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東北地方から日本史を眺めていきます。

亀の風土記:宮城県

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 宮城県大崎市に、「青塚古墳(あおつかこふん)」という古墳があります。
 直系60メートルほどの円墳にみえるのですが、昭和五十五(1980)年の調査によって、周壕の形から前方後円墳であった可能性の高いことがわかっております。前方部らしき部分は人為的な削平を受けてその痕跡が確認できないようですが、おそらくは主軸の全長が約90メートルの東北屈指の前方後円墳であったものと考えられます。出土品から、築造時期は東北最大の雷神山古墳―宮城県名取市―とほぼ同じとみられ、四世紀代に遡り得るものとも考えられております。
 いみじくも本日付けの河北新報朝刊の一面に「大崎耕土」の「世界農業遺産申請」の記事があり、ぜひ認定されて欲しいものですが、この青塚古墳を抱える大崎平野は、「荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―」と鳴瀬川の流域に広がる沖積平野で、宮城県内としては仙台平野と並ぶ古墳地帯であります。このエリアは日本最北の古墳地帯とも言われておりますが、昭和二十四(1949)年に岩手県奥州市胆沢区の「蝮蛇塚(へびづか)」が前方後円墳であると確認されているので、古墳単体としての最北はそちらになります。「角塚古墳(つのづかこふん)」と呼ばれているものがそれです。
 しかし、如何せん岩手県内ではそれ以外の前方後円墳が確認されておらず、角塚古墳については特殊な個体と捉えておく方が妥当なようで、やはり古墳“文化”ないし古墳“地帯”の北限としては、依然として青塚古墳のある宮城県北部の大崎平野と考えておくのが妥当なようです。
 さて、青塚古墳は、江戸時代には既に「青塚」と呼ばれ何某かの墓と認識されていたことが、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』などの記述によってわかります。
 『封内風土記』には「上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。」とあり、なにやら「王昭君」の墓という伝説であったようです。
 王昭君は中国四大美人として「楊貴妃」らと並び称されてきた人物ですが、『広辞苑』の記述はこうです。

―引用―
【王昭君(おうしょうくん)】
前漢の元帝の宮女。名をしょう、字を昭君という(一説に名を昭君、字をしょうとも)。元帝の命で前33年に匈奴(きょうど)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。中国王朝の政策の犠牲となった女性の代表として文学・絵画の題材となった。元曲「漢宮秋」はその代表。

 もちろん、青塚古墳がそのような前漢時代の悲劇のヒロインの墓であるなどとは信じがたいわけですが、何故そのように伝えられてきたのかを考えておく必要はあるでしょう。
 とはいえ、その原因は『封内名跡志』なり『封内風土記』によって既に解決されているようにも思えます。『封内風土記』は当該項で次のように記します。

―引用―
熊野神社。在古塚上。同上。寺一。青塚山養生寺。〜中略〜
塚一。名跡志曰。邑中有古塚。東西三十間。南北五十間。相傳。上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。杜少陵詠懐古跡。第三首曰。一去紫臺連遡漠。獨留青冢向黄昏。青冢王昭君墓也。此地亦附會其義。而強稱其名乎。其邑落有青塚城址。且今塚上立熊野権現社。

 要点を拙くも意訳しておきます。なにしろ浅学で漢文を解読する学習など何十年も前の高校時代の授業以外では経験しておりませんので、細部において解釈が誤っている可能性もありましょうが、ご容赦ください。

―意訳―
〜前略〜
塚が一つあるが、それについて名蹟志は次のようにいう。
邑には東西55メートル、南北91メートルの古塚がある。上代に王昭君を葬った地と相伝られている。昭君は胡地―匈奴(きょうど)?―で没しており、これを憐み漢の境界に葬ったわけだが、それを青塚という。例えば杜少陵―杜甫―が詠んだ「懐古跡」の第三首にこんな詩がある。
「ひとたび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれの弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)―詩訳はウィキペディアから拝借―」
すなわち、当地の青塚が王昭君の墓というのは、王昭君の墓が青冢(せいちょう)という名であるが故の牽強付会であろう。
〜以下省略〜

