はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

亀の風土記:宮城県

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太白山の風景

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 梅雨ということもあってか、仙台市太白区の「太白山(たいはくさん)」がしばしば下界の靄(もや)の上に浮かんでいるような風景を目にします。

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 仙台市民にもっとも馴染みの深い山は?と尋ねたら、おそらくは泉区の泉ヶ岳とこの太白山が双璧をなすことでしょう。
 城下町から発展した仙台の都心は、太平洋に臨む宮城野原方面以外は三方が100m級の丘陵地に囲まれていることもあり、大半の住宅地には坂道が多くなっております。しかしその分、その両峰は市内のどこからでも望める印象があります。
 両峰とは言ったものの、標高1200mほどの泉ヶ岳に対し、太白山は320.61mと里山の親分みたいなこじんまりとした山です。付近の小学校に通っていた方は、標高を「3(さん)・2(にー)・1(いち)」と覚えさせられたと語っており、周辺住民の太白山に対する親近感が窺われます。
 標高といえば、30年ほど前に太白山西麓の丘陵地に造成された茂庭台団地には高さ100mを超える33階建ての超高層マンションが一棟そびえ立っておりますが、最上階は太白山の頂上に合わせて建てられたと聞いたこともあります。しかし何故か私には太白山の方が高いように見えるのです。太白山が手前となる南東方面から見ている分にはあたりまえだと思うのですが、秋保方面から都心方面に戻ってくる道中、すなわちマンションが手前になるはずの南西方面から見てもそう見えてしまうのは目の錯覚なのでしょうか・・・。

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 富士山を縮小したような円錐状の独立峰たる太白山は、遠望すると綺麗な正三角形に見える山容だけに、それを富士山だと思っていた幼馴染、はたまたピラミッドと信じていた幼馴染もおりました。単に可愛らしい子供の戯言とばかり思っておりましたが、ウェブを眺めていると、わりと大真面目にピラミッド説を語っているページもあり、驚きました。
 ちなみに、このような円錐状の山には時折UFO目撃談なども聞こえてきます。太白山については特に耳にしたこともありませんが、それらはあながちオカルト趣向者の妄想だけでもなさそうで、20年ほど前、たしかテレビ朝日系の「特命リサーチ(?)」なる番組でその真相を科学していた記憶があります。
 それによると、なんらかの鉱物を含む地質の円錐状の山は、条件がそろうと磁気によって山頂上に発光現象を生じることがあるのだとか・・・。土葬の墓地でみられる人魂(ひとだま)みたいなものでしょうか・・・。
 いずれ、ピラミッドやUFOはともかく、太白山は古くから信仰の山でありました。
 かつてよく耳にした伝説に、閖上(ゆりあげ)の漁師が太白星―金星―の落ちる山「太白山」を目安に舟の位置を確認していた云々というものがありました。
 したがって私は、閖上の漁師には太白信仰、すなわち道教の影響も少なからずあったのではないか、と考えたりもしておりましたが、あらためて『仙台市史 特別編9地域誌』に目を通しておりますと、幾つかの話が混ざっていたことに気付きます。
 すなわち、「金星が落ちて出来た山」という伝説と、「太白山を基点に漁場を確認し合っていた」という話、「仙台湾を横切る千石船が太白山をみて船の位置を確認していた」という話が一緒くたになっていたようです。
 後者二者は、金星云々はあまり関係がなく、単に三角のお山を目印にしていたというだけで、その山がたまたま太白山という名であっただけのようです。
 また、厳密に言えば太白山という山名も明治以降のもののようで、江戸時代までは、おそらくはアイヌ語に由来するのであろうウトガ森なりオドガ森と呼ばれていたようです。この訓に対し「烏兎峰」という漢字表記がなされていることから、前述市史は「烏(からす)」を「太陽」、「兎(うさぎ)」を「月」になぞらえる故事に照らして、太白山が季節を知る上での天のめぐりの目安になっていた旨を推察しておりました。
 なるほど、閖上の漁師に浸透していたであろう羽黒信仰の日月祭祀の側面とも符合するものであるように私には思えます―拙記事「高舘山古墳の被葬者についての一考察」参照―。
 先に触れたとおり、それは奥州藤原氏の平泉政権によって名取高舘の独特な熊野信仰に包摂されていったものとみられるわけですが、平泉政権の滅亡後は源頼朝の鎌倉政権に継承されていきました。
 現在太白山には、中腹に「生出森(おいでもり)八幡神社」、山頂に「貴船神社」が祀られておりますが、生出森八幡神社は鎌倉政権が「鶴岡八幡宮」より勧請したものと伝わっております。

