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鹽竈神社の謎 検証編

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鹽竈神社にかかわる歴史・諸氏の学説・神話伝説から謎を検証してみます。
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アベと鹽社と長髄彦

 鹽竈神社と長髄彦を結び付ける話は『先代旧事本紀大成経』にしか見受けられないわけですが、仮にこれが完全に17世紀の創作だとして、それではそのような説は、17世紀に初めて生まれたものなのでしょうか。個人的にはもっと古くから一部の秘伝としては存在していたと考えます。実のところ、私は、それが安倍氏と無縁ではないと思っております。
 鹽竈社家としてある程度信用出来る史料上の検討で、最も古くまで遡って考えられるのは安倍氏でした。鹽竈神社は古くから左右両宮で成り立っていたわけですが、左宮の阿部氏に対し、右宮の禰宜としては小野氏がおりました。これについて鹽竈神社博物館開館10周年の記念として発行された『一森山叢書 第二編』に寄稿した豊田武さんは「阿倍姓を安大夫というのに対し、右宮一祢宜の小野姓を新大夫というのは、阿倍姓より新しい証拠である」と鋭い指摘をしております。
 また豊田さんは、神職としてのアベ氏について次のように語っております。

――引用――
一、阿部姓 神職中阿部姓は、左宮一祢宜・左宮膳大夫替役・別宮若子の三名であり、左宮一祢宜の安大夫阿部家は社人の中でもっとも古い姓である。安太夫は安倍大夫の略であろう。阿部・安倍・阿倍の姓の中では、阿倍がもっとも古く出てくる。いずれも東北地方に多い姓で、蝦夷が帰服し、希望して阿部姓をたまわるものが多い。神護景雲三年、丈部の人々が阿部陸奥臣等をたまわったのをはじめとして、その例は多い。
 鹽竈神社の神職阿部氏がこれと関係ある阿部氏であるとすると、鹽竈神社の神職中に地方の土豪の阿部氏を代表して参加するものがあったか、あるいは阿部氏の祭る神が鹽竈の神の一部に加えられていたか、どちらかであろう。〜以下省略〜