 そもそも何故この塚は「青塚」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
 理由を考えてみました。

1、本来は「王塚」あるいは「大塚」であったものが訛って「あおつか」となったのではないか

2、付近に小野小町の墓と伝わる場所もあり、なんらかの悲劇の美女伝説の下地があったのではないか

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 小町伝説については、このあたりに小野一族がいたとみるのが穏当でしょうが、ひとつ注目しているのは、当地の式内社「新田郡子松神社」です。
 この「子松」を、小町から訛ったものとみるべきか、逆に子松の韻から小町伝説が生まれたとみるべきか、仮に後者だとしたら、子松とはどういう意味なのか・・・。
 実は、私は後者をとり、子松神社は本来「高麗神社(こまつじんじゃ)」であったのではないかとみているのです。
 現在新田字鹿島に鎮座している延喜式式内社「新田郡子松神社」の論社の「子松神社」の祭神は「武甕槌(たけみかづち)大神」でありますが、これは康永二(1343)年に大崎氏の家臣新井田氏が夜烏邑(よがらすむら)―当地の旧地名―に居城を構えて狐松神霊を邑上に遷座して「鹿島大明神」と称したことに由来しているものと思われ、必ずしも本来的なものが継承されているものかどうかは定かでありません。
 なにしろこのあたりは栗原エリアに隣接しており、古くから高句麗人も多かったのではないかと思うのです。

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 数年前、仙台で一人暮らしをしている他県出身の若い方からアドバイスを求められたことがありました。

 「今度両親が仙台に遊びに来るのですが、どこに連れていったら良いと思いますか?」

 聞けば、青葉城―仙台城―や松島は、彼と落ち合う前の行程に入っていると思う、とのことでありました。牛タンや寿司といった食事も、おそらくその段階で済ませてくるだろう、とのこと・・・。
 仙台は、住みたい街としては常に全国でもトップクラスに位置づけられているのですが、めぼしい観光スポットはいみじくもその青葉城と松島くらいしかない、とはよく揶揄されるところです。しかも、その青葉城などはもともと天守閣が存在していないばかりか、石垣以外の表面的な城郭遺構は戦後に再建された大手門隅櫓くらいしかなく、よほどの歴史好きでもない限りインパクトに欠けていることは否めません。
 むしろ伊達政宗公の廟所である瑞鳳殿や大崎八幡宮の方が、黒漆に極彩色の派手な彫刻が映えて素人ウケするのではないかと思い、それを一応提案してみたのですが、それはおそらく前日の行程に入っていると思う、とのことでありました。
 いよいよ「息子の顔を見るだけで十分満足でしょう」、とお茶を濁すしかなくなってしまいましたが、私ごときに言われたくもない話であったことでしょう。
 そのときふと、「定義如来(じょうぎにょらい)―仙台市青葉区大倉字上下―」が頭をよぎりました。
 (それだ・・・!)
 地元では訛って「定義(じょうげ)さん」と親しまれ、その周辺地名までが「上下(じょうげ)」と訛ってしまった定義如来(じょうぎにょらい)は、平家落人伝説に由来する古刹霊場であるわけですが、なにしろ、門前町には地味ながら根強い人気の「三角定義油揚げ」の定義豆腐店もあり、その場で揚げたての美味しい油揚げが食べられるのは大いに魅力的です。
 それを提案してみたところ、彼の心に大いに響いたようで、心なしか瞳がきらきらと輝いたようにも見えました。

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 そんなことを思い出しながら、先日久しぶりに定義を訪れ、その揚げたての「三角定義油揚げ」を食べました。
 地吹雪の中の定義豆腐店は、本来の朝八時の開店まではまだ10分近くも時間があるにもかかわらず、既に数組が中のテーブルで食べておりました。少なくとも盛岡ナンバーと秋田ナンバーの車を見かけましたので、おそらく観光客でしょう。
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揚げたての三角定義油揚げと温かい豆乳

 惜しむらくは、皆さん油揚げを食べるとそそくさと帰ってしまわれたことです。
 地吹雪が億劫ということもあったのでしょうが、せっかくここまで観光に来られたのであれば、揚げたての「揚げまんじゅう」も美味しいですし、仙台味噌を塗りたくって焼き上げた「焼きめし―焼きおにぎり―」も美味しいので、是非ご賞味していって欲しいところです。
 何より、ここは定義如来の門前町です。
 やはり定義さん、すなわち、そこに眠る「平貞能(たいらのさだよし)」公にはせめてご挨拶をしていって欲しいな、と思いました。

 ところで、定義には不思議なことがあります。八年前、私は以下のような記事を書きました。

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 宮城県仙台市郊外、広瀬川の上流に「定義(じょうぎ・じょうげ)」という聖地があります。ここには現在「定義山西方寺」というお寺がありますが、「定義如来」とも呼ばれております。ここは宮城県内の「平家落人伝説」の最たる場所であり、「平貞能(さだよし)」が落ち延びてきた場所と伝わっております。まずは現地においてあるリーフレットから定義如来の歴史を引用しますのでご覧ください。

