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『先代旧事本紀大成経――以下大成経――』が聖徳太子撰とされていることは既に触れました。 『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経(徳間書店)』の著者、後藤隆さんは、大成経72巻の全編を丁寧に検証した上で、これは天才でなければまとめきれない内容であるとしております。後藤さんは次のように語ります。 ――引用―― 「歴史」をテーマにする学者であれば、それが偽書か否か、また、誰に伝えられてきたものなのかという「伝世」が重要なのだろうが、そんなものは正直なところ私には関係がない。 大切なのは伝えられた「叡智」の正確さであり、それを理解し、今の我々の生活に役立てることである。そして、それこそがこの書を編纂した聖徳太子や推古天皇の、最も大きな願いだったに違いない。 もちろん後藤さんは大成経を丁寧に検証した上で、「伝えられた叡智の正確さ」は紛れもないものであるとしております。
『大成経』とは、天皇家と六家――吾道・物部・忌部・卜部・出雲・三輪――が隠し持っていた各々の秘録を、推古天皇と聖徳太子の権威でもって強制的に提出させ、それを編纂したものとのことです。それは単に歴史にとどまらず、各々の家に伝わる秘伝の技までも含むものであるようです。 だとすれば、対等な立場でそれを収集しようとなどしたならば戦争にでもなりかねません。なるほど天皇家の権威と強制力なくしてはとても収集出来るものではないという発想は頷けます。 また、各々秘伝であるからには、おそらく盗難された場合に備えて暗号めかせてあったと思われます。それが神代文字かどうかはわかりませんが、少なくとも容易に解読できない文体で書かれていたであろうものを、一々咀嚼し、各々別個のものにも関わらず全体を見通す一本の筋立てにまとめあげ、更に的確かつ絶妙な漢字に置き換えた労力は計りしれません。 しかも、それらをわずか2年で完成させたということは、その全体像を見渡せるだけのかなり広範な分野に精通した高度な“知識”がなければ無理な話でしょう。 すなわち、大成経編纂の経緯をまともに信用するならば、やはり権威を備えた天才にしか成し得なかったということになります。 さて、聖徳太子は編纂途中に志半ばにして薨去したということになっております。 それでは、一体誰がその後にこの膨大な理論を仕上げたというのでしょうか。それ程高度な内容であれば、太子薨去の段階で全てが暗礁に乗り上げてもおかしくないはずです。なにしろ、それを継続するには、少なくとも太子と対等か、あるいはそれ以上の才能を求められます。 そこで、後藤さんは推古天皇と共に共同編纂者であった「秦河勝」に注目しております。 いや、むしろ、この秦河勝こそが編纂の主人公だったのではないか、と考えているようです。 この困難な編纂をやり遂げるだけの高度な“知の財産”を持ち得た存在は、秦氏研究家の側面を持つ後藤さんに言わせれば、秦氏をおいて他には考えられないというのです。天才とされる聖徳太子のブレーンを務めていたほどの、あらゆる学問に精通した秦河勝であればこそ全てを咀嚼でき、情報の収集という関門さえクリア出来ていたならば、太子薨去後も滞りなく仕上げられただろうということなのです。 |
鹽竈神社の謎 検証編
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鹽竈神社にかかわる歴史・諸氏の学説・神話伝説から謎を検証してみます。
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『先代旧事本紀大成経――以下大成経――』は、『先代旧事本紀――以下旧事紀――』同様、聖徳太子撰ということになっております。 今、私の手元には後藤隆さんの著書『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経(徳間書店)』があります。これは「せんだいくじほんぎ・・・」ではなく、「サキツ ミヨノ フルコトノ モトツフミ オオイナルオシエ」と読むのだそうです。 鹽竈大神について『大成経』にどのようなことが書かれていたかは、諸先輩方の論稿などでおぼろげには知っておりました。 しかし、原典をわかっていながら、他人様の、しかも否定論者だけの論稿頼りではいけないと思い、せめて現代語訳にしたものでいいから、記された内容をこの目でしかと確認したいと思っておりました。 さすがに、焚書・発禁になった文書の情報を探すというのは、当然ながらおいそれとはいかないものです。 