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『東奥老士夜話』が伝える「不動澤」の浸水域は、現在の二日町(ふつかまち) ―青葉区二日町―のほぼ全域を占めていたようですが、この町のとある裏道を入った公園の片隅に、「村境榎(むらさきえのき)神社」なる祠が祀られております。 なにしろすぐに大沼と化すような場所であったようですから、古くからの神社があったとは考えにくいものがあります。とすればこの神社の勧請は不動澤の治水後のこと、すなわち藩政時代以降のことなのだろう、と思わざるを得ないわけですが、案の定、実は第二次大戦前には違う場所にありました。 昭和29年版の『仙臺市史』によれば、「北一番丁を勾當台通りから少し西に榎の古木があり、下に村堺榎神社の小祠があった」とのことで、かつては仙台市役所のあたりにあったようです。 その地は、西から東に走る北一番丁の道筋が中町段丘から上町段丘の勾当台(こうとうだい)に乗りあがっていく場所であり、藩政時代には四ツ谷用水の第一支流が自然地形に逆らわず流路を曲げている場所でもありました。 思うに、おそらくは往古の不動澤が生み出していた大沼のほとりでもあったことでしょう。 平成27年1月15日付「河北新報夕刊」のシリーズ記事「までぇに街いま」によれば、現在のそれは昭和30年代に地元の「二日町親和会」によって再興されたものであるとのことでありました。 遷座前の「村境榎神社」の鎮座地について、前述同市史には「昔仙臺と荒牧邑との堺であつたという」と記されております。 一方で、木村孝文さんの『青葉の散歩手帖(宝文堂)』には、「小田原村と荒巻村との村境であったという」とあり、前述夕刊記事や同社境内の石碑に刻まれた由緒にもその旨が刻まれております。 はて、「仙臺と荒牧邑の堺」と「小田原村と荒巻村との境」とでは少なからず趣が異なります。この齟齬はどう捉えるべきでしょうか。 もしかしたら、早くに仙台城下に組み込まれていた小田原村の一部が荒巻村と接していたところの境界、ということなのでしょうか。 『仙臺名所聞書』や『残月臺本荒萩』によりますと、仙台城下は、往昔の荒巻村・小田原村・南目村・小泉村・根岸村の「五ケ村入り合いの地」であったようです。 両文献とも、城下におけるそれら五ケ村各々の境界について記しておりますが、『残月臺本荒萩』の記す荒巻村と小田原村の範囲は次のとおりです。 ―引用:『仙臺叢書(仙臺叢書刊行會) 復刻版(宝文堂)』所載『残月臺本荒萩』― 一 御城下は。 宮城郡國分荒巻村。小田原村。南目村小泉村、名取郡根岸村。以上五ケ村入合の地なり。 一 荒巻分は。 東照宮より南へ。御宮町・六番丁西側斗り、又同社より北六番丁を西え八幡町限り。中島丁淀川岸限り。川内皆御城半分、片平丁米ケ袋、北は杉山臺南は廣瀬川岸限り。若林御藏あてに西通。東は東七番丁うら六道辻。東六番丁を限り。皆々荒巻村也。右之内に。小名多し。 〜中略〜 一 小田原村分。 一西は東六番丁通。御宮町東裏。荒巻村境切。南は原の町。鐡砲町北裏切。西は東七番丁車地藏より南え。東七番丁通。夫より六番丁六道の辻通。西の方に成て。荒巻村境より東は皆小田原村分也。右の内小田原といふは。東北は野を限り。西は御宮町東うら切。南は御旅宮北裏。東六番丁東うら鐡砲町北うらより。東原ノ町御米藏。北向小田原通を押廻。西の方皆小田原といふ也。 やや文脈の解読に難儀するものの、これを見る限り、荒巻村と小田原村の境は、「東照宮」から南に延びる東六番丁の東裏、すなわち宮町通の東裏を、鉄砲町の北裏の「車地蔵」につきあたるまでの線がそうであり、もしかしたら、それより南の「六道の辻―現在のJR線北目ガードあたり」まで延びているようにも見えます。つまり、東七番丁と東六番丁の間のみが、小田原村として凸状に南隣りの南目村に食い込んでいるかのようにも読み取れます。 