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鹽土老翁は奥州鹽竈で故人となったようです。いずれ陸奥の鹽竈神社――奥州一之宮――は、なにやら超大物の陵墓だった気配が強まってまいりましたが、当然その候補者としては長髄彦の名も挙げておくべきかと思います。散々述べてきた鹽竈神社の奇怪な属性には、そのスクープに応えるだけの十分な迫力が備わっております。 さて、紀州和歌浦の鹽社が語るはてノ鹽竈伝承には、さらに他の意味も隠されているように思えます。 紀州和歌浦の鹽社は、自らを鹽土老翁が法を伝えた9箇所目であるとしておりました。正直なところ9の意味についてはまだピンと来ていないのですが、ひとつだけ言えるのは言霊信仰の日本人にとって4と9は「死」と「苦」を連想させ、不吉な数字であるということでしょうか。 いずれ、13よりも若い数字であることで、製塩の法において奥州――陸奥――よりも “先輩”であることを主張しているわけです。 しかし、日本の土器製塩の歴史について、考古学的発掘成果に基づいて言えば、縄文後期の成果が明確に残されている茨城県の霞ヶ浦南岸エリア、そしてそれに続いて縄文晩期前葉の発掘成果が残されている鹽竈・松島エリア――里浜貝塚で後期の小破片も発見されておりますので更に遡る可能性があります――は紛れもなく日本の製塩文化のパイオニアと思われます。 霞ヶ浦南岸から筑波山を望む
偶然かどうか、この両エリアは貝塚の集中地区としても全国屈指のエリアです。前にも触れたとおり、これらの貝塚文化を持つ氏族が製塩という分野に特化し、交易の手段にしたと考えることは極めて妥当性があると考えます。 製塩文化が、全ての海岸線に発展したわけではなく、何故か限られたエリアに特化しているのは、どうもその一部のエリアにおける特産品的な果実を他のエリアでも享受していたからと考えられます。つまり、縄文時代の製塩族は、かなり広範囲な交易圏を形成していたことが、発掘成果の分布から見てほぼ間違いなさそうです。なるほど鹽竈が塩の聖地になるわけです。 ところが、霞ヶ浦の突然の消滅後、独占状態――青森エリアを除く――であった鹽竈・松島エリアにおいても弥生中期以降の発掘成果が著しく激減します。逆に入れ替わるように岡山県と香川県の沿岸部、すなわち備讃エリアに忽然と新たな製塩土器文化が出現しました。それに続いて瀬戸内海沿岸を伝播したと思われる播磨・摂津・河内そして紀州にも続々と発掘成果が現れます。 もしかしたら鹽竈文明――縄文の製塩民族を勝手に仮称――が移動したのでしょうか・・・。 しかし、『日本土器製塩研究(青木書店)』の編者近藤義郎さんは、関東や中部などの中間エリアにおいてそれが移り動いた痕跡が見られないことから「その時期における空間的接点はない」として、また、土器の形態の上でも相当異なるとして、その可能性の言及にためらいを見せております。私は、水運が主な時代であるのにその空間論はいかがなものかと、多少の疑問を感じなくもないのですが、土器の形態が異なるとなれば、やはり同一文化ではあり得ないのかな、と納得しております。 したがって私は、備讃エリアのそれは、おそらく渡来系弥生人によるものだと思っているのですが、それについても近藤さんは朝鮮南部での研究成果が進展されないことには証明が難しいとして、極めて慎重な態度をとられております。 鹽竈文明は一体どこへ消えてしまったのでしょうか。実は大変気になっているのですが、最早実証のしようがない夢物語になってしまうので、ここでの深入りは避けておきます。 さて、鹽竈・松島エリアで、弥生中期に次ぐ古い成果が確認出来るのは実に文献時代8世紀頃のものになります。しかし、これらには縄文期からの連続性はみられないとのことで、全く異なる新しい文化が流れ込んだようです。