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生出森八幡神社
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 この生出森八幡神社には、かつて太白山周辺の旧茂庭村に祀られていた神社、すなわち、源頼朝を祀った白旗神社、熊野十二社権現社、雲南神社、武内権現社、道祖神社等が、明治の時代に合祀されて今日に至っているとのことですが、個人的にはその際に山頂の「貴船神社」が合祀を免れたことが気になっております。
 同社は大同二(807)年に京都から勧請されたと伝わっており、鎌倉時代に勧請されたのであろう生出森八幡神社よりも古いということになります。それを祀ったのは何者であったのでしょうか。
 東日本大震災から八年目となる平成三十一(2019)年三月十一日は、あたかも被災者の忘れ得ぬ感情が荒ぶったかのような荒天となりました。
 雪の少ないままに終わろうしている宮城の冬、乾燥しきった大気には飛散の本格化し始めたスギ花粉やら、一部にささやかれていたところのシベリア森林火災からのPM2.5とやらが充満していたものと思われますが、それらすべてが暴風に吹き払われ、雨に洗い流され、翌三月十二日の朝にはわざとらしいほどに真っ赤な朝日が禊ぎでも済ませたごとくに仙台湾の東の果てから昇りました。
 春彼岸まで一週間あまりのこの日、羽黒神社に因んで名づけられた羽黒台団地―仙台市太白区―の街路の東西軸にも遍く朝日が直刺(たださ)しておりました。

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 同地は、昭和四十一(1966)年、かつての名取郡山田村の総鎮守たる「羽黒神社」の坐す旗立山を切り崩し造成した住宅地であるわけですが、造成前の地形図の等高線をみると、現在の街路は羽黒神社の坐す旗立山山頂から延びる尾根に逆らうことなく区割りされていたことを知ります。思うに、同社はあえて彼岸の朝日の直刺す地形の山頂に奉斎されていたのでしょう。少なくとも造成に伴って移祀された先である現社地の社殿はほぼ彼岸の朝日に向きあっているようです。

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明治38(1905)年頃

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昭和39(1964)年頃

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昭和52(1977)年頃
※いずれも(財)日本地図センター発行『地図で見る仙台の変遷』より

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現在の同社

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現社殿と正対して望む朝日

 かつては毎年名取川河口の閖上(ゆりあげ)濱―広浦―まで神輿の渡御が行われていたというこの羽黒神社ですが、私はその神輿の主こそが後に那智神社となる名取高舘の羽黒権現そのものであったのではないか、などと考えるのです。
 高舘の羽黒権現は、養老三(719)年に広浦―閖上(ゆりあげ)―で引き上げられた御神体に由来するわけですが、件の羽黒台―山田―の社には和銅三(710)年に火災に罹った旨の伝説があります。
 それが再建されたのは、だいぶ下って天喜五(1057)年のこと、すなわち、陸奥守鎮守府将軍の源頼義が安倍頼時を討った翌年にあらためて勧請されたものと伝わっております。
 つまり、高舘のそれが創祀された養老三(719)年時点において、山田のそれは消滅状態にあったのです。
 『名取郡誌』によれば、高舘の社の御神体を引き上げた漁夫治兵衛は、郡誌当時の高舘那智社の神職山田氏の先祖であるとのことでした。
 なにやら、「閖上」との地縁や「山田」なる言霊を介して両社の属性が重なり合うわけですが、思うに、広浦の海底から引き上げられた御神体とは、その九年前の火災で焼失していた山田の社の御神体であった、あるいはそう信じられていたのではないでしょうか。

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閖上の朝日―平成三十一(2019)年三月十一日付河北新報朝刊一面より―

