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塩竈の「えびす屋釣具店」のホームページに、次のような興味深い記事がありました。 ―引用― ◎塩造りは軍事用だった 塩竈は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろんでしたが、それ以上に城壁を固める為の接着剤として大量に製塩されたようです。多賀城国府が東北の軍事拠点として存在していたために、東北各地に運ばれたと考えられます。 ◎松島の松は植林 製塩のために大量の木材の伐採が行われました、今でこそ盛んに叫ばれている環境破壊が行われてしまったのです。松島湾に浮かぶ島々も同様です。当時は、松も含めた雑木林であったと思われますが、鎌倉時代に見るに見かねた幕府が松の木を送り、植林したと伝えられています。 なるほど、納得できます。 以前にも触れたとおり、考古学的な見地から窺える松島湾の製塩遺跡の変遷は、国内最古級の縄文後期から土器の形状を変化させながら弥生時代まで続き、忽然と消滅しました。 その後、古墳時代の製塩遺跡は発見されておらず、わずかながらも奈良時代に至って再びみられるようになります。 平安時代のものとしては九世紀段階とみられる遺跡が多く、それ以降の例は不明確なようです。 奈良時代以降の製塩土器には、消滅した縄文時代の製塩土器からの連続性はみられず、この新たな隆盛には時期的に律令制の影響を無視することはできません―近藤義郎さん編『日本土器製塩研究(青木書店)』所載、小井川和夫さん・加藤道男さんの論文を参照―。 したがって多賀城などの城壁の需要があったとする考え方も首肯できますし、また、それに伴い松島周辺で大量の雑木が製塩用の焚き木として伐採されただろうことも容易に推察されます。 えびす屋釣具店さんの情報源は未確認ですが、欄外に「このページを作るにあたり、塩竈市役所の阿部光浩氏、ユネスコ協会の菅原周二氏をはじめ、多方面の皆様にご指導をいただきました」と謝辞が述べられておりました。 もしかしたら、「幕府が松の木を送り〜」という譚については、松島の地名由来の一つに、源頼朝夫人である北条政子が雄島で修行中の見仏上人を慰めるために姫小松千株を贈った―以来この地が「千松島(ちまつしま)〜松島」と呼ばれるようになった―、というものがあるので、それと同根なのかもしれません。 ちなみに私は、前九年の役後の安倍宗任が、配流先の筑紫の地で「松島」の名を冠した「松島明神」を祀っていたことを重視しており、したがって地名か否かはさておきなんらかの固有名詞としての「松島」という言霊自体は平安時代以前から存在していたものと考えております。 それはともかく、瑞巌寺の宝物館―青龍殿―あたりからも平安時代の製塩炉が発見されております。 鎌倉時代の臨済円福寺にあてはめると、山門から延びる回廊と、同じく庫裡から延びる回廊のぶつかる角あたりになるようです。 もちろん平安時代ですから、それは円福寺よりも古く、慈覚大師円仁の開創とされる天台延福寺の時代か、あるいはそれに先立つものかもしれません。 先の独鈷水といい製塩炉といい、瑞巌寺ならびに臨済円福寺の境内は、天台延福寺そのものの境内跡ではなくとも、なんらかの人文的な遺物の上に建立されたとは言えるでしょう。 ここで城壁の需要が増した時期を考えてみます。 1、まずは、当然多賀城の創建時が挙げられるでしょう。 2、次に、伊治公砦麻呂の反乱に伴う多賀城焼き討ちの後も、当然需要が増したことでしょう。 3、次に、10年以上にわたる大墓公(たものきみ)アテルイとの戦争の頃でしょう。間違いなく多賀城をはじめとした官衙城柵は防備を固めたはずです。 4、そしてやはり貞観大地震の被災後でしょう。事実その頃、國分荘をはじめ宮城県内各地の瓦窯では大量の瓦が生産されておりますので、大規模な復興需要があったと思われます。 主にこういったところかと思われますが、このうち、多賀城創建と伊治公砦麻呂の反乱は奈良時代になります。 したがって、瑞巌寺宝物館あたりから発見された平安時代の製塩炉が、仮に城壁の接着用材のためのものであったとするならば、アテルイの頃か貞観地震の直後に絞られてきます。 