形態としては7世紀に起こった北陸系のもののようですが、丁度多賀城時代ということになるのでしょうから、おそらく朝廷が持ち込んだものでしょう。 もしかしたら、この新しい伝播の姿が紀州和歌浦の伝承が言う「製塩の法の最終」、ということなのかもしれません。 しかし、多賀城時代に神武時代の鹽土老翁や長髄彦が落ち延びてきたということは考えられず、仮に、それらの主人公をあくまで「抽象的な存在」と大人のわりきり方をするまでもなく、私はこのはてノ鹽竈伝承が語る13箇所目――最終――の意味は、実は製塩とは無関係なところにあるのではないか、と見るのです。 |
鹽竈神社の謎 検証編
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鹽竈神社にかかわる歴史・諸氏の学説・神話伝説から謎を検証してみます。
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13という数字で、一般的にも有名なのは死刑台の13階段や、イエスキリスト処刑日の“13日の金曜日”という俗説などでしょうか。和歌山の図書館が休館日だったのも13日でした。 ちなみに私の誕生日も13日・・・・。 かつて思春期のある年、私の誕生日が金曜日と仏滅にぶつかりました。この日の朝、校内放送で放送部員が「今日は13日金曜日の仏滅です。とても不吉ですね。皆さまお気をつけてお過ごしください」などと発言したものですから、思わず教室のスピーカーに向かって「無礼者!そこに直れ!」と決して届くことのない抗議をした甘酸っぱい青春の思い出があります。ちなみに母は、厄年のときに私が生まれたといってはばかりません。 それはともかく、この13という数字は世界中でよく用いられる数字です。しかし、これをもって全てがキリスト教、あるいは西洋の影響を受けたなどと言うのは論外です。何故なら、地球上に生活していれば普遍的にたどりつく数字だからです。 時計やカレンダーなどが存在しない時代、人々は空のめぐり、特に月の満ち欠けを一つの基準にしたことでしょう。現代とは比べ物にならないほど、空のめぐりは日常にとって重要だったはずです。月はおよそ一ケ月で満ち欠けのサイクルを一巡します。それもそのはず、そのサイクルから一ケ月という概念が生まれているのだから当然でしょう。そして、それが12回繰り返されると、一年、つまり季節も一巡します。四季があまり明瞭ではない地域でも、日の出・日の入りの位置や星座のサイクルが、月のサイクル12回分で元に戻っていることには気付くはずです。これが12進法の起源であろうことは容易に推察できます。 特に、人類が農耕を営むようになると、それらに一つの寿命のようなものを感じざるを得なくなってくると思います。 例えば、北半球であれば、冬至を皮切りに、夏至に向かって太陽はどんどん高くなり、活動出来る昼間もどんどん長くなり、草木も生き物もどんどん活発になっていきます。 やがて、秋になり収穫の時期を終え、冬の声が聞こえると植物も枯れ、動物も眠り、まるで大地が死んでしまったかのようになります。そして月のサイクルが12回めぐったころに、また冬至が訪れるわけです。 さて、そうなると13とはどういう意味を持つのでしょうか。13とは当然最終12の後にある世界であり、ひとつには死後の世界、ひとつにはリセットされた新しい世界を指していると思われます。 これが13の持つ“普遍的”な意味でしょう。13とは、全世界共通で“死と再生”を意味する“普遍的な数字”であると考えます。 ちなみにクリスマスとは、本来冬至であったと聞きます。つまりキリストの生まれた日ではなく、冬至が意味する原始的な生まれ変わりの信仰がキリスト教にも引き継がれたものと考えられます。私は、お正月も本来は冬至であったのではないかとすら思っておりますが、何故ずれているのかよくわかりません。 