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『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』が、誰によって創作されていようとも、その部分は幕府としてもさしたる問題ではなかったことでしょう。 幕府としては、時の将軍に思想的影響を与え兼ねない大人物が、こともあろうに「伊勢の根幹を揺るがす思想に陶酔してしまった」ということが一番忌々しき問題だったのではないでしょうか。 そもそも、『大成経』の大流行は、幕府トップクラスの高僧、及び信頼出来るカリスマ出版者の威光に裏付けられたもの、と考えられます。 これらの流行に、元々、本場を主張しながら「伊勢神宮」と対立し、常に劣勢で斜陽化にあった「伊雑(いざわ)宮」は息を吹き返しました。鬼の首をとったようにこの『大成経』を掲げ、起死回生の反撃を始めたのです。 なにしろ、その奇怪なベストセラーには、「別宮」であるはずの「伊雑宮」が「内宮・外宮」よりも上位であることを露骨に示唆する「二社三宮図」なるものが添付されているのです。 ところで、私は「二社三宮」という言葉と、「別宮」が単独で両宮に優先されるという、その“えも言われぬ”絶妙なニュアンスに、ふと、これらは伊達綱村の鹽竈神社観にも大きな影響を与えたのではないか、と直感したのです。 何故なら、綱村が発案した鹽竈神社の社殿形態は全国にも類例がない「二拝殿三本殿――三本殿二拝殿――」だったからです。 そして、鹽竈の“謎の「別宮」”とは、古来「左右二宮」とされてきた鹽竈神社に、綱村が新たな縁起を制定して、生まれたものです。それが現在においても「鹽竈様そのもの」と考えられてきていることは、たびたび触れているとおりです。 鹽竈神社造営の変遷(寛文〜宝永):東北歴史博物館発行『奥州一宮鹽竈神社』から今野が書写作成
私は、鹽竈神社の「別宮」という意味不明な命名の由来は、公式HPが語る「特別」の「別」でも、『東鹽家文書』が語る「国別大神」の「別」でもなく、綱村が伊雑宮をヒントに思いついたものではなかったか、と思い至るのです。 |
鹽竈神社の謎 検証編
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鹽竈神社にかかわる歴史・諸氏の学説・神話伝説から謎を検証してみます。
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今、私の論考は、鹽竈神社の謎を検証しようとしているうちに、江戸期の鹽竈神社中興の祖、伊達綱村の思想背景にどっぷりつかっております。
伊達綱村の思想とは、表面的には黄檗宗でありました。これは斯界でも認める厳然たる史実です。 そうなると、私としては当然、同時代に存在した日本における黄檗宗のパイオニア、潮音道海に言及せざるを得なくなってくるわけですが、どうもその潮音は、一方で『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』なる「偽書」を絶賛していた、ということがわかりました。 しかし、何を隠そう、この『大成経』は、山下三次さんの『鹽竈神社史料』において、はっきり「偽書」と断罪され、無視されていた史料でした。 正直なところ、私にとって『大成経』が偽書か否かは、とりあえずどうでもいいことです。もっと言えば、私も「偽書」に間違いないと思っているくらいです――この場合の偽書とは、成立年代や撰者に偽りがある、という意味です――。 しかし、偽書だろうがなんだろうが、おそらくは綱村の思想に影響を与えたことは間違いなく、それが激しく疑える以上、私には無視出来ません。 いずれ、『大成経』が偽書であり、仮に、潮音の共犯者、永野采女の手によるものだとしても、潮音ほどの人物にその立場を忘れさせるほど“熱い気持ち”にさせたわけですから、その完成度がずばぬけて高かったということは間違いないでしょう。 