――引用――
 今から約八百年前、平重盛公(内大臣・小松殿)が平和祈願のため中国の欣山寺に黄金を寄進。その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
 平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後の守平貞能公がこの宝軸を守り、源氏の追討を逃れるため名も定義と改め、この地に隠れ住みました。それが定義如来という呼び名の由縁でもあります。
 貞能公は建久9年(1198年)7月7日御年60才で亡くなられましたが、墓上には小堂を建て如来を安置し、後世に伝えていくことを従臣たちに遺言。それを守り、宝永三年(1706年)には早坂源兵衛が出家し、極楽山西方寺の開創となりました。

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定義山山門

 というわけで、定義とは、貞能(さだよし)が源氏の手を逃れるための変名「定義(さだよし→じょうぎ)」に由来しております。そして、貞能が持ち込んだ阿弥陀如来の宝軸が「定義山西方寺」のご本尊ということになるわけですが、現在そのご本尊は近年新たに建立された本堂に移されておりますので、元の本堂は「貞能堂(さだよしどう)」として、純粋に貞能の墓及び位牌を祀るお堂になっているのです。私はここを参拝していて妙に気になるものに遭遇しました。
 貞能堂は堂の内部まで上がりこめるのですが、どうも正面の祭壇(?)にはそれらしいものが見当たりません。しかし、向かって左側の実に中途半端な場所に仏壇のようなものがあり、はっきりと貞能公と明記された位牌がありました。

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 これがそうなのでしょうか。なにか違和感を覚えた私は、その場に座り込み、現地で購入したオフィシャル(?)な小冊子、西沢勇さん著『“秘境”定義谷 平家落人伝説と定義如来』を確認してみました。すると小冊子には以下のように書いてありました。

――引用――
平貞能位牌堂
 平貞能の墳墓は本堂の左中央に位置している。これは始め遺言通り墳墓の上に小堂を建て、阿弥陀如来の御尊像を安置していたが、後世になって、本堂が北方へ拡張された為に、自然中央位置より離れ現在の処になったものである。

 つまり、堂内部左側の半端な場所にある位牌がそれらしいのです。そこで私はその位牌に拝礼をすべく、正面にまわり賽銭箱に浄財をしようとしたのですが、どうにも拝みづらいのです。何故なら、位牌と賽銭箱の直前に邪魔な柱があるからです。

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 とにかく、正面からは拝めませんので、その柱を避け、斜めから拝むしかありません。
 どうにも気になり寺務所で関連グッズを頒布されていた方に質問したのですが、怪訝そうに「サヤ堂が拡張されたから」との一点張りで、どうにも要領を得ません。その後いろいろ文献を探してみましたが、邪魔な柱の理由を見つけることが出来ませんでした。これまで、誰もこれを不思議だと思わなかったのでしょうか。
 定義が現在に至るまで根強く信仰される所以は、本来この墓の主である貞能がいたればこそであって、その貞能の遺言があればこそ全てが成り立っているのではないのでしょうか。阿弥陀如来の宝軸も大切ですが、同じくらい貞能公の遺言や位牌も重要なはずです。少々辛口に言わせてもらえば、本堂の拡張よりもこの墳墓の真上にある位牌こそ優先されるべきで、拡張するにしても位牌ありきの設計をすべきなはずです。
 ふと、現地で入手したリーフレットをよく読むと次のように書いてありました。

――引用――
貞能堂(旧本堂)
 自然の丘を利用して貞能公の遺言通りに墳墓を中心にたてられた旧御廟の「さや堂」(建物を風雨などから保護するため、外側から覆うように建てた建築物)という形を取って昭和二年に建立されました。御廟の左側に結界があり、仏壇が安置されており、その真下に、貞能公のお墓があります。
 境内には鐘楼があり、旧暦の大晦日には除夜の鐘が鳴り響きます。

 この“邪魔な柱”のことかどうかはわかりませんが、少なくとも明確に“結界”と書いてあります。この柱がそうだとするならば、つまり、あえてこの場所に柱がくるような設計がなされたということです。昭和二年に初めてそうなったのか、それ以前もそうだったのかは確認できておりませんが、とにかく何故平貞能の霊が結界によって閉じ込められなければならなかったのか、とても不思議です。
 確かに貞能は落人となって源氏の世に恨みをはせながら他界したことでしょう。しかし、定義では、あくまで貞能の遺言によりその従臣たちが供養していたわけで、彼らが貞能の怨霊を恐れ、結界を張る理由などないのです。現在もこの定義界隈で貞能を供養しているのは、貞能の従臣の末裔の方々です。とにかく不思議です。