『旧事紀』についての文献は結構あるのですが、『大成経』については、時の権力者のお墨付きがついた“キング・オブ・偽書”だけに、研究する人も極めて少ないのでしょう。 なにしろ、「一顧だに値しない」と切り捨てられるような偽書は研究するだけで学会から馬鹿にされてしまいますから・・・。 一応図書館で、あたかもストレートのウォッカのような小笠原春夫さん校注の『続神道体系 論説編 先代旧事本紀大成経(神道体系編纂会)』なるものは確認しているのですが、なにしろ原典は72巻本という膨大な分量な上に、全編漢文なのです。とても片手間な気持ちであたれるものではありません。ある程度の手引きを欲っすることにバチはあたらないと思います。 とりあえずネットで探しまくり、内容もよくわからずにタイトルだけで入手したのが前述の後藤隆さんの著書でした。 私としては、当然鹽竈大神についてのなんらかの情報を得たいと思い、この後藤さんの著書を入手したのですが、残念ながら私が求めていたものとは微妙に異なるものでした。 この本は、どちらかというと大成経が伝える教義の指南書であり、細かい事象についてはほとんど触れられていないのです。 それでも72巻各々の大項目だけは解説されていたので、その後、それを参考に効率よく校注本にあたることができ、最悪ストレートウォッカのガブ飲みだけはなんとか避けられました。 今、私は後藤さんの著書に対してやや否定的に紹介してしまいましたが、それは私個人の当初の目的と照らし合わせた場合の話です。読んでみれば素直に面白く、何より後藤さんの信念があまりに痛快なので別な角度からはなかなか気に入っているのです。 後藤さんは大成経のことをあえて『先代旧事本紀』と呼んでおり、一般にそう呼ばれている『旧事紀』を“10巻本”と呼んで区別――差別――しております。 いわゆる偽書信奉者によくありがちな「これが元祖である」というスタンスについては他の人とそう変わらないのですが、根本的に異質なのは次のような信念です。 ――引用―― 私が本書で扱う『先代旧事本紀』というのは、この七十二巻本である。 だが、私が『先代旧事本紀七十二巻』に価値を見出すのは、それが古典だからではない。正直なところ、私はこの書に史料価値など求めていない。 誤解のないように言っておくが、これは史料価値がないという意味ではない。そんなこととは比べようもない大きな価値がこの書にはあると言いたいのだ。 なんという痛快なコメントでしょう。大成経の正否とは別次元の話として、この信念には正直心を打たれました。
極端な解釈をすれば、後藤さんはその拠り所の原典が、仮にインチキな何者かによるものであろうとも、別に構わない、と言っているのです。 つまり、その部分にこだわるのは歴史家であって、この大成経に書かれていることは、紛れもなく他を超越した真理であるから、いつの時代に誰が書いていようとも、その普遍的な価値はなんら変わらない、ということなのでしょう。 後藤さんは、ややもすればその内容を精査もせず、原典の付録に過ぎない権威のみで価値判断しがちな学者の愚を、この一言によって間接的に喝破しております。 思わず、密教において面授を重んじる空海が、経典の拝借を求めてきた最澄に対し「月を指し示す指を知ったところで月を知ったことにはならない」と苦言を呈した逸話を思い出しました。 |
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本日は「塩竈みなと祭り」です。 鹽竈神社の神輿は荒れ神輿――日本三大荒れ神輿?なんだとか――として有名です。 押木耿介さんの『鹽竈神社(学生社)』には次のように書いてあります。 ――引用―― 〜高い所から神輿を見下すことは、大神の怒りにふれるといいつたえられていた。 古老の話によれば、神輿渡御の当日は二階に寝かしてある病人すら階下に移したという。 この一文を見ただけでも鹽竈大神が祟り神であることを想像できます。 5〜6年前、本業で塩竈に出向いたある日、私はなにかと疲れておりました。時間に余裕があったこともあり、鹽竈神社に立ち寄り少し休憩することにしました。 とりあえず財布の中の5円玉1枚をお賽銭として、特に何を意識するわけでなく、正面にある左右宮の拝殿にご挨拶をしました。 その後、志波彦神社境内前のベンチに腰をおろし、もう財布には小銭もなく、心の中で「志波彦の神様すみません、お賽銭がないから勘弁してください」とお詫びしながら、つい、うとうとと眠りこけてしまっていたようでした。 ふと目が覚めると、私の周りを鳩の大群が取り囲んでおり、お迎えが来たのかと思い、驚きました。疲労と寝起き(?)で思考能力が著しく低下していたせいか「志波彦様の祟りか・・・」と観念しました。 鳩に襲撃(?)されたベンチ 職場に戻り、私はその話に尾ひれをつけて過剰なジェスチャーをまじえて面白おかしく話していると、そんな馬鹿話を右から左へ受け流した塩竈出身のSさんが私にポツリと「どこから参拝したの?」