駒形大神の遷幸

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 「陸奥国栗原郡大日岳社記」―駒形根神社の由緒記:以下社記―によれば、栗駒山―大日岳(おおひるだけ)―そのものを神の宮殿として崇める栗原の里人は、その恐舊(きょうく)の感情から山の頂に登る人はいなかったようです。
 山の南方には大神の鎮まり坐す石窟―霊窟(かみのいわや)―があり、里人はそちらに参拝―郷俗此ノ處ニ詣デテ敬礼拝謝―していたというのです。
 一方、それとは別に、東麓の沼鞍村―三迫:栗原市栗駒町沼倉―に里宮―麓宮・御駒宮―が設けられていたことも社記にみえます。一般に「駒形根神社」といえばこれを指し、現在鳥居には「勅宣日宮」の扁額が掲げられ、宮司鈴杵家の祭祀の拠点となっております。

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 この沼倉地区では、現在も不定期ながら駒形大神の巡幸神事が行なわれていて、それは宮城県の「県指定無形民俗文化財―風俗慣習―」に位置づけられております。宮城県はその起源を明和五(1768)年まで遡ることができるとしておりますが、社記にはそれとは異なる駒形大神の遷幸なる古来の神事があったこともみえます。

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 巡幸神事は駒形大神が櫻町天皇の御宣命を拝受した際の勅使下向の古事を偲ぶもののようなので、駒形大神そのものの遷幸とは趣も異なりますが、社記によれば、駒形大神の遷幸に際しては栗駒二迫の文字地区、並びに三迫の沼鞍地区を行宮(あんぐう)とし、多くの馬を走らせ、流鏑馬(やぶさめ)もあったようです。同社記にみえる郷俗の言い伝えによれば、一度この馳道(ちどう)に出た馬は必ず幸があったといい、畜馬の者は各々競って出場していたようです。
 なにしろ社記には「奥羽ノ馬斯クノ處ニ来タリ集マラザルハ無シ 故ニ天下ノ駿馬ノ多クハ奥羽二州ヨリ出ズルヲ以テ良キ者有ル哉」とあり、栗駒山の駒形大神の行宮する栗原郡栗駒の地は天下の駿馬の一大聖地であったことがあらためて窺えます。
 この神事、驚くことにかつては数万もの馬を走らせるという壮大なものであったようです。
 しかし、「此ノ式亦廢ル」ともありますので、社記の書かれた元文五(1740)年におけるそれは既に過去のものであったようです。
 社記には、故あって「文治(1185〜1190)ノ度」にその舞台が栗駒町岩ヶ崎地区―三迫―に移されたとあり、なんらかの理由で文字地区から岩ヶ崎地区に移され、「奥州三迫ノ日市」と称された遷幸神事は、「上古ノ走馬ノ遺風」ではあるものの、文治年間(1185〜1190)に至って古来のかたちが変わっていたことになります。
 近年の岩ヶ崎は、栗原電鉄の栗駒駅が設けられるなど、栗駒全体の中心拠点的印象の強い比較的賑やかな町ですが、文治年間にいかほどのものであったのかはわかりません。
 ただ、奥羽各地から数万もの馬が集まってくるとするならば、特に狭隘な文字地区では難しいようにも思え、それが故に岩ヶ崎地区に移されたものかもしれない、という気がしないでもありません。
 いずれ、文治年間は、壇ノ浦で平家が滅亡したことに始まり、奥州藤原三代秀衡が没し、相続した四代泰衡が源頼朝の圧力に抗しきれず結果的に滅ぼされた年号でもあります。
 さすれば遷幸神事の岩ヶ崎移転については、対鎌倉との緊迫感の高まり、いわゆるエマージェンシーにおける戦略的意図に起因したものとも推察します。
 少なくとも、当時最高の軍事兵器たり得る駿馬が、陸奥出羽の両州から数万もの規模で集まり走駆したというのは尋常ではありません。これは、平家滅亡後に圧力を強めてきた頼朝に対し、秀衡が駒形大神の遷幸なる神事の名を借りて軍事デモンストレーションを展開したものと私は考えます。

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 駒形根神社の鎮座地、かつ、駒形大神遷幸の行宮の地でもある沼倉地区には「源九郎義経」の墓と伝わる「判官森(はんがんもり)」があります。
 地元では、義経を逃すために義経になりすまし身代わりとなって死んだ「杉目太郎行信」なる人物の墓とも伝わっているわけですが、栗駒古舘の城主は行信の弟とされる「沼倉小次郎」なる人物でありました。
 源頼朝は、平家討伐最大の功労者であった弟の義経を朝敵に貶め、それを匿う奥州藤原氏に脅しをかけ続けておりました。それをのらりくらりとかわし続けていた三代秀衡の没した後、圧力に抗しきれなかった四代泰衡は、義経を殺しその首を差し出したとされております。
 しかし、栗駒では、それは身代わりとなった杉目太郎の首であったと伝えられているのです。
 こういった伝説の存在は、文治年間のエマージェンシーに駿馬の聖地たるこの地が安穏としていられなかったことを窺わせます。
 菅原勇喜さんの『栗原の伝説』に次のようなコラムがあります。