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貞能堂(旧本堂)※中央のお堂

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山門の中心線とずれている貞能堂の中心軸


※ 行間等を一部修正し、画像も追加しております。

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 結界の柱の謎はいまだ解けておりません。

 ところで、定義への入口、大倉ダムの麓に鎮座する「小倉(おぐら)神社」は、貞能が「平氏の守護神の霊璽」を祀ったものとされておりますが、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』に記された祭神は「大巳貴(おおあなむち)神」であります。つまり興味深いことに、ここでは平家の守護神が出雲の大巳貴神とされているのです。
 さらに、同名鑑が記す配祀には仙台周辺としては珍しく「饒速日(にぎはやひ)神」の神名がみられ、大変気になるところではありますが、これはおそらく大正時代に合併した船形山神社の祭神であったのでしょう。

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大倉ダムの冬景色

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小倉神社の冬景色

 ちなみに、仙台の奥座敷といわれる「秋保(あきう)地区―仙台市太白区秋保―」にも平家落人伝説があり、南北朝時代から戦国時代にかけて活躍がみられる秋保氏や馬場氏は、いみじくも平重盛の裔とされているわけですが、宝賀寿男さんなどはその実を安倍貞任の弟・磐井五郎家任の後裔とみております―『阿倍氏(青垣出版)』―。
 例えば、中世、磐城(いわき)地方―福島県いわき市―に勢力を誇った「岩城氏」も、「海道平氏」などと呼ばれ、「平将門」討伐に活躍した「平繁盛―桓武平姓常陸大掾―」の裔を称しておりましたが、太田亮さんは「其の系疑はしき點多ければ、或は多臣姓・或は凡河内流磐城臣・即ち石城國造の後にあらざるかと考へらる」としておりました―『姓氏家系大辞典(角川書店)』―。
 いみじくも私は、石城國造家を、原鹿島神奉斎のオホ氏や陸奥丈部(はせつかべ)氏、ひいては陸奥安倍氏や鹽竈神社左宮一禰宜安太夫家の発祥を考える上で重要な鍵と位置付けているわけですが、定義や秋保の平家落人伝説は、その実、陸奥安倍氏のそれが意図的に暗渠化されて伝わっているものなのかもしれない、とも思い始めております。

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秋保氏と縁ある秋保神社の神輿。
 東日本大震災で被災して新調できずにいたところを、九州は宮崎県の「高千穂神社」が寄贈してくださったようです。温かいお話です。

 

吉岡の島田飴に想う

 毎年12月14日、吉岡八幡神社―黒川郡大和町吉岡―で「島田飴まつり」という縁結びの行事が開かれます。宮城県民は、暮れになると新聞やニュースでその時節の到来を知らされます。
 例年この日に高島田髷に似せてつくられた飴が吉岡八幡神社に奉納されるというもので、縁結びに御利益があるというその飴は、同日に縁日でのみ希望者にも数量限定で販売されるようです。数年前、車のラジオで耳にして初めてこのまつりの存在を知りましたが、実はなかなかに古い由緒があるようです。

―引用:まほろばホールHPより―
 元和年間、吉岡がまだ今村と呼ばれていた遠い昔のとある暮れ12月14日。八幡さまの神主が、偶然横丁で見かけた高島田髷の凛とした美しい花嫁にこころをうばわれ、恋慕の情に絶え難く、まもなく病に臥せってしまいました。
 神主の病の噂はたちまち村中に広がり、皆々は名主の家に寄り集まって話し合い、高島田髷に似せた飴をこしらえて神社へ奉納し、神主の快気を祈ることにしました。
 神主はこの島田の飴を大変気に入って薬がわりに服用すると、不思議と効験あらたかで、たちまち病は快気しました。
 神主は村の皆々のまごころに深く感謝し、以来毎年歳の暮12月14日を例祭日とし、「相思の仲」の若者たちの幸せを祈ろうと、縁結びの神事を催すようになりました。
この縁に因み、今でも歳の暮12月14日には吉岡八幡神社境内に島田飴の店や縁日が賑やかにひろげられ、たくさんの参拝者が良縁に恵まれるよう島田飴を求め、八幡さまに祈願するようになったということです。

