はてノ鹽竈

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鹽竈神社の謎 検証編

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鹽竈神社にかかわる歴史・諸氏の学説・神話伝説から謎を検証してみます。
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東鹽根命なる神の裔

 『鹽竈神社史料』の山下三次さんは、別宮祭神が鹽土老翁(しおつちのおじ)であるという説を批判はしつつも、岐神と同神である、という条件付きで一応は受け入れておりました。
 想像ですが、山下さんが最もアレルギー反応を起こしていた部分は、祭神云々よりも、左・右宮を差し置いて別宮を主座に置こうとする気運ではなかったかと思われます。
 この気運は藤塚知直・知明の養父子によってもたらされ、さらに藤塚知明というモンスターがブースター――増幅装置――となり、強力な支持を得ました。
 しかし、別宮を主座に置くという主張が、今日に至るまで尚も根強く支持される背景には、藤塚知明のカリスマ性もさることながら、社家の間にそもそもそれを自然に受け入れられる下地があったからだと思われます。
 これは祭神が鹽土老翁云々という枠を超えたところにあったと思われ、なにしろ元禄縁起を定めた伊達綱村自身にもそういう認識があったようです。
 何故私がそう考えるかと言うと、綱村の発案による現存の別宮の社殿が、左・右宮よりも手の込んだ造りになっているという事実があるのです。
 しかも『肯山公治家記録』には「只今ノ御本殿ヲ別宮ノ拝殿ニ被仰付黒漆ヲ本朱塗ニ被相改度候」、つまり、「旧本殿を別宮の拝殿として再利用する」という記述がはっきり残っております。言うなれば、旧来の鹽竈社そのものを別宮用に大切に移築しようとしていたことが明確なのです。 
 例えば、由緒ある古民家に住んでいる方が、やむなく建物を建て替える際、家のシンボルである大黒柱や門などをどこかに残そうとすることはよくあることです。
 そしてたいていそのようなシンボルを残す場合、例えば柱であれば客人にも目に触れるような場所など、最もふさわしい場所に残そうとする心理が働きます。私は、綱村にもそのような心理が働いたものと想像するのです。

 さて、遠藤さんに影響を与えた『東鹽家文書』について考えてみたいと思います。
 遠藤信道さんは、権宮司を担っていた明治8年に、宮司落合直亮さんの校正を経て『鹽竈神社考』なる論稿をまとめられております。遠藤さんはこの論考を成すにあたって、かなり『東鹽家文書』を参考にしております。
 遠藤さんは次のように語っております。

――引用――
古事記・日本書紀・古史古傳・當社年中行事・東鹽家秘録○此に引けりし。東鹽家と云へるは即ち鹽土大神の御子。東鹽根命の神裔にして。累世大宮鹽竈司とまをして。當社に於てはこよなく。重き職を襲き來しか延徳の頃讒者の爲に貶けられ。在廳人と云者にせられ。賤き役に仕はれ。東直大夫と云へりしか。其子孫東儀右衛門と云ふ者。貞享元年三月。先祖より傳を書寫せしを。其子孫東伊久右衛門と云ふ者。延享二年三月。再び寫し置きたりしを。故ありて。禰宜大崎寛繁の手に入れし。今こゝに引けり。下なるも皆しかり。實に此書東鹽家の賜にて當社の事を知るには。こよなく愛つべき書なるに。百九十年餘も埋もれて。知る人だになかりしを。己が比考する時に當りて。己が此考する時に當りて。見ることを得しは神の御意にもとこそいふへけれ。

――例によって拙い現代語訳――
古事記・日本書紀・古史古伝・当社年中行事・東鹽家秘録○を引用しております。
東鹽家とは、鹽土老翁神の御子である東鹽根命の神裔の家柄で、代々大宮鹽竈司として当社においては極めて重い職を世襲しておりました。
ところが、延徳――1489〜1492年――の頃、讒言を語る者の為に、在庁人という扱いにされ、賤しい役に貶められました。東直太夫という人物がそうなのでしょう。
彼の子孫で東儀右衛門という人物は、貞享元年(1684)年三月に先祖からの言い伝えを書写しました。
更にその子孫である東伊久右衛門という人物が、延享二年(1745)三月、再び書写したのですが、故あって禰宜大崎寛繁の手に入り、今私が引用している次第です。以下の文も全てまたしかりです。
この文書を参考に出来るのは実に東鹽家の賜物であり、当社のことを知るためにはこのうえなく愛すべき文書であるのに、190年余りも埋もれて誰一人その存在を知らない有様でした。
私がこの論考を成すにあたって目に触れることが叶えられたのは、まさに神の御意と言うべきでしょう。

