|
諏訪氏族系の眞山氏は、玉造郡の眞山村―宮城県―に起ったことから眞山を称したとされているわけですが、もしかしたら、むしろ彼らの土着によって村名が生まれたということも考えられるのではないでしょうか。 例えば、同じ信濃―長野県―から出羽の由利郡―秋田県―に移住してきた中原姓瀧澤氏などがそうでした。 伝承では、新天地である由利の瀧澤の地名をとって瀧澤を称し始めたとのことでしたが、そもそもの信濃の居住地名も瀧澤でありました。 それら諸々の実情を鑑み、私は「瀧澤」を単なる地名ではなく彼らにとっての一種のブランドとして注目しておきました。 それと同様に、「眞山」という言霊にもある種のブランドとしての意味合いが付加されていたのではなかろうか、と考えてみました。 そう考えさせられたのは、前述した太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』が記す「眞山」の項冒頭の第一声がこうであったからです。 「伊勢に眞山御厨・見え、又陸前等にこの地名存す」 伊勢の「眞山御厨」とは何なのか・・・。少なくとも私の節穴のごとき眼で『神宮雑例集』を探した限りでは見つけきれておりません。太田亮さんが何処にその言霊を見たのかが気になるところです。 御厨(みくりや)とは、『広辞苑(岩波書店)』の説明を借りるならば、神饌を調進する屋舎、御供所(ごくうしょ)」、あるいは、古代・中世、皇室の供御(くご)や神社への神饌の料を献納する領地などを指すわけですが、伊勢という地域柄、一応は伊勢神宮のそれであったと推察されます。眞山氏が伊勢神宮に神饌を調進するなんらかの神領の領主であったことも考えられます。 もちろん、『神宮雑例集』には「一 御厨御園事 合四百五十餘處 二宮御領百十余所〜」などとあり、御厨・御園だけでも450余りも存在したようですので、それほど珍しいものでもないのかもしれませんが、だとしても、伊勢に奉公していたという経歴は一族にとって誇るべきものであったのかもしれず、逆に、仮に含むところがあったとしても、それをごまかすには都合がよかったかもしれません。 したがって、御厨の名称である「眞山」をあたかも家宝の如く屋号などにして子々孫々継承していたということも想像として許されるのではないでしょうか。 いずれ、皇室などに食膳を調進するという意味において、「御厨」は「膳部(かしわべ)」の職掌と隣り合わせにある言霊と言えます。そして膳部といえば、高橋氏や安倍氏に代表される四道将軍大彦命の系譜を思い起こさずにはいられません。 もしかしたら、葉山権現を勧請したという眞山氏は陸奥安倍氏と限りなく近しい一族であったのではないでしょうか。だからこそ、松島を代表する神が松島明神であるという一般認識と、松島の総地主が葉山権現であるという伝説が同じエリアにおいて並立し得たのではないでしょうか。 松島明神は、鹽竈大神の一族の神とされ、かつて鹽竈神社の神輿渡御の清め塩として使用された磯崎地区の製塩を守護する神でもありました。 なにしろその神を筑前大島―福岡県―に流された安倍宗任が崇敬し、鹽竈神社の社家の内最も古いとされる左宮一禰宜安太夫家などはおそらくその同族の阿部家でありました。 中世以降鹽竈神社の大神主でもあった留守氏の『奥州餘目(あまるめ)記録』に、人間時代の「しほがまの明神」が東海道十五箇國北陸道七箇國両國の御知行を有していたとあるのは、四道将軍として東海道を進んだ武淳川別命と、その父で同じく北陸道を進んだ大彦命の示唆であることは想像に難くなく、それはすなわち、左宮一禰宜安太夫家の祖先の示唆でもあるのでしょう。 伊勢、信濃、陸奥、と並べば、私は伊勢の地主神「伊勢津彦」を連想します。 『伊勢國風土記』の逸文によれば、伊勢津彦は「出雲の神の子、出雲建子命」であり、長髄彦と同様、神武天皇の征伐を受けて敗北し、波浪に乗って“東の海”に去ったとされております。 また、信濃に移住したという説もあります。 出雲神族の正当な継承者を自称する富當雄さんの語る系譜において、伊勢津彦は事代主命の末裔で、長髄彦の同族でもありましたが―吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』―、伊勢津彦と長髄彦がよく似た境遇の存在として語られてきたことは間違いなさそうです。 