ふと思うに、その製塩炉は貞観大津波以降のものであったのではないでしょうか。 かつての松島では、現在よりも内陸深くにまで入り江が食い込んでおり、松島における貞観大津波のダメージは東日本大震災のそれより甚大であったと考えられます。したがって、浸水域にあった製塩炉のごときはことごとく消滅してしまったと思うのです。 何を隠そう、史料によっては、松島の地形は貞観地震によって出来上がったとされております。 もちろん現在それを信用する研究者など―少なくとも管見においては―見受けられず、私も信用しておりません。前に触れたとおり、私は香川大の長谷川修一教授らのグループによって発表された、「日本三景松島は6000年前の直下型地震による巨大地滑りで誕生した」、という説を支持しております。 それはさておくにしても、松島においても貞観大地震とそれに伴う大津波にはそれほどのインパクトがあったことは間違いないでしょう。 もしかしたら、慈覚大師円仁によるとされる天台延福寺も大津波で綺麗さっぱり洗い流されてしまったのでしょうか。先に触れたとおり、天台延福寺の開創は天長五(828)年でありますが、貞観地震はその40年後の貞観十一(869)年に発生しております。 しかし、おそらくそれはないでしょう。松島が大津波に呑まれた頃に天台延福寺の伽藍が存在していたとは考えにくいものがあるからです。 なにしろ、天台延福寺の事実上の開創は貞観大津波の十年後、元慶三(879)年と考えられます。 理由は、慈覚大師円仁に続く第二世寂定坊円心(じゃくじょうぼうえんしん)の就任が元慶三(879)年であるからです。 なにしろ、円仁の開創から50年もの記録がありません。 百歩譲って、単に記録が逸失したものとしても、円仁が亡くなった貞観六(864)年から次代の円心の就任までには15年もの空白があります。 どう考えてもあまりに時間が空きすぎております。 したがって、記録の有無にかかわらず、その間に寺の実質が存在していたとは考え難いものがあるのです。 先にも触れたとおり、円仁の関わった事実があったとするならば、それはおそらく山王社の創始のみであったのではないでしょうか。 山王社は、五大堂向いの“小高い丘”の天童庵のほとりに祀られていたもので、寛永十七(1639)年に現在地に遷されたわけですが、“小高い丘”だけに津波の難は逃れていたことでしょう。 話がだいぶあちこちにぶれてしまいましたが、これらのことから一つの物語を推察してみます。 まず朝廷による蝦夷の討伐があり、その中でも最大最強の抵抗勢力であったアテルイ軍の降伏後、慈覚大師円仁に課せられたのは陸奥全体の鎮魂であったと思われます。 縄文時代からの聖地「松島」におけるそれは「山王社」の創始であったのでしょう。 おりしも中央では承和の変など露骨な政変が頻発しており、祟りをなすと思しき地域はことごとく対策が施されておりました。 宮城県内では大高山神や鼻節神、刈田嶺神などがにわかに昇叙しておりますが、特に鼻節神や刈田嶺神は、中央で物怪の出現が発覚した直後にもあわただしく昇叙しております。 密教を極めていた円仁は、最澄・空海亡き後、朝廷からもっとも頼りとされていた高僧であったと思われますが、貞観六(864)年に他界していまい、それを見計らったかのように多賀城は大津波を伴う大震災に見舞われてしまいました。 このような流れの中で、塩竈・松島では急ぎ塩の大量生産を求められ、亡き円仁の力を頼るべく松島寺、すなわち天台延福寺も開創されたのではないでしょうか。 さて、ことごとく森林の伐採が展開されたであろう松島寺周辺において、伐採を禁じられていた森があります。 それは瑞巌寺の裏山にあり、古くから松島の総地主と崇められ続けていた「葉山神社」の境内です。 はたして九世紀のその時代にも伐採が禁じられていたかどうかはわかりませんが、私はおそらく禁じられていただろうと推測します。 この神社は、松島寺の創建にも関係があると言われておりますが、その位置は先に触れた慈覚大師伝説を伴う三つの清水を結ぶラインの扇の要にもあたり、何を隠そう、社殿の後ろには「葉山清水」といわれる泉があり、奥ノ院とされております。 葉山神社の境内は水源の森であったのでしょう。 水に飢える松島にあって、この環境はまさに神の居場所です。 もう少し葉山神社について語りたいと思います。
