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亀の風土記:宮城県

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 仙台市民の私は、これまで数えきれないほど大崎八幡宮を訪れておりますが、何年か前のある日、たまたま神職の方が通りかかったので、一つの質問をしてみました。
 「政宗公によって遷座される前、この地には何があったのでしょうか」
すると、
 「何もありませんよ」
と、すんなり回答を頂きました。
 その後は、この社が元々岩手県の胆沢郡に鎮座していたことなどを丁寧に御説明賜りました。
 それにしても、神職様が「何もない」というのですから何もなかったのでしょうが、あの伊達政宗が、豊臣家召抱えの大工や狩野派の絵師といった当世随一の工匠を招聘して、渾身の最先端技術を投入してまで生まれ変わらせようとした鎮守社遷座の候補地に、はたして何もなかったところが選ばれるものなのでしょうか。
 例えば、『鹽竈神社(学生社)』を執筆した鹽竈神社の押木耿介元宮司は次のように語っておりました。

――引用――
 陸奥総社の場合、現位置に当初から総社が建立されたとは考えられず、しかもその遺構の始源が奈良時代にさかのぼる以上、かつては総社ではなく、多賀城に附属する官衙(役所)か、あるいは別の神社であったとしなければ理解できない。もし官衙の一部であるならば、とうぜん外部築地内に設けられていたはずである。かりに官衙であったとしても、建物をとりこわし、同じ場所に神の降臨を仰いで社殿を造立するとは考えられない。奏社の地は、やはり当初より、聖域であったとすべきであろう。

 この後、押木さんは、その場所――総社宮の鎮座地――には、延喜式内社宮城郡四座の内、論社が定まっていない「多賀神社」があったのだろう、と論じておりました。ここで私が注目・強調したいのは、奥州一ノ宮の宮司、かつ、宮城県神社庁の代表人物でもあった押木さんの思想の底流に、神の降臨を仰ぐ場所は「元々なんらかの聖域であったとすべき」という判断基準があったことです。
 多賀城の修造が繰り返されていた平安期と、大崎八幡宮の遷座が進められていた江戸期を同列に考えるべきではないと言う人もいるかもしれませんが、私の考え方では、これははっきり同列でいいと思います。
 例えば、第二次大戦後に、地元民の反対を押し切ってGHQによって行われるはずだった首都東京の「平将門の首塚」一帯の区画整理に伴う造成工事が、相次ぐ不審な事故によって中止されたという実話があります。偶然なのかもしれませんが、これは平将門の怨霊によるものと考えられました。
 現代でも、山形県などでは、県庁所在地の山形市のような都市部であろうとも「大将軍」というものが老若男女問わず真剣に信じられていて、「今年は○○方面に大将軍がいる」となれば、その方面での建築土木工事はほとんど避けられます。大将軍が移動するまで、当該エリアの建築営業マンなどは相当泣かせられることになります。現代ですらそういった風習が残っているのですから、江戸期などは推して知るべしでしょう。
 穢れ思想を持ち、土地に執着する日本人には、土地神や地縛霊を忌み恐れる“本能”があります。したがって、なんらかの霊地・聖地と化した場所は、いつまでも霊地・聖地として継承されていくのが自然だと考えます。神の降臨を仰ぐ場所は当初より聖域であったとすべき、と論じる押木さんは、その逆もまた真なり、という判断基準を示されているわけで、私もそれは至極当然のことだと受け止めております。
 何故このようなことにこだわるのかというと、実は、大崎八幡宮の場所はかつてニワタリ神を祀る聖域であった可能性が高いからです。それに気付いたのは残念ながら私ではなく、日本地名研究会の三文字孝司さんです。ニワタリ研究に関して、三文字さんほど徹底して調査された方を私は他に知りません。その三文字さんは、日本地名研究所の機関紙『ちめい』の中で「大崎八幡神社の神域は以前どんな小さな社か祠があったにせよ、ニワタリの神の神域であったといえよう。そして、そこは古代からの古墳の場所でもあっただろう」と推定されております。
 三文字さんがそう考えたきっかけは、大崎八幡宮付近の「鶏橋」や「鶏澤」の存在でした。このあたりには、八幡宮奉納の絵馬から抜け出した鶏が宵ドキをつくり、大雨洪水の警報を発した旨の伝承があります。

