エリアの集中理由は、各々性質の異なるものと考えられます。 それを語る前に、鹽竈神社の性格が持つ宿命的な特殊性に触れておかなければなりません。そのあたり、元宮司の押木耿介さんの説明がわかりやすいので、少々長い引用で恐縮ですが押木さんの著書『鹽竈神社 (学生社)』の一文を紹介しておきます。 ――引用―― 森鴎外の名作『山椒太夫』で知られる安寿と厨子王の物語には、丹後由良の長者山椒太夫に売られた安寿姫が塩田の汐汲を強いられ、弟厨子王は柴刈をさせられる。この山椒が「散所」の意であることは、林屋辰三郎氏が詳述されている(『古代国家の解体』)。 すなわち散所とは、領主の支配を受け、税としての地子(ぢし)を収めなければならない一般領主にたいし、地子を免除された荒地や河原、また農民の逃亡などによって地子を納められなくなった散田などをさす。ここは荘園領主にたいして封建的な耕作農民として従事した者や、名手として成長していった一般農民とは別に、年貢の重圧にたえかねた逃散農民や浮浪の民がかかえられ、かれらは奴隷のように行動の自由をうばわれ身柄を拘束されて領主の支配を受けた。そのためにいっけん地子の負担から逃れたようにみえるものの、後世まで奴隷のごとき賤民的境遇にあり、年貢の輸送や、塩田耕作に従事させられたのであった。 これら賤民の支配者として散所太夫があったわけで、暴力や人身売買もする非情の人だったのである。こうした塩田の生産形態は支配者が郡司であれ、土豪であれ、戦国大名であれ、基本的にはうけつがれてゆき、製塩労務者を雇い入れるための労働市場が、塩田に近い神社や寺院の境内に設けられる習慣は、近代までみられたのであった。製塩労働がきわめてきびしいものであり、またそれに従事した人たちが賤民的階層に多かったことが知られるのである。このことは、鹽竈神社の性格を論ずるさいに考慮しなければならない点ともなろう。 つまり、鹽竈神社は、特に賤民的階層からの信仰が篤かったと察せられます。 押木さんはそれらを踏まえて、且つ全国的に鹽竈神社の社格が総じて低いことに注目し、 「鹽竈神社が朝廷や国家に関与することがきわめて薄く、その信仰者が土着の民にあったことを思わせるのである」 と、重要な指摘をしております。
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ここにきて、奥州安倍氏は宮城県南部に興った丈部(はせつかべ)系安倍氏ではないか、という仮説が真実味を増してきました。 丈部氏は中央阿倍系譜の“馳せ使い”の職掌から名づけられた蝦夷の一族であるはずですが、一方で、もしかしたら元をただせば中央阿倍氏そのものと同根なのではないか、という思いも強まってきております。 では、奥州安倍氏も孝元天皇に連なる系譜であったということか・・・。 それは違うと思います。そうなのであれば、わざわざ蔑まされる血筋、長髄彦の兄、アビの系譜などとは、決して主張しないはずです。 つまり、もし両アベが同じ血筋であるというのならば、私はむしろ中央の阿倍氏の方が皇室に連なるように系譜を詐称しているような気がしております。 件の宝賀寿男さんの塩神についての論考の一応の結論としては、シオツチオジ――鹽竈神社の一応の祭神――自体がスクナヒコナ系であるとしているのですが、その傍証のなかで鳥取県八頭郡船岡町にある「塩野上神社」の例を挙げております。 その宝賀さんの結論の詳述は複雑なので避けますが、宝賀さんは、そこと同じ「船岡(ふなおか)」という地名が、安倍貞任一族起源の地とみられる柴田郡にもあることを注目しております。 宝賀さんによれば、出雲の大原郡にも「船岡山」という地名があるとのことで、そこに「志保美神社」があり、付近の地理環境からこれが「塩見」ないし「潮見」から来たことは間違いないようで、中世このあたりに塩見氏が居住していたこともその傍証としております。 なにやら、安倍氏と塩がつながってまいりました。 柴田郡船岡の船岡城址