仮に眞山氏が伊勢の眞山御厨を領していて、かつ、伊勢津彦に関係する氏族の裔孫だとするならば、天孫族の東征を受けて斜陽化した彼らが、勝手の知れた父祖伝来の伊勢の神領を管理させられていたということもあり得たのではないでしょうか。 以前、陸奥國分荘―仙台市内―とアマテル信仰、及び信濃の移民との関係を模索していた際に、陸奥國分荘玉手崎に天神社を創祀し、伊達政宗以前の千代城―仙臺城―の城主の一人としても名が伝わる「島津陸奥守」は嶋津國造一族とも関係があるのではないか、と勘繰っておきました。 時代によっては伊勢國の内であった嶋津國の國造は、『先代旧事本紀』の『國造本紀』などから、「出雲臣」であったことを知れるわけですが、それはすなわち伊勢津彦の一族でもありました。 一説に信濃に落ち延びたとされる伊勢津彦ですが、その信濃は同じく天孫族に追われた出雲の健御名方(たけみなかた)命が落ち延びたとされる地でもあります。 一方、伊勢津彦より先に神武に敗れた長髄彦は、富さんによれば出雲に逃れたということになっておりました。 しかし『先代旧事本紀大成経―以下大成経―』の記すところでは、陸奥に落ち延び、鹽竈神になったとされております。 その『大成経』によれば、長髄彦―鹽竈神―は、三韓征伐で皇軍が苦戦を強いられている際、住吉神に督促されて洲輪神―諏訪神?―とともに軍船を司り、功をあげた、ともされております。 ここには鹽竈神たる長髄彦と諏訪神の接点も見られます。 また、同じ『大成経』が記す「射甚(いじん?いじみ?)國」には、「鹽土大神」と「長髄彦大神」が鎮座する「鹽?請(しおつち?)神社」なる神社の記載があります。 その鹽土大神が、仮に鹽土老翁神のことであるとするならば、ここに長髄彦と鹽土老翁(しおつちのおじ)神の接点をも見られることになります。 紀州和歌浦―和歌山県―の鹽竈神社の由緒には、その鹽土老翁が陸奥塩竈において果てられたがために「はてノ鹽竈」と世に言い伝えられていた旨が語られております。
「はてノ鹽竈」――。 塩竈がなんらかの終焉の地、あるいは死後の世界そのものとみられ続けてきたことが窺えます。 実際に伊勢津彦、長髄彦、鹽土老翁の一個人が、信濃なり陸奥に落ち延びていたか否かはわかりませんが、彼らを代名詞とするなんらかの一団が古代の諏訪や塩竈に落ち延びた事実があった故にこういった伝説がささやかれたことは間違いないでしょう。 ここでいう塩竈は松島湾一帯を含みます。往昔塩竈といえば広く松島湾全域を指しておりました。 松島の総地主について知ろうとするならば、やはり鹽竈大神と切り離して考えるわけにはいかないものなのかもしれません。 |
亀の風土記:宮城県
[ リスト | 詳細 ]
|
松島の総地主とされる葉山権現―葉山神社―は、なにやら真山氏の勧請であると伝わっていたようなのですが、如何せんそれ以上の情報が管見にはなく、単に『松島図誌』にそう記載されていた事実のみを知るのみなのです。 そこで真山氏という氏族を掘り下げてみると、藤原姓のそれと、諏訪氏族のそれ、そして源姓のそれがあることについてわかりました。 このうち源姓については、元をただせば諏訪氏族の流れであろうことがほぼ間違いなさそうです。 そしてその諏訪氏族の系統は、もう一方の藤原姓のそれがいつ頃から陸奥に土着していたのかが不明であるのとは裏腹に、元弘年中(1331〜1334)に信州から陸奥に移ってきた、とはっきり伝わっておりました。 それ故にその系統が天長五(828)年開創とされる松島寺以前からの葉山権現を勧請したことはあり得ない、と、一応の判断をしておきました。 一方、消去法で残った藤原姓に仮定して考えてみると、いみじくも同じ宮城郡内である陸奥國分荘の事情ともそこはかとなく整合し得そうな感触ではありました。 しかし如何せん、藤原秀郷の流れとされている以上、秀郷以前の松島寺から更に時代が遡る葉山権現を勧請した氏族と考えるには苦しいこともまた事実です。 諏訪氏族と藤原姓――。 蝦夷時代の奥州松島において、どちらに総地主としての妥当性があるでしょうか。 感覚的には、諏訪氏族に分があるように思うのです。 何故なら、奥州藤原氏以前における藤原姓は、あくまで中央のお偉いさんであって、地主という印象はなかったのではなかろうか、と思うからです。 