いずれ、このラインが荒巻村と小田原村の境界であったなら、二日町の村境榎明神はこのライン上のどこかから遷座されたということになります。 一方、安永七(1778)年頃に書かれたであろうこの『残月臺本荒萩』よりもさらに70年〜90年ほど遡った元禄年間(1688〜1704)頃に書かれたであろう『仙臺名所聞書』は次のように記します。 ―引用:『仙臺叢書(仙臺叢書刊行會) 復刻版(宝文堂)』所載『仙臺名所聞書』― 〜荒巻村権現の社より。南へ六番丁通り之邊迄。同六番丁通を西へ。二日町東裏切に南へ。高城通を同心町と云。同心町より東三番町通りへ。いれ合新傳町北裏に付東五番町邊を。清水小路六道辻六番町と。七番町の間の邊より。若林御米藏當に。西の分米ケ袋川内北山杉山共に。荒巻之分なり。小田原村西は荒巻村切。南は原の町通り鐡砲町北裏切。西の方にて車地藏より・南へ七番丁六道辻通りへ出る。荒巻村東の分は。小田原分なり。〜 荒巻村と小田原村の境界については特に変わりないように見えますが、目を引くのは、荒巻村の西端が二日町の東裏までとされているところです。先の『残月臺本荒萩』では八幡町まででありました。 もう一つ文献をみてみましょう。元禄八(1695)年頃と推定される『仙臺鹿の子』には次のとおり記されております。 ―引用:『復刻版 増補 仙臺鹿の子 全 (仙台郷土研究会)』― 御府は五ケ村入合の所なり荒巻村小田原村南目村小泉村根岸村なり荒巻権現の社より南へ六番丁通り邊まで同六番丁通を西へ二日町東裏切に高き通を同心町へ同心町より東三番丁通りへ入り新傳馬町北裏に付き東五番丁邊を清水小路六道の辻六番町と七番丁の間の邊より若林御米藏あてに西の分米ケ袋川内北山杉山共に荒巻村まて小田原村西は荒巻村堤切り東は原の町通り鐡砲町裏切り西の方にて車地藏より南へ七番丁六道の辻通りへなり出て荒巻村界より東の分は小田原村なり〜 ここでも八幡町ではなく二日町の東裏が境界となっているようです。 これらを咀嚼するに、おそらく、成立の古い『仙臺名所聞書』と『仙臺鹿の子』が仙台開府後比較的初期における城下隣接各村の残存部分の境界を記しているのに対し、成立が新しい『残月臺本荒萩』の方は、むしろ仙台開府以前の城下町域における古い村域を記しているのでしょう。 そう解釈することによって、村境榎明神が「仙臺と荒巻邑の境」でありながら「小田原村と荒巻村との境」であることの意味がみえてきます。 つまり、古くは「小田原村と荒巻村の境」に鎮座していた村境榎明神が、なんらかの事情によって二日町、すなわち「仙臺と荒巻村の境」に遷されたということなのでしょう。 そしてそこは、不動澤が生み出す大沼のほとりであったと思われます。 それを前提に推論を展開するならば、おそらく、「村境榎明神」の旧鎮座地は、鉄砲町から南、「六道の辻」迄の東六番丁沿線東側、すなわち、「谷地小路」と呼ばれた東七番丁沿線の西側であったのものと思われます。 何故なら、「谷地小路」の名が示すとおり、そのあたりは梅田川の増水にともなう清水沼の氾濫域であったと思われるからです―平成版『仙台市史 通史編4 近世2』―。 『仙臺名所聞書』や『仙臺鹿の子』と同時代に書かれたと思われる『東奥老士夜話』には、「原の町北裏清水沼むかしは大沼にて。西の方へ押廻し。孝勝寺通邊は不及申。連坊小路のあなた迄。見切かたきほどの沼やちに御座候」、「八十年ほど以前。原の町御取立西の方沼やち埋立上候。材木をわたして其上を通り候よし」、「谷地小路清水小路大やち」などとあり、清水沼の浸水域が現在の榴岡公園西側から仙台駅東口を経て連坊小路のあたりまで広がっていたことを伝えております。 おそらくは、その浸水域自体が荒巻村と小田原村、はたまた南目村の村境とされ、その水害への鎮めの水神が村境の標となっていたのではないのでしょうか。 もっといえば、「六道の辻」こそが、村境榎明神の名残の地名であるのではないでしょうか。 