 どうやら、遠藤信道さん以前は誰も――大崎禰宜以外――この文書を見たことがないと思われます。このあたり、余計にこの古文書の実在を怪しまれる部分なのでしょう。
 結論から言えば、この文書は歴史書というよりは塩竃・松島を舞台にした塩焼きの神々の“神話”と呼ぶべきもののようです。もしかしたら、古老の言い伝えを文書化したものかもしれません。それを偽書だ云々と目くじらたててもしょうがない気もするのですが、このように公式な舞台で取り上げてしまったからには批判を逃れられないといったところでしょうか。
 なにはともあれ、例によって何故このような神話が存在したのかについてはやはり真摯に検証するべきでしょう。
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鹽竈櫻と別宮

 『鹽竈神社史料』山下三次さんの矛先は、やがて明治初期の宮司―権宮司―「遠藤信道」さんや、その次代の「遠藤允信」さんへと向けられます。ちなみに、遠藤さんの説くところはかなり独特とはいえ、少なくとも祭神の在り方については藤塚家のそれを踏襲しております。
 しかし、特に遠藤信道権宮司の説が藤塚家のそれと決定的に違うのは、『東鹽家文書(ひがししおやぶんしょ)』という謎の文書に影響を受けているところです。山下さんは『鹽竈神社史料』にて次のように述べております。

――引用――
(明治17年鹽竈神社から内務省に進達せし神社明細帳は、)遠藤氏が宮司として撰述せしものに係り、全然、自家の神社考の説を揚げたるものと認めらるるなるが、此の説は既に大日本地名辭書に「究めて妄誕なり、左右宮兩宮は延徳以前久しきより巳に存す、六所云々の説、牽強の痕跡掩ふ能はず」。と論斷せしが如く、一の臆説に過ぎず。元来その神社考は東鹽家(鹽竈多賀兩社の齋主大宮鹽竈司の家)の古文書、縁起、里人口碑に依れるものにして、東鹽家に傳はれる古文書に付ては舟山萬年の鹽松勝譜第二、多賀神祠の條に、東鹽氏傳曰。云々を引用せるものにして、東鹽家そのものゝ存在も怪しく、隨つて、その古文書なるものも、頗る疑はしきものなり。

――拙くも現代風に訳してみます――

明治17年に鹽竈神社から内務省に提出された神社明細帳――祭神、別宮、鹽土老翁大神 左宮、武甕槌大神 右宮、経津主大神 とある――は、遠藤氏が宮司として撰述したものです。
そもそもそれ自体、遠藤氏自身の神社論考を掲げていたものと思われますが、この説は既に大日本地名辞書が「究めて妄譚である。左・右の二宮は延徳以前の昔から存在しており、六所明神――六柱の祭神――説など、こじつけの痕跡は隠せない」と論断しているとおり、あくまで臆測の説に過ぎません。
元々遠藤氏の神社考は、東鹽家(ひがししおや)の古文書や縁起、地元の噂話に因むものです。
東鹽家に伝わる古文書とは、舟山萬年の『鹽松勝譜』の第二章、「多賀神社」の項にある「東鹽氏が伝えるところによると・・・」云々から引用しているものであり、そもそも東鹽家一族の存在自体が怪しいのですから、その古文書なるものはますますもって疑わしいものなのです。

といったところでしょうか。
 さらに山下さんは、遠藤さんの鹽竈神社考に対し、明治9年に教務省が示した書面の一文をとりあげております。

「別宮祭神之義者、鹽土老翁とも難確定旨――別宮祭神を鹽土老翁と確定するのは難しい――」

 ところで、山下さんは『東鹽家(ひがししおや)文書』なる古文書をとりあげて批判しているわけですが、この古文書は氏の『鹽竈神社史料』「偽書と認むるもの」リストには出てきません。
 しかも肝心な遠藤信道さん、及びその思想を受け継ぐ遠藤允信さんの論稿も、偽書と「同一系統に成れるもの」扱いのため、当然、『鹽竈神社史料』には記載されておりません。
 したがって、それらに書かれているところの伝承ないし主張を知るためには、本来なら他をあたる必要があるのですが、幸か不幸か、山下さんを含む掲載論者による偽書批判のおかげで、おおよその内容を推測できてしまいました。
 また、大正12年に発行された鈴木省三さん編纂の『仙臺叢書(仙臺叢書刊行會)』の中に遠藤信道さんの「鹽竈神社考」を見つけましたので、それらをもとに『東鹽家文書』がどのようなものであったかを拾い上げていきたいと思います。

