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鹽竈神社の祭神を考える上での文献情報は諸々ありますが、近世の話しは諸説紛糾して収拾がつきません。とは言え、数の中には私の琴線に触れる資料もあり、決して無視は出来ませんが、まずは置いておきます。 とりあえず、近世以前のものに絞って押木耿介さんの『鹽竈神社(学生社)』にとりあげられたものを参考に古い順に追っていきます。 まずもっとも古いものとして、鎌倉時代の『源平盛衰記』があります。 一条天皇に「歌枕、注(しる)して進(まゐ)らせよ」と言われて体よく陸奥国に左遷された「藤原中将実方(さねかた)」に、阿古野の松の場所を教えてくれた老翁が鹽竈大明神であったとされております。 昭和五年に社務所が発行した『塩釜神社史』において、時の宮司古川左京さんは次のように語っております。 「雄略天皇が葛城に御狩し給ひて其の地の葛城一事主神と語り給へるなど、其の地にて其の地の神と語り奉る話は古今に甚だ多ければ、鹽竈或いは松島にて當社祭神を拝したりと云ふは、常の事にして珍しきにあらざれど、漠然陸奥国にてと云ふ話に、直ちに當社祭神を結びつくるは、當社が陸奥の国にて最も偉大なりしが為にあらずして何ぞや。」 古川宮司は漠然とした陸奥国譚に鹽竈神社の名が出てくるというのは、都でも鹽竈神社が陸奥国の代名詞的な認識で見られていたことと受け止めているようです。 ちなみにこの古川宮司は鹽竈神社総社説をとられております。 続いて、たびたび話題にしている延慶二年(1309)の『春日権験記』――春日権現験記絵――があります。 むかし日本に悪神や邪神がはびこっていた頃、武甕槌(たけみかづち)命が陸奥国の鹽竈にあまくだったというのです。邪神は霊威を恐れて逃げたり従ったりしたとのことでした。その後タケミカヅチは常陸国に遷り鹿島神となり、その後神護景雲二年の春“法相擁護のため”御笠山に移って春日神になったというのです。 この話によれば、鹿島神武甕槌(たけみかづち)は常陸国よりも先に陸奥国に降り立っていることになります。常陸から御笠山に遷った話は鹿島神宮・春日大社の両由緒に明記されていることですが、陸奥から遷ったという話は、この権現験記以外には見かけません。 しかし、注意すべきは、これは決して鹽竈神社側が作成したものではないということです。これは春日大社側の縁起書なのです。 これを一体どう考えればいいでしょうか。 タケミカヅチが三笠山に遷った神護景雲二年といえば怪僧道鏡(どうきょう)の頃です。道鏡から藤原氏――氏寺の興福寺は法相宗――を守ろうとしたのだとでも言いたいのでしょうか。 あるいは逆に、法相宗の僧である道鏡の援護射撃と言いたいのでしょうか。 いずれ、この絵巻そのものの描かれた時代は末法思想の流行があり、一方では大陸で元が席巻していた頃で、世情的には社会不安の時代でした。この頃は最澄の蒔いた種――比叡山教派――が開花し、俗に鎌倉仏教と呼ばれる個性的な新たな仏教が続々生まれ始めていた頃でしたので、そのような背景は見逃せないと思います。 つまり、私が思うに、法相宗という奈良仏教を代表する宗派が、鎌倉仏教の台頭に危機感を覚え、それを道鏡時代の危機になぞらえ、あらためて守護神である春日大神を登場させ補強したものではないでしょうか。そしてさらに春日大神すなわち鹿島神のパワーアップをも計るため、あえて陸奥国鹽竈の神威を登場させ、強調したのではないでしょうか。 ともあれ、ここで私が注目するのは、中央での未曾有の危機に、鹽竈というブランドが用いられているところです。後に触れますが、中央のピンチに鹽竈大明神が現れて神威を発揮する例が他の文書にもあります。私はここに、鹽竈大神がいかにただならぬ神威を期待されていたかを、あらためて感じるのです。 常陸国鹿島神宮奥宮 続いて、鎌倉・室町時代に奥州留守職であった伊澤家の正史、永正十一年(1514)『余目(あまるめ)記録』があります。 まだ年号の始まらない時代に、人皇14代仲哀天皇の孫「花ぞのの新少将」なる人物が、流人として宮城高府に下り、その後帰洛し東海道15ヶ国北陸道7ヶ国両国の知行を有して、その後鹽竈明神となって大同元年(806)宮城郡に現れたといいいます。 『七ヶ浜町誌』の鼻節神社の項には、『田村麿三代記』にあるこれと似たような話しをとりあげております。 ――引用―― それより千熊は塩釜の大明神に参詣す。そもそもこの神社と申し奉るは、仲哀天皇第二皇子の皇子、しさいあって陸奥国に下らせ給ひ、花淵の里と申す所に、竈を立てて塩を焼き、班黄牛(まだらぎうし)につけ諸国を引かせ給ふ故に、塩焼の翁とも塩とめの皇子とも、塩土ほの尊ともまた猿田彦とも、道祖神とも舟戸の神とも申奉る云々 町誌ではこの後、小文字で「花淵浜表浜で最近製塩場跡が発見された」と興味深い補足をしております。 これらでは、なんらかの事情で都にいられなくなった貴人が、陸奥に流れてきて、やがて神になった、というストーリー展開になっております。 これを見て私は、言うなれば、菅原道真が大宰府に流され、当地で憤死し、祟りを為すことで天神に生まれ変わったような背景を想像させられるのです。 最近アニメで人気があるという鼻節神社境内から望む海