――引用:『河水千年の夢 広瀬川ホームページ(仙台市建設局百年の杜推進部河川課広瀬川創生室)』より――
 鶏橋の下には、滝のような鶏沢が流れています。また、鶏橋・鶏沢には次のような伝説があります。
 昔、金色に輝く美しい鶏が夜な夜なこの橋の欄干にとまって、高々と鳴いてはどこかへ飛び去っていきました。町の人たちは、それを何か悪い前兆ではないかと噂しました。ちょうどその頃、八幡神社に見事な鶏の絵馬を奉納されていて、ある夜、不吉な前兆を気にした町人が八幡神社にお参りにいくと、その絵馬から一羽の鶏が抜け出して、橋の方へ飛んでいくのを見ました。その人は、鶏はこれだったかと思い、金網を持ってきて鶏の絵馬に貼ってしまったところ、その夜から鶏は現れなくなりました。しかし、その数日後から大雨が降り続き、やがて大洪水となり、町を大いに荒らしました。人々はそれで初めて、鶏が八幡様の化身で、洪水を知らせようとしていたのだと知り、警告を無視したことを反省し、沢と橋に鶏の名前をつけて後世の戒めにしたというものです。
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 三文字さんは、この伝承から「八幡神社には鶏の絵馬が多く奉納されていたということを示している」と判断しました。氏は、それまでのニワタリ神のフィールドワークにおいて、鶏の絵馬が下がりきれないほど奉納されている神社をたくさん確認されております。
 度々触れているとおり、ニワタリ神が鶏信仰を指すものか否かは別として、鶏にまつわる伝承が――その語呂の類似性からか――よくつきまとうことは認めざるを得ません。
 鶏は八幡信仰自体にも関係する、という説もあるかもしれませんが、このエリアがニワタリの神域であったことを思わせる証拠がもうひとつあります。この付近には「来迎(らいごう)寺」という寺があるのですが、前にも触れたとおり、この寺にはかつて「モクリコクリの碑」と称された板碑がありました。板碑は二基で、弘安十一(1287)年のものと延元二(1337)年のものが存在していたですが、弘安のものについては現在所在不明になっております。板碑は、道路拡張工事のため寺の境内に遷され、延元のものは現存しております。所在不明となってしまった弘安の碑は、百日咳への神徳があるということから長年にわたって表面が削られ、経年の風化も手伝って碑文が不明瞭であったと言います。
 百日咳への神徳もまた、ニワタリ神によくつきまとう特徴でした。
 これらのことから、大崎八幡宮の神域は、やはり三文字さんが指摘されるとおり、往古のニワタリ神の神域であったと捉えることが極めて自然だと考えます。


 胆沢鎮守府八幡宮――岩手県奥州市水沢区――の当初の性格が、仮に私の想像どおりアラハバキ的なものであったとした場合、仙台の大崎八幡宮の境内に鎮座していた「大元社」があらためて気になってまいります。
 『記紀解体(彩流社)』の著者、近江雅和さんは、アラハバキの正体を、古代アラビア語で「最高の神」を意味する「アラバキ」であると力説しており、それらの内、南アラビアからインドに入って伝わった流れが、鬼神「アーラヴァカ・ヤクシャ」なる仏教の外道な守護神と化し、やがて中国に入り、密教を経る中で、音写ではなく義訳され、「元帥(げんすい)」あるいは「大元帥(だいげんすい)」なる明王になっていったのだとしておりました。ここに断言できるほどの根拠があるとは思えませんが――それだけの根拠を見つけること自体がほぼ不可能だと思いますが――、かなり魅力的な試論であるとは思います。 
 ちなみに、近江さんは「宇佐神宮」の奥宮である「大元神社」自体もアラハバキと因果づけております。
 『街道をゆく(朝日新聞社)』の司馬遼太郎さんは、先に触れた「大崎八幡宮」のくだりを、境内の「大元社」の話題で締めくくっておりました。難解な真言密教の世界を、「空海」という普遍的な天才の“風景”に投影して表現されていた司馬さんとしては、密教的なこの「大元帥」の祠を、そのまま通過して終わらせるわけにいかなかったのかもしれません。