さて、ここで『玉津島神社 鹽竈神社 ご由緒』の記述に目をとおしてみましょう。 ――引用―― 遠く尊は、全国各地を廻られて数々の大きな功績を残されましたが、なかでも製塩の法を伝えられた箇所が全国で十三箇所あり、和歌の浦の鹽竈はその九箇所目にあたる。 かの名高い奥州鹽竈(一の宮)はその十三箇所目であり、尊がこの地で果てられたために世にこれを「はてノ鹽竈」と言い伝えられている。 尊とは言うまでもなく鹽土老翁(しおつちのおじ)のことです。和歌の浦が9箇所目であるという部分はひとまず置いておき、少なくとも奥州が13箇所目であるという謎に対する答えはここに書いてありました。 奥州塩竈は、鹽土老翁の薨去の地だったのです。つまり人間鹽土老翁が死して神あがり、鹽竈神として生まれ変わった場所が、我らが奥州一之宮鹽竈神社だったと言うことなのでしょう。
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紀州和歌浦の鹽竈神社において“世にこれを「はてノ鹽竈」という”というわりに、実際に他では見たことがありません。この記述で13箇所のうち2箇所は奥州と紀州ということがはっきりするわけですが、残り11箇所は一体どこなのだろう、そんな好奇心が芽生えるのは当然でしょう。 私は鹽竈神社博物館でその件を質問してみました。すると、 「和歌山にそういう伝承があることは存じておりますが、具体的な場所はわからないですねえ」 とのことでした。 鹽竈神社博物館 この一言が私に“和歌山行き”を決行させたと言っても過言ではありません。これはもう現地で聞くのが一番です。 ちなみに最近、念のため塩竈市内の御竈神社の宮司にも質問してみましたが、わかりませんでした。 和歌浦に到着した私は、海と岩山のコントラストに思わず松島を思い出しました。いや、見慣れていない分だけむしろ松島よりも新鮮に感じたと言ったほうが正直なところかもしれません。 この日、午前10:00に大阪伊丹空港に到着した私は、空港付近でレンタカーを借りて高速道路をひたすら南下し、本来は真っ先にこの鹽竈神社へ来る予定でした。当初のスケジュールでは、12:30〜鹽竈神社、13:00〜玉津島神社、15:00〜図書館にて史料調査・・・と、いつも着の身着のまま木ノ実ナナの私には極めて珍しい実に計画的なもののはずでした。ついそんな自分がうれしくなり、わざわざ共同研究者の松島の知人Oさんにそのスケジュール表を電子メールで送ってしまったほどです。 ところが、阪和自動車道の和歌山インターを降りてやおら地図を開くと、インターからわりとすぐ近くに「日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮」があるではありませんか。思わず立ち寄ることにしてしまいました。 ここは菊池展明さんの『エミシの国の女神(風琳堂)』でも紹介されており、既に知っておりました。 なにしろ、ここには大変驚くべき伝承があるのです。現地説明板には次のように書いてあります。 「謹みて按するに日前國懸大神は天照大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからざる〜」 名状すべからざる稜威の天照大神の前霊とは一体・・・・。これはもう訪れておくしかないでしょう。 参拝後、地図を見ると、神武の兄「五瀬命」の陵墓である「竈山神社」が目に飛び込みました。 またしても強力な引力に引き寄せられて立ち寄ってしまいました。 その後、真っすぐに目的地に向かえばいいものを、せっかくここまで来れば紀伊国一之宮も一目見て置きたくなり、全く逆方向にも関わらず一之宮「伊太祈曽(いたきそ)神社」にも、ついつい参拝してしまいました。 ふと気がつけば、もう陽が傾いておりました。なにしろ冬至も近い時期でしたので当然です。