「六道の辻」について、先の『仙臺鹿の子』には「六道の辻は清水小路北詰の角をいふ六方へ六筋わかりたる街なれば六道の辻といふ又或る説に來世六道を此所へ立つ故に六道といふ此説たしかならず」とあります。このたしかならぬ説の「来世六道」云々にこそ、私は「村境」と通じるものを感じるのです。 いずれ、城下の建設に排水が必要となったとき、すぐに大沼を生み出してしまう不動澤のほとりにも同種の神祀りが必要とされて分祀ないし遷座されたか、あるいは不動澤のほとりに古来鎮座していたなんらかの祠に六道の辻の神仏が合祀されたのではないのでしょうか。 『仙臺鹿の子』には、荒巻村の境として「二日町東裏切に高き通を同心町へ」とありましたが、この「高き通」は『仙臺名所聞書』には「高城通」とあります。しかし、そういった通りの名が思いあたらないので、おそらくは勾当台に連なる上町段丘上の通りのことを指しているのでしょう。。
なにしろ市役所付近は、中町段丘上の北一番丁が上町段丘、すなわち勾当台に乗りあがっていく場所、すなわち不動澤の推定浸水域の東端のほとりにあたります。 村境榎明神は、本来は谷地小路や不動澤の水害を鎮める水神として祀られていたのものが、結果として村境であったのではないか、と私は推測するのです。 |
亀の風土記:宮城県
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仙台市青葉区春日町に、その町名由来となった「春日神社」があります。 往古、櫓丁(やぐらちょう)―現:同区立町―の「柳清水」のほとりに鎮座していたものが、安永五(1776)年四月十七日の町内全焼の際に類焼したそうで、同九年の三月には再興して近年に至ったものの、昭和20(1945)年七月十五日の仙台空襲で全焼、のち、昭和34(1959)年の十月に復興遷座し、現在に至るようです―昭和29年版『仙臺市史』・宮城県神社庁HPより―。 この春日神社の御神体は、翁の面二個であるとされているようなのですが、思うに、本来の御神体は旧鎮座地の「柳清水」そのものであったのではないでしょうか。 「柳清水」は、藩政時代の仙台城下において、「山上清水―青葉区八幡―」、「鹿の子清水―青葉区米ケ袋―」ととも、「仙台三清水」に数えられた清水でありました。 元禄八年頃に著された『仙臺鹿の子』には、「元やくら丁本木町の近所北側の邊より清水出る國分町邊にて底樋を通して此水を呑む」とあり、明治32年の増補版の大内源太右衛門なる自称平民による注釈には「(按)今の元櫓丁之れなり之の水を柳清水といひ今尚清泉わき出て盡くるとなし」とあります―復刻版『増補 仙臺鹿の子 全 (仙台郷土研究会)』―。 藩政時代にはよほど重宝した清水であったようです。 また、この春日神社の由緒には、「文治年中源義経の奥州下向の節、同社に詣でたる時、此の柳に駒を繋いだので、“駒つなぎの柳”ともいわれた」というくだりがあります。 もちろん、実際に義経が立ち寄ったのか否かはわかりませんが、仮に文治年中に駒をつなげるほどの柳がその地にあったのだとすれば、その地が当時既に湿潤であったことを示唆します。本来乾燥しがちな台地上なわけですから、そこに湧水があったと考えるのが自然でしょう。 だとすれば、この伝説は柳清水の恩恵が藩政時代以降の四ツ谷用水の副産物ではなかったことを物語っていたことになります。 さて、この清水の水源として、私は『東奥老士夜話』が伝える「不動澤」を疑っております。 『東奥老士夜話』は、「勾當の臺と木町通の間。不動澤と申候而大沼のよし。道家源左衛門屋敷裏に。不動澤の跡御座候よしなり。」と、仙台開府以前の原景観として勾当台(こうとうだい)と木町通の間に「不動澤」と呼ばれた大沼が存在していたことを伝えております。 柳清水からみて、北方1キロメートル弱ほどになるのでしょうか、実際の地質なり地形から推察を試みた『仙台市史―通史編4:近世2―』の図版では、おおよそ現在の仙台市役所北西部一帯が水色でマーキングされておりますが、同市史が語るように、上町段丘と中町段丘の境の段丘崖の湧水がもとになっているのでしょう。 前に触れたとおり、北二番丁を東進した四ツ谷用水の第一支流は、二日町あたりで上町段丘にぶつかり、段丘のへりに沿って南下しながら現在の勾当台公園内を流れていたわけですが、少なくともこのエリアの流路はいにしえの不動澤そのものを治水したものと言ってよさそうです。 思うに、仙台開府以前の上町段丘と中町段丘の境の段丘崖沿いには、規模の大小こそあれ、この不動澤のような湧水が断続的に連なっていたのではないでしょうか。 |