その場合、永野采女という無名の神官がいかに怪物だったかをも思い知るのです。 原田実さんによれば、采女はあの天海僧正に「神儒仏三教一致」の教えを学んだそうで、また『長野采女伝』には、彼と交渉があった名士として、雲居僧正、心月観公禅師匠、一条関白などの名を見ることができるそうです。どうやら、采女はそのようなコネクションをフルに活用していたと思われ、なかなかしたたかな人物だったようです。 それにしても、一介の浪人に過ぎない采女が、何故それだけの名士らと交渉を持てたのでしょうか。身分のうるさい江戸時代にあって、これは驚くべき事実と言わざるをえません。 おそらく、私は、この永野采女という人物は、平安時代の空海や、幕末の坂本竜馬クラスの史上稀なる天才ではなかった、と想像しております。 実は、彼らに共通して思うことがあります。 彼らの超人的な活躍は、よく考えると、とてもあり得ない不自然さであり、本当に彼ら単独で成し得たものなのだろうか、という勘繰りが芽生えます。 もしかすると彼らの血統的な背景が、私にその勘繰りを助長させるのかもしれません。 例えば、空海は傍系とは言え佐伯氏、つまり大伴氏系の血筋です。しかも、空海が生まれた讃岐地方は、秦氏ら、渡来系の農民たちが多かったようです――司馬遼太郎さん『空海の風景(中央公論新社)』より――。 一方、坂本竜馬は長宗我部氏に仕えていた家柄の末裔、すなわち秦氏系の末裔に仕えていた家柄の出です。 大伴氏と秦氏、いずれも歴史の裏舞台において底の知れない神秘性と実力を備えた一族と言って良いでしょう。 ちなみに、潮音の母方は「波多野(はたの)」姓でした。 いずれ機会があれば、このあたりをもっと深く掘り下げてみたいと思っております。 さて、現段階で一つだけ気になる事を言い残しておくならば、永野采女の家には代々「物部之家伝」なる神道奥義が伝わっていたようです。 それが『旧事紀』あるいは『大成経』の原典に近いものかどうかはわかりません。 『旧事紀』や『大成経』の原典についての私の考えを述べるならば、やはり記紀以前に実在していたのではないか、と思っております。 そして、その撰者は、秦河勝であり、蘇我馬子であったのではないでしょうか。彼らが推古天皇の権威のもとに――あるいは馬子にもそれだけの権威があったかもしれません――、実際に六家から強制的に集めたものであったことでしょうから、現在私たちの目に触れるものとはかなり異なる内容であったと思います。 想像ですが、特に、名族物部氏の雄、守屋を滅ぼしたばかりでしたので、その鎮魂の意味も添えられていたのではないでしょうか。 批判を恐れず極言すれば、私は『旧事紀』編纂のきっかけは、物部守屋の怨霊鎮魂にあったのではないか、とすら考えております。 平安時代に入り、衰微しつつあった物部氏が復権を目指し、かつて自家が提供した控えを中心にして、『旧事紀』を世に出したと思われます。 しかし、あくまで目的は物部氏の復権でしょうから、最低限それを裏付けられればいいわけで、ほとんどの内容はあたりさわりなく記紀に迎合していたのだと想像します。だから「偽書」にもされず、長い間信用されてきたのでしょう。おそらく当初のストレートな内容などで復活させていたら、物部氏はますます衰微していたに違いありません。 その後、永野采女の時代まで、既に700年以上の時間が流れておりました。 私の仮説としては、采女は自家に伝わる「物部之家伝」なる神道奥義に、なんらかの補正を加えてあの膨大な『大成経』を仕上げたのではないかと考えております。 |