―引用―
源義経と伝説
 牛若丸の名で知られる源義経は、栗原の伝説の中にしばしば登場する。それだけ、むかしから、たいへん親しまれた武将であった。
 平泉の藤原氏とつながりの深い義経は、何度か栗原の地を通ったことであろう。義経はその平泉で、若い生がいを閉じた。悲しい運命をたどった義経に、人々は心を引き付けられていった。
 栗駒町では、毎年七月末に夏祭りが行われ、十台の山車が町内をはなやかに練り歩く。このお祭りは伊達藩の時代に始まり、豊作を願う当時の農民や商人、職人たちみんなで楽しんだと伝えられている。平成の時代になっても山車かざりを一きわ引き立たせているのが、源義経の人形姿である。亡くなって八百年以上過ぎた今なお、義経は人々の心の中に生き続けている。

 これが義経に対する栗原の人たちの想いであるのでしょう。
 十七万騎もの精兵を擁する奥州藤原三代秀衡にとって、源氏の正統たり得る義経は対頼朝戦略におけるパンドラの箱であり最終兵器でもありました。騎馬を駆使し、際立つゲリラ戦法で瞬く間に平家を滅ぼした義経ですが、思うに、彼は心の父である秀衡の意向によってこの栗駒の地で鍛錬させられ、馬に精通した当地の人々から徹底的に馬の習性を叩きこまれていたのではないでしょうか。

栗駒山を望む

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 平成最後の晩秋のとある早朝、栗原市築館(つきだて)の国道四号を北上する私の車のフロントガラスに冠雪まもない栗駒山が朝日に染め上げられて現れました。
 ふと、高校時代のさもない記憶が蘇ります。
 良く晴れた日の仙台市内のとある丘陵地にて、まだ冠雪していない晩秋の泉ヶ岳の向かって右、すなわち東の山麓にぽつりぽつりと居並ぶ七ツ森の山々に紛れて、白いアイスクリームのような山容が顔をのぞかせていることに気付いたのです。

「あの山はなんだ?」

 とりあえず私は隣にいた友人に訊ねました。

「まあ、七ツ森ではないな」

「そりゃ〜あの山容からすればそんな低い山ではないよ。泉ヶ岳がまだ冠雪していないわけだから、たぶん泉ヶ岳よりも高い山だ・・・」

「船形山じゃないか?」

「・・・う〜ん・・・船形山ってあっちかなぁ・・・」

 船形山は泉ヶ岳の北西やや西寄り、宮城・山形の県境に峰を連ねる奥羽山脈の山でありますが、私にはもっと東の大崎平野方面に思えていたのでした。

「・・・じゃあそのあたりで他に泉ヶ岳より高い山ってあるか?」

「・・・いや・・・思い当たらない・・・」

 とは言ったものの、あわよくば岩手県の北上山地、地理の授業で習ったばかりの「残丘」の例に出されていた「早池峰(はやちね)山」であったりはしないだろうか、などとも頭をよぎっておりました。おしなべてなだらかな北上山地にあってひときわ高い2000メートル級の高い山。

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早池峰山

 しかし、それを言うと友人に鼻で笑われそうな気がしたので言葉を呑み込みました。そもそも、まさかそんなはずはなかろう、というもう一人の自分の賢しらな常識が自動車のABSのようにじわりと発言衝動を締めあげていたのでした。
 それでもどこかに期待はあり、友人を驚かせてやりたい、という気持ちを抱いたまま帰宅した私は、その夜、地図を開いてみました。
 地図上に定規をあてがい、泉ヶ岳と七ツ森の位置関係から白い山の方向を推測してみたのですが、ひとまず船形山には行き当たりそうにありません。

(だよな・・・。船形山ならもっと泉ヶ岳と重なるはず・・・)