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書店で何気なく手にとった『仙台市史―通史編4:近世2―』に興味深い情報があり、思わず衝動的に購入しました。 仙台開府以前にさかのぼった原景観が推定されていたのです。 ベースは、元禄年間(1688〜1704年)から享保年間(1716〜1763年)にかけて書かれたとされる『東奥老士夜話(とうおうろうしやわ)』の記述ですが、市史によれば「このような開発談は、その時の苦労を強調するために、もとの状況を過度に悪く書いているものが多いが、『東奥老士夜話』の場合、現在の地形図や地質調査の結果と突き合わせていくと、ほぼ正確な記述であることが浮かび上がってくる」とのことで、結論からいうと、「全体に、現在の市街地は一部を除いて湿地だらけであった」ようです。 なにやら、前回とりあげた、城下の建設にはまず排水が必要であった、としていた40年前の奥津春生さんの論は妥当であったと言えそうです。 ―引用:『仙台市史―通史編4:近世2―』― 〜かつての仙台では、段丘崖や断層に沿って、いたるところに地下水が湧き出していた。たとえば、長町・利府断層隆起帯の西端にあたる清水小路は、地名が示しているように湧水の多い場所であった。『東奥老士夜話』には当時、清水小路の屋敷にはおおかた「谷地」、すなわち湿地が残っていたと記されている。そのほか、『東奥老士夜話』に湿地の存在が記述されている河原町の町裏と土樋真福寺通は、中町・下町段丘の段丘崖にあたり、勾当台と木町通の間にあったという大沼である「不動沢」は、上町・中町段丘崖の湧水がもとになっていたと考えられる。このような小河川や湧水の影響の少ない、北鍛治町より西、勾当台から南にある未開拓地が葦原の「野谷地」であったと考えられる。 やはり、四ツ谷用水の整備を待たずとも、藩祖伊達政宗、及び数万の家臣団なり御用商人らが入府するための最低限の地勢条件は整っていたのでしょう。 また、市史の記述や図版に目を通していて、奥州藤原四代泰衡が、対鎌倉戦の総司令部を置いた「國分ヶ原鞭楯―現:榴岡(つつじがおか)公園―」周辺の原地形にも興味をそそられます。 せっかくなので、そのあたりも市史から引用しておきます。 ―引用:前掲市史― たとえば、榴ヶ岡は上町段丘の一部である。だが、長町・利府断層線の西側には幅約一キロメートルの隆起帯があり、その上に位置する榴ヶ岡は、台原段丘に相当する高さに押し上げられ、標高四〇メートルを超す独立丘陵状の地形となっている。市街地北部を東流する梅田川(藤川)の水はこの榴ヶ岡丘陵に行く手を阻まれ、その丘陵北東に渓谷を形成して、東に抜けている。四方に「類山」がないというのは―注:『東奥老士夜話』の記述のこと―、城の防御上問題となるような、榴ヶ岡に連続した高地がないことをいっていると考えられる。かつて藤原泰衡が源頼朝の軍を阻むためにここ榴ヶ岡に鞭楯を置いて、丘陵の東を回る当時の幹線道である奥大道を押さえようとはかったが、これも榴ヶ岡のこうした地形を考慮してのことであったのだろう。このような地形からみて、梅田川に増水が起きると、榴ヶ岡北東の渓谷が隘路となり、あふれた水は容易に清水沼に流れこんでいたと考えられる。その結果、清水沼は「大沼」となって、西の方へ広がり、その水は榴ヶ岡西の鞍部を越えて南西の連坊小路まで続いていたのであろう。 