もちろん情として諏訪氏族と思いたい部分もあることは否めませんが、それを差し引いても、藤原姓が奥州の名族という印象で定着するようになったのは、やはり奥州藤原氏の影響抜きには考えられないと思うのです。 結局、振り出しに戻ってみるわけですが、陸奥への移住時期がある程度絞れてしまう眞山氏に限定するのではなく、広く諏訪氏族として考えてみたらどうなのか―。 諏訪氏族は言うまでもなく信濃に起った氏族ですが、そもそも陸奥・出羽は信濃と密接です。 諏訪氏族と一口に言っても、諏訪神を勧請したことによってそう名乗る一族も含め、その範囲はすこぶる広く、一概に捉えるのは極めて危険ではあるのですが、陸奥とのつながりという視点でみれば、ある程度の方向性が見えてくるようにも思えます。 これまでにもだいぶ筆を費やしておりますが、信濃から陸奥への移住という側面に注目した場合、その最大の動きは、『日本書紀』が記す天武天皇十四(685)年の浅間山噴火に起因したであろうと考えております。 書紀はこの噴火によって信濃が壊滅した旨を記しておりますが、その際、信濃の民や良質な馬がどうなってしまったのかについては触れておりません。 この噴火以前、天武天皇は信濃における産馬を推進しており、当地への遷都までも検討しておりました。それは、天智天皇が近江に遷都させたのと同じ事情、すなわち、半島を制圧した唐・新羅連合軍の脅威に備えた軍事的な必然性故であったことは推して知るべしでしょう。おそらく連合軍に滅ぼされた高麗から大量に逃げ出したであろう亡命者の受け入れ先にもなっていたのではないでしょうか。高麗人は半島で唯一騎馬を軍事的に利用する民族であったとも言われ、もちろん馬に精通しておりました。そこには当然、相当な人財がつぎ込まれていたはずと想像するに難くありませんが、それらは一体どこへ消えてしまったのでしょう。噴火に呑まれ、全て無に帰してしまったのでしょうか。書紀はただ沈黙しております。 少なくとも、陸奥には信濃からの移民が多く、古代から数々の名馬が中央の偉人に貢されてきたことが伝えられており、仙臺藩の地誌を見るに江戸時代に至っても尚国内屈指の馬産業が根付いていたことがわかります。これは何を意味するのでしょうか。私は、天武天皇が秘密兵器として育成していた信濃の人馬が浅間山噴火の難を逃れて大量に移住してきたものとみております。 そのとりまとめはおそらく既に陸奥に定着していたであろう鹿島御子神奉斎氏族と同族の信濃國造が担ったと考えるのが自然であり、彼らの族には、諏訪下宮の神主家を輩出し金刺姓を称した者もおりますが、一方でいわゆる健御名方命の裔を称する神家―諏訪上宮神主家―と同様「諏訪氏」をも称しております。 何を言いたいのかというと、つまり國造系にせよ神家系にせよ、諏訪氏族の陸奥への土着は松島寺以前どころか、十分に七世紀以前に遡る可能性が高いということです。 彼らが土着したのは陸奥の中でも馬柵(まぎ)の経営環境において信濃のそれに似た冷涼な栗原が主であったと思われますが、八世紀以降、郡山―仙台市太白区―なり多賀城なりに開設された陸奥國府や、木ノ下―仙台市若林区―への國分僧尼寺の創建に伴い、中央との馬取引の便に優れた宮城郡にも馬に精通し商才に長けた馬喰(ばくろう)などが居住し始めたものと想像します。 多賀城に近い松島にも、そういった諏訪氏族が土着していたのではないでしょうか。松島湾内の馬放島(まはなしじま)は、引退した鹽竈神社の神馬が余生をのんびり暮らす島であったといいますが、その世話にあたっていたことも考えられます。もしかしたら、はるか古代から既に土着していた可能性もありますが、それはひとまず置いておきます。 いずれ、それらの諏訪氏族はもちろん眞山姓ではないわけですが、件の葉山神社の原型がその諏訪氏族の古き祖霊の地、“いわゆるハヤマ”であったとしたらどうでしょうか。
仮にその諏訪氏族が衰亡してしまっていたとして、鎌倉末期となる元弘年中に陸奥に移った同族の眞山氏が、荒廃していた松島の諏訪氏族のハヤマ祭祀を中興したならば、後世、眞山氏によって勧請された、と伝わる可能性もあるのではないでしょうか。 |
|