――引用――
木立のなかに、摂社や末社が、いくつか鎮座している。そのなかにインドの神もおわした。
「大元帥(だいげんすい)」
という金文字の扁額がかかっている。
 祠の前の白塗りの柱に、江戸中期の賢君だった伊達吉村(一六八〇〜一七五一)が造営したものだと書かれている。大元帥というのは密教に取り入れられたインドの土俗神だが、神異のおそろしい存在だとされていた。体は黒青色で、四つの顔と八つの腕をもち、国家の鎮護と怨敵の退散をつかさどる。密教の修法(すほう)として「大元帥法」というのがあり、修法をする僧たちは、古来、「帥(すい)」の字は音読しない。音読するとおそれがあるとされるのだろうか。
 伊達吉村の一代、仙台藩主は財政窮迫し、参勤交代の費用にも事欠き、破産状態にあった。それでも吉村は民から搾ることをせず、冗費をきりつめた。この危機感から大元帥を信仰するようになったのかと思える。
 ところで、扁額の金文字は、
「大元“師”」
 となっている。御長床(おながとこ)にもどって、先刻の神職さんにたずねてみた。神職は、容貌と雄偉な体格は綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)氏に似ていた。底力のある声や、謙虚さ、それにユーモアの感覚までそっくりだった。
――覚(さと)られたか。
といったふうに、言葉も発せず、ただ背をそらせて謙虚に笑った。そのくせ、大声だった。つりこまれて私も大笑いした。笑いながら、
(いま東北にいる)
 という感動があった。こういう人柄は、東北以外の地にめったにいない。

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 時に「言葉の魔術師」とも言われる司馬さんらしい文章で、実に味があり、ついひきこまれて長々と引用してしまいましたが、見てのとおり、司馬さんはこの大元帥の勧請について、吉村公の財政危機感に結び付けて想像されたようです。
 しかし、件の伊達吉村の勧請時期より20年余り遡った元禄十一(1698)年の古図にも、同社の記載はみられるようで、それもあってか、説明板には「創建は不明」と併記されております。
 大元社の説明板の記述は次のとおりです。

――引用――
大元社
 大元帥明王が祀られ邪鬼を懲らしめ福を招く神として尊崇せられる。
 創建は不明であるが元禄十一年(一六九八年)の古図には記載されている。
 厨子には享保四年(一七一九年)仙台藩五代藩主伊達吉村公が武運長久・子孫繁栄を祈念し勧請していたことが記されている。
 現社殿は昭和五十六年に再建されたものである。
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 大崎八幡宮にて現在確認できる境内社は、祓所や沼田豊前の祠などをのぞけば、この大元社の他、諏訪社、鹿島社、北辰社、龍神社、金刀比羅社の計六社なのですが、旧版『仙臺市史』におけるその面々は、諏訪社、北辰社、鹿島社、雷神社、清瀧社、熱田社であり、やや食い違いを見せております。
 龍神社は清瀧社のことなのだろう、とこじつけたにしても、大元社と金刀比羅社を雷神社と熱田社に結び付けるには、少々遠回りになりそうです。
 少なくとも大元社は、元禄十一年の古図に記載され、厨子には伊達吉村勧請の記述があるのですから、旧版『仙臺市史』が編纂された昭和期にはとっくに存在していたはずです。なんらかの事情でしばらく秘されていた、ということになるのでしょう。単に、明治維新の神仏分離の影響で、真言密教色が排除された、と考えるのが妥当なのかもしれません。
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 余談ながら、ウィキペディアには「金刀比羅神社」について、次のようにありました。

――引用――
金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)、琴平神社(ことひらじんじゃ)、金比羅神社(こんぴらじんじゃ)は、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とし、その主祭神である大物主神を祀る神社であり、日本全国に存在する。「神社」ではなく「宮」と称するものもある。

 ここに、さらりと「神社」と「宮」という表現方法が取り沙汰されておりますが、「大崎八幡宮」も、つい近年まで「大崎八幡神社」と呼ばれておりました。旧版『仙臺市史』にも「大崎八幡神社」と表記され、私たち市民も、通常「八幡神社」と呼んでおります。
 しかし、実は明治以前には「八幡神社」ではなく「八幡宮」と称するのが本来的で、平成九年になって旧に復され、現在に至っているのです。
 この表現方法の通例的な区別について、私は詳しくはわからないのですが、親王を祀ったものを「宮」と呼ぶ、という話もどこかで見たことがあります。少なくとも、にわかに調べた限り、八幡系は全般的に「宮」と呼ばれるべきものらしいので、ここ大崎八幡宮も単にそういった事情だったのでしょう。八幡総本社の宇佐神宮が、歴史上朝廷に物申せていた事情として、神武天皇の真の第一子を祀っていたからではないか、と妄想していた私にとって、これは大変気になる通例とも言えます。
 宇佐神宮の“風景”についての私論は、以前少し触れていたものの、その後、アマテル信仰や、オホ氏・ワニ氏ら、祭祀天皇系譜とでも言うべき初期天皇第一子の相続事情などに字数を費やしているうちに、思うところも増えてきました。機会があれば、このあたりも考えをまとめて、あらためて字数を費やしてみたいと思います。