藤塚知明の亡霊

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 鹽竈神社別宮の神が「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」であり、三宮配祀中筆頭の祭神でもあると説いて後世にも影響を及ぼしたのは「藤塚知明」の養父「藤塚知直」でした。
 当然ながら、教え子かつ養子にあたる知明も、その思想を徹底的に体に染み込ませていたことでしょうし、この師弟かつ養父子の思想背景に垂加神道の影が濃かったことは言うまでもありません。
 しかし彼らの思想が後世の社家にまで影響を及ぼした最大の理由は、垂加神道の教義や博識などではなかったと思います。おそらくは、“藤塚知明その人”の“生きざま”によるものと思われます。
 なにしろ知明は、鹽竈神社を積年の屈辱から解放するために神宮別当寺法蓮寺に立ち向かい、自分の寿命と引き換えに社家の誇りを取り戻したのです。その“生きざま”は、鹽竈神社に関わる各人の深層にくすぶる社家精神のようなものを激しく揺さぶったに違いありません。なによりも人間としての“感情”が藤塚親子の思想をカリスマ化させたのではないかと思います。ドライな言い方をすれば、知明の影響は真偽の次元を超えた部分にあるということです。
 素晴らしい英雄に対して表現が不適当かもしれませんが、真実を得ようとする上でこれは“地縛霊”の域です。
 地縛霊の影響は、昭和の時代に至っても衰えることを知りませんでした。
 何故なら『鹽竈神社(学生社)』の著者「押木耿介」さんも、間違いなくその亡霊に憑かれた一人であったと思われるからです。
 押木さんは「志波彦神社・鹽竈神社」の宮司であるばかりか、宮城県神社庁の重鎮まで務めるほどの大物でした。その押木さんともあろう方が、博物館でも企画展示されるほどあからさまな伊達綱村の『元禄縁起』を知らないわけがありません。
 しかし、押木さんはそれへ完璧に無視を決め込んでおります。
 『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』はもちろん、自著にも綱村が定めた別宮の祭神が“岐神”であったということについては一切触れず、それだけならまだしも、伊達綱村が鹽土老翁を主祭神に定めた、という“偽り”さえ記しております。ありていに申しあげて、これは確信犯以外の何物でもありません。
 それに比べ、先輩宮司の「山下三次」さんは、曲がりなりにも知明の亡霊に対し異を唱えておりました。自分なりに真理を語ろうとする山下三次宮司にとって、その亡霊は複雑な存在でもあったことでしょう。
 山下さんにすれば、偉大な先達である藤塚親子を尊敬する一方で、当社中興の祖である伊達綱村公が定めた公式見解は曲げられない、という信念があったことと思います。
 だからこそ『鹽竈神社史料』を世に出したのでしょう。しかしそれはすなわち偉大なる藤塚知明の亡霊への挑戦ということに他なりませんでした。
 結局、山下さんは藤塚知明という巨魁を覆すことにはなりませんでした。
 現在「志波彦神社・鹽竈神社」の公式HPにおいて以下の記述が見られます。

――引用――

鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしておりますが、江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州(糺)宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。

 見てのとおり、別宮“主"祭神「塩土老翁神」他左右宮二神について「〜綱村公は社殿の造営に際し、〜現在の三神とし〜」と、明確に綱村の決定によるものとしております。くどいようですが、元禄時伊達綱村が決定した別宮の祭神は、鹽土老翁神ではなく岐神です。
 念のため申し上げておきますが、今私がメスを入れたのは「真の主祭神は何者か」という部分ではありません。伊達綱村の定めた祭神が「何故正確に伝わらないのか」という部分です。したがってここで「岐神こそが別宮祭神である」という主張をするつもりは毛頭ございません。
 いずれ、藤塚知明は本当に英雄であったのだな、とあらためて実感させられている次第です。