 ここで豊田さんは「土豪の阿倍氏を代表して参加するものがあったか、あるいは阿倍氏の祭る神が鹽竈の神の一部に加えられていたか、どちらかであろう」としておりますが、「どちら“か”」ではなく「どちら“も”」であると私は考えております。
 おそらく、古代において既に「鹽竈大神は長髄彦である」という俗説があったからこそ阿倍氏が参加させられたのではないか、と考えるのです。少なくとも、ここでいう土豪の阿倍氏――奥州安倍氏――は、自分達は長髄彦の兄「アビ」の末裔であると自称していたわけです。恐ろしい祟り神はその裔族に祀らせるのが上策であることは言うまでもありません。
 あるいは、もしかしたら安倍氏が禰宜として参加させられたことをきっかけに、鹽竈神社と長髄彦の縁が風評されたことも考えられます。元をただせば案外安倍氏が吹聴した噂話に過ぎないのかもしれません。
 いずれ、このような点から私は江戸時代の『大成経』事件以前から、例えば神職の間などで内々に鹽竈大神長髄彦説が存在していたのではないか、と考えます。
 鹽竈神社の起源にはいろいろな伝承がありますが、よそから来たテクニカルな何者かがこの地に留まった、とする部分についてはほとんど共通しております。
 また、この地に来た理由についても、脛に傷を持って都落ちしたかのような伝承も2〜3見受けられます。
 そして、彼らの事績としては悪神を共順させたという征服的なにおいのするもの、あるいはこの地を開拓して先進文化を教え広めたとするもの――主に製塩――などが主なものでしょうか。征服も開拓もある意味で同じと言えば同じですが、私はそこに二重三重の進出劇があったものと考えております。
 問題は、その進出の主体が何者か、でしょう。
 鹽竈大神が長髄彦であると信じたであろう伊達綱村は、賑わいを失っていた塩竈の港町の現状を思い出し、かなり憂いたことでしょう。このまま門前町を衰退させていては長髄彦の怒りに触れかねない、と思ったとしても不思議ではありません。
 少なくとも「どげんかせんといかん」ならぬ「なんじょにかすねげなんね――同義の仙台弁――」と考えたことは間違いありません。何故なら、前に触れたとおり、貞享二年(1685) 、綱村は塩竈村に9ヶ条の特例――経済特区――を発令して、“鹽竈大神鎮座地の繁栄”をはかっているからです。
 そして、その8年後元禄六年(1693)には新たな縁起を制定しました。
 私が興味深いのは、その縁起において別宮祭神に「岐(ふなど・くなど)神」を持ってきたところです。
前に触れた出雲神族の末裔「富當雄さん」によれば、トミノ長髄彦は出雲神族であったといい、本来出雲神族が代々祀る神は「岐神」であるとのことでした。
 仮に鹽竈大神が長髄彦であるとして、それが決して悪の権化ではないと信じていたとしても、朝敵である以上とてもあからさまに祀ることはできません。まして、その論拠となっていた『先代旧事本紀大成経』が偽書になってしまった上では尚更です。
 しかし、岐神であれば、全国あちこちに祀られており、また、長髄彦も祖先神の岐神として呼んでもらえるならばきっと不満ではないでしょう。綱村の苦悩がこの祭神決定に表れているのではないでしょうか。
 さて、綱村はその決定を形にすべく、縁起決定の2年後の元禄八年(1695)には社殿及び配置の大規模な改造にとりかかります。
 その際、いつの頃からか境内に並んでいた只洲(ただす)・貴船社については、社人――在庁官人鎌田氏――の建てた社であることを理由に、他へ遷しました。
 只洲社についてはだいぶ離れた仙台藩領内の別な場所――仙台市泉区加茂・鎌田氏の本拠付近――に遷し、そこに賀茂社を新設しましたが、貴船についてはよくわかっておりません。2〜3疑わしい遷座地もありますが、史料としてはどこに行ったのか不明です。実は問題の別宮がそうではないか、という説もあり、興味深いところです。
 ちなみに只洲社――糺社――とは、賀茂御祖社――下鴨社――のことで、玉依媛の父親、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を祀ります。
 その化身は、神武軍のリベンジに活躍した「八咫烏(やたのからす)」です。つまり、長髄彦の遺恨の敵にあたります。もしかしたら綱村はそれを憂いたのでしょうか。遺恨の敵を近くにおいていたことが、大神の怒りに触れ、家中の乱れを招いたとでも考えたのでしょうか。