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 小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、本格的に天下の改革経営に乗り出しました。その政権下、失脚させられた大崎氏領の新しい領主となった伊達政宗は、領民の心証を害さないようにという意図があってか、「大崎」の名を冠する既存の八幡社を手厚く祀りました。
 やがて徳川家康の時代が到来すると、政宗は首府として町割りした仙台にもその神を祀りました。そしてその際に、生まれ故郷米沢にて代々崇敬し、特に片倉小十郎に縁深い 「成島八幡宮」 ――片倉小十郎景綱は当社神官の子――も合わせ祀り、現在に至る「大崎八幡宮」が誕生したとされております。
 旧(ふる)く、「奥州探題」なる重職を担った大崎氏は、小田原参陣――秀吉による北条攻めへの加勢――という“踏み絵”にかかり失脚したわけですが、本来は京の「管領」斯波(しば)氏と同系――足利氏系――の斯波家兼(いえかね)に連なる系譜、すなわち「奥州管領」を担った名門一族でありました。三代詮持(あきもち)の代には、「奥州管領」のさらに上を行く「奥州探題」として君臨し、もはや本家京の管領斯波氏とも肩を並べるほどの一党となっていたようです。言うまでも無く、彼らは粉うことなき源姓の一党であり、したがって、源頼義と息子義家――八幡太郎――、更に頼朝――鎌倉殿――ら、偉大なる源氏のご先祖様が、奥州簒奪の熱き野望のペナントのような「胆沢城鎮守府」において、守護神として祀るところであった「鎮守府八幡宮」の、その“志”を継承せんと神霊を自らの直轄領にも勧請し、「大崎八幡宮」として厚く崇敬したようです。
 「鎮守府八幡宮」の“志”には、単に源氏の御先祖様が祀っていたという伝統のみならず、さらに重要なメンタリティーが含まれていたようにも思いますが、まずは由緒を、『お八幡さま』なるしおりから引用します。