 とは言え、早池峰山に行き当たるわけでもありませんでした。
 やや落胆していたその刹那・・・。

(これは・・・)

 意外にも、定規の延長線上には栗駒山が重なっていたのです。その選択肢は持ち合わせておりませんでした。それはいわば、自らの想定という将棋盤の外の駒でありました。まさか、栗駒山が仙台市内から見えるとは考えてもみなかったのです。


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仙台市泉区南光台南から望む栗駒山

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 古来、信濃系の馬飼い集団の扶植地として代々の領主から特別視されてきたのであろう栗原郡―宮城県栗原市―。
 三善光寺の一とされる奥州善光寺は、その馬飼いの彼らの信仰の名残であろうと考えられるわけですが、栗原一帯を見下ろす栗駒山もまた畏敬の対象であったようです。
 栗駒山は、古く「駒形嶽(こまがただけ)」と呼ばれていたようですが、その山名は、炎暑にあっても尚残る斑馬(ふちうま)の雪形に因み名づけられたものと言われます。
 裏を返せば、その雪形を神懸った馬の形と信じたい人たちが麓に暮らしていたということでもあるのでしょう。
 また、栗駒山には「大日岳(おおひるだけ)」という別称もあり、栗駒山の神とされる「大日孁貴(おおひるめのむち)尊 ―天照大神の異称―」の又の名が「午日(むまひる)尊」であることから、「午峰(むまのみね)」、あるいは「駒ヶ岳」、あるいは「駒形峯」、あるいは「駒形岳」などと転じたものとも言われているようです―「陸奥国栗原郡大日岳社記」より―。
 大日岳なる別称は特に秋田県側からそう呼ばれていたらしく、おそらくは出羽國雄勝(おがち)から由利郡周辺に土着していた信濃系の人々からみて、この山が「日の出の山」であったからなのだろうと想像しております。
 度々触れてきているとおり、古来呉人(くれびと)―高句麗系渡来人―と密接と思しき信濃系の馬飼いの人たちには濃厚な太陽信仰があったと考えられます。
 とりわけ冬至の日の出の方位に大日岳―栗駒山―を拝むこととなる由利郡ですが、その地名の「由利(ゆり)」については、前にも触れたとおり、古代朝鮮語で「日」を意味するユルなりイルに由来したものではないか、と私は勘繰っております。
 古代朝鮮に限らず、日本においても先の「大日孁貴(おおひるめのむち)」など、「日」をヒルと読む用例が少なからず存在しているわけで、それらを鑑みるならば、もしかしたらこれは環日本海に遍く通ずる訓であるのではないでしょうか。さすれば「昼(ひる)」の語源もおそらくは同根でしょう。
 栗駒山―大日岳―の神を祀る「駒形根神社」は、『延喜式神名帳』に載る栗原郡七座の一であるわけですが、「日宮(ひるみや)」とも呼ばれ、神仏混淆の時代には天台宗支配の「駒形山大昼寺」と別称されていたようです。

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駒形根神社の鳥居に掲げられた「敕宣(勅宣)日宮」の扁額

 天台教徒が広めたのであろう全国の慈覚大師円仁伝説地にはたいてい「日吉(ひよし)山王神社」なり「日枝(ひえ)神社」なりと呼ばれる社が展開しておりますが、「日枝(ひえ)」はおそらく天台宗の震源地たる比叡山の地名に由来するものと思われます。
 比叡山延暦寺を建てた最澄は後漢孝献皇帝の裔と伝えられており、その実は馬産に精通した高句麗人に近い属性を有するツングース系の渡来人とも考えられるわけですが、「日枝(ひえ)」を先のように古代朝鮮語の例に準ずるならば「ユルギ」とも訓めます。もしかしたら、むしろ比叡山の地名こそが日枝(ゆるぎ)に由来するものであるのかもしれない、などとも想像しております。
 なにしろ栗原郡の武烈天皇伝承地のひとつとして、「ゆるぎの松」なるものがあります。
 この地に下った武烈天皇が船をつないだ松とも伝えられております。
 もしかしたら栗原の武烈天皇伝承の本質を解く鍵はこの「ゆるぎ」なる言霊の中に埋もれているのかもしれません。