仙台市泉区の賀茂神社
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 ようやく出会えた信頼出来る“真のバイブル”に、自分がこれまで信じていた神が、実は“悪魔だった”と書かれていたら、皆様はどう思われるでしょうか。
 ハイティーンの伊達綱村が直面したのはそのような事態だったと思います。
 綱村は、ようやく出会えた最高な思想的歴史書『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』によって、それが正解かどうかは別として、領内最大の大社が長髄彦(ながすねひこ)を祀っていたことを知らされました。
 長髄彦は紛うことなき代表的な朝敵です。キリスト教で言えば、いわば“サタン”です。
 例えば通常の出雲神であれば、一応は正史の中では天孫族と和解しており、当然綱村の時代においても、曲がりなりにも表面上は丁重に公然と祀られておりました。
 しかし、長髄彦は神武天皇に弓を引いて散々翻弄したあげく、結局は滅ぼされて、以来正史上、その後復権を果たしたことなど特に見られず、当然それを公然と祀っている神社などは全国を見渡してもおよそ見当がつきません。大阪府東大阪市の「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」にそれを疑うことが出来るとは言え、特に明文化されているわけではなく、しかもそれはあくまで現代人の研究仮説の話です。
 つまり、綱村の時代においても、長髄彦は十分に代表的な朝敵であったはずです。ましてや朱子学が流行していたのなら、朝敵への悪人志向は尚更激しかったはずです。
 明治以降、第二次大戦終戦まで、足利尊氏がずっと悪者扱いだったのは何故でしょうか。
 それは後醍醐天皇に弓を引いたからです。
 「金鵄(きんし)」が何故偉大な勲章の代名詞になり得たのか。
 それは偉大な人皇初代の神武天皇が、最悪最強の朝敵長髄彦に逆転勝ちをするきっかけを作ったからでした。
 綱村は幼少時、幕府の厳しい監視と、重臣を二分するお家騒動の混乱に散々翻弄され、おそらく優しい母と共に毎日神仏に祈り続けていたことでしょう。そして当然地元筆頭の神であった鹽竈大明神にも、事あるごとに家内平穏を祈願していたことでしょう。
 ところが、その、とびきり篤く信仰していたであろう鹽竈大明神が、こともあろうに最悪の朝敵“長髄彦”だったとは・・・・。
 綱村のショックは相当なものだったのではないでしょうか。
 「余は、とんでもないものを領内に抱えていたらしい・・・」
 綱村はそう思ったかもしれません。
 しかし、『大成経』によれば、長髄彦は民に製塩の法を教え広め、神功皇后のピンチを助け、朝敵を撃破して復権を果たしていることになっておりました。それがせめてもの救いではあったことでしょう。
 ところが、その『大成経』はほんの数年のうちに幕府に“偽書”と断罪されてしまいました。
 まあ、偽書ということであれば、すなわち鹽竈神が長髄彦である説も同時に消えてなくなる概念とも思えますが、こういった精神に刷り込まれたもの、特に祟りを為しかねない恐怖心がからむものについては、なかなか頭から離れられないものです。
 例えば、「あの国道の交差点で、深夜にアザミを持った女性を見かけると事故を起こす」というような風評が流れて、それがしばらく都市伝説的に信じられてきたとして、その風評を流した張本人が、「実は、あれは俺の作り話さ」と暴露したとしても、その後、しばらくは深夜にその国道の交差点付近に女性が立っていただけでも背筋が寒くなったりするものではないでしょうか。
 かつて、私が花も恥じらう16歳の頃、小学生の頃から仲の良かった友人が、複雑な家庭の事情により、孤独に働きながら他に入居者もいないようなボロアパートに一人で住んでおり、一人暮らしという部分のみは半ばうらやましく思いつつ、ちょくちょく遊びに行っておりました。
 その古アパートは、本来トイレ・風呂共に共同でしたが、ほぼ貸切でした。
 とは言え、それは一旦部屋から出て、暗く寒々とした誰もいない真っ暗な廊下を歩いた先にありました。
 彼の部屋に泊まったある日、私が風呂を借りたいと申し出ると彼は、
「あの風呂は蓋をあけると水面に知らない人の顔が映るから見ないほうがいいぞ」
などと私に脅しをかけました。
 実は単なる冗談だったのですが、純朴かつ思春期の私はどうにも風呂に入る気になれず「やめた・・・」とあきらめたことがあります。
 その後、おもしろい現象が起きました。
 なんと私をからかった彼はしばらく風呂に入れなくなったそうです。間抜けな話ですが、風呂に入ろうとすると自分の作り話を思い出し、妄想が膨らみ恐怖心がとれなくなったというのです。ざまあ見やがれと言って差し上げました。
 これは、あるいは日本人特有の言霊信仰なのかもしれません。
 いずれ、仮にあきらかに嘘だと知っても、一度そう考えたものは、特に神霊の恐怖にかかわるものは、なかなか払拭できない好例かと思います。
 私は綱村にもその思いが残ったはずだと考えます。
 いや、厳密には、おそらく綱村は『大成経』が偽書と断罪された後でも、隠れキリシタンのようにそれを信奉し続けていたのではないか、とさえ思います。なにしろ潮音がそうだったのですから・・・・・・。
 仙台4代藩主伊達綱村は、おそらく『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』の影響を受けておりました。そして、その影響は現在に伝わる鹽竈神社の“かたち”においても表れていることについて、遠回りしながら語ってきました。
 少しおさらいをします。

