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『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』における、天照大神の“鎮座地”に関する「垂仁天皇25年」のくだりを、眺めてみます。小笠原春夫さん校注の『續 神道体系 論説編 先代舊事本紀大成経 (財団法人 神道体系編纂会)』では以下のようになっております――漢文です。以下、全て同書より――。 ――引用―― 是時天照大神、誨日本媛命曰、吾神代處是茲也、神風哉五十國者、常世之浪神仙之浪、不斷歸之、重疊歸之、歸之國也、邊傍國甘美國也、欲居此國、時日本媛命未知其土地〜 このあたりは『日本書紀』と同様、天照大神が、辺境ながら浪打ち寄せる風光明媚なこの国に居たいという希望を、日本媛命――倭媛命――に表明しているようです。 しかし、日本媛命はその地に不案内だったようで、そこに、怪しげな老人が現れます。 ――引用―― 爰有一人老人、白日本媛命曰、此河河上有善任之元正之地、是當太神之鎮坐之場也、日本媛命問曰、汝者爲何人乎、對曰、吾斯此國地主、名猿田彦太神也〜 どうやら、その老人はこの地の地主神でもある「猿田彦(さるたひこ)太神」でした。 大筋としては『大成経』も『日本書記』同様、「日本媛命――倭媛命――」が天照大神の神託を受けながらさすらっているのですが、少々異なるのは猿田彦がその最後の手引きをしているというところでしょうか。 そして、ようやく場所が定まります。 ――引用―― 奉遷天照大神於飯井太神宮 この一言こそが最大の問題なのでしょう。
倭媛命が、猿田彦大神の手引きにしたがって天照大神を導いた聖地は「飯井太神宮」、すなわち「伊雑(いざわ・いぞう)宮」であったというのです。 つまり、皇祖神アマテラスを祀るのは、伊勢神宮――内宮――ではなく、伊雑宮――別宮――であると言っているのです。 これでは、“伊勢神宮がそこにある理由”が割り引かれてしまいます。 それどころか、 “別宮”が、内宮・外宮の両宮よりも上位になりかねないのですから大変です。 そして、困ったことに、『大成経』は江戸の知識階層の間で爆発的なブームを巻き起こしてしまいました。 もしかしたら大流行さえしなければ、『大成経』は、仮に偽書と呼ばれはしても、焚書・発禁されることはなかったのかもしれません。 |
鹽竈神社の謎 検証編
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伊勢神宮の起源にかかわる逸話として、『日本書紀』の垂仁天皇25年3月10日の条には次のようにあります。――宇治谷孟さん訳『全現代語訳 日本書紀 (講談社)』より―― ――引用―― 倭姫命は大神の鎮座申し上げるところを探して、宇陀の篠幡に行った。さらに引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。そのとき天照大神は、倭姫命に教えていわれるのに、「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる、傍国(中心ではないが)の美しい国である。この国に居りたいと思う」と。そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。そして斎宮(斎王のこもる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮という。天照大神が初めて天より降られたところである。 伊勢神宮と一口に言っても、主に内宮と外宮で構成されているわけですが、つまり、この「磯宮(いそのみや)」こそが、伊勢神宮の内宮の起源ということになります。 また、一方の外宮の起源はそれよりだいぶ下った、雄略天皇の時代になります。 外宮の社伝である『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬのまない)にいる御饌の神、等由気(とゆけ)大神――豊受大神――を近くに呼ぶように、と神託されたとのことでした。 それを受けて、豊受大神を丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされているようです。 当の丹波国――京都府宮津市――の「元伊勢籠(この)神社」の由緒には次のようにあります。 ――引用―― 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮(よさのみや)と申して豊受大神と一緒にお祭り申し上げました。その後天照皇大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。 ここに「火明(ほあかり・ほのあかり)命」の名が出てくるところはかなり興味深いのですが、とにかく、外宮の社伝とは特に矛盾しないようです。 余談ながら、豊受大神は女神であり、このことを天照大神が男神であることの傍証とする研究者も少なくありません。私も原則賛成です。 ただ、前に触れた「天の窟戸」同様、仮にギリシャ神話の影響を受けた逸話であると疑うならば、食事を提供しようとしていたイアンベーに豊受大神を被せるてみると、天照大神のイメージにはイアンベーに心を開いた女神デーメーテール像も浮かび上がってくるので、少々微妙かもしれないという葛藤はあります。 とはいえ、傍証に出来るかどうか、という部分でのジレンマはありますが、天照大神が男神であろうと疑う部分については、歴史全体を貫く因果関係からも十分可能性の高いことなので、私の見解としては揺らいでいないということを念のため申し上げておきます。 さて、『先代旧事本紀大成経』はそのくだり――垂仁天皇25年の条――についてどのように伝えているのでしょうか。
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『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』は何故焚書・発禁になったのでしょうか。 |
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後藤隆さんは、秦(はた)氏が「秦(しん)の始皇帝」の末裔を自称していることについて、歴史学上は否定されているが事実であろう、と考えております。 それどころか、「始皇帝」の直系氏族であったのではないか、とさえ考えており、更に、その「始皇帝」自体が西方異民族であり、古代エジプト、バビロニアと並ぶ強国ヒッタイト文明の一族だったのではないか、とされておりました。 後藤さんの学生時代に、それは「ヒッタイト・ハッタイト文明」と言われていたとのことで、最近は後者のハッタイトの名が消えヒッタイト文明とだけ呼ばれていることをいぶかしがっております。 ヒッタイト族は鉄の加工技術を持つ民族で、ハッタイト族は高度な学問を持つ民族で、両者が一つになって築き上げた帝国こそが「ヒッタイト・ハッタイト」と教わった記憶があるのだそうです。 ――引用―― 「ヒッタイト・ハッタイト」帝国は紀元前一二〇〇年頃から衰退し始め、姿を消してしまう。帝国が崩壊したといっても、何か大きな戦いがあって滅ぼされたというわけではない。ヒッタイト・ハッタイトの人々は、各地に散っていき、結果として帝国は衰退したと考えられる。 その各地に散っていった中の一つが中国を統一し、秦の始皇帝を輩出したのだろう。そしてその母体となったのは、ヒッタイトではなくハッタイト民族だと思っている。 技術は常に新しい発見に駆逐されていくが、学問は違う。しかもそれが超古代の叡智に繋がるものであれば、決して古びることはない。学問を持っていたハッタイト民族は、どこへ流れていっても、その国の重要なポストに就けたはずだ。 だいぶ話題が飛躍してしまいましたが、話として面白いと思ったので取上げておきました。 事実、国家としての体を失っても、民族意識のみで世界規模のネットワークを持つユダヤ人が存在している以上、それを否定しきれない、という思いはあります。 なにより、最近ある方から、ギリシャ神話『ホメーロス賛歌』の『デーメーテールの賛歌』の中に、「天の窟戸」にそっくりな逸話があることを教えていただきました。 穀物の女神デーメーテールが、娘を奪われた悲しみで失踪し地上が実りを忘れたとき、イアンベーという女性が、女神を笑わせるために下半身を露出し、女神はそれを見て笑い、心を開いたというのです。 私は前に、「天の窟戸」の逸話も天照大神が男神である傍証として有効であろうという私論を述べましたが、少なくともこの部分に限っては訂正しておいたほうがよさそうです。 このことはどう考えるべきでしょうか・・・・。 秦氏の仕業かどうかはわからないにしても、西方の文化がなんらかの形で古代の日本にも流れ込んできていることは、どうやら認めざるを得ないようです。 いずれ、秦の始皇帝やハッタイト云々への深入りは避けさせていただくとしても、前に触れた後藤さんの秦河勝に関する見解は、実は聖徳太子の宗教的・文化的な側面については秦河勝の功績ではなかったか、と考えている私の持論と矛盾せず、支持したいところではあります。