――引用――
桓武天皇 延暦二十年に坂上田村麻呂が東奥鎮撫のとき、胆沢城鎮守府に九州宇佐八幡宮神霊を勧請して鎮守府八幡宮と尊号した。弘仁年中 嵯峨天皇より宸筆の八幡宮宝印を賜る。鎮守府官民はもとより管内諸郡人の崇敬を受く。源頼義、義家、藤原秀衡は神宝神領を奉納した。源頼朝は第二殿と号し、幕府の祈願所とし、陸奥出羽両国の斎物をもって祭儀を執行した。のち豊臣秀吉が社殿を造営した。伊達氏は代々崇敬し社殿を造営した。明治九年 明治天皇の御代拝を賜り、のち県社に列した。
御祭神
 応神天皇 御名 誉田別尊  御子神
 神功皇后 御名 息長帯姫命 御母命
 比売神  御名 市杵島姫命 弁財天
 ※同社のHPでは、市杵島姫命を「大市姫」とも表記
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 同社の歴史は相当古いものとは考えているものの、少なくとも田村麻呂によって八幡社が勧請されたとは思えない私がおります。“八幡社としての歴史”は、どうしても源氏が関わって以降のことではないかと想像してしまうわけですが、ただ、由緒にて伝えられている嵯峨天皇宸筆の「八幡宮宝印」の存在を信用するならば、少なくとも弘仁年中にまで遡らせて考えなければならないということにはなります。私の想像は想像として、そのような伝承があることはきちんと併記し、念頭には置いておきたいと思います。
 なにしろ、嵯峨天皇といえば、あの弘法大師空海と漢詩サロン的な文化交流を展開していたともいわれ、その空海らと世に「三筆」と並び称されるほどの書道家でもあります。その嵯峨天皇の宸筆とあらば、歴史的な価値のみならず、芸術的な意味でも優れたものであったことでしょう。もしこれが現存しているのなら、間違いなく国宝級の文化財になっていることでしょうが、残念ながら岩手県の文化財情報一覧を眺めた限りでは見当たりません。既に失われてしまっているのでしょうか・・・。
 さて、鎮守府八幡宮の「鎮守府」とは、「胆沢城」を指します。胆沢城が築かれてまもなく、アテルイの降伏がありました。胆沢の地は、『続日本紀』に水陸万頃(すいりくばんけい)と表現されており、長きにわたって朝廷軍をさんざん翻弄したアテルイやモレの本拠地でもあったようです。胆沢城の発掘調査からは、多賀城の第二国府的な役割を担っていた性格も推察され、前線基地というよりも官衙――役所――的な印象なのでしょうか。おそらく、坂上田村麻呂は、アテルイやモレとの戦いに一応の決着がついた段階でこの城を築いたのでしょう。
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 田村麻呂はこの後、さらに北上して新国府的な「志波城」を築きましたので、相対的に多賀城の役割も小さくなっていきました。胆沢城にしても志波城にしても、役割が似通っていたものということであれば、属性については、多賀城のそれを考え併せ比較することによって、相互の不明事項なりを補完しあう何かしらが見えてくるものと考えます。
 例えば、鎮守府八幡宮は、胆沢城の鬼門に鎮座しておりますが、多賀城においては、似たような位置関係に「総社宮」なり「荒脛(あらはばき)神社」が祀られております。広くとらえれば「鹽竈神社」もそうであったと言えるかもしれません。もっとも鹽竈神社は多賀城よりも古くからそこに鎮座していたものと考えておりますので、多賀城の鬼門に合わせて計画されたという類のものではないでしょうが・・・。
 総社宮の鎮座地は、論社が混迷している式内多賀神社の候補地でもあります。その場合、そもそも「多賀」とは一体何を指す名称だったのか、という相変わらずの好奇心も湧いてきます。
 一方のアラハバキは、誰もが認める(?)謎多き神なわけですが、蝦夷の神とも先住民族の神とも言われております。
 実は、私は「多賀――タガ・タカ――」の神も同様なものと考えております。タガないしタカは、「日高見(ひたかみ)」と同義という見解もありますし、常陸国から陸奥国にかけて広く散見されるブランドでもあることから、このエリアの旧態の名称であったとも考えられます。なにしろ、『延喜式神名帳』に6社記録されているタカ系神社の半分は陸奥国にあり、しかもその6社中で最も格式の高い社は近江の多賀大社ではなく、陸奥国行方郡――福島県南相馬市――の多珂神社であったことは無視できません。多賀の神は近江ではなく陸奥や常陸の地主神だったのではないでしょうか。
 「多賀」が私の想像どおりか否かの議論は別にしても、少なくともアラハバキのような地主神は、後発の神社において、境内にひっそりと祀られているケースはよく見かけます。本来後発の側こそが客人であるべきでしょうが、たいていは一時代を終えた地主神の方が「門客(まろうど)神」などと呼ばれたりしております。多賀城においてそれらはどうも鬼門の番人として鎮座させられていたようです。
 思うに、鎮守府八幡宮の当初の姿も、限りなくそれに近かったのではないでしょうか。
 なにしろ、鎮守府胆沢城周辺はアテルイらの本拠地であったと考えられているわけです。そこにアラハバキ神、あるいはそれに近いなんらかの神が祀られていた可能性は極めて高く、私は、田村麻呂が勧請したと伝わる鎮守府八幡宮の当初の姿は、そのような地主神であったのではなかろうかと思うのです。それは、言うなれば結果的に田村麻呂に騙された形となって処刑されたアテルイ・モレらの怨恨そのものであり、もしそれを、罪悪感にさいなまされていただろう田村麻呂自身が供養したものだとしたならば、それは宇佐から勧請した八幡社などではなく、多くの田村麻呂伝承地と同様に十一面観音になるはずではなかったか、というのが私の感覚です。
 共同研究者のOさんは、東北地方の八幡神社について「そのほとんどは源氏が関わった戦争の戦没者の墓ではないのでしょうか」と想像していたのですが、あながち的外れでもないように思えます。いえ、むしろなかなかの卓見であるように思えるので、私もそれを支持したいと思います。そして、それが田村麻呂伝承の十一面観音の場合は、源氏を田村麻呂に置き換えることで理解しやすくなってきます。
 光仁天皇の御代にきな臭くなりつつあった蝦夷事情は、桓武天皇の御代にほぼ決着がついた形になります。
 奈良期に蝦夷が凶暴化した理由については、例えば高橋克彦さんなどは『火怨』という小説の中で「陸奥国の産金」に目がくらんだ朝廷の領土欲なり、それに関連した多賀城首脳からの圧迫への反発に求めておりました。加えて私は、なまじ称徳女帝の御代に優遇されていたことで、その崩御後の中央政権の方針転換には、より蝦夷の反動が強まったものと考えております。
 逆に、朝廷側の捉え方としては、光仁天皇の御代は称徳女帝の祟り、そして桓武天皇の御代になると、早良親王をはじめ、藤原種継、大伴家持の他、一連の政変で無実の罪で犠牲になった大物政府高官らの新たな祟りが付加されて問題視されたのではなかったか、と想像しております。
 いずれ、鎮守府八幡宮祭祀の本来の趣旨が、アテルイ・モレらの怨恨に対する供養であったことは、その勧請時期と鎮座地から考えてほぼ間違いないでしょう。陸奥の歴代最高権力者が、これを厚く崇敬せざるを得なかった背景には、そのような示唆も含みおかれていたのではないでしょうか。「大崎」ブランドもさることながら、独眼竜政宗は、「大崎」を冠することを通して、これがそんじょそこらの八幡社ではなく、胆沢のそれ――陸奥権力者によるアテルイらの供養――を継承したことを主張する狙いもあったのではないでしょうか。