の一言を浴びせました。Sさんはおそらく「祟り」というキーワードに反応したのでしょう。 Sさんのお父様は鹽竈神社への崇敬が篤いらしく、子供のころから参拝する順番には厳しかったようです。「まず真っ先に別宮に参らなければだめだ」と、こだわっていたようでした。 Sさんの一言以来、私は鹽竈神社にとりつかれてしまいました。当初は軽い気持ちで調べ始めたわけですが、調べるほどに不可思議な事実が次々現れ、益々謎に包まれ、おおげさではなく「これはもしかすると相当やばいネタなのでは・・・」と気づき、今に至っております。 その過程において当然ながら思い当たる文献には徹底してあたりました。 特に山下三次さんの『鹽竈神社史料』は貴重で、そこに掲載されている諸先輩方々の論稿にはしっかり目を通しました。 また、この史料集には、わざわざ論外と断定している“偽書”リストがありましたが、これらこそが怪しいとにらみ、当然そこにあった『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎだいせいぎょう)――以下「大成経」――』にも目をつけました。 したがって、私が大成経なる文書に目を付けたのは、本来伊達綱村のネタとは無縁だったはずなのです。 ところが、江戸時代の知識階級に大成経ブームを巻き起こした火付け役「潮音道海」という僧は、一方で黄檗宗の一宗派を立ち上げた開祖でもあることを知りました。 何を隠そう、鹽竈神社中興の英雄、伊達綱村はその黄檗宗の徒なのです。無関係なわけがありません。 綱村は黄檗宗を通して、一体どんな鹽竈神社像を見つけたのでしょうか。綱村は何を思ってあの不可解な社殿配置を構築し、元禄縁起を制定したのでしょうか。 まだ混沌としておりますが、私はあきらかに“何かに気付き始めている”ことを実感しております。 間違っているのかもしれませんが、少なくとも私の頭のパズルの全貌が見え始めているのです。 とりあえず、幕府による大成経の焚書・発禁に至るまでの顛末から眺めてみたいと思います。それを眺めることによって、まずは大成経に含まれたタブー性を垣間見ることが出来ると思うからです。
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乱世を生き残った伊達政宗と異なり、幕府政権がレールに乗った後に誕生した4代綱村は、やはりそのレールの中で生きる方法を探っていかなければならないのは言うまでもなく、その背景の違いを無視して綱村を政宗より劣る藩主であったと解釈するのは綱村に対し酷な気も致します。 しかし、豪気さにおいては間違いなく劣るのも事実でしょう。天下の趨勢がほぼ定まった後にもかかわらず、政宗は秀吉、家康といった史上稀な天下人と真っ向から渡りあった上で、結局伊達家を別格な大藩として守りぬいたのですから。 さて、綱村はとんでもないトラウマに見舞われ、若いころには藩主でありながら2人の後見人の傀儡の域を出られず、とにかく神仏に祈ることしか出来ませんでした。 そのおかげか、ある種、敬虔な宗教家に成長した綱村は、当然その道の中でも自分なりに最も正しいと思われる道を探り続けていたと思います。 そんな綱村は、ようやく探していたものに出会えたようです。 それは、当時の日本においては新興仏教に属する「黄檗(おうばく)宗」なる宗派でした。 もちろん綱村は藩主であり、城下にも既に諸々の宗派が存在しているわけで、それらの既得権を全てスクラップアンドビルドするわけにはいきませんが、せめて自分や自分に近しい家族の菩提を弔うものについてはこだわったようです。したがって綱村に縁の深い寺院は原則黄檗宗となっております。 4代綱村以降、伊達家の菩提は仙台市太白区にある黄檗宗「大年寺」が弔いました 綱村の妻の菩提を弔う仙台市青葉区高松の萬寿寺 しかし、私がここで注目するのは宗教としての黄檗宗そのものではなく、その背後にある独特な歴史観です。 おそらく、綱村と黄檗宗の出会いは本来は純粋な宗教観であったと思います。 しかし、のめりこむうちに黄檗宗が持つ結社的な側面と、また、それと表裏の位置にある思想的歴史観が綱村の鹽竈政策に影響を及ぼしたと私は考えております。 その思想的歴史観を記した書は、延宝3年(1675)、黄檗宗黒瀧派を立ち上げた僧「潮音道海」が出版したと考えられ、わずか6年後の天和元年(1681)、江戸幕府により焚書の憂き目にあいました。世に『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎだいせいぎょう)』あるいは『先代旧事本紀七十二巻本』と呼ばれた文献がそれです。 以下に簡略な年表を記してみます。カッコ内は綱村の年齢です。 1661年( 3歳) 3代藩主伊達綱宗罷免・伊達綱村4代藩主相続。後見人政治開始 1663年( 5歳) 鹽竈神社 寛文の造営開始 1671年( 9歳) 原田甲斐、審問の直後に伊達安芸を惨殺 1675年(17歳) 明治8年から200年前――東鹽家文書喪失推定時期上限――