1、綱村は新興仏教である黄檗宗(おうばくしゅう)を崇敬していた。
2、綱村が崇敬していた黄檗宗の宗派は、当初、国内の先駆者潮音の黒瀧派であった。
3、黒瀧派の祖、潮音は同時に『大成経』に陶酔していた。
4、同一人物の思想の咀嚼によって、黄檗宗黒瀧派と『大成経』は不可分の関係にあったと思われる。
5、つまり綱村も同時に大成経の影響を受けていたと思われる
6、綱村が命じた歴史編纂方針に、『大成経』の聖徳太子によるとされる序文の影響が見られる。
7、綱村が造営した鹽竈神社の社殿、二拝殿三本殿は、大成経の伊勢論二社三宮論の影響を思わせる。
8、鹽竈神社でアウトロー的でありながら最も重要と思われる別宮が、伊勢別宮の伊雑宮を思わせる。

 補足ですが、上記2において「当初」と記しているのは、綱村が途中から宗派を変えている――黄檗宗黒瀧派→黄檗宗長松派――からです。おそらく犯罪的偽書『大成経』と無関係であり潔白たることを幕府や朝廷にアピールしたかったから乗り換えたのでしょう。
 綱村は、幼くして伊達騒動――寛文事件――のキーマンとして、幕府に目をつけられる恐ろしさをトラウマとして抱えているのです。余計な火種は早めに消すのは当然でしょう。
 しかし、上記6、7、8からは、やはり『大成経』の影響を感じ取れると言わざるを得ません。『鹽竈神社(学生社)』の押木耿介さんは、当時の国学興隆に伴う神道研究の流れと、かつて私がそう考えたように儒学の影響と考えているようですが、今にして思えば、おそらく押木さんの「国学興隆」という言葉の裏には、暗に『大成経』の示唆が含まれていたのかもしれません。

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 さて、それではその『大成経』において、鹽竈神社は一体どのように書かれていたのでしょうか。
 以下は、小笠原春夫さん校注の『續 神道体系 論説編 先代舊事本紀大成経 (財団法人 神道体系編纂会)』から、『大成経』が語る、ずばり鹽竈神の正体です。

――引用――
大歳在於己未、春二月壬辰朔辛亥、長髄彦神、爲天孫尊被襲、而棄大倭國、往於陸奥國、故中國順伏、這長髄彦神、元人神尸化嶽山祇神兒、在陸奥國、焼鹽施民、后櫻宮御代、依住吉神催促、前韓国先、能擊數百異神韓怨、其長高其力強、其威巍其氣猛、故倶洲輪神司軍船有功、仍爲陸奥鎮守、今鹽竈神是也
 是雖逆反之、則成忠徳位、其事之元也

 漢文の羅列に、一気に戦意喪失された方もいらっしゃるかもしれません。
 これは、神武天皇の東征の事後譚です。懐かしい表現で言うならば、「ザ・デイ・アフター」です。
 神武に敗北した「長髄彦(ながすねひこ)」は、大和を棄てて、陸奥國に逃げたというのです。
 『日本書紀』では妹「三炊屋(みかしきや)媛」、すなわちトミヤビメの夫である義兄「饒速日(にぎはやひ)」に殺されたはずの長髄彦でしたが、『大成経』では陸奥國へ逃がれたと記録されております。
 陸奥國に逃れた後の長髄彦は民に製塩の法を教えひろめ、言うなれば善行を施していたようです。
 後年「神功皇后(じんぐうこうごう)」が韓国――新羅?――を攻める際、屈強な敵に苦戦しているとき、住吉神の催促で洲輪神――諏訪神?――と共に、長髄彦の神霊が現れ、見事敵を撃退したようで、これこそが陸奥國の鎮守「鹽竈神」である、というのです。
 鹽竈神は、反逆をした者といえども忠徳を成した元祖であるとのことだそうです。