 吉岡地区は、当地の実話をもとつくられた『殿利息でござる!』という映画が公開されたこともあり、全国的にも知名度が高まっていると思われますが、島田飴の由緒といい、つくづくここの村人はまとまりがあって優しかったのだな、と感じさせられます。
 由緒では、八幡神社の神主の恋煩いがこの縁結び神事の発端となっているようですが、それはそれで信じるとして、私は、どうしてもこの地で病没した「飯坂の局(いいざかのつぼね)」とその生家飯坂家の悲運になにかしら起因していたのではないか、と勘繰ってしまうのです。
 なにしろ、吉岡八幡神社は元々飯坂氏の氏神であり、飯坂の局とともに吉岡へと遷ってきた神社といっても過言ではありません。
 飯坂の局は、その名のとおり、岩代國信夫(しのぶ)郡飯坂(いいざか)―現:福島県福島市内―を本拠としていた飯坂氏の女性で、仙臺藩祖伊達政宗の側室として伊達家に迎え入れられました。
 宇和島伊達氏の祖となった秀宗−政宗長男―の生母であったとも言われておりますが、秀宗は史料によって「新造の方―猫御前―」の子とされております。
 しかし、『伊達略記』には新造の方と飯坂の局が同一人物として記されており、『伊達治家記録』によれば新造の方も飯坂家から出た女性であるようですので、吉岡八幡神社の神事の本質を飯坂家の悲哀に結び付けて想像を膨らませる分には包摂され得る範囲の内と言えるでしょう。
 飯坂の局の養子とも言われる吉岡城主伊達宗清は、独眼竜政宗の三男で、同長男秀宗―宇和島藩祖―の同母弟とされているわけですが、母方の実家である飯坂家に嗣がいなかったためか祖父であり頭首である飯坂宗康の養子に入りました。すなわち祖父の養子に入ったということになるのでしょうか・・・。だとすれば、つまり、飯坂の局の養子とされる宗清は、その時点で一旦母の弟となったわけであり、その後、あらためて母の嗣として養子に入ったということになります。もしかしたらその複雑な相続がために飯坂の局と新造の方の情報には混乱があるのかもしれません。
 飯坂の局と吉岡地区を抱える黒川郡は、実は彼女が政宗の側室となる以前から因縁めいたものがあったようです。
 室町時代中期以降、黒川地方を管掌していたのは足利家の血脈で奥州探題斯波氏の流れをくむ大崎氏から分かれた黒川氏でありました。
 ここで、紫桃正隆さんの『政宗に睨まれた二人の老将(宝文堂)』の内容を参考にしながら、飯坂家と黒川家の因縁の物語を語ってみたいと思います。
 時は戦国時代、その黒川家当主の叔父株で早くから家を出ていた黒川式部なる人物が、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を強めていた米沢―山形県米沢市―の伊達家に仕えておりました。式部は年齢も三十路を過ぎてやや高齢になっていたものの、働き者で周囲からの信頼も厚く、伊達政宗―輝宗?―も良縁があれば推挙してやろうと常々心にかけていたのだといいます。
 そこに、信夫の飯坂家が男子に恵まれず娘に婿を欲している情報が入りました。政宗―輝宗?―は大いに喜び、すぐに両家を取り持ちました。
 ただ、娘はまだ十歳を過ぎたばかりで、夫婦の契りにはまだ早すぎるということで、さしあたり婚約だけで済ませていたのだといいます。
 ところがこの娘、成長するにつれその美貌と妖艶さに磨きがかかり、親の飯坂左近太夫は老いぼれた黒川式部にくれてやるのが惜しくなってしまったのだそうです。そこで妙案が浮かんだのだといいます。
 それは、この娘を主家である伊達の御曹司、すなわち政宗公に献上してしまおう、ということでありました。嗣子のことは娘の腹から生み出された胤の一人でももらい受けられれば将来的にみてももうけものであるし、相手が政宗であれば、黒川家も文句をつけられないだろう、という目論見があったようです。
 政宗もひどいもので、娘の美貌にすっかり魅せられてしまい、自分がとりもった縁談であるにもかかわらずそれを反故にして飯坂氏からの提案を快諾したのだそうです。
 もちろん、この娘こそが「飯坂の局」です。
 これを恨んだ黒川式部は、その夜のうちに伊達家の居城のある米沢を出奔し、越後に落ちたのだといいます。
 その情報に、式部の甥である黒川晴氏―月舟斎―の心中には怒りがくすぶりました。後に伊達と大崎が戦となった際に、彼が大崎軍に寝返ったのはこの一件のためだとも言われ、いずれ彼の寝返りが屈強な伊達軍にまさかの黒星をつける最大要因となりました。
 さて、皮肉にも、飯坂の局は晩年を因縁の黒川の地に過ごすこととなります。
 不幸なことに、飯坂の局の養子となった伊達宗清も嗣子にめぐまれず、飯坂の局の姉「債」が嫁いだ桑折家の一族から「定長」という人物を養子に迎え入れても名跡にめぐまれず、政宗の次男すなわち仙臺藩主二代「忠宗」の子「宗章」を迎えて胆沢郡前沢―岩手県奥州市―に移封されたものの、宗章は16歳で夭折し、悲願は実りませんでした。やむなく原田甲斐宗輔の次男、輔俊を迎え入れたものの、周知のとおり、寛文事件に連座して切腹の憂き目に会っております。
 このような次々と発生する不幸なアクシデントのため、寛文十一年、飯坂家はついに断絶となったのでありました。
 紫桃さんは次のようにまとめております。