にわかにあせってきた私は「今後一切寄り道をすまい」と心に決め、ようやく目的地に到着した次第でした。 さて、まず玉津島神社をうろうろしていた私は、何やらせわしく動いている宮司らしき人物を見かけましたが、今は彼と接触している場合ではないので、ささっと参拝を済ませ、すぐに鹽竈神社の方へ行きました。 なるほど「輿の窟」。まさしく岩の中に神社がありました。 一応仮設事務所のような社務所もあり、蛍光灯が点いておりましたが、中には誰もおりませんでした。 (さっきの方に聞くべきか・・・) そう思った矢先、丁度その御方が現れました。 「もしや、鹽竈神社の宮司様でいらっしゃいますか?」 「はい、そうですが」 ビンゴでした。どうやら玉津島神社と兼任だったようです。宮司はこれから安産の御祈祷をされるとのことで、その準備にせわしく動かれていたようでした。幸い、丁度ひと段落して、少しなら時間があるというので、社務所(?)に入れていただき、しばしの歓談をお許しいただきました。なんてツイているのでしょう。この後に図書館が休館で落ち込んでしまうことを知らない私は、自分の日頃の行いを褒めてやりました。 さて、社務所に飾ってあったカレンダーは、我らが一之宮「志波彦神社・鹽竈神社」のカレンダーで、思わず故郷が懐かしくなりました――今朝まで居たのですが――。聞けば、毎年送られてくるのだそうです。 宮司は、私が仙台から来た旨を告げると、たいそううらやましがり、ついつい雑談が盛り上がってしまいました。しかし、わずかしか与えられていない時間が無意義に過ぎていく焦燥感に駆られた私は、大変申し訳なかったのですが話の腰を折らせていただき、質問をぶつけさせていただきました。質問とはもちろん鹽土老翁が法を伝えたという13箇所についてです。すると、 「私は日が浅いのでわかりませんね」 とのことでした。
しかし、実は私はこの回答に失望しないのです。そもそも、明確な回答がないことを、伝承の“震源地”で確認しておくのが目的だったからです。何故なら、そんなものはないはずだと思っていたのです。もし13箇所が明確に存在するならそれはそれで興味深いのですが、私は、そもそも“13”という数字にこそ意味がある、と踏んでおりました。 |
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今ひとつ頭がもやもやとしている私は、紀州和歌浦を訪れました。 なにしろ、この地の鹽竈神社には、私の心を一発で惹きつけた「はてノ鹽竈伝承」があるのです。私が勝手に名づけた「はてノ鹽竈伝承」とは、鹽土老翁(しおつちおじ・しおつちのおじ)が製塩の方法を教え広めたところが13箇所あって、紀州のこの地は9箇所目で、本場である奥州のそれが最終13番目であり、世にこれを「はてノ鹽竈」と云う、というものです。 ここであらためて山下三次さんの『鹽竈神社史料』から和歌浦鹽竈神社の記述を再掲しておきます。 ――引用―― 和歌山縣海草郡和歌浦町字明光坪|鹽竈神社|無格社|祓戸神四座| 由緒。古へ天野丹生明神ノ神興玉津島へ渡御ノトキ此窟ノ内ニ渡セシ故ニ興窟ト云ヒ又興洗岩トモ云フ元窟神社ト稱セシヲ大正六年十一月二十二日鹽竈神社と改稱許可。 〔一説ニ、鹽槌翁ノ法ヲ傳ヘラレタル處十三箇所アリテ和歌ノ浦ノ鹽竈ハ其ノ九箇所目ニアリ奥州の鹽竈ハ十三箇所目ニアリテ世に之ヲ「はてノ鹽竈」トイフ――大正十五年三月該社ノ調査ニ依ル〕 前に引用したときは時期尚早と思い、あえて触れませんでしたが、実はこの記述の中で、鹽土老翁神が祭神とされていないことにお気づきでしょうか。鹽土老翁についての記述は、ここでも「こんな話もあるよ」の中にしか見受けられないのです。そして、肝心の祭神は「祓戸神四座」になっております。『鹽竈神社史料』は昭和二年発行ですから、少なくとも昭和二年当時において、この紀州和歌浦の鹽竈神社の祭神は「祓戸神四座」であったようです。 