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伊豆沼越しに望む栗駒山

余滴―。
 気がつけば拙ブログ「はてノ鹽竈」も平成二十(2008)年十二月十日の開設から10年を経過しておりました。
 平成最後の年末ということもあってか、ふとこの10年間を振り返ってもみるわけですが、その間、東日本大震災という未曽有の天災も体験し、父も他界しました。
 その一方、このブログを開設したことによってかけがえのないご縁にも恵まれ、かつて唯物論者と罵られていた私が、神仏を尊び、自分の役割なり「縁(えん)」というものを深く考えるようにもなりました。
 かの西行法師は伊勢を訪れた際に、「なにごとのおはしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだといいますが、その感覚もここにきてようやくわかるようになってきたような気がします。
 もちろん、単に歳をとっただけなのかもしれませんが・・・。
 荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―流域は、奥州藤原政権下においては照井王国でもありました。
 度々触れているとおり、「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」を輩出したと自称する照井氏は、高句麗系渡来人と密接、あるいはそのものであったのではないか、と私は考えております。
 例えば、照井太郎高直を供養したものとされる宮城県栗原市金成(かんなり)町有壁(ありかべ)の五輪塔は、このあたりでは珍しい“積石塚”の上に立てられておりました。
『日本歴史大辞典(小学館)―CASIO製電子辞書「EX-word」所収―』は、「積石塚」を次のように説明しております。

―引用―
つみいしづか【積石塚】
墳丘を石で覆った墓。河原(かわら)石や山石、割石(わりいし)で墓槨(ぼかく)を覆うという風習は世界各地で普遍的であるが、一定の地域・時期に発達する積石塚には系統関係がみられる。遼東半島の積石塚は紀元前8〜4世紀の青銅器時代の多葬墓である。高句麗(こうくり)では紀元前後に遼東半島の積石塚や⇨支石墓を祖型として出現し、円形の積石塚から方形の基壇積石塚に変化する。高句麗の積石塚は大同江・漢江流域にまで分布し、文化圏・政治的領域圏を表わす。〜以下省略〜

 これが論証というわけでもありませんが、少なくとも積石塚が高句麗に顕著な埋葬習慣であったということくらいは留意しておきたいところです。
 先に触れた「王昭君(おうしょうくん)」は、「匈奴(きょうど)」の「呼韓邪単于(こかんやぜんう)」に嫁がせられたとのことでした。匈奴とはモンゴル高原に一大勢力を築いた遊牧国家であり、歴代中国王朝を脅かしていた北方騎馬民族でありました。それ故に歴代の中国王朝は「万里の長城」の整備を怠るわけにはいかなかったのです。
 匈奴からすれば世界一の文明国たる中国王朝は垂涎の存在でもあり、中国王朝からすれば北方の匈奴はおとなしくしていてもらいたい筆頭の存在であったようです。なにしろ匈奴は強く、武闘派の楚王「項羽」を下して皇帝の座についた「漢の高祖―劉邦―」ですらも完敗しております。北方へ退却する囮の匈奴軍を追撃した高祖はまんまと謀略にはまり、「白登山」にて匈奴軍精鋭の騎兵に包囲され、そのまま七日間も孤立するという絶体絶命の危機を体験しております。高祖は贈賄作戦によって辛うじて脱出に成功し首都長安に逃れたものの、これ以上の匈奴との対峙は不可能と悟らざるを得ず、以降様々な貢物はもちろん、帝室の女を匈奴の単于(ぜんう:君主の意)に贈り姻戚関係を結び続けるというおよそ皇帝とは思えない屈辱的な外交政策をとらざるを得なかったようです。「前漢(=西漢)」の「元帝」が匈奴の呼韓邪単于に皇女の王昭君を贈ったのもその代表的な例といえるでしょう。