鹽竈神社の救世主

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 藤塚知明は、親友の林子平(はやししへい)同様、不遇な晩年を送ります。
 知明は神道家としての強い信念を持っていたため、鹽竈神社に隣接する永遠のライバル「法蓮寺」に対しても真っ向から挑みました。
 法蓮寺は鹽竈神社の別当寺であり、本来対立するものではないのでしょうが、長い年月を重ね、しかも世の流れとして神道と仏教の対立の構図がここにも露呈していたのです。
 特に、この頃は神社行務においてまで法蓮寺に主導権あったようですから、社家側の感情は圧力鍋のごとく爆発力を高めながら封じ込められていたことでしょう。
 それにしても、何故鹽竈神社側は主たる神社行務まで法蓮寺に仕切られてしまったのでしょう。
 その原因について『鹽竈神社(学生社)』の押木耿介さんは次のように語っております。

――引用――
神官鈴木晴金自身が述べているように、(当時の社家は)文盲のものが多く、学問はもとより「守護札願文等相調候儀モ成兼候様」という状態であった。このような社人の無学無智が社僧の横暴をまねき、社法の紊乱をきたす原因となるのは当然のなりゆきであった。

 鹽竈神社の社人は文盲且つ無学無智の人間が多かったというのです。そのために重要な本殿厨子内の鍵についてまで社僧の管理するところになってしまっていたようです。このあたり“賤民の大社”の切ない一面を垣間見るような気が致します。
 そんな状態ですから、藤塚知明の京仕立ての博識は当然ながら歓迎されたことでしょう。ましてや彼の持ち前の正義感は、鹽竈神社にとってまさに救世主であったことでしょう。
 しかし、皮肉にもこのことが知明の晩年を不遇にしてしまいます。
 法蓮寺の僧「蔵春」は宝暦十年(1760)遷座祭の際、三宮社殿内陣各々の厨子内にこっそり仏舎利(ぶっしゃり)――釈迦の骨(そう伝わるもの)――を納め、神座の上に梵字(ぼんじ)――インドの古文字とも言われますが、それ自体に呪力ありと意識されます――を貼り付けたというのです。社家は早い段階でこれに気付いたらしいのですが、厨子の鍵を握られて法蓮寺の支配下に甘んじている現状では手の打ちようがありませんでした。
 それから23年後の天明三年(1783)、やはり遷宮祭の際、そのどさくさに紛れて左宮と別宮においてはようやくそれを取り除くことに成功しました。
 しかし残る右宮についてのみは機会を逸し、また数十年先の遷宮祭を待たざるを得ない実に気の長いストレスを余儀なくされました。
 ところが8年後の寛政三年(1791)に思いがけないチャンスが訪れました。社家衆は、別事件――宝篋印塔事件――の解決のどさくさに藩庁と談判できる機会を持ったのです。我慢ならない社家側は、藩庁に法蓮寺の横暴と仏舎利撤去を直訴したのでした。
 この件に関する裁判は寛政十年(1798)の最終判決まで実に7年の歳月を要したのですが、ついに仏舎利を撤去する申し渡しを得られたのでした。
 この間の藤塚知明は少々過激だったようです。
 知明は敬虔な垂加神道の徒で、且つ自分の正義に忠実な人物でしたから、仏舎利をもって神体を穢した法蓮寺の行為は心底許せないものだったのでしょう。
 押木さんの『鹽竈神社(学生社)』には、知明が次のような激烈な所信を述べていたことが紹介してあります。

――引用――
たとえば君主の御寝所へ糞を入れ荒しおきたるがごとし。知らぬ内はともかく、知れば一日も止むべからず。いかでか黙すべし

 仏舎利を糞と例えられては寺側もたまらないでしょうが、いずれ知明の怒りが伝わってくるようです。
 しかし、現在と異なり、このような奉行の心象を悪くする態度はしっかり自分に跳ね返ってくるようです。知明ら社家16人は、支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為、および上にたいする不敬の罪を問われたのだそうです。
 2年後、知明は蟄居先で永眠することとなりました。