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鹽竈神社の謎 検証編
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鹽竈神社にかかわる歴史・諸氏の学説・神話伝説から謎を検証してみます。
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宮城県塩釜市の鹽竈神社、いわゆる奥州一ノ宮と呼ばれた本家鹽竈神社の縁起は元録六年(1693)に仙台藩主伊達綱村がまとめたものであることは度々触れました。 これまで私は、鹽竈大神の名の由来となる別宮の祭神について「伊達綱村が定めたもの」と度々述べてきたわけですが、これは「志波彦神社・鹽竈神社」の公式HPや、元宮司の押木耿介さんの『鹽竈神社(学生社)』にもあるとおりの、いわゆる通説です。 しかし、実はそれが少々疑わしいのです。 数年前に東北歴史博物館で開催された特別展『奥州一ノ宮 鹽竈神社』を見学した際、私は初めて伊達綱村がまとめた縁起の原典――厳密には、綱村の調査成果に基づいて吉田兼連により編まれたもの――を眺めたのですが、そこには鹽竈大神を祀るとされる別宮の祭神に「岐(ふなど・くなど)神」が明記されてありました。 岐神とは、出雲神族の末裔という富當雄さんの言う、出雲神族が本来信仰していた神です。朝廷側が出雲神と呼ぶ大国主や事代主は、出雲神族からすれば、確かに尊いご先祖様ではあっても、神様として特別崇敬する対象ではありません。言うなれば、大国主も事代主も、富さん同様クナド神を信奉しているという点では同列なのです。 富當雄さんがクナド大神の御前で養父から継承の儀式を受けたという「出雲井神社」
ちなみに鹽竈神社の左宮は「武甕槌(たけみかづち)命」、右宮は「経津主(ふつぬし)命」であり、つまり鹿島・香取の神であることは通説と相違ありません。 この元録縁起の中で、鹽土老翁(しおつちおじ)が出てくるのは、祭神表示の部分ではなく、その後の文章内で鹽竈神社の別名「塩釜六所明神」のくだりです。六所明神とは文字どおり六柱の神様であり――「ろくしょ」の訓に6の数字を後付したという話しも聞きますが――、これ故に鹽竈=総社説も生まれたようです。 縁起書による六柱の神々は「猿田彦・事勝国勝・塩土老翁・岐神・輿玉命・太田命」という内訳です。 ご覧のとおり、それらを構成する一柱として鹽土老翁が見えます。気になるのは、岐神がそれとは別に一柱として数えられていることです。 つまり、綱村の意識として、少なくとも岐神は決してシオツチオジの別称ではないということになります。もちろんサルタヒコもそれとは異なる別個の神と考えていたということです。 もしかしたら、「伊達綱村の決定」は、通説が言うような最終決定ではないのではないでしょうか・・・。 正直なところ、何者かが綱村のエスプレッソな決定にミルクを加えカフェラテにしてしまったような気がしております。まあ、このまま行くと私はシナモンを加えてカプチーノにしてしまうかもしれませんが(笑)。 鹽竈神社の複雑なところは、同社内でも見解が統一されていないところです。歴代宮司の見解も各々異なります。したがって申し訳ないのですが、当代宮司の語るところが必ずしも正しいという風には手放しで受け止められない現実があります。 しかし、ある面ではそれら全てが真実であるとも言えます。それだけ鹽竈神社にはいくつもの歴史があるということでしょう。おそらく八幡神社総本家の宇佐八幡宮などと似たような背景があると思われますが、鹽竈神社には、最低でも3〜4重の歴史があると考えます。そのどれも真実ですから、宮司同士の見解がぶつかり合うのも当然といったところでしょうか。 これは伊達綱村の時代にも既に同様の傾向が見られたようで、その状態を苦々しく思った綱村が絶対権力でスッキリまとめたのでした。少なくとも私達一般市民にはそのように伝えられております。 綱村は、鎌倉期に作成された春日大社の縁起書でもある『春日権現験記絵』の鹿島神の鹽竈降臨の記述に影響を受けたとも言われておりますが、それ以上に彼は歴代の伊達氏とはあきらかに異質のイデオロギーを持っていたのでした。 綱村はおそらくはそのイデオロギーに基づいて藩祖政宗が築き上げた仙台城下の寺社について徹底的に改革を行いました。それによってはたして真実に近づいたものかどうかは定かではありませんが、少なくとも本人の正義は貫いたのでしょう。 かつて私は、綱村公という人物は、当時の朱子学背景の“真実の歴史”ブームに乗った人物だと思っておりましたので、父親世代の水戸光國(みとみつくに)――水戸黄門――同様、自分に不利な歴史も含めて極力顕在化させた人、つまり曲げられた歴史を糾した人だと思っておりました。 今も、その思いにさほどの変わりはありませんが、綱村が当時の日本における新興仏教宗派、「黄檗(おうばく)宗」の信奉者であるという部分は無視するわけにいきません。このことはかなり刺激のあるスパイスとして私の想像を駆り立てるのです。 このイデオロギーと、綱村が鹽竈大神を出雲神と思われるクナド神に決定したことは、古代の朝廷が鹽竈神社を別格にしてしまった理由に、かなり重要な示唆を含むと考えております。 |