松島の総地主とされる葉山神社――。 その葉山神社を勧請したのは真山氏であると言われております。 だとすれば、真山氏の祖先こそが松島の総地主なのか――、とりあえず、太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』で「真山」をひいてみると、以下のように記されてありました。 ―引用― 眞山 マヤマ 伊勢に眞山御厨・見え、又陸前等にこの地名存す。 1 藤原姓 奥州の名族にして、間山氏の裔也。伊達正宗家臣に見え、徳川時代、本支数十家に分る。 2 諏訪氏族 陸前国玉造郡眞山村より起る、封内記に「眞山下邑の諏訪舘は即ち眞山氏の古塁也。其の子孫今大番子となる。傳へ曰ふ、先祖は信州諏訪の人、木工左の孫備前繼貞・元弘年中、本邑に移りて諏訪神を勧請す。その祭日には毎歳邦君・牡鹿二頭を賜ひ以つて牲供と為すの例也」と。 3 雑載その他、信濃、武蔵等に存す。 「眞山御厨(まやまみくりや)」なるものに好奇心を刺激されますが、それはひとまず置くとして、どうやらこの真山氏には藤原姓と諏訪氏族という二系統があるようです。 その内、奥州の名族という藤原姓眞山氏を遡って、その祖系となる間山氏でひいてみるとこうです。 ―引用― 間山 マヤマ 奥州の豪族にして、南北朝の頃、南朝に属し、北畠顕家配下の将間山十大夫は、岩代國信夫郡岡部村に春日社を勧請す(信夫郡村誌)。藤原姓なりと。 又徳川時代、弘前藩に在り、間山甚五郎祐眞は歌人として名高し。又津軽、武蔵等に存す。 岩代國信夫郡―福島県―に春日社を勧請したのは、とりあえず藤原姓故でしょう。 信夫郡の藤原姓氏族で奥州の名族というと、奥州藤原氏の右腕であった信夫荘司佐藤基治を思い起こさずにはいられませんが、同一ではないにしても遠からぬ関係であることは間違いないでしょう。 念のために『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』でもひいてみました。 「真山」の項は全部で11項です。以下にざっくりと箇条書きしてみます。 1、本姓諏訪の大崎氏の家臣、諏訪社への信仰あり、三塚の別称あり。奥州土着は元弘年間。 2、留守氏の家臣。 3、藤原姓の仙台藩家臣。 4、3からの分かれ、仙台藩家臣。 5、同上。 6、源姓の仙台藩家臣ながら、諏訪姓の1を祖とする。 7、6の分かれ、仙台藩家臣 8、源姓の仙台藩家臣。 9、源姓の仙台藩家臣、先祖は大崎氏に仕えている。 10、源姓の仙台藩家臣ながら、6と同様、諏訪姓の1を祖とする。 11、大崎家の旧臣で、主家滅亡後真山村に帰農、本家は諏訪姓で伊達家直参。 こちらでは、主に藤原姓と源姓に分かれるようです。 松島との地縁については特に触れられておりませんが、源姓については、諏訪姓から起こり諏訪社への信仰がある人物を始祖に掲げている例の多いことから、実質として陸前国玉造郡眞山村より起った諏訪姓眞山氏の流れとみるのが妥当ではないのでしょうか。 藤原姓、源姓、そして諏訪姓が見受けられる眞山氏ですが、ふと、「島津陸奥守」が頭をよぎります。 島津陸奥守とは、仙臺藩の幾つかの地誌において、歴代の千代―仙臺―城主として、伊達氏や國分氏、結城氏よりも先に名が挙がる正体不明の氏族のことです。 以前触れましたが、藤原相之助はこれを國分氏のことと推断しておりました。 理由は、國分氏の祖とされる「千葉介常胤」が文治二年に日向國北諸懸郡の郡司に補せられていたこと、そして当地には島津荘があって、千葉介の一族がいみじくも島津を称していたことにあります。 これは実に興味深い論です。 しかし、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝配下の武士としてその國分氏―千葉氏―と同時期に陸奥に入ったはずの結城氏が、文治年間、すなわち、まさに平安末期の奥州藤原氏滅亡の時期に既に千代城に入っていると伝わっているわけであり、それよりも先に島津陸奥守の名が出てきていることへの説明についてはお茶を濁した感があります。 藤原相之助の論が成り立つためには、千代城に代表される國分荘における城舘の歴代領主に関する伝説を一切無視するか、鎌倉軍を代表するような千葉介の一族が、奥州藤原氏の時代に既に奥州に存在していたと認めるかを選択しなければなりません。 話を戻します。 