黄檗宗僧侶 潮音により『先代旧事本紀大成経』が出版されたと思われる
1681年(23歳) 『先代旧事本紀大成経』焚書 発禁1685年(27歳) 明治8年から190年前――東鹽家文書喪失推定時期下限――
綱村、塩竈村に9ヶ条の特例――経済特区―― 鹽竈大神鎮座地の繁栄をはかる
1693年(35歳) 綱村、鹽竈神社元禄縁起作成、祭神確定 私はここに、東鹽家文書の浮沈と、綱村の思想、そして大成経――先代旧事本紀大成経――の相互間に、因果関係を疑わざるを得ないのです。
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原田甲斐の不届きな殺傷事件により、幼君である伊達綱村の後見人伊達兵部(ひょうぶ)は所領を没収されました。もう一人の後見人田村右京は比較的罪状は軽く、閉門のみで済まされました。いずれも即日結審で、幕府のあわてようがわかります。 なにより、綱村は幼少を理由に「咎なし」となり、仙台藩の存続は確定しました。 想像ですが、幕府もそうせざるを得なかったというのが本音でしょう。ここで副将軍クラスの伊達家中にクーデターが起きてしまっては、下手をすれば安定政権であった幕府にも影響を及ぼしかねないと思うからです。 このときの幕府が、少々目障りな仙台藩を取りつぶそうとまでは考えていなかったにしても、骨抜きにして巧みに完全支配下に置こうとしていたことは十分あり得たと思います。それは半ば成功しかけていたのでしょうが、原田甲斐の神をも恐れぬ狂乱――無言の抵抗――に面食らったというのが実情ではないのでしょうか。 歌舞伎『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』は、愛息子の幼君を、自らが身代わりになって守りぬく政岡――三沢初子――が主人公で、兵部を悪臣、安芸を忠臣として語り、長く庶民の心をとらえてきました。 しかし小説及び大河ドラマ『樅の木は残った』の山本周五郎さんは、「善玉、悪玉という単純な色分けで、大藩を揺り動かした政治的事件の説明になるものかどうか」と懸念し、対立概念そのものを解消し、幕閣の陰謀と対決した人物として原田甲斐(はらだかい)を描いております。 仙台市青葉区新坂の荘厳寺の山門は、旧原田甲斐屋敷の門を再利用しております。 この門は逆臣の門ということもあって、全てが通常の反対の造りで再利用されており「逆さ門」と伝えられてきました。そして平成の解体修理工事の際、この門は伝承どおり、上下左右が反対に組み立てられていたことが確認されております。 この門の存在から、私は山本周五郎さんの説くところが正しいのではないだろうか、と考えるのです。 もし原田甲斐が、世に言われるような逆臣であれば、常識的に考えてそのような人物の門など再利用されるはずがないと思うからです。いろいろな理由をつけてはいるようですが、結局再利用されて現在まで残されているという事実は何を意味するのでしょう。 原田甲斐は表向き逆臣ですが、決してそうではないという世論、そしてなにより藩の病巣を一人に被らせてしまったという「藩としての後ろめたさ」があったからこそ、供養の意味をこめてせめて屋敷の門が再利用されたのではないでしょうか。案外、祟りを恐れたからこそ封印の意味をこめて“逆さ”だったのかもしれません。 荘厳寺山門――逆門・旧原田甲斐屋敷門―― いずれ、伊達綱村は幼くしてそのような激しい渦中に巻き込まれていたのです。この大事件が多感な時期の綱村の人格形成に影響を与えなかったわけはないと考えます。
大藩の藩主でありながら幼すぎて世の為に何も貢献できない綱村は、日々自分の無力を憎み、ただひたすら母とともに神仏に祈り続けていたことでしょう。綱村が名君となった後、歴代藩主の中で最も宗教政策に力を入れた心理には、このような事件のトラウマが背景としてあったのでないでしょうか。 特に寛文3年(1663)の鹽竈神社のいわゆる“寛文の造営”は、綱村の父、綱宗が罷免された万治3年(1660)の3年後、綱村5歳のとき、つまり兵部の恐怖政治の真っただ中に行われております。 元禄8年(1695)、綱村はその社殿がわずか30年しか経っていないにもかかわらず、新築、移築、配置も含めて思い切った大改造を決行しております。多かれ少なかれ、綱村のリセットしたい気持ちが表れていると思われます。綱村のトラウマ脱出には、その必要があったのではないでしょうか。 |