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原田実さんは、『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』についての論考の中で、長谷川修さんの次のような見解をウェブ上に紹介しておりました。長谷川さんの著書『古代史推理(新潮社)』から引用します。 ――引用―― 延宝・天和の頃といえば、俳諧の芭蕉、『万葉代匠記』を書いた契沖、小説の西鶴、数学の関孝和、その他、新井白石(ただし彼はまだ二十代であった)、山崎闇斎、木下順庵、山鹿素行・・・・・・など、ここに一々挙げきれないくらい多数の学者や能才たちのひしめいていた時代である。これらの人たちはみんな、後世に多大の影響を与え得た非凡な連中であり、彼らの中に混って、しかも将軍綱吉の師匠格に当る潮音が自信を持って世に問うた大著『先代旧事大成経』が、そんなに凡庸なものであったとは到底思えない。もともと聖徳太子撰録の『旧事紀』も焚書になっているのだから、その点でも焚書の価値すらなかった平安初期の『先代旧事本紀』に較べて、この潮音の『大成経』の方は、まず焚書にされるだけの価値を具えていたに違いない、と大いに興味をそそられるのである。 長谷川さんは、自身、直感的な古代史論を展開する人で、その観点から潮音の洞察力を評価しております。基本的に『大成経』は潮音が偽作したものだという前提に立った上での評価ですが、その賛否はともかく、実に納得できる見解だと思います。 長谷川さんの古代史観は実に独創性にあふれております。 彼の持論では、天智天皇は、その後焚書にしたであろう聖徳太子撰の本物の『先代旧事本紀』――そう呼ばれてはいなかったでしょうが――を参照し、不都合なところを削除しながら自らの政治理念に忠実な『日本書』なる史書――折口信夫さんの仮説上の文献――を編纂したとしております。 さらに、次代の天武天皇はそれをベースに『日本書紀』の編纂を命じたのではないか、ということでした。 尚、平安時代に出現した『旧事紀』については、「国造本紀」などの一部を除いては既に原型をとどめたものではなく、ほとんどが『日本書紀』の焼き直しであったのだろう、としております。それで先ほどのような話が出てくるわけです。 長谷川さんの考え方は独特で面白いので、もう少し前述書からご紹介しておきます。 ――引用―― 〜奈良時代から平安時代に建てられた有名な仏教寺院を一つ一つ調べてみると、それらは古代史と密接な関連のもとに、普通なら神社として建てられるべき場所に仏教寺院が建てられている。高野山、比叡山、熊野をはじめ、全国の仏教聖地と見なされる場所はすべて、本来仏教とは何の関係もなく、全部古代史と密接な関係を持つ場所なのである。これから見て、本地垂迹説を唱えた仏門系の人たちは『記紀』を読み通して、既に『記紀』の虚構古代史のからくりをいちはやく見抜いていたに違いないと思われるのだ。 平安初期に『書記』を抄録した『先代旧事本紀』が書かれるが、この著者はおそらく神道系の人だっただろう。そして神道系の人々にも優れた人がたくさんいただろうが、『書記』をそのまま引き写した『先代旧事本紀』のような書が残されているところから見ると、この平安初期の時点では、仏門系の人たちの方が神道系の人たちよりも、遥かに深く古代史を見通していたと云えそうに思う。 この「神社として建てられるべき場所に仏教寺院が建てられている」という部分への着眼点には、私も全くもって共感しております。 ただし、後半のさも神道系の人々が鈍感であるかのような記述には、少々異を唱えたくなります。 何故なら、神道系の人々は、真実をわかっていても表現出来なかった、という“裏事情”があったからです。 古代における寺院は、原則として“官寺”であり、基本的には政策に密接なものです。 従って、忌々しき聖地をことごとく仏の力で鎮魂していく、という基本方針もあったはずですから、古代史に密接な場所が寺院に塗り替わっていても当然なことと思います。 とはいえ、その因果に着目したところにはやはり共感を覚えるのです。 長谷川さんは続けて次のように語ります。 ――引用―― 『記紀』は聖徳太子撰録の『旧事紀』を原本に用いている。すると『記紀』を読んで、その底にある『旧事紀』の原型を洞察すること――これが古代史をさぐる一つの有力な方法になる。従来高僧と云われる人には、独特の直観力と深い洞察力を持つ人が多いが、江戸時代の潮音もこの種の能力に優れた人で、彼は『記紀』の語る虚構古代史から、立ちどころにその背後にある『旧事紀』の原型が見通せたのであろう。従って彼の『先代旧事大成経』は、彼が『記紀』の背後にみた『旧事紀』の原型の姿を、そのままとらえたものだっただろうと想像される。 もちろん、あくまで長谷川さんは潮音が『大成経』を創作した前提で語っておりますが、それでもおおむね賛成です。