ちなみに「鹽槌翁尊」を主座に据える、現在のオフィシャルガイドブック『玉津島神社・鹽竈神社ご由緒』にもこの「祓戸大神四座」は明記されており、 「祓戸大神四座は即ち瀬織津比賣神、速開都比賣神、速佐須良比賣神、気吹戸主神 であり、大祓詞でも御承知のとおりすべての罪汚れを祓い清める神〜」 とご丁寧に解説まで付け加えられております。 もちろん、もともと「玉津島神社」の“祓所”が独立したわけですから、当然といえば当然かもしれません。他でも大神神社や出雲大社や春日大社といった大社において、拝殿に至る途中これらの祓神が鎮座して、ここでまず罪穢れを祓い清めていきなさい、とあったことについては前にも触れました。 それが何故わざわざ鹽竈神社に改称したのでしょうか。 ひとつには、この地が製塩の盛んなエリアであったからというのは言うまでもありません。それをカモフラージュにして祓戸神四座が前面に出ることを避けたとも考えられます。 なにしろ、この祓戸四座のうち、特に瀬織津姫についてはたびたび触れているとおり、かなりタブー性の高い女神なのです。それを鹽竈神社という名前に変えて中和してしまったという考え方も出来ると思うのです。 しかし、そこまで面倒なことをするくらいなら、いっそのこと独立させなければよかったのではないか、とさえ思うのですが、いかがでしょう。 玉津島神社 私は、神武天皇対長髄彦の背景を考えている中で、この鹽竈神社の示唆するものに、より深い意味を勘繰らざるを得なくなりました。 その部分に足を踏み入れてみます。 神武軍は、緒戦に惨敗して兄である五瀬命(いつせのみこと)が戦死した後、紀伊半島を大きく迂回して熊野経由で大和に侵入したと言われております。しかし、熊野灘は波の荒い海で、後世でも難所であり、当時の舟で乗り切り行軍したとするのは非現実的だ、と疑問を呈する方々も少なくありません。 つまり、ここでいう熊野とは、私たちが一般的に認識している熊野信仰の固有名詞としての熊野とは異なるのではないのではないか、とするものです。 宝賀寿男さんは、『「神武東征」の原像(青垣出版)』のなかで次のように書いております。 ――引用―― 「熊」の意味としては、「隈にて古茂累(こもる)義」(『紀伊国続風土記』)と説かれるように、山川幽深にして樹木の生い茂るところ、こうした地だから死者の霊も隠れるところであり、紀伊国の中心たる平野部の名草郡からみて奥まった山地の地域が本来「熊野」と呼ばれたのではなかろうか。 この場合、神武軍の迂回ルートとして自然なのは、紀ノ川遡上ルートです。とは言え、当時の紀ノ川は、現在の流路と異なることも頭に入れなければなりません。
当時の紀ノ川は、ほぼ現在の和歌川の流路で、吉野や高野山から集められた聖なる水は、まさにこの和歌浦鹽竈神社のあたりから海へと解放されていたのです。 つまり、ここから吉野や高野山方面、あるいは大和盆地方面へ遡上出来たということです。この和歌浦の地こそが、神武天皇の再上陸の地、すなわち長髄彦へのリベンジメモリアルの地でもあったと思われます。 この地に最強の神威を持つとされる女神が祀られたのは、決して偶然ではないのではないでしょうか。 私は、もしかしたら和歌川――旧紀ノ川――河口の、この輿の窟(こしのいわや)――現鹽竈神社――こそが本来の玉津島神社の原型で、そこでは元々瀬織津姫が祀られており、いつの時代にか他社同様主座から下ろされ、単なる祓い神になってしまったのではないか、と考えます。 では、そのような神社に伝わる「はてノ鹽竈伝承」とは、一体どんな示唆を含むと考えられるでしょうか。 |