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亀の風土記:宮城県
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塩竈を発った松尾芭蕉が、陸路ではなく船で松島入りしたことは『曾良旅日記』に記されたところの有名な話です。 もちろん、海上からの風光明媚を体感せんがために海路を選択した部分は大いにあるでしょうが、そもそも江戸時代以前に塩竈と松島の間にまともな陸路は存在していたのでしょうか。現代において、その区間の幹線は国道・鉄道ともにトンネル続きとなっております。 瑞巌寺はむろん陸続きの寺ではありますが、海に面した東側以外の三方をぐるりと山に取り囲まれており、かつては西方の峠を越える長老坂以外にはさしたる陸路もなく、さすれば塩竈発の海路が主な連絡手段になっていたのではないでしょうか。 そういった地勢の影響もあってか、かつての瑞巌寺周辺は、海上の孤島よろしく水不足に陥りやすかったようです。 堀野宗俊さんは、『瑞巌寺博物館年報(瑞巌寺博物館)』の第18号に『水と瑞巌寺』と題した余談を寄稿されておりますが、かつての松島の水不足の実体を裏付ける話として、つい近代まで瑞巌寺近接の「水主(かこ)町」に存在していた「水屋」なる商売を取り上げておりました。 「水主(かこ)町」とは、その名のとおり「水主(かこ―お船方―)」の居住区です。 現在の正式な地名としては「松島字町内」と無味乾燥なものになってしまいましたが、地元では尚「おかこまち」と呼ばれているようです。 その形成は、仙臺藩祖伊達政宗による瑞巌寺建立の時代にまで遡り、当寺に対する政宗のこだわりが生み出した副産物とも言えるでしょう。 政宗は瑞巌寺の伽藍を建立するにあたってその用材にこだわり、わざわざ紀州熊野にそれを求め、良材を筏に組ませて海上を運ばせたとされております。その際の船頭方水主衆の居住区が寺の近接地に発祥し、「おかこまち」と呼ばれるようになったようです。 堀野さんによれば、この町の水主衆は、武士でありながら最高の待遇でも小判八枚・六人扶持という身分であったらしく、生活は苦しかったようです。そのような事情があったからでしょう、二・三男が瑞巌寺の小僧に出された例も多かったようです。 なにしろ、瑞巌寺百三世通玄は水主頭鈴木氏、百二十世湛道祖参は渡辺家の出であるのだそうで、百十世曹源もおそらくは水主町の出身と考えられるのだそうです。 また、水主町の人々は内職をして家系の足しにしていたようで、大工・瀬戸物屋・豆腐屋・筆屋・石屋など、中には現在でも継承されている仕事もあり、その職が屋号となって現在に伝わっている家もあるようです。 こういった屋号の中に件の「水屋」もあったようです。水屋の者は、隣の高城町から清水を分けてもらい、それを運んで、よい飲料水に恵まれなかった瑞巌寺近辺で「冷やっこい、冷やっこい」と掛け声をかけて売り歩いていたのだとか・・・。 さて、その事情を知れば慈覚大師円仁による「独鈷(とっこ)水」伝説の意味も重みを増すというものです。 政宗の菩提寺たる瑞巌寺に隣接して、政宗の正妻愛(めご)姫の院号を冠した彼女の菩提寺「陽徳院」がありますが、その傍らに「独鈷水」があります。 観光客立ち入り禁止のこの寺にあるその清水は、慈覚大師円仁が松島寺を開いたときに、閼伽(あか)の水にとぼしかったので独鈷で掘ったものと伝わっております。 同様の伝説は全国各地にあるので、とりたてて話題にすべきものでもないのかもしれませんが、その伝説が瑞巌寺周辺の1キロメートル四方のごく狭い地域に三ヶ所―「独鈷水」・「一脈霊泉(=清水奥)」・「湯の原」―も存在することは、「裏を返せば、松島にとって清浄な水がそれほど得がたかったという事になろう」と堀野さんが評するところのとおりでしょう。現在でも秘修火鈴行法なる仏事があり、大晦日、ここで般若心経を誦すことになっているそうです。 ついでながら、他の二ヶ所についてもみておきます。 