ちなみに原田実さんは、潮音の共犯者とされる永野采女が『大成経』を創作したと考えており、長谷川さんの潮音に対する評価は、采女に対してこそふさわしい、としております。私もむしろその説をとります。理由は後に触れます。 もう少し、長谷川さんの面白い古代史観を紹介しておきます。 長谷川さんの説によれば、天智天皇はその『日本書』を作成するために、まず近江に京を遷し、予め日本全国に北九州や周防の地名をばらまき、北九州エリアの歴史を、あたかも全国の各地で起った事件のように演出したのだというのです。 なるほど、たしかに、各地にある重要な地名はたいてい九州にも見られます。 ただ、例えば、継体天皇を本州最西端の長門の人物であったとしているようですが、その一つの傍証として、当時の北陸には継体天皇が現れるような下地がなかったとしていたのは果たしてどうかと思います。 昭和49年に書かれた本でもありますので、時間的な背景もあるのでしょうが、少なくとも現在では出雲を始めとする日本海沿岸部にはそれなりの独特な文化の痕跡が“考古学上”も認められております。 私は一応、邪馬台国は九州にあったのだろう、と考えてはいるものの、長谷川さんの論は、九州以外の古代文化をほぼ無視しており、正直なところ結論ありきの印象もぬぐいきれません。 同時に私自身もそうならないように気をつけなければ、と戒めている次第です。 ただ、それを差し引いても、長谷川さんの論説には卓見と思わせられる魅力的な見解が多いことは間違いないと思います。 |
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黄檗宗黒瀧派を開いたほどの高僧潮音が、なぜ『大成経』の出版に携わったのかについて、彼はその理由にあたる心底を『五瀬三宮二社鎮座本序』の中で次のように述べております――後藤隆さん『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経 (徳間書店)』より――。 ――引用―― 「余は三部の神史および三部の神経を閲読したが、それらを読んでも、神道や神体、伊勢神宮への天照大神の御鎮座などに関する説は、いずれも秘密めかすばかりで明瞭を欠き、巻を置いても溜め息が出るばかりであった。本朝は神国なのに、なんで神道の教えは塞がり、神体は混雑し、鎮座の次第が紛糾しているのかと思っていたが、図らずも大成経を見るに及んで、神道の精通、神体の清明、鎮座の顛末の一々が明白になること、日月を見、暗夜に明かりを点じるがごときであった」 これを受けて、後藤さんは次のような見解を語ります。 ――引用―― 僧侶というのは、当時の知識階級である。その中でも潮音は、一つの宗派を立ち上げたほどの僧侶である。その彼が、古典をネタ本に偽作などを発表する必要があっただろうか。もし自分が書いたものであれば、堂々と自己の名で出版すればよかったはずだ。 後藤さんの師匠である宮東斎臣さんは、『大成経』のウリでもある道徳及び政治思想を記す巻七十の「憲法本紀」の主題、「十七條五憲法」を、『聖徳太子に学ぶ十七條五憲法(文一総合出版)』なる本において、原書解説をしております。