―引用:『政宗に睨まれた二人の老将』より―
 黒川月舟は自重すれば自分が黒川領三万石を全うできることも知っていた。しかし敢えてそれを放棄し、滅亡の道へと突走った。以上の経過を総括すると、黒川氏の運命を左右したキーポイントは、飯坂の局という女性の去就にかかっていたとも極論できるであろう。
〜中略〜
 飯坂の局は在地の飯坂から米沢へ、そして松森へ、黒川領へと、運命の糸に引かれて一歩一歩黒川領内へと入ってくる。そしてこの地に病没する。
〜中略〜
〜飯坂家の胤(たね)は続いて稔らなかった。〜まことに戦慄すべき不幸の中で飯坂家が絶えるのであった。
<権勢の府は衆怨の府>という諺がある。その頃は既に飯坂(伊達)家の領地となっていたが、もと黒川家の地下人(じげにん)たち、百姓たちは果してどんな感慨をもってこの悲劇を見守ったことであろうか。
 人の世にはかかる不思議な歴史的因果がつきまとうものである。それは一つ天の摂理でもあるのだ。人々は今を悲しみ、今を喜ぶ。だが、それはすべて明日につながるものではない。明日は晴れか、雨か、それを知る者は居ないのだ。黒川盆地の歴史的変転歴史的因果の“真相”を知るもの、それは山肌にうっすら雪を置き、冷たく厳しくそそり立つ、七ツ森の秀峰だけであろう。
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七ツ森


 いかがでしょうか。
 もちろん、縁結びの島田飴とはなんら関係がない歴史絵巻であるのかもしれませんが、先の吉岡八幡神社の神主を黒川式部に、高島田髷の凛とした美しい花嫁を飯坂の局に置き換えてみてもこの神事の由緒として成立しそうな気もするのです。
 もし、世間に飯坂家の断絶が黒川家の怨嗟によるものと受け止められていたとしたならば、この神事は島田飴に擬された飯坂の局を神主に擬された黒川式部に差し出して慰めようとした領民の優しさなのかもしれない・・・などとも考えてしまうのです。

街路樹の乳銀杏

 JR仙台駅の北側にあって、西口と東口を連絡する跨線橋「宮城野橋:通称X橋(えっくすばし)」が、いよいよ本格的に付け替えられようとしております。
 芭蕉の辻を起点にした仙台は、南北を貫く奥州街道と東西を貫く大町及び名掛丁を軸に城下町の平面が広がっていたわけですが、明治時代に東北本線が開通したことによって、東西軸が分断されました。もちろん、かつての中心市街地は東北本線がほぼ東端でもありましたのでさしたる不自由もなかったのでしょうが、戦後市街地も拡大し、自動車社会になるにつれ、このことは市民にとっての大きなストレスになっていきました。
 特に、かつては駅裏でしかなかった仙台駅東口の新都心化が進むにつれ、そのストレスは増大するばかりでありました。
 したがって、片側3車線、計6車線の堂々たる跨線橋に生まれ変わる宮城野橋には、仙台市民が長年悩まされてきた都心東西軸の動脈硬化の改善に、大いなる期待がかかっているのです。

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現在の宮城野橋周辺
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 宮城野橋は、藩政時代以来城下を並行していた二筋の街道が、東北本線の複線化などに伴い、交差する跨線部のみが一筋に集約された橋であり、その独特な形状から、俗にX橋などと呼ばれてきたわけですが、宮城野橋解体のニュースを目にしてそれがX橋のことであったとは気づかなかった市民も多かったようです。そのくらい市民には通称のX橋のほうが浸透していたのです。
 このX橋、少年時代の私にはどうにも「X」形状には見えず、これは線対称に横置きした「一対のY: >--< 」ではないか、などと屁理屈をこねたりもしておりましたが、付近に住んでいた親戚宅を訪れるたび、橋のたもとにあった歩行者用の階段から橋上に昇って往来する列車を眺めるのは好きでありました。
 とはいえ、以前は子供がうろうろすべきではない古さびれた夜の街でもありました。現在でこそ周辺には綺麗な高層ビルも林立しておりますが、夕暮れ時には謎の御婦人が誰を待つともなく立っていたりと、少なくとも平成に入って間もない頃までは戦後の場末感がありました。
 うろ覚えではありますが、かつて、吉川団十郎さんの「仙台の女(ひと)」という歌に、

〽エックスばぁ〜しを (パパヤ〜) 歩い〜てい〜ると〜 (パパヤパヤ〜) 橋〜のたも〜とに〜(パパヤ〜) 年増ぁ〜が一人〜(パパヤパヤパヤ) 流した横目で 手〜を振り振り 「あんちゃん! 今晩つぢあってけさい〜ん」