まず、「一脈霊泉」すなわち「清水奥」は、瑞巌寺の西方300メートルの山峡の奥の地にあります。 こちらは、慈覚大師が錫杖をつきたてたところ霊水が湧き出てきた、とされているようで、その味は松島第一と言われ、寺で長い間飲用されていた泉なのだそうです。 しかしなにしろ距離があります。そこで文化十一(1814)年、百十四代住持丹源文叔が知事海東完に、陰樋(筧)を用い寺の台所まで浄水をひく工事をさせたとのことです。 ちなみに、その工事を喜捨したのは佐浦富右衛門なる人物で、あの塩竈の銘酒「浦霞」の醸造元「株式会社佐浦」の佐浦社長のご先祖様のようです。 続いてもう一つ、「湯の原」は、やはり瑞巌寺西方700メートルの一山を越えた峡谷の地にあります。 こちらは鉱泉で、慈覚大師が独鈷をもって地面を掘ったところ、霊湯が湧き出たと伝えられております。最初は温湯であったものが、鎌倉執権北条時頼の介入で延福寺が滅んだ時以来冷泉になった、と伝わっているようです。 さて、何故清水の話をしてみたのかというと、あわよくば松島寺以前の当地の歴史を窺える材料になるかもしれない、と考えたからです。 思うに、これら慈覚大師伝説が伴う清水は、松島寺を開いたときに初めて掘られたものではなく、水不足の霊地松島にあって、むしろそこに貴重な清水があったからこそ松島寺なる特別な精舎が開かれたのではないでしょうか。 引き続き、松島寺開創以前の当地について推測を試みたいと思います。
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瑞巌寺の前身である中世の円福寺は、出土した遺跡によって現在の瑞巌寺の場所にあったことがひとまず確定されたわけですが、その前身、慈覚大師円仁によって開創されたという松島寺、すなわち天台宗の延福寺の場所については相変わらず不明のままです。 松島寺の創建に関する史料はきわめて少なく、『松島町誌』の編纂に携わった清野精尹さんによれば、わずかに『天台記』・『奥羽観迹聞老志』・『名跡志』・『封内風土記』などがあげられるだけなのだそうです―『松島町誌』・『松州史譚(松州史譚刊行会)』―。 清野さんによれば、『天台記』なる文書は瑞巌寺の所蔵で、永延二(988)年・治承二(1178)年・弘長三(1263)年の三期にわたって、延福寺二十三世覚心、同二十六世儀仁(松島寺最後の願主)の三人によって書き継がれた松島寺の一応の沿革誌と言える類のもののようです。 ただしこの所蔵物は瑞巌寺百九世曹源のときに松島の民家から出たものらしく、文明二(1470)年に松島八屋左治郎藩重なる者によって書かれた写本であるうえ、内容に時代の誤りもみられる点から、偽書の疑いも拭いきれなさそうです。 『瑞巌寺の歴史(瑞巌寺)』の堀野宗俊さんは、――延福寺は、「天台記」が言う程に繁栄した寺ではなかったようである――として、そう考える理由について概略次のようなことを語っております。 第二世寂定坊円心(じゃくじょうぼうえんしん)の就任が、天長五(828)年とされる慈覚大師の開創から五十年経過した元慶三(879)年であり、これが実際の開創という説もある――。 続く記事が、約百年後の天禄元(970)年第二十三世桜岡坊覚心(さくらおかぼうかくしん)の就任である。『天台記』が著述されたその時代には、ある程度記録が残されていたのであろうが、詮索する手段はない――。 その次代、二十四世玄覚(げんかく)の就任は寛弘五(1008)年、その死去が長和二(1013)年であるが、さらに次の二十五世頼円(らいえん)の下向入寺が承保元(1074)年と、その間60年は無住であった――等々。 そして、「現に、これほど開発の進んだ現在においてすら、天台延福寺の遺構・遺物の検出は報ぜられていない―尤も、円福寺遺構の如く、地中深く埋没していれば論外ではあるけれども」――としております。 なるほど、たしかに延福寺の実際の開創は二世寂定坊円心であったと考えるのが自然に思えます。 では慈覚大師円仁その人は、単に象徴的な存在として名を掲げられただけで、この寺の開創には全く関わってなかったのでしょうか。 