 仙台市の大崎八幡宮の由緒について、私の手持ちの『参拝のしおり』には次のように書かれてあります。

――引用――
平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創始しました。その後、室町時代に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれました。
大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。
この際に旧領の羽前国米沢にて代々崇敬しておりました成島八幡宮と共に祀られました。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えております。
藩政時代を通じ歴代藩主の篤い尊崇を受け、明治以降は大崎八幡神社と称しておりましたが、御遷座四百年を間近に控えその歴史的経緯を考慮し、平成九年六月、社名を大崎八幡宮に復し、現在に至っております。
 尚、当社殿は安土桃山建築を代表する遺構であり、現存最古の権現造りの建造物として、国宝に指定されています。

 「御遷座四百年を間近に控え〜」の部分に違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれないので、あえて補足しておきますが、この『参拝のしおり』は少々古いものです。既に、去る平成十八年、創建以来初となった大規模保存修理工事も完了し、盛大に「御遷座四百年奉祝祈念大祭」が斉行されております。
 さて、前にも述べましたが、“八幡社”を坂上田村麻呂が勧請したとは私にはどうも考えられないのです。私は、田村麻呂が祀ったなんらかの神仏が、源氏によって八幡社に変えられたか、あるいは源氏が関わっていたことをもって後世の何某かが八幡社と呼んだのではないか、とも思うのです。したがって、少なくとも、“八幡社”としての歴史は、おそらく「前九年の役」以降、奥州に源氏が絡んできてからのものではなかろうか、という気がしております。
 しかし、大崎八幡宮に合わせ祀られたとされる米沢伊達家ゆかりの成島八幡宮については、もしかしたら本当に当初から宇佐から勧請された八幡社だったかもしれない、などとも考えております。こちらは、宝亀八(777)年、苦戦を強いられた蝦夷の反乱を平定するために光仁天皇の勅命を得て祈願した大伴駿河麻呂による勧請とされているもので、岩手胆沢の鎮守府八幡宮の延暦二十(801)年――平安時代――の勧請よりも24年ほど古い奈良時代の勧請ということになります。八幡社としてこのあたりの時代になってくると、気になるのは、源氏との関係よりも「宇佐八幡神託事件」との関係です。『続日本紀』に目を通していると、心なしか「称徳女帝」の崩御以降に蝦夷の凶暴性が増し、きな臭くなっているように思えるだけに、余計にその因果関係を疑いたくなってくるのです。
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 山形米沢の成島八幡宮勧請の宝亀八年には次のようなことがありました。

――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より――
十二月十四日 初め陸奥国の鎮守将軍、紀朝臣広純(ひろすみ)が言上して、「志波(しわ)村(出羽国)の賊(蝦夷)が蟻のように結集して、やりたい放題にわるいことをしました。出羽軍が戦いましたが。敗れて退却しました」といった。それで、近江介・従五位上の佐伯宿禰久良麻呂(くらまろ)を鎮守府権副将軍に任じて、出羽国を鎮圧させた。
〜中略〜
十二月二十六日 出羽国の蝦夷の賊が叛逆した。官軍に不利で武器の損失があった。