 さて、陸奥の栗原に土着していた信濃系の馬産民は、元をただせば「天武天皇」の政策に基づき信濃に徴集養成された亡国の高句麗系騎馬民の裔であろうというのが私の仮説ですが、それらと極めて密接な存在と思われる照井一族の英雄「阿弖流為(あてるい)」を降伏に導いたのは、「東漢(やまとのあや)氏」の裔である征夷大将軍「坂上田村麻呂」でありました。
 大和の「檜隈(ひのくま)」を本拠地にしていた「東漢(やまとのあや)氏」は、「後漢(=東漢)」の「霊帝」の裔を称しておりますが、その実は扶余系の騎馬民族と思われます。事実、彼らは藤原広嗣の反乱の際に騎兵として登場しております。
 彼らの本拠の「檜隈(ひのくま)」については、『日本書紀』に「呉人(くれひと)を檜隈野(ひのくまの)に安置(はべらし)む。因りて呉原(くれはら)と名(なづ)く」とあるのですが、「呉原」は現在の奈良県高市郡明日香村の「栗原」のことで―『日本書紀(岩波書店)』―、「呉人」は高麗、百済の扶余系朝鮮人をさします―大和岩雄さん『日本古代試論(大和書房)』―。
 その扶余系騎馬民族の裔とみられる坂上田村麻呂が阿弖流為の投降を実現させました。しかしいくら英雄田村麻呂とはいえ、多賀城への就任まもない人物が10年以上も前任者らの手に負えなかったまつろわぬ勇者阿弖流為との交渉を短期間で円滑に進めることが出来たというのは不自然です。おそらく、他ならぬ阿弖流為が田村麻呂の氏素性に親近感を覚えて命運を任せる気になったのではなかろうか、と私は考えております。
 ともあれ、その東漢氏が後漢霊帝の裔を称していることから推察するに、北方騎馬民族の流れをくむ扶余高句麗系帰化人は漢族たらんとするフシがあったようです。
 青塚古墳の被葬者の属性は今一つわかりませんが、少なくとも「青塚」の名は漢族気分を気取る彼らによって名づけられ、伝えられたのではないでしょうか。

 ところで、藤原秀衡の命によって照井太郎高直が造営したとされる「佐沼城―宮城県登米市佐沼―」には「照日権現(てるひごんげん)」が祀られております。これは照井氏の守護神とされておりますが、長崎県対馬市の「阿麻弖留(あまてる)神社」の例から、照日権現は「天照御魂(あまてるみたま)神」のことと考えられます。すなわち『日本書紀』でいうところの尾張氏の祖神「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)命」のこととはよく言われるところです。『先代旧事本紀』はこの神を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)尊」と表記し、物部氏の祖神「饒速日(にぎはやひ)尊」のこととしております。
 はたして、それらが本当に同体異称の神であるのかはわかりませんが、少なくとも男性太陽神への信仰―アマテル信仰―であるという部分は共通しております。
 だからといって、これらが全て「好太王碑(こうたいおうひ)―広開土王碑―」なり「檀君神話」などにみられる朝鮮系の日光感精神話なり天神信仰なりに起因するものと判断するのは早計でしょうが、環日本海エリア全般に、各々近似する太陽信仰が浸透していたことは疑いようもない事実であります。物部氏や尾張氏の祖神とされる饒速日(にぎはやひ)尊なり火明命が日本に発祥したのか朝鮮に発祥したのかはわかりませんが、少なくとも天照御魂神という性格をもって日本に帰化した有力な渡来系氏族からも崇敬されていたフシがあったことは間違いないでしょう。
 それを踏まえたうえでの戯言ですが、もしかしたら、大崎市の中核「古川(ふるかわ)」の地名の本来の表記は「布留川」であったのではないでしょうか。
 すなわち、それは奈良県天理市の「石上(いそのかみ)神宮」の鎮座地「布留」を流れている川の名と同名ということです。布留は「布留御魂(ふるのみたま)大神」を意味しますが、それは、「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」なる十種の神宝に宿る御霊威を称えた神名で、『先代旧事本紀』や、神宝がおさめられた所と由緒に伝う石上神宮では、天降らんとする饒速日(にぎはやひ)尊が天津神(あまつかみ)から授けられたものとされております。
 平成の大合併で生まれた大崎市にあって「古川」はその中核で、東北新幹線の駅もある宮城県北の旧「古川市」のことであるわけですが、『古川市史』が記すその地名の由来は、「昔、荒雄川は、現在の市街地を流れていたといわれる。その川跡に人が住み、やがて村が形成された〜」ことにあるようです。
 当然ながら「布留」のことなどどこにも出てきませんが、その地名由来にからむ荒雄川の川筋には、かつて「瀬織津姫神」が三十六ヶ所にわたって祀られ、「三十六所明神」と呼ばれておりました。
 瀬織津姫を饒速日の后神とみるイデオロギーがそこに介在していたならば、古川の古は布留であったのではないか、という推測もあながち外れてはいないように思えます。
 三十六所明神は、江戸時代寛保三(1743)年に荒雄川上流岩出山池月地区の式内社「荒雄河(川)神社」に合祀されました。
 かつて私は、鎮守府将軍となった奥州藤原氏三代秀衡がこの荒雄河(川)神社を奥州一之宮に定めたことをもって、奥州藤原氏の崇敬する神が瀬織津姫であったと断定して論を進めましたが、あらためて考えてみるに、三十六所明神の合祀が江戸時代のこととするならば、その500年以上も前の奥州藤原時代の荒雄川神社の祭神には瀬織津姫が含まれていなかった可能性もあります。
 もちろん、瀬織津姫を祀る三十六所明神が同じ瀬織津姫を祀る件の荒雄川神社に集約されたという可能性もありますが、例えば、境内案内に「祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊で〜」とあるところの「須佐雄尊」を祀っていた荒雄川神社に、三十六所明神が合祀されたことをもってはじめて瀬織津姫神が加わっただけである可能性もあります。
 なにしろ、荒雄川源流の地「鬼首(おにこうべ)」の「荒雄岳」にも同名の社があり、岩出山池月の社が里宮と呼ばれているのに対して、鬼首のそれは奥宮ないし嶽宮と呼ばれているのですが、この奥宮の祭神は大物忌神であり、須佐雄尊ですらなく、瀬織津姫の名はみられません。奥宮と里宮がまったく異なる神を祀っているというのもいかがなものか・・・。
 しかし、『古川市史』に奥宮・里宮・三十六所明神ともに荒雄川そのものを祀ったものという旨が記されていることを鑑みれば、やはりそれらの本質はすべて同じ性格の川神とみるべきでしょう。
 例えば、三十六所明神が里宮に合祀された150年後の明治二十五・六年ごろ、古川小林地区の有志が、鬼首におもむき、荒雄川神社より分神を勧請し、地区の河添いに石の祠を建てて奉納し、河川の安全を祈願した、という逸話が『古川市史』にあります。この逸話からすると、少なくとも流域の住民は“河川の安全祈願”のために、あえて奥宮から分神を勧請したわけであり、奥宮を荒雄川の水神の最たる存在とみていたことが推察されます。