 とにかく、少なくとも『大成経』は鹽竈神を長髄彦であるとしていたのでした。
 「伊雑(いざわ)宮」の再反撃と、『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』の大流行には、当然「伊勢神宮」側も黙ってはいられません。伊勢神宮側は、その権威をフルに活用して幕府に強く訴えかけていったのです。
 幕府としても、『大成経』の普及が国家の宗廟の権威を脅かしかねないとあっては、さすがに無視できません。
 天和元年(1681)、ついに『大成経』を偽作と断じ、焚書・発禁、そして直接の出版者「戸嶋惣兵衛」を追放、戸嶋のもとに原版を持ち込んだ潮音道海と永野采女、そして偽作を依頼したとされる伊雑宮の神官らは流罪となりました。
 しかもその翌年、伊雑宮側の代表者が暗殺されるという事件にまで発展したと言います。この騒動の根がいかに深いものであったが窺われます。
 ちなみに、潮音道海だけは、綱吉の母の帰依――もちろん黄檗宗としての――が深かったことが幸いし、特に罪状を減ぜられて、謹慎50日の上、上州館林――群馬県――の黒瀧山不動寺に身柄を移されるにとどまっております。
 ところで、幕府は、意外にも『大成経』の“記述内容のふとどきさ”については、とりたてて咎めてはいないのです。
 つまり伊勢神宮側の主張を全面的に受け入れて処断したわけでもないということです。
 幕府は、面倒な内容については一切ノータッチで、あくまで「きちんと届け出をせずに出版した」ことを咎めました。
 つまり、幕府は真偽云々ではなく、国家の宗廟である伊勢神宮が異を唱えているから、社会的秩序の通念から禁書にしたのでしょう。
 思うに、幕府は、『大成経』の内容に対しては、あまりにデリケートな問題のために軽はずみな裁定を避けたのではないでしょうか。
 しかし、最大の仕掛け人が、時の将軍「徳川綱吉」の師匠である黄檗宗の僧「潮音道海」であった事は、幕府側にとってかなり頭が痛かったことでしょう。
 なにしろ、潮音は綱吉のブレーンであり、神君家康公に対する天海の立場に近いものがあったと思われます。
 国家の宗廟の根幹にかかわる問題文献を、事もあろうに征夷大将軍の政治顧問が大絶賛して推奨してしまったのです。そこに『大成経』が歴史的な偽書として汚名を残すはめになった特殊性があったと考えます。

 この一連の事件で懲りたのか、天和二年(1682)、これをきっかけに幕府は新たな法律を制定しました。
「新作之慥(たしか)ナラザル書物、商売スベカラザル事」
 由緒の定かではない“新書”を流通させてはならない、というのです。
 私は、鹽竈神社についての謎の古文書『東鹽家(ひがししおや)文書』が消えてしまったのも、その推定時期から考えて、もしかしたらこの法律にひっかかったのではないかと想像するのです。
 念のため、前に作成した関連年表に、この新しい法律――『正宝事録』――の項目を挿入の上、再掲しておきます。

1661年( 3歳) 3代藩主伊達綱宗罷免・伊達綱村4代藩主相続。後見人政治開始

1663年( 5歳) 鹽竈神社 寛文の造営開始

1671年( 9歳) 原田甲斐、審問の直後に伊達安芸を惨殺

1675年(17歳) 明治8年から200年前――東鹽家文書喪失推定時期上限――
          黄檗宗僧侶 潮音により『先代旧事本紀大成経』が出版されたと思われる

1681年(23歳) 『先代旧事本紀大成経』焚書 発禁

1682年(24歳) 諸国に「新作之慥(たしか)ナラザル書物、商売スベカラザル事」の高札が立てられる

1685年(27歳) 明治8年から190年前――東鹽家文書喪失推定時期下限――
          綱村、塩竈村に9ヶ条の特例――経済特区―― 鹽竈大神鎮座地の繁栄をはかる

1693年(35歳) 綱村、鹽竈神社元禄縁起作成、祭神確定

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