旧法蓮寺書院勝画楼
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林子平の親友

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 『鹽竈神社史料(國幣中社志波彦神社鹽竈神社社務所)』の編者であり、かつ時の宮司であった山下三次さんは、鹽竈神社の祭神について左宮「武甕槌(たけみかづち)神」右宮「経津主(ふつぬし)神」別宮「岐(ふなど・くなど)神」として、伊達綱村が定めたとおりを主張しております。山下さんの論考に目を通して知ったのですが、どうやら、別宮祭神が「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」という現在に通ずる一般認識は、宝暦年間(1750〜)頃の鹽竈神社祠官「藤塚知直」及びその養子となりその職をも継いだ「藤塚知明」らの影響によるもののようです。
 鹽竈神社が、伊達綱村以前に左右両宮の社殿であったことは文献等によってあきらかなのですが――六所明神の場合も両宮に分けられていたという――、綱村以降三宮配祀が確定されました。厳密には藩祖政宗時代にも鹽竈社本殿と「糺(ただす)――只洲――」・「貴船(きふね)」との三宮の様相は呈しておりましたが、糺・貴船を賀茂社というひとくくりでみなせば、二宮――左右両宮――と言えなくもありません。
 山下さんによれば、藤塚知直以前の鹽竈神社における左宮・右宮・別宮の三宮の順位は、1左宮、2右宮、3別宮で、藤塚親子の後の遠藤信道の時代においても尚教務省に提出されている国家としての公式な順位は第一殿(左宮)、第二殿(右宮)、第三殿(別宮)であったようです。これを素直に信じるならば現在左右両宮が正対して別宮だけがそっぽを向いている理由もわかろうというものです。教務省によれば官國幣社の基準は延喜式にあり、とのことで、鹽竈神社が式外社であったからには、明治政府としては本来國幣中社の資格すらなかったはずなのです。それを式内大社の志波彦神社をセットにするというアクロバティックな裏技で資格を得たのでした。
 ともかく、現在のように別宮が最も重きをなすようになったのは――それを知る人も一般市民には少ないのですが――、これも藤塚親子によるところが大きいようです。
 ここで誤解のないように申し上げておくべきことは、今でこそ宮司という存在を抱える鹽竈神社ですが、かつては総神主として留守氏や伊達氏といった当地の最高権力者が兼任していたため、宮司は不在で、事実上の宮司はあくまで禰宜(ねぎ)でした。そしてその禰宜は巫女ともども三宮各々におり、藤塚氏は、最も格が低い「別宮」のそれでした。
 しかし、往昔から巫女舞などの神事については別宮の担当者が最初に行う慣例があったというところは奇妙といえば奇妙です。
 ただし、それはあくまで別宮の岐神が、夷族平定の為に降臨する武甕槌(たけみかづち)神・経津主(ふつぬし)神の両神を嚮導したという故事にならったものといいます。
 もしかしたら、藤塚氏は別宮禰宜としてその格の低さを払拭せんと思ったのかもしれません。それにしても、歴代神官が数多くいるなかで、何故にこの藤塚氏の私論が受け入れられ、且つ、綱村の決定を微調整してまで後世に継承されたのかは不思議です。このことは異常事態であり、無視できません。
 藤塚親子の思想や影響力の源流を俯瞰するため、特に養子知明を取り巻いた環境を眺めてみたいと思います。

 この藤塚親子は大変な博識だったらしく、東北歴史博物館の企画展『奥州一宮 鹽竈神社』のオフィシャルガイドブックによれば、養父知直は、京にて神道や故事、歌学などを修め、神道学者――垂加神道――の「吉見幸和」の門人として学んだようです。
 この吉見幸和は鹽竈神社にも来社して講義を行ったらしく、社家らの思想に強い影響を与えたようです。
 そして知明も知直からの教授に合わせて吉見幸和最晩年の門人として面授を受け、その教えを骨格に社家としての考え方を培っていたといいます。
 ちなみにこの養子知明も養父に勝るとも劣らずの知識人で、前に触れた謎の蒙古の碑を訳した人物としても有名です。
 一方で、あの『海国兵談』や『三国通覧』を著した「林子平(はやししへい)」とは無二の親友でもありました。それは子平が獄中にあっても変わらない真の友情です。
 念のため林子平について軽く触れますと、あのペリー来航の100年も昔に列強の事情を見据え、そのときが来ることを予見して、『海国兵談』などで沿岸部の防備と海軍の強化を幕府に提言した人物です。その先見の明は吉田松陰や佐久間象山どころではありません。もちろん幕府は世を惑わす妄言をはいたとして版木の没収および蟄居を命じました。もしこのとき林子平の提言を取り入れていれば、江戸幕府は滅びることもなかったでしょうし、世界史も大きく変わっていたことでしょう。
 さて、藤塚知明は、そんな孤独な罪人林子平の親友なわけですから、彼の人物像を想像するのもそう難くはありません。おそらくは自分の正義に忠実な人だったのでしょう。しかし、歴史的な偉人も、当代においては単に偏屈な変わり者であったことと思われます。

鹽竈神社境内にある林子平考案の日時計
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