ちなみにその口語訳には後藤さんと青沼やまとさんという方が筆をとっております。 『大成経』支持者に言わせれば、これこそが聖徳太子が提唱した真の「十七條憲法」だ、ということになるのでしょう。 これは、原則となる17の理(ことわり)があり、それにのっとって全ての人に通ずる「通蒙憲法」、政治家への教えである「政家憲法」、儒者へ訓じた「儒士憲法」、神職へ訓じた「神職憲法」、僧呂に訓じた「釈氏憲法」なる5つの憲法を各々17條、合計102條を展開しているものです。 俗に言う正式な十七條憲法の6倍の質量です。 まず、これを見ただけでも、少なくとも伊雑宮の創作ではないことがわかるのです。 それよりも、なるほど、これだけ体系化された立派な教義(?)を、仮に自らの発想で起草したのであれば――書籍の売り上げで印税が入る世の中ならまだしも――何も古典にこじつけて箔をつけることなどせず、自分の宗派の理論として発表しておいたほうが旨味があったのではないでしょうか。 なにしろ知識人の間で大流行するだけの説得力のある内容なのです。私なら自分の名前で発表すると思います(笑)。 まあ、潮音と私を対等な次元で比べてはバチがあたるでしょうが――もちろん私に――、やはり、後藤さんの言うとおりかな、と思います。ただでさえ一宗派を立ち上げるほどの実力を持ち合わせ、権威においても将軍の師匠という申し分のない鎧を身にまとっている潮音が、何が悲しくて自分でも絶賛するほどの教義を、古典の偽作になどするものでしょうか。 |
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江戸時代に忽然と現れた謎の古文書『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』を、「伊雑(いざわ)宮」は当然大歓迎しました。 なにしろ、『大成経』の記述が正しければ、伊雑宮に坐する神こそが「日の神」であることが証明されるのです。 また、『大成経』には外宮の豊受大神が「月神」であるとも書いてあり、これは伊雑宮が主張する「伊雑宮=日神」、「外宮=月神」、「内宮=星神」を補強するものでもあります。 このあたり、『大成経』を校注した小笠原春夫さんが「祭神の偽作」と批判する所以なのでしょう。 ただし、小笠原さんは一方で「一部の祭神及びその関係等を偽作するために、そしてその偽作を正当化するために、それを主眼として書かれたのであらうか」と、世論への不審も述べておりました。 もしかしたら、伊雑宮の神官らは、もともと存在していた古典に自分達に都合いいような改竄を施したのでしょうか。 私はそれもあり得ないと思います。 その理由としては、原田実さんのウェブ上の論稿が説得的で賛成なので、そのまま引用させていただきます。 ――引用―― 『大成経』に伊雑宮に有利な記述が多いことは確かだが、だからといって『大成経』そのものを伊雑宮の陰謀の産物とみなすことも妥当ではあるまい。 『先代旧事本紀』を媒介として、伊雑宮の主張を聖徳太子信仰に結び付けるのは、一見、その主張の権威付けに有効なようだが、一つ間違えば内外両宮ばかりか仏教界にまで敵を作ることになる。すなわち、伊雑宮が主体となって仕掛けるには、この賭けは余りにもリスクが大きすぎるのである。 こうなると、伊雑宮の主張や『大成経』の主張の方が、実は通説よりも真実に近いのではないか、と考えたほうが、案外すんなり理解出来るのかもしれません。
さて、この『大成経』を、最高に絶賛した上で出版にも大きく貢献したのが、時の将軍徳川綱吉の師匠である黄檗宗の高僧「潮音道海」でした。 このことは更に問題を大きくしました。 一説にはこの潮音、あるいは潮音にこれを紹介した神道家「永野――長野――采女」が創作したとも疑われておりますが、それもあり得ないでしょう。 元々存在したなんらかの原典に、改竄も含めてなんらかの仕上げを施した、ということならあり得るかもしれませんが、それこそ小笠原春夫さんの指摘しているとおり、そのほんの一部の記述のために、これだけの膨大な創作をしたことは考えにくいと思うのです。 とはいえ、潮音と采女の両者が出版に関わっていたことは事実です。 彼らは、当時、出版業界のカリスマ(?)であった「戸嶋惣兵衛」の元に『大成経』の版元を持ちこんでいるのです。 しかし、少なくとも潮音は純粋に『大成経』を絶賛しておりました。それは、偽書と断罪され、コネクションによって辛うじて命拾いした後でも、尚も主張を曲げなかった態度から窺えます。 |