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現在、鹽竈神社には「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」の総本社的なイメージがあります。鹽土老翁は、『日本書紀』のなかで神武天皇にとってかけがえのない存在でした。少し、そのあたりを眺めてみます。 まず、「海幸彦――火酢芹(ほのすせり)命――」・「山幸彦――彦火火出見(ひこほほでみ)尊――」の物語があります。 神武の祖父である山幸彦は、兄海幸彦の大切な釣り針を紛失してしまい、激しく責められて悩んでおりました。そのとき、一人の老翁に「心配御無用」と優しく声をかけられ、海底の海神の宮へと導かれたのでした。それがトラブル解決の糸口となりました。さて、その老翁こそが鹽土老翁です。 ここで悪役の海幸彦に「ほの」が付くところは気になりますが、置いておきます。 山幸彦はこの海の宮で海神の娘「豊玉媛(とよたまひめ)」と出会い、これを娶りました。海の宮はたいそう安らかで楽しいところだったようで、私もいずれウチのカメさんに連れて行ってもらう予定なのですが、つまり、この話はいわゆる浦島太郎の原型と思われます。 そして、この山幸彦と豊玉媛との間に生まれたヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトこそが、五瀬命・神武天皇兄弟の父親です。 その後、神武天皇に「東方に美し土地がある」と大和の地を教えてくれたのも、またまた鹽土老翁でした。鹽土老翁は、楽園のような場所を常に把握しているようです。 いずれ、鹽土老翁の案内によって長髄彦は侵略の憂き目にあったわけですので、これを考えるとき、伊達綱村の発想で別宮に鹽土老翁を持ってくることはあり得なかったのかな、と思ったりも致します。 また、綱村――厳密には調査依頼を命じられた編纂メンバー――が大いに参考にしたと思われる鎌倉時代の『春日権現験紀絵』――春日大社の縁起絵巻――においても、鹽竈浦に天降った神はあくまで武甕槌(たけみかづち)であり、そこには経津主(ふつぬし)も鹽土老翁も表れておりません。 彼らがここに鹽土老翁の名をもってきた理由は、一つには、おそらく鎌倉時代の『源平盛衰記』の影響ではないでしょうか。「歌枕、注(しる)して進(まい)らせよ」と体よく陸奥に左遷された藤原実方中将が、名所「あこやの松」を探していたとき、その場所を教えてくれた老翁が鹽竈大明神であったとのことでした。ここで、鹽竈大明神には「老翁」のイメージが固定されたように思われます。 そしてもう一つには、長髄彦と異なり、天孫の恩人、鹽土老翁を祭神として持ってくることは朝廷の覚えもめでたいものと判断したかに思われます。 しかし、綱村らは決して鹽竈神が鹽土老翁であるとは断言しておりません。 前に触れたとおり、『元禄縁起』において、鹽土老翁の名が出てきたのは鹽竈神社の別宮が六所明神と呼ばれる所以を述べた話の中に過ぎず、同体異称の6柱の神のうち、1柱がそうである、という、どちらかというと「こういう話もあるよ」的な扱いに過ぎませんでした。しいてあげれば、大祭礼が鹽土老翁の故に7月10日であるとしているあたりは、さも主座が鹽土老翁であることを示唆しているかのようではあります。このあたり、綱村の微妙に揺れる心理描写を垣間見る気が致します。 いずれ、鹽土老翁=鹽竈神という“一般常識”は、この綱村の揺れる心理をついたものと思われ、幕末から明治、あるいは現代にかけて強化されてきたものと思われます。そのからくりは既に考察しましたが、少しつけ加えるならば、別当寺である法蓮寺からの支配脱却を目指す当時の神官藤塚親子としては、『元禄縁起』に明記された岐神よりも、鹽土老翁の方がよほど都合がよかったのではないでしょうか。 さて、鹽土老翁という代名詞と共に広まったのが“塩焼きの方法を伝えた”という故事でした。ちなみに、『先代旧事本紀大成経』においてその役割を果たしていたのは長髄彦でした。 『元禄縁起』では、どうも『大成経』での長髄彦のインパクトを岐神や鹽土老翁に分散させた感があります。 |