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荒雄川神社の里宮
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 いずれ、川神の性格を有する瀬織津姫神が三十六ヶ所にもわたって祀られていた事実は、荒雄川がかなりの暴れ川であったことを物語っており、もしかしたら、そのあたりが流域の悲劇の美女伝説に関係しているのかもしれません。
 三十六所明神の一社が祀られていたという古川清水地区の「抑の池(おさえのいけ)」の伝説には、村一番の怜悧(れいり)な娘が大蛇に人身御供として差し出されるくだりがあります。物語は月並みながら大蛇を出し抜き娘も村も助かるというハッピーエンドなわけですが、当地には大蛇を切り刻んだ「マナ板橋」と伝わる場所があり、何を隠そう、それより数キロ北方、岩出山真山地区の諏訪神社入口の「マナ板橋」では、「ここを通る女のうち、三人目の女を捕えてマナ板橋で切り刻んで諏訪神社に犠牲として供献した―『古川市史』―」と伝わっております。おそらく抑の池でも本来はそれに近い生々しい祭祀が行われていたのでしょう。
 思うに、そういった村の娘たちの悲劇が、王昭君や小野小町などの悲劇的な美女伝説を甘受しやすい民心の下地になっていたのではないでしょうか。
 石上神宮の由緒によれば、先の布留御魂大神、すなわち天璽十種瑞宝に宿られる御霊威は、「死(まか)れる人も生き反(かへ)らむ」と天津神が饒速日命に教え諭して授けられたものでありました。荒雄川の旧河道に名付けられたフルカワの地名には、娘を人身御供に差し出した邑人のせつない思いが反映されていたのでは、などと勘繰るのはあまりに抒情的すぎるでしょうか。

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主祭神を瀬織津姫とする大崎神社。
 最上氏や大崎氏の祖となる奥州管領「斯波家兼(しばいえかね)」が「名生(みょう)城」を築いた際にその守護神とされたもので、三十六所明神の一社に旧大崎村内の各神社を合祀し、名生城内の熊野神社の社地に遷座、合祀されたもののようです。
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