島津陸奥守が、薩摩に代表される“いわゆる島津一族”と同系か否かはわかりませんが、少なくとも“いわゆる島津一族”は諏訪神を崇敬していることが多く、『海東諸國記』における彼らの本姓は宗家が源姓である他、おしなべて藤原姓とされております。今見た眞山氏の性格が、妙にそれと似ているように思えるのは気のせいでしょうか。 ちなみに太田亮さんは、いわゆる島津氏の諏訪神への崇敬に対して、「島津氏は大いに諏訪明神を崇敬すれど、其の眞の氏神が稲荷社なる事は薩摩の史籍、地誌多く之を云へり。これ先祖の信仰を忘れざるものにして、珍重すべき也」と語っております。 その心は、「島津氏は惟宗氏にして、惟宗氏は秦氏より出で、而して稲荷の神は秦氏の氏神たれば也」、すなわち、秦氏である島津氏の氏神は諏訪神ではなく稲荷神であるから、ということのようです。 このあたり思う所があるので、後にあらためて触れたいと思います。 さて、葉山神社を勧請したと伝わる真山氏が、仮に諏訪姓の眞山氏であるならば、時代的には元弘年中(1331〜1334)、すなわち、遡っても鎌倉時代末期から南北朝時代に信州諏訪から奥州玉造郡に移住してきた豪族ということになります。 ということは、当然鎌倉執権北条時頼による臨済円福寺の創建以降の奥州への移住ということになってしまうわけであって、その前身たる慈覚大師開創とされる天台延福寺や、さらにそれ以前から存在していたはずの葉山神社を勧請したとするには矛盾があります。 だとすれば、葉山神社勧請の真山氏は消去法で藤姓眞山氏なのでしょうか。 藤姓眞山氏の本流、すなわち間山氏は、南北朝時代に既に信夫郡においてある程度の勢力を保持していたからこそ前述のような記録に残ったのでしょう。 つまり彼らはそれ以前から奥州に土着していたと考えられます。 もし葉山神社を勧請したと伝わる真山氏が、この藤姓眞山氏の流れであって、しかも私の思惑のとおりそれが信夫荘司佐藤基治を輩出した一族と同系であったならば、天台松島寺の滅亡と安養寺の消滅を結び付ける傍証になり得るかもしれません。 松島明神なり山王権現と遭遇したと伝わる「西行法師」の本姓は、基治と同じ「藤原秀郷」の流れをくむ“佐藤”でありますが、もしかしたらそういった伝説―西行戻しの松伝説―が生まれたのもそのあたりに関係するのでしょうか。 しかし、藤原秀郷は、天慶三(940)年に「平将門」を討った武将でありますから、ほぼ間違いなく日吉山王社や松島寺の開創以降の人物ということになってしまいます。 もちろん、それを言うなら秀郷系譜なるものがどこまで信用できるのか、という部分について先に精査する必要も出てくるのでしょうが、ひとまず緩く“いわゆる秀郷系譜”と仮定しておきます。 以前論じたとおり、陸奥國分荘において、基治が持ち込んだとされる天神社は、おそらくは「菅原道真」を祀るそれではなく、「天照御魂(あまてるみたま)神」を祀る本来的な太陽信仰のそれであって、その天神社を取り巻く天台宗の寺院の数々こそが小萩伝説の発信源でもありました。 小萩伝説の主人公の「小萩」は、奥州藤原四代泰衡に討たれた泰衡の弟「和泉三郎忠衡」の娘、後の「安養院」を匿って加美郡―宮城県―に逃れ、その後安養院の祖母、すなわち信夫荘司佐藤基治の妻が隠棲する安養寺がある國分荘―仙台市―に移住したと伝えられております。 小萩は、安養院亡き後も護持仏たる観音像、すなわち小萩観音を祀りつづけました。安養院は三代秀衡の孫であると同時に、信夫荘司佐藤基治の孫でもありました。 加美郡の「清水寺」や國分荘の「安養寺」、同じく國分荘にて後に「天照寺」と名を変えた「大松寺」、同國分荘の「仙岳院」などの天台宗系の寺院は、この小萩伝説や國分荘玉手崎の天神信仰に関連したと考えられるわけですが、仙臺東照宮の別当寺となって小萩観音が安置されている仙岳院―仙台市青葉区―以外はほとんど消滅しております。その消滅の時期は詳らかではなく、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』が編纂された江戸時代前半においても既に記憶の曖昧な古い話となっておりました。比較的新しかろう天照寺ですら、仙臺東照宮の造営に伴い天神社が現在の榴岡に遷されたとされる寛文七(1667)年時点において、既に廃絶久しかったようです。それらの廃絶は、延福寺が討滅された時期なのか、南北朝の頃なのか、戦国時代なのか・・・。 