ということは、梅田川にわずかな細工をするだけで北部から西部を溢水させることが出来ることになります。 なにしろ、一帯は荒駒の馬柵(まぎ)であり、兵の頭数さえあれば即席で国内随一とも評された奥州馬の騎馬軍も編成できたはずで、当然泰衡には攻守に俄然優位となる目論見もあったことでしょう。 都市化された現在では想像し難いものがありますが、榴ヶ岡丘陵は城塞として思った以上の好立地であったようです。 仙台に城を築くことになった伊達政宗は、本来この榴ヶ岡丘陵を第一候補に考えていたものの、徳川家康との駆け引きの結果、現在の青葉山に築くことになった旨の伝説が存在しますー『仙臺名所聞書』ー。 もし、榴ヶ岡丘陵に居城が築かれていたならば、おそらくは城を中心とした町割りが施され、現在とはだいぶ様相の異なる市街地になっていたことでしょう。 |
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仙台の市街図を眺めていて、気になっていたことがありました。 やや不整形ながらも碁盤目状に街路が張り巡らされた城下町にあって、「元寺小路(もとでらこうじ)―青葉区本町―」の周辺だけがその調和を乱していたことです。 もしかしたら元寺小路は、伊達政宗の町割り以前から存在した古道だったのではなかろうか、その形を生かさざるを得なかった理由もあるのではなかろうか、私はそう勘繰っておりました。 そしてそれは半分正解でもありました。 一帯は上町段丘と中町段丘の境界にあたり、元寺小路はその段丘崖の自然地形の縁辺に沿って線引きされていたのです。 さらに元禄四〜五年頃の地図や天明六〜寛政元年頃の地図でよくよく見ると、それが水路に沿っていたこともわかります。 ただ調べてみると、この水路はさしあたり仙台城下に縦横無尽に張り巡らされた「四ツ谷用水(よつやようすい)」の第一支流としての位置づけであったようで、だとすれば、この不調和な街区一帯も、碁盤目状の他の街区と同様、伊達氏以降に町割りされたものである可能性が高まります。 この四ツ谷用水第一支流は、広瀬川上流の郷六(ごうろく)地区にて導水された四ツ谷用水本流から、覚性院丁で分かれて土橋通を南下、続いて北三番丁で左折して東進、新坂通を右折して南下、さらにまたすぐに北二番丁で左折して東進、その後二日町あたりで上町段丘にぶつかり、段丘のへりに沿って南下します。そして現在の勾当台公園内を流れ、自然地形の生かされた流路で件の元寺小路と並走していたようです。 ちなみにその先はJR仙石線の旧経路と絡み合いながら「孫兵衛堀」なり「蒲生川(かもがわ)」などと呼ばれ、「鞭楯古塁(むちだてこるい)」、すなわち奥州藤原四代泰衡による対鎌倉戦の総司令部「國分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」の址たる「榴岡(つつじがおか)公園」の麓を流れ、現在の仙台育英高校から宮城野の乳銀杏、宮城野区役所の北西側を抜け、最終的には四ツ谷用水本流と同様、梅田川に収束されていったようです。 仙台の城下町は、「荒巻村」や「小田原村」などから成る「陸奥國分荘」に築かれたわけですが、その地名からすると中世以前は木ノ下の「陸奥國分寺」の荘園であったのか、少なくとも國分寺で開かれていた恒例の馬市を支える荒駒の放牧地が、この台地上に展開しておりました。 そしてこの地は、伊達政宗による開府以前には國分一族が領しておりました。 國分一族は、入り婿の形で最後の頭首となった政宗の叔父「盛重」が、政宗の逆鱗に触れてしまったことで滅ぼされてしまったわけですが、後に盛重の妾の子の「伊賀重吉」が、母の実家である木ノ下の國分寺院主坊に隠棲していたところを狩りの途次の政宗に発見されます。これを憐れんだ政宗は母子を保護し、荒巻村の「西北ハ熊野堂ヲ境、東へそかひ形ニ車地蔵辺マデ手広ノ地」、すなわち、件の元寺小路に沿った上町段丘一帯を与えました―「七北田村野村馬場庄八氏所有系図」:『七北田村誌』―。