余談ですが、京都市街の北にも「船岡山」があります。 平安京が陰陽道に基づいて計画された都市であることは度々触れておりますが、この船岡山からまず平安京の中心線――大内裏〜朱雀大路――が引かれております。且つこの船岡山は、風水上、首都の北――玄武――に必要な山なのです。 そうなると、この頃朝廷の御用陰陽師(?)は誰であったのかが気になるところです。 時代的には、かの有名な陰陽師「安倍晴明」が生まれる130年位前の話なのですが、これまでの話しから、起点に船岡山がおかれている事実――地名が先にあったものなのか、後から付けられたものなのかはわかりませんが――から深読みすると、ひょっとしたら安倍氏だったのではないかという気がしてまいります。 だとすれば、晴明の呪術的職掌は当代に発現したものではなく血筋の為せる業ということになるかもしれません。もちろん、そもそも晴明が本当に安倍氏であったならばの話ですが・・・。 |
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宮城県南に奥州安倍氏の伝承が多いこと、実はこれはとても不思議なことなのです。安倍氏の拠点は奥六郡――おおよそ岩手県内陸の中央部――であり、宮城県南部とはだいぶ離れております。東北地方の距離間隔がわからない方ですと「遠いと言ったって隣の県ではないか」と思うかもしれませんが、岩手県は面積日本一の県であり、それは四国四県に匹敵するのです。隣県云々とは言えないことをわかっていただけると思います。 ましてや、奥六郡と柴田郡の間の道中には伊治城や多賀城など、朝廷の一大拠点がしっかりと睨みを利かせているのです。 一般的な歴史認識では、奥州安倍氏は、衣川(ころもがわ)――岩手県奥州市――が“南限”とされていたはずでした。なにしろ、いわゆる正史では、安倍氏が衣川を越えて南に勢力を拡大し始めたので朝廷と激突したことになっているのですから。 安倍氏の最終拠点、難攻不落の「厨川(くりやがわ)柵跡――岩手県盛岡市――」 前に挙げたいくつかの伝承例のうち、唯一、柴田郡村田町の白鳥神社のそれだけはつじつまがあいそうです。安倍氏敗北後捕虜となった則任は、敵方に護送されている途中、石に頭を打ち付けて自殺したことをほのめかす伝承もあるからです。つまり、宮城県柴田郡村田町のこの地は、単に移動途中の自殺の地だったということかもしれません。 それにしても藤崎系図の白鳥八郎のところに「苅田郡白鳥に住す」と書いてあることだけはどうしても気になります。苅田郡はたびたび触れているとおり宮城県南部です。 谷川健一さんは、苅田郡に白鳥という地名がないことから、胆沢郡の白鳥の間違いであろうとしております。あえてそこに苅田郡が強調された理由は、苅田嶺(かりたのみね)神社という全国屈指の白鳥ブランドにこじつけたものであろうとし、むしろ苅田嶺神社がそれほどのブランド力があったことの傍証とされておりました。 しかし、坪沼八幡神社についてはどうでしょう。どうしても伝承を認めたくない立場に立って考えるなら、一応は奥州藤原氏の最終戦――国衡の敗走劇――の故事と混乱しているとも推測できます。 ただし、神社境内の説明にはしっかり安倍一族の話が明記されております。しかも、特に頼時――貞任や宗任の父――を討ったものの、その後の戦いに苦戦したことをほのめかしているように、だいぶ具体的です。それも後世の付会なのでしょうか。 もしかしたら、貞任や宗任、あるいはデビルマン藤原経清の名が見られませんので、あくまで安倍派に加担した屈強な豪族という意味で事実なのかもしれません。 仮にそうだとしても、安倍氏の影響力がこの地に及んでいたと考えることは、おそらく疑う余地もないでしょう。多賀城よりはるか南であるにもかかわらずです。 それはやはり、奥州の安倍氏が元々宮城県南部になにかしら縁が濃かったからではないでしょうか。 宝賀寿男さんは、論考『塩の神様とその源流』において、陸奥国の丈部氏は、少彦名神一族の流れをくむ石城(いわき)国造に起源があると推測されておりますが、興味深いのは奥州安倍氏も同系と考えているところです。
宝賀さんは、柴田郡について「陸奥の安倍貞任一族の先祖の起源地とみられる柴田郡〜」と述べております。 ただ、このあたり宝賀さんの論考上、単に枝葉の通過点に過ぎない部分であることもあって、何故そう思い至ったかの経緯にまでは残念ながら詳しく触れられておらず、私も完全に理解できているわけではありません。 ただ、それを認めることで諸々の伝承のつじつまがあうのも事実で、やはり私も十分にその可能性は高いと考えております。 |