清野精尹さんは、『松州史譚』所載の「松島寺考」の中で、松島寺の滅亡の意義について次のようにまとめております。 ―引用― 鎌倉時代の新興諸宗の勃興に、激しく苦悶し内省して、輝かしい新天台学を生み出した天台宗と、同じ宗派にありながら、時代の動向より隔絶して遂に滅亡の悲運に蓬着―原文ママ:逢着(?)―した松島寺との対比は、鎌倉時代以上の重大な反省期に逢着しつゝある日本仏教の動向を決する一つの鍵であるとも云い得よう。 こゝに仏教史に於ける松島寺滅亡の新しい意義がある。 この他に、叡山の焼討ちなどに見るような政治勢力の覆滅としての松島寺の改易と云うことも、一応は考えて見る必要があらうが、今までの処ではそうした事実は認め得られない。 なるほど、松島寺に代表される天台宗寺院の消滅については、往々にしてそういった旧態依然の運営方針が世情と隔絶してしまっていたという事情はあったことでしょう。 また、今までの処では政治勢力の覆滅の事実は認め得られない、とのこと―。 しかし、「時頼に追放された」やら、「それ以降温泉が冷泉に変わった」やらの伝説は、紛れもなく“恨み節”です。小萩伝説も含め、奥州の民衆による鎌倉政権への不満の噴出にも思えます。何故記録が逸失し、恨み節だけが伝え残されたのでしょうか。私は、政治勢力によって廃滅せられたからに他ならない、とみます。 松島寺の創建に関係があるとされる葉山神社を勧請したとされる真山氏が、仮に信夫荘司佐藤基治の同族であったとするならば、奥州藤原氏滅亡後、もしかしたら一族は剃髪して天台延福寺などに隠棲していた可能性もあるでしょう。 その想像が妥当であるならば、松島寺を中心とした陸奥多賀國府周辺一帯の天台寺院が鎌倉幕府からみて高度に政治力を有する僧兵の巣窟とみられた可能性もあったのではないでしょうか。 実際にめまぐるしく統治者が入れ替わっていた宮城府中争奪戦の裏舞台に関与して情勢を掻き回していたかもしれませんし、もしかしたらそれこそが國分氏の前身なのかもしれません。 いずれ、それら宮城郡周辺の天台宗系の寺院は、時の権力者から危険視されたが故にことごとく理不尽な廃滅を迫られた可能性もあるのではないのでしょうか。 以上は、葉山神社を勧請した真山氏が、藤原姓眞山氏であった場合の想像です。
引き続き、一旦は切り捨てておいた諏訪氏族であった場合についても考えておこうと思います。 |
|
松島の総地主とされる葉山神社は「瑠璃光如来(るりこうにょらい)」が本尊であるといいます。 神社に本尊と言われると、現代の感覚では少なからず違和感を覚えますが、境内の管理は瑞巌寺が執り行っているようですし、神社庁的には大正元年に日吉神社に合祀されているので、現在のそれはもしかしたら瑞巌寺の付属施設的な立ち位置にあって、それゆえに明治以前の神仏混淆の名残がそのまま生きているのでしょうか。 瑠璃光如来とは、すなわち「薬師如来(やくしにょらい)―薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)―」のことですが、薬師経に説く東方瑠璃光世界―瑠璃光浄土―の教主を指します。 東方瑠璃光世界という概念は、おそらくは太陽が昇る東方への普遍的な崇敬心から派生したものなのでしょうから、太陽信仰の一形態と言えなくもなく、したがって瑠璃光如来―薬師如来―については朝日の神の本地仏と捉えていいのではなかろうか、と考えております。 偶然なのかもしれませんが、慈覚大師円仁によるとされる日吉山王社の旧鎮座地や開創期の松島寺の中心と想定されるエリアは、葉山神社からみて冬至の日の出方位にあります。 瑞巌寺の伽藍や参道をはじめ、松島海岸の町割り全体も南東方位に向いているわけですが、思うにそれは必ずしも地勢だけが理由ではないでしょう。 「沖」は「興」と同義、つまり、字義どおりの意味よりも、むしろ、サルタヒコを祀る伊勢二見が浦の「二見興玉神社」の「興(おき)」と同様、東の沖合から太陽が「興(おき)る―起きる―」ことに本質的な意味があると考えます。 おそらく松島海岸一帯は、「山王権現―日吉山王社―」や「松島寺―延福寺―」の開創以前から、既に、総地主「葉山神社」の下、特に冬至の朝日への信仰があったのでしょう。 