という感じの歌詞がありました。いみじくもその情景をよく表していると思います。
 戦後まもない頃には進駐軍も闊歩していたようで、正義感あふれる日本の柔道青年が素行の悪い一人の米兵を橋の下に投げとばしたという逸話も耳にしておりました。
 ふと、柔道青年はその後何事もなかったのだろうか・・・、その米兵の命に別状はなかったのだろうか・・・、などと余計な心配をしながら橋の下の線路を眺めていたことも思い出します。

 先日、そんなことを懐かしく思い出しながら信号待ちをしていると、ふと、宮城野橋のたもとの広瀬通の街路樹の銀杏に、「気根」があるのを見つけました。
 俗に「乳」と呼ばれるものです。

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 こういった銀杏はたいてい「乳銀杏(ちちいちょう)」などと呼ばれ、乳の出ない御婦人が願をかける信仰の対象となることが多く、ひいては子育てや安産の神として崇敬されることも多いわけですが、仙台市内でも宮城野区銀杏町には樹齢1200年の「苦竹の乳銀杏(にがたけのちちいちょう)」と呼ばれる巨大なそれがあり、やはり厚く信仰されております。
 それにしても、戦後に植えられた街路樹でそれを見かけたのは初めてです。
 もちろん、これまで街路樹をそういう目で見ていたこともなかったので、もしかしたら他にもまだあるのかもしれませんが、その後、思い出すたびに意識的に探してみている限りではまだ見つけておりません。
 このお乳が、どのような原因で成長するのか私にはわかりませんが、何やらありがたくなってきます。
 しかし、残念ながらこの乳銀杏は宮城野橋の架け替えに伴う道路改良工事によって伐採されることが決まっているものなのです。

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 よりによって、何故この銀杏が乳銀杏になってしまったのだろう・・・。

 なんともせつない気持ちがよぎります。
 NHK大河ドラマ『真田丸』、毎週楽しく視聴させていただいております。
 主人公の真田信繁―幸村―を演じる堺雅人さんは、おらがまち―仙台―を舞台にした映画『ゴールデンスランバー』を観て以来大好きな俳優さんとなっております。
 当該映画でヒロインを演じていた竹内結子さんが、今回の大河ドラマでは茶々―淀殿―役として出演しております。奇しくも、映画同様、堺さんと奇縁な役柄であるところは面白いと思っております。
 それよりもなによりも、最も私のツボをついているのは信繁の父真田昌幸を演じる草刈正雄さんの演技です。三谷幸喜さんのうまさでもあるのでしょうが、あのどこか憎めない愛くるしいうさん臭さは最高です。正直なところ、このドラマを視るまで真田真幸には卑怯で不義理なイメージしかなく、あまり好きではありませんでしたが、草刈さんの怪演をみているうちに好感しかもてなくなってしまいました。考えてみれば、戦国時代にお家を守るためにはあのくらいの卑怯さも「さもありなん」なはずです。それを再認識させられております。
 さて、今回の放送―平成28年6月19日放送回―ではいよいよおらがまち仙台のお殿様、伊達政宗も現れました。
 ナレーションでも示唆されておりましたが、主人公の真田信繁―幸村―と伊達政宗は大坂夏の陣で一戦交えることになります。
 しかし、この両雄の戦いに決着はつきませんでした。いえ、あえて決着をつけなかったと考えるべきなのかもしれません。
 七年前、私は次のようなことを書いておりました。

〜 幸村は自分の娘をこの戦場きってのアイドルであり、最後のライバルでもある小十郎に託しているのです。これは、政宗に託したものと考えてよろしいでしょう。
 何故、幸村はたった今死闘を繰り広げた片倉小十郎に自分の娘を託すのでしょうか。
 相手は世に名高い血も涙も無い“狂気の政宗”の腹心なのです。世間が言うような“梟雄”政宗ならば、幸村の娘を手に入れたとなれば、それを盾に幸村を追い詰めてくることさえ考えられたはずです。単なる美談なのでしょうか。いえ、真田幸村の末裔は今でも宮城県内に連綿と生き続けておりますから、間違いなく事実なのです。
 大坂の陣当時の情勢を冷静に眺めてみますと、実は、政宗は天下の趨勢を掌握する生涯最大のチャンスを見据えていたと思われるのです。
 大坂の陣の際、政宗は娘婿である家康6男「松平忠輝」軍の参謀として参戦しております。政宗が幸村を追撃しなかったのは、この忠輝を危険極まりない幸村とぶつけるのを避けたとも言われております。
 幸村はその後総大将家康めがけてまっしぐらに突進し、あと一歩で家康の首を獲るところまで行きました。過激に考えるならば、もしかしたら政宗はそれを期待していたのでしょうか。
 しかし、その突進が誰も予想出来ないほどの意表をつくものであったことからすると、さすがに政宗も「幸村が家康の首を獲ってくれる」というところまでは期待していなかったことでしょう。
 それでも、あわよくば、そうなったときに幸村を味方にしておこう、という企みは少なからずあったことと考えられます。私は、もしかしたら政宗と幸村の間には密約があったのではないか、とすら考えております。政宗ならやりかねません。
 あるいは、時代の趨勢を見据えた幸村が、暗黙のうちに政宗の本音を読みとり娘を託したものかもしれません。
※ 拙記事「宮城県白石市――片倉小十郎の周辺の女性――」より
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 この記事から約6年、昨年入手した小西幸雄さんの『真田幸村と伊達家(大崎八幡宮)』に、実に興味深い説があることを知りました。