城下には国分衆の居住区―国分町―も整備されていたはずですが、伊賀重吉はおおよそこの元寺小路の左岸一帯を与えられたのです。 もしかしたら、城下草創期に宗教施設―寺院―が集められたこのあたりには、國分家内の多数の反対を横目に伊達家からの押しかけ代官として強引に入ってきた「伊達彦九郎政重」、すなわち後の「國分彦九郎盛重」の居館でもあったのだろうか、などと勘繰っておりました。 しかし、先日放映されたNHKのTV番組『ブラタモリ』の仙台編を視ていて、それは妥当ではないかもしれない、と考えさせられました。 この番組の主旨を信じるならば、少なくとも仙台城下が乗る段丘面の台地上に國分氏時代の市街地など到底存在し得ないようであったからです。 番組は、四ツ谷用水ありきで仙台城下が築かれた旨で語られておりました。 すなわち、一般に台地上は地下水が地中深く、河川との高低差も激しく、多くの人口を養うには向いていないというのです。それ故に日本の大都市は主に沿岸部の河口に発展していったわけで、仮に内陸であっても、京都などのように、その発展には盆地や扇状地など水利に恵まれていることが必須条件であるというのです。 したがって、内陸の台地上に当時としては全国有数の5万もの人口を擁する大都市の出現を可能にしたのは、地形を知り尽くした藩祖伊達政宗によって敷設された四谷用水の恩恵であった――、というのが番組の主旨でありました。 なるほど、納得がいきます。 だとすれば、四ツ谷用水敷設以前には、到底市街地など築かれようもなかったことでしょうし、水利の不自由さを鑑みれば多くの家人を抱えるようなVIPの屋敷も考えにくく、先の元寺小路もただの段丘崖のラインであったのかもしれません。聚落らしきものがあったとしても、せいぜい放牧に関係した作業小屋程度のものが点在した寒村に過ぎなかったのかもしれません。 しかし、実はそう考えるのにも疑問が残るのです。 何故なら、川村孫兵衛重吉による四ツ谷用水本流開削は、文献や古図などからおおよそ元和六(1620)年頃、すなわち、慶長八(1603)年の伊達政宗の入府後、約17年もの年月を経てようやく着手されたものと推測されているからです。 念を押しておきますが、本流の“完成”ではありません。開削に“着手”されたのが政宗入府の約17年後なのです。 なにしろ、政宗入府の際には、旧府城の岩手沢―宮城県大崎市岩出山町―などから2万〜3万人もの家臣団なり商人なりが仙台城下に移転してきたものと考えられております。 四ツ谷用水本流開削の着手すらされていない17年間、彼らの水利はどのように担保されていたのでしょうか。 これはつまり、この段丘面の都市化にとって必ずしも四ツ谷用水の整備が前提ではなかったことを物語っているのではないのでしょうか。 しかも、仙台城下の町割りは「芭蕉の辻」が起点であるわけで、もし、城下の都市生活に四ツ谷用水が必須であったのならば、本流に近い八幡町や北六番丁方面から町割りされて家臣団や商人らが張り付いていたはずではなかろうか、とも思うのです。 「芭蕉の辻」が町割りの起点であった理由について、仙台圏の地質研究のスペシャリストたる奥津春生さんは次のように語っておりました。 ―引用:奥津春生さん著『大仙台圏の地盤・地下水(宝文堂)』より― 例えば大町と国分町との交差点である芭蕉の辻を開発拠点としたのも、地盤と水の調和からみると、ここ以外に適地がないことを発見したからで、ここに今日の中心街発展の基盤があったわけである。これ以外の大部分の土地は低湿地で、常にじめじめした谷地の性質をもっていた。これは地表にわき出た湧水(清水)が数多くあったためで、清水小路、鹿の子清水、山上清水などの地名が残っているのはこのためである。 このような事情から、土地の開発には、まず堀を掘って、これらの湧水を誘導・排出して地下水面を下げる必要があった。