『日本後紀』によりますと、山王権現勧請の17年前―弘仁二(811)年―、その年に亡くなった「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」推薦の後継者、「文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)」がこう奏言しております。 「今官軍、寇賊無遺、事須悉廃鎮兵、永安百姓」 森田悌さんの現代語訳はこうです。 「今回、官軍が一挙に攻撃をしかけ、蝦夷の賊を全滅しました。そこで、鎮兵は廃止して永く百姓を安楽にすべしです―『日本後紀 全現代語訳(講談社)』―」 荒ぶる蝦夷を掃討し終えた綿麻呂は、慰撫政策への転換を求めたようです。 蝦夷の軍事指導者「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」が、延暦二十一(802)年に結果的に田村麻呂に騙された形となって処刑されてから、まもなく10年になろうとしていたその頃、「嵯峨天皇」は、平城京への遷都を画策した兄「平城上皇」の野望を水際で打ち砕き、後顧の憂いなく陸奥・出羽に対して惜しみなく兵をつぎ込み、すさまじい討滅劇を展開しました。 綿麻呂は重ねて奏言します。 「宝亀五年から今年まで三十八年間にわたり辺境では騒動が続き、軍事活動が絶えることがありませんでした。そのため、老いも若きも軍事や輜重の運送に疲倦し、百姓は窮弊して、休まった状態になっていません。四年間は課税免除を行い、疲弊を休めることを要望します―前述同書より―」 この奏言は許可されました。 官軍による討滅劇と言っても、その最前線には間違いなく討たれる側と同じ蝦夷や俘囚がいたわけで、特に多賀城に近い松島の人々はむしろ官軍側として駆り出されていたことでしょう。彼らは38年もの間、同士討ちをさせられ続けてきたのです。新たな火種を生まないためにも、さすがにこれは慰撫しなければならなかったでしょう。 天台教団による山王権現―日吉山王社―の勧請や松島寺の開創は、その政策の延長上にあったものと思われます。 その目的が、疲弊し荒(すさ)んだ民衆の心の慰撫であるならば、民が拒絶するような信仰が強要されたはずはありませんし、逆に民にも拒否権があったと想像します。 事実、秋保(あきう)―仙台市太白区―においては天台仏教が拒絶されました。 秋保における伝説を信ずるならば、有名な「立石寺(りっしゃくじ・りゅうしゃくじ:山寺)―山形県―」は、秋保で拒絶されたが故に奥羽山脈を越えて開かれた精舎であったようです。 ともあれ、松島においては山王権現なり松島寺が受け入れられたようです。 思うに、そこに“葉山神―沖津神≒朝日の神―”崇敬の下地があったればこそ、山王権現の太陽信仰も受け入れられたのではないでしょうか。 少なくとも、蝦夷を代表する大酋長阿弖流為は、太陽神たる天照御魂(あまてるみたま)神を崇敬していたと考えられます。 何故そう推察できるのかと言いますと、阿弖流為の末裔と称する照井一族が「照日権現」を守護神としていたからです。 照日権現が「天照御魂神」であろうことは、その字義に加えて、「対馬(つしま)―長崎県―」の「阿麻氐留(あまてる)神社」が「照日権現」と呼ばれていることからも無理のない推察でありましょう。 さて、文政三(1820)年に記された『松島図誌』の葉山権現の項に、「真山氏勧請といへども〜」とあり、真山氏と称する氏族がなんらかの形で葉山神社に深く関わっていたことが知れます。
松島の総地主とまで呼ばれる葉山神を勧請したとあらば、この真山氏の祖先こそが古き松島の総地主であったということになるでしょう。 しかし、この真山氏の詳細はよくわかりません。 引き続き、管見で知り得る情報から推察を試みようと思います。 |
|