―引用:『真田幸村と伊達家(大崎八幡宮)』―
 それでは幸村は、なぜ阿梅の保護を片倉重綱に託したのであろうか。これについては、「片倉重綱の人柄を見込んでとする説」(『老翁聞書』、『仙台士鑑』、『史伝片倉小十郎景綱』)、「重綱の背後にいる政宗への期待説」(紫桃正隆著『仙臺領国こぼれ話』)そして「同じ信州、同じ諏訪神人という同郷同職説」(海音寺潮五郎)『実説武侠伝』)であるが、私が最も興味引かれる説は、この「同郷同職説」である。
 真田氏は信濃小縣郡真田郷の地士であり、滋野系海野氏の庶流とされている。滋野氏は早く中世武士としての位置を確保していたが、その一部は牧官という前代の職掌を離さず、依然として陰陽の業をよくする巫祝(ふしゅく)の徒として活躍した。やがて修験派の諏訪神人として、その布教に国々を歩いていたといわれる。(福田晃著『神道集説話の成立』)
 一方、片倉氏の出自は、「諏訪神氏分流白石藩主男爵片倉家系図」によると、その遠祖を建御名方神にはじまる片倉辺命は、信濃国諏訪部の守谷山の南麓に居住する国津神系の豪族であり、その一族は代々諏訪社大祝(おおはふり)・副祝を勤めてきた。鎌倉時代の弘安六年(一二八三)に死去した景継の代になって、はじめて片倉氏を称したという。
 このように真田氏と片倉氏とは、その祖が同じ信州の出身であるだけでなく、同じ修験派の諏訪神人であったという同郷同職の共通性を持っていたことから、両家は親しく交際し、幸村と重綱は懇意であった可能性があるのである。

 念のため、阿梅とは幸村の娘です。
 さて、なるほどこれは腑に落ちます。
 ただ、藩主政宗はなにしろ親戚縁者ばかりか父や弟を殺してまでお家を守ってきた人物です。いくら片倉家が政宗の右腕であったとしても、言うなればたかが家臣の同郷同職という縁だけでは徳川家康の命をあと一歩まで追い詰めた怨敵の子を匿うというリスクに対して首を縦にふったとは思えません。
 政宗は大坂方の浪人を多数召し抱えたとされておりますが、同書によれば、「いずれも幕府に届けたうえで行っている」のだそうです。
 ところが、「仙台真田家だけは、幕府に対しまったく秘密にしており、特別扱いであった」とのこと・・・。
 もしかしたら、政宗はこのことを知らなかったのでしょうか。いえ、それは考えにくいものがあります。
 何故なら、「仙台真田系譜」を信ずるならば、片倉久米介と名乗ることとなった真田大八―守信―が、片倉重綱の所領一万三千石のうちから、食客禄として一千石も分領されていたようだからです。
 小西さんは、「重綱の所領に対する比率の高さから考えれば、重綱には別途、政宗から御内侍金(ごないしきん)が出ていた可能性があり、しかも守信一代限りではなく、二代辰信(ときのぶ)の正徳二年までの九十七年間も支給されていたことからすれば、政宗の遺命から出ていると考えるのが妥当であると思われる」としております。
 そしてそこに至る顛末について次のように推測しております。

―引用:前述同書―
 〜幸村は、五月六日の道明寺の戦いの夜、阿梅を片倉重綱の陣所に投降させて、「明七日を決戦の日と定め、幸村の一身に代えて家康公御一人のお命を頂戴する覚悟である」ことを伝えたのではなかろうか。
 これに対して政宗は、大八はじめ幸村子女の保護を約束し、存分に働かれるように伝えたものと思われる。そして、この「武士の約束」こそが、食客禄千石の意味であろうと思われるのである。しかし、幸村は五月七日の決戦において、ついに今一歩のところで家康の首をとることができなかった。

 なるほど、あり得たかもしれません。

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 さて、同書のおかげでもうひと押し思うところが出てまいりました。それについては、稿をあらためて展開したいと思います。

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