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『先代旧事本紀――以下旧事紀――』すなわち、後藤隆さんがいうところの10巻本も、大成経同様、聖徳太子撰とされております。『旧事紀』が『先代旧事本紀大成経――以下大成経――』のダイジェスト版であるという後藤さんの見解を転用するならば当然なのかもしれません。 しかし、斯界では『旧事紀』はむしろ物部系の一派によるものではないか、というのがほぼ定説になっており、かく言う私もそう考え、前にもそれを前提に触れたことがあります。 何故なら、聖徳太子撰というわりに聖徳太子と敵対した物部氏に関する記述が、異伝も含めて記紀に比べて豊富で詳細だからです。 ただ、『大成経』の序文にある太子の方針を信用すると、もしかしたら太子側――蘇我氏側――の編纂であってもおかしくはないのかな、という思いも一応はあります。 小笠原春夫さん校注『續 神道体系 論説編 先代舊事本紀大成経 (財団法人 神道体系編纂会)』から、その太子の方針を引用します。 ――引用―― 汝等宜己之咎不穏鹿山、侘之徳不蔽滴海任上古正直筆法。又宜知己賢愚而淳發海進心、如何知之、見欲己之罪過隱之、侘之徳功蔽之、好之徳擧之、惡之功推之 〜 この言葉について後藤さんは、著書『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経 (徳間書店)』のなかで、次のように訳しております。「鹿」が「塵」であったり、「蔽」が「藪」であったりと、一部漢字の捉え方において小笠原さんの校注とは異なる部分もありますが、大意はとくに相異ないものと思われます。 ――引用―― 汝等は宜く己の咎の塵も山も不隠に、他徳の滴も海も不藪に、上古の正直に筆法任し。汝等、此時又、宜く己の賢愚を知って直に悔い進むの心を発すべし。 自分にとって都合のよいことも悪いことも、他人のよいことも悪いこともすべて太古の記録のままに、内容を違えることなく記すようにと言っているのだ。 その方針なり理念どおりに進められた編纂であれば、かつて圧倒的な存在であった物部氏の記述が多くなったとしても、なんら不思議ではない気もするのです。 それよりもこの序文を読んだとき、私の全身には別の意味で電気が走りました。 これとそっくりな言い回しを用いて、藩史(?)の編纂を命じている文書を、私はかつて仙台市博物館で見かけたことがあるのです。 命じたのは仙台4代藩主伊達綱村です。 当時、私はそれを朱子学――儒教――の影響かと思っておりましたが、この序文を見て考えが変わりました。 つまり、綱村は『大成経』の影響を受けていたはず、という推測が、はっきりと確信に変わりました。 残念ながら、数年前に仙台市博物館にその文書を確認しに行ったときには、もう展示されておりませんでした。もしご興味あれば、仙台市博物館の学芸員にでも確認されることをお勧めします。たしか常設展示で見かけたと記憶しておりますから、当然保管はされていることでしょう。 ※ 平成三十(2018)年十一月八日追記 東北歴史博物館において開催されている【伊達綱村公300年遠諱記念 特別展「伊達綱村」】において、再確認し得ずにいた仙台市博物館所蔵の文書が展示されておりました。 「伊達綱村治家記録編纂意見状」と銘打たれたその文書は、元禄十五(1702)年閏八月二十四日のもので、以下のような解説が付されておりました。 ―引用:『特別展「伊達綱村」図録(東北歴史博物館)』より―
綱村が治家記録の編纂者であった田辺希賢に対して、編纂方針などについて意見を述べたもの。冒頭では、これは「記録」であるから、記載内容が綱村の考えに沿ったものばかりでは「成就」しないので、綱村の考えに反する内容でも書き記すべきである、と述べています。また、後半では、政宗は萬海上人の生まれ変わりであるという言い伝えなど、諸説ある時は、憚ることなく書くように指示しています。さらに最後では、後から編纂する「記録」では、善くないことを隠そうとし、小さな善いことは殊更に大きく書こうとする傾向があり、それではその記録自体の信頼性が疑われることになるので、これについても気を付けなければならない、と述べております。記録の客観性・信頼性を重視した立場であることがわかります。 |