ここに着目したのが初代伊達政宗で、当時のすぐれた土功家(土木技術者)である川村孫兵衛重吉に命じて用・排水の設計をさせた。その一部は着工され、四ツ谷用水の水路の基本形となったようである。重吉の構想は四代綱村の代になって孫にあたる子の吉(※ママ:元吉のタイプミス?)の手で能率的に進められ、四ツ谷堰、ずい道、用水堀が完成した。 なにやら奥津さんは、水不足を前提とした『ブラタモリ』の主旨とは反対に、城下の建設にはまず“排水”があった、とみたようです。 なにしろ40年前の論考なので、最新の研究結果に基づいたであろう『ブラタモリ』への指摘には心もとない部分があるかもしれませんが、私はむしろ奥津さんの見解こそが妥当に思えております。それでこそ3万もの領民が藩主に伴って一斉に城下に移住できたというものでしょう。 中には、「清水小路や鹿の子清水などの清水は四ツ谷用水がもたらしたものではないか」、「城下の浅井戸が四ツ谷用水の副産物としてもたらされたという認識がなかったのではないか」、という指摘があるかもしれません。 しかし、奥津さんは、「藩政時代に建設された四ツ谷用水の水路が走っている所では、人工的な地下水かん養の作用があるため揚水量が多くなり、一部には湧水もみられる」、とも語っておりますので、その点は十分折込済みのようです。 それに乗じて私論をいうなら、四ツ谷用水の第一支流の原型は古来の自然河川であったのではないでしょうか。 後に四ツ谷用水の一部とみられることになったその河川が、開府以前から中町段丘の地下浅部の礫(れき)層に自由地下水の帯水層をもたらしていたのではないのでしょうか。 つまり、新しい城下町の建設にあたって、まずは芭蕉の辻周辺の湧水調整のために、中町段丘上を流れていた幾筋かの自然河川を最低限の土木工事で統廃合し、一流路に集約して宮城野方面に誘導・排出したものこそが、この四ツ谷用水第一支流だったのではないのでしょうか。 ※末筆ながら、今回やや否定的に取り上げてしまいましたが、『ブラタモリ』は私の興味のツボをつく大好きな番組であることを付け加えておきます。
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青葉城祉―仙臺城址―に、本丸大広間の遺構を基にした平面の野外展示施設が整備されておりました。 今年の夏、夜間に訪れた際にも気づいていたのですが、このほどようやく日中に訪れることが出来ました。 四年前、この施設の計画を新聞記事で目にした私は次のように語りました。 ―引用― 〜遺構平面の野外展示という部分には大きく懸念するところもあります。野外に線引きするとなると、恐らく、本来広大なはずの大広間もかなり狭隘で貧相に感じることと、予言致します。家を建て替えされた方ならおわかりかと思いますが、既存建物の解体現場や、地鎮祭などで、壁や屋根がない状態で家や部屋の広さを確認すると、「え、こんなに狭いの?」とがっかりするものです。 〜中略〜 くどくどと語りましたが、とにかく、平面スペースだけの野外展示では、どうしても小さく感じてしまう、ということだけは、覚悟しておかなければなりません。 ※拙記事『河北新報記事「仙台城跡、大広間整備へ」を見て』より さて、ついにその展示施設を見ることとなりました。 「これは、でかい・・・」 正直なところ、私は驚きました。 期待をしていなかったということもあるのでしょうが、私の想像を上回るスケール感であったのです。 野外の平面遺構でこれだけのスケール感であるならば、この建物が現存していたならば、相当な迫力があったことでしょう。 かつて、出稼ぎのために上京して、三畳一間に暮らした世のお父さんたちのため息が聞こえてきそうです。 徳川家を憚って天守閣が築かれなかったという青葉城・・・。
しかし、当時この本丸御殿を見た人たちは、伊達政宗が天下人の域にあったことを思い知らされたに違いありません。 明治の世に取り壊されてしまったことは実に残念です。 |