松島瑞巌寺の裏山に鎮座する「葉山神社」は、古くから松島の総地主と崇められていたのだといいます。 「葉山」は「葉山信仰」の「ハヤマ」なのでしょう。地域によって「端山」、「羽山」、などとも表記されるそれです。 民俗学的に語るならば、仏教が伝わる以前から受け継がれている日本人の精神基層の原始的祖先信仰において、亡くなった方の霊魂は山に昇り神として昇華していくわけですが、そこには段階があり、霊魂が最初にとどまる里山はハヤマと呼ばれておりました。 里人は、故人の屍をハヤマの麓に葬るわけですが、屍を離れた霊魂はやがてハヤマの頂に昇り、そこにとどまってしばらくは残された家族を見守り続けます。 やがてはその奥に高くそびえる深山(みやま)に昇り、最終的には神になっていくものと考えられておりました。 例えば山形県にはその面影がわかりやすく残っております。 「月山(がっさん)」を深山とみていた郷里の例で言えば、庄内地方では「羽黒山」、村山地方では「葉山」が各々身近な“ハヤマ”として信仰されておりました。後にそれらが山岳修験と結びついて「出羽三山信仰」に発展していったのです。 さすれば、松島の葉山神社も推して知るべしでしょう。 葉山神社が松島寺の創建に関わっていたとされているのは、古き松島地区の葉山信仰に松島寺が被っていったことを示唆しているのではなかろうか、と私は想像するのです。 松島の総地主とまで言われ、そこに国家的な比叡山勢力が関わったとあれば、その霊地はなんらかのただならぬ一族のそれであったと考えざるを得ないわけですが、であれば、元々「蛇ヶ崎」又の名を「鳶(とうひ)崎」などと呼ばれた場所から高城地区に遷った「紫神社」、すなわち、「松島明神」との関わりも気になるところです。 鎮座地名に「蛇」なり「鳶(とび)」が付されていたことからすれば、松島明神は出雲系のいわゆるトビの一族の祀る神であっただろうことが推察できますし、事実、トビの長髄彦の兄アビの裔と称する安倍貞任の弟宗任は、配流先の九州は筑前大島において松島明神を祀っておりました。 少なくとも、松島明神が松島の代表的な神と内外に認識されていただろうことは、「西行戻しの松」の伝説や、「紫の大明神」として『義経記』に記されていることなどが証明しております。 後者については、金売り吉次の手引きで奥州王藤原秀衡に謁見すべく平泉に向かう源義経が、道すがらの松島において一方的に紫の大明神に祈願しただけに過ぎませんが、前者については、奥州藤原氏の同族とも言われる北面の武士「佐藤義清」、すなわち「西行法師」が、奥州行脚の道すがら、老翁に顕現していた松島明神と遭遇し会話を交わしております。 他所から来た偉人が、道すがら、その土地の神と遭遇する類の伝説は各地にあります。 これまでに触れたものだけでも、雄略天皇と葛城の一言主神、藤原実方中将と陸奥の鹽竈大神、大若子命と越中の姉倉比賣神などがすぐに思い浮かびます。 神々はたいてい老翁なり老婆など、普通の人間の姿で顕現してくるので、その正体が神であったことを知るのは事後になるわけですが、いずれの旅人も、良くも悪くもなんらかの神託なり教示を得ることになります。 西行と松島明神の遭遇もその類の伝説と言って良いでしょう。 おおよそ次のような物語が伝えられております。 北面の武士であった西行は、密通していた官女に「あこぎだ」とたしなめられたものの、その意味がわからず苦悶し、それを知るために諸国行脚の旅に出ました。 奥州松島を訪れんとしていた西行は、松の木の下で牛に草を与えていた老翁を見かけます。そのとき、いくら食べても飽きたらずひたすら草をむさぼる牛に対して、老翁は、「何故そう“あこぎ”なのだ。たいていにしろ」と罵りました。 「あこぎ」という言葉に敏感に反応した西行は、思わず老翁にその意味を問いました。 すると老翁は、「伊勢の海 阿漕が浦に 曳く網も たびかさなれば あらはれやせむ」と古歌を詠み聞かせ、西行の無学さを痛烈に罵りました。 ひどく恥じ入った西行は引き返すことになるのですが、その老翁こそが松島明神でありました。 これには異伝もあります。 詳細は割愛しますが、最も大きな違いは、西行と遭遇した神が松島明神ではなく、牧童として顕現した山王権現であったというところでしょうか。 松島明神か山王権現か・・・。この相違について、私なりに思う所があります。
この類の伝説において、そこに登場する神はその土地を代表する神であると考えるのが自然でありますが、その視点からすると、この伝説の本来は山王権現ではなく松島明神との遭遇譚にこそあったものと思われます。 何故なら、山王権現は慈覚大師円仁ないし天台宗徒によって比叡山からもたらされた後発の神祀りであろうからです。 しかし、山王権現のその実を、猿と関係の深い朝日の神、と広義で捉えるならば、そう容易には捨て置けなくなってまいります。 何故なら、それは件の葉山神社の性格にも被ってくると思われるからです。 |