 おそらくこれが勧請のきっかけとなった蝦夷の反乱でしょう。
 出羽の賊はかなり屈強であったようで、記事をみるに、官軍は苦戦どころか翻弄されたあげくに敗れております。しかも、賊はどうも官軍の武器を奪っていったと思われるので、だとすれば次の戦いも見据えてのことでしょう。私はここに、発作的な叛乱とは次元の異なるなんらかの計画性を感じます。
 岩手県胆沢の鎮守府八幡宮は、延暦二十(801)年、すなわちアテルイとの長期戦争が終わった直後に勧請された伝承になっておりますが、成島八幡宮については、まさに大戦争が本格化してきたときに勧請されたかのように見えます。この二年前には、蝦夷によって桃生城が襲撃されております。称徳女帝の崩御から5年後のことです。
 称徳女帝の崩御の直前には、御存知のとおり女帝が絶大なる信頼を寄せていた右腕の怪僧「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」が失脚することになる「宇佐八幡神託事件」がありました。
 僧道鏡は、称徳女帝の熱烈な推挙を背景に、宇佐八幡宮の肯定的な神託を得て、まさにあと一歩で天皇に即位するという、人臣としては前代未聞の快挙を目前にしておりました。
 ところが、宇佐八幡側は突如として一転した神託を下し、ここににわかに道鏡の即位についての大義が失われてしまいました。おそらく、政権内部の派閥と、宇佐内部の派閥との相関関係において、当然に各々の裏工作が交錯していたのでしょうが、いずれ、これによって道鏡は失脚し、偶然(?)にも称徳女帝が病床に伏し、そのまま崩御してしまったので――私は毒殺とみております――、天皇自らが万世一系に終止符を打とうとした空前の大政変が収束しました。
 これら一連の事件によって、称徳女帝と道鏡は最悪の淫乱コンビとして歴史に名を残すことになってしまいました。もちろん、その伝えられた方にはかなり恣意的なものがあり、悪意が含まれております。特に道鏡のキャラクターについては、淫乱で独善的で私利私欲のためにだけ行動していたかのような、救いようのない伝わり方をしております。
 しかし、あらためて道鏡――称徳女帝――の功績を眺めてみるに、藤原氏によって食い物にされていた当時の中央政権に、地方郡司を進出させるなどして、積極的に風通しをよくしようとしていたフシがあります。道鏡――称徳女帝――の方針によって、陸奥の道嶋氏などは、蝦夷でありながら国造の上をいく「大国造」なる唯一無二の新たな職掌まで創設してもらい、大出世を果たしているのです。
 つまり逆に言えば、私は、悪名高い女帝と怪僧の政権離脱は、むしろ陸奥・出羽の事情に大きな悪影響をもたらしたのではないか、と想像するのです。
 成島八幡宮が山形米沢に勧請されて三年後の宝亀十一(780)年、称徳女帝の崩御から数えて十年余り、陸奥ではついに、郡司伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)による按察使(あぜち)紀朝臣広純(きのあそんひろずみ)殺害という、朝廷を震撼させる前代未聞のクーデターが発生し、朝廷との対決姿勢がここに極まることになるのです。
 あくまで想像ですが、もしかしたらこれら蝦夷の反乱は称徳女帝の祟りと考えられ、成島八幡宮は、光仁天皇なり大伴駿河麻呂が、女帝が生前並々ならぬ信頼を置いていた宇佐八幡の神を持ってその鎮魂にあてようとしていたものなのではないでしょうか。

 旧版の『仙臺市史』の「大崎八幡神社」の項には、『参拝のしおり』にはあまり触れられていない大崎氏が当社を尊崇するに至るまでの歴史について、次のように書かれております。

――引用――
天喜中源頼義父子、安倍貞任征伐に際し同社方八町の地に屯し、戦捷を祈って劒及び鏑矢を奉納し、文治五年(一一八九)源頼朝の泰衡征伐の際にも當社に奉幣し(封内風土記)たる等由緒ある古社であった。その後源義家七世の孫斯波家氏下総國大崎郡を領して姓を大崎に改め、正平十一年(一三六二)家氏四世の孫伊豫守家兼陸奥五郡(遠田、志田、玉造、加美、黒川)を領するや、本社はその祖頼義、義家の祀るところであるというので、永正八年(一五二七)これを遠田郡八幡邑(今の田尻町八幡區御殿崎)に遷祀し、社殿を造營し、鹵簿祭式諸具を備え、領民に命じて重く祭らしめたので、領民等はこれを大崎八幡と尊稱するに至った。

 ここには、しおりも境内の説明板も触れていない「安倍貞任征伐」や「藤原泰衡征伐」に関わる伝承についても触れられております。思うに、平安時代の創始という部分には信用をおいたにせよ、坂上田村麻呂が八幡社を勧請したとは考えにくく、“八幡社”としての歴史は、歴代源氏が関わって以降なのではないでしょうか。
 司馬遼太郎さんは、『街道をゆく(朝日新聞社)』の中で、仙台に遷されても尚この社が「大崎」を冠していることについて、伊達政宗であろうとも、奥州人を畏怖せしめるこの「大崎」という旧権威に頼らざるを得なかったことを取上げておりました。豊臣秀吉によって今の宮城県北に領地を遷されたとき、政宗は、太宰治さんが『津軽』の中で触れているような奥州人の気質――「どんなに勢強(いきほひつよ)きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて隋(したが)はぬのである」――に配慮したのだろうと言うのです。司馬さんは、大崎探題の権威について留守氏の旧記『余目(あまるめ)記録』を用いて説明しておりました。

――引用――
 いかに権威があったかということは『余目氏旧記』という古い記録に書かれている。
「守護(室町期の大名のこと)」よりもずっとえらい。守護など全国に掃いて捨てるほど(三十余氏)もいるが、探題は奥州に一氏のみだ」という意味の文章である。原文の一端を紹介すると、
(奥州探題は)しゅご(守護)のうはて(上手)也。かくべつの義也
というぐあいである。この文章そのものが、奥州人の気質をあらわしている。
イメージ 1
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 大崎氏は、確かに守護などとは比べ物にならない、とてつもない権威を誇っていたようです。 前に触れた内容ですが、次のような事情がありました。

 明徳三(1392)年、室町幕府三代将軍足利義満――『一休さん』に登場していた将軍様――によって、我が国混乱の元凶であった南北朝の合一が――騙し討ちとは言え――成された後、幕府は既に京にあり、武家政権発祥地の鎌倉は、鎌倉府――関東府――という、いわば京の本社に対する関東支社のような形で残されておりました。
 陸奥・出羽はその管轄下に置かれていたわけですが、かつて幕府直轄であったものが関東府の管轄下に置かれたということは、つまり本来「源氏株式会社東北支社」であったものが、「源氏株式会社関東支社東北支店」のように、いわば相対的に格が落とされたということになります。南朝主力軍第一党である伊達をはじめ、奥州武士には鬱憤がたまりました。
 また室町将軍家としても、本音としては、武士の本場でもある鎌倉公方(くぼう)管掌勢力にはあまり力を付けて欲しくありませんでした。だからこそ、その牽制の意味を込めて、足利家直系の斯波(しば)氏――大崎氏――を奥州探題に任命しておりました。
 『余目記録』によれば、この大崎殿の格式は京の管領斯波氏と同格であったらしく、諸国の守護をはるかにしのぐものだったと言います。『仙台市史』は、それを管領斯波氏と大崎殿の書状の礼式から解説しておりました。
 つまり、関東支社の支社長は、必ずしもその管轄下であるはずの東北支店長の格を上回るものではなかったということになります。

 というわけで、大崎氏は足利一門の中でも別格でありました。
 そもそも、武士の世において、源氏系譜は特別のものでありました。私たちは、織田信長や豊臣秀吉の特殊なケースを見てスタンダードだと思いこみがちでありますが、徳川家康ですら、系図を捏造してまで自らを源氏系譜につなげております。
 いえ、あの破天荒な信長であっても、表向きは最後の最後まで足利将軍家を立てておりました。戦国時代といえど、実力だけでは登りつめることが出来なかったのです。
 秀吉もまた、征夷大将軍という称号を得んと、源氏系譜に組み入れてもらうため「足利家の養子にしてくだされ」などと狂気じみた嘆願をして失敗しております。最近の大河ドラマで珍しく丁寧に描かれておりましたが、あれは事実のようです。既に天下を掌握する一歩手前の秀吉ですらあの体なのです。
 伊達家は、数十万の鎌倉軍を返り討ちにした元祖政宗にせよ、蘆名氏を滅ぼし奥州最大の大大名にまで登りつめた独眼竜政宗にせよ、実質的には大崎氏を軽くあしらっておりました。
 しかし、武士が政権の主役になって以降の歴史において、いかに伊達家の実力がずばぬけていようとも、領民の心を掌握する際にはどうしてもその伝統的な“源氏社会”での上下関係というものが重くのしかかっていたということなのでしょう。既に天下を窺える実力を備え、奥州王を名乗るほどの伊達政宗が、仙台に遷座した大崎八幡宮にどうしても「大崎」が必要だったのは、そのような事情があったからなのでしょう。


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