先の清野さんは、慈覚大師開山と称する東北地方の多くの寺について、「円仁自身の開創になるものとはいい得ない」、「円仁の弟子およびその門流の僧の開山を意味するものであり、天台僧侶の北方に巡錫して寺を建立するものの多かったことが察せられる」、とした上で、「しかし、東北地方にこれほどまでに大きな影響をもっていた彼に、陸奥巡錫の事実がなかったとはいい切れないであろう」、「延福寺を開いたものは二世円心であったとしても、この地に教線開拓の第一歩をするしたのは円仁であり、少なくとも自ら奉守し来った神輿を奉安する山王社の創建は彼の手になったものと推測される」としております。 なるほど、至極妥当だと思います。 もしかしたら、松島寺―延福寺―が開創されたとされる天長五(828)年とは、その山王社が創始された年なのでしょうか・・・。 その天長五(828)年は最澄の他界から六年後にあたります。 真言宗や南都六宗の追い上げに危機感を覚えていた天台教団は、亡き最澄の方針に従い比叡山にて12年間の行に入った円仁に下山の催促をしました。 請われて下山した円仁は、この年の夏、法隆寺において法華経の講義を行っております―拙記事『天台宗の危機と円仁の目覚め』参照―。 言い換えれば、渇望された円仁の才覚が世に開放され始めたのがこの“天長五年”なわけです。 さすれば、延福寺なり山王社の創始に円仁が関わっていたか否かに関わらず、延福寺の開創は単にその象徴的な「天長五年」にあてはめられたものなのかもしれません。 さて、その延福寺がどこにあったのかを考えてみます。 特段の定説はないものの、さしあたり昭和三年に発行された『名勝松島(著者兼発行者小倉博)』には五大堂付近にその中心があった旨が記されております。 すなわち、山王社が五大堂付近にあった旨が『松島諸勝記』にあり、法師崎に神楽堂があり、崎と五大堂との間に架けた廊で毎年四月中の申の日の祭礼に舞楽があったことが『天台記』に記されておりました。それらに基づき、そう断定しているものです。 更に小倉さんは諸所に散在する僧房の数百を下らない数多きをもって、かなり盛んな寺であったことを推測しております。 これに対し、『松島町誌』などの清野さんは、五大堂の辺りを延福寺の中心とする説自体には賛成しているのですが、小倉さんが僧房のことを詳しく述べながら七堂伽藍について沈黙していることには不満があるようです。 清野さんはまず小倉さんが列記した僧房のその実が私僧房であることを指摘した上で、「僧房の位置をもって延福寺の所在を判断することは危険である」とし、『日本仏教史』の圭室諦成の語るところを引用しております。 『日本仏教史』には、本来伽藍は僧房を中心としたものであるはずが、我が国では事情が異なる旨が説明されております。 つまり、伽藍が修道のための道場から祈祷のためのそれに顛落―顛落というのは圭室氏の表現のまま―する過程において、僧房の地位は次第に低くなり、伽藍が祈祷道場になり終わったときに僧房は伽藍の一隅に辛うじてその存在を保つに過ぎなくなっていたらしく、また、そこに住居する僧侶の病や死は、穢れを忌み嫌う我が国の思想においては隔離すべきもので、“病人や老人は寺院の近接地に私僧坊を建設して静養すべし”、という法令を国家として出さざるを得なかったのだそうです。 清野さんはそういった事情を鑑み、七堂伽藍があまたの堂塔の立体的構成によってその荘厳美を発揮するのに対し、僧坊はその陰にかくれた位置を選ぶのが普通であるから、散在し孤立するのがその当然の姿、としております。 その傍証として、比叡山や同じ慈覚大師開山とされる出羽の立石寺―いわゆる山寺―などの僧坊が、裏坂の両側や、参道から一段低いところ、または参道に沿う杉木立の中などに位置していること、また、『平泉旧蹟志』が、「東鑑に、寺塔四十余宇。禅坊三百余なり」と明らかにそれを区別していることを挙げております。 それなのに何故、延福寺に関する諸記録は―言い合わせたように―僧房について語りながら七堂伽藍の所在については一言も触れなかったのか、清野さんはいぶかしがります。 清野さんが描く松島寺の情景はこうです。 ―引用:『松州史譚』― 山岳仏教の七堂伽藍は、禅宗寺院のそれのように左右均整のとれたものではなかったが、一山の山頂かあるいは山を背景にして、そこに数多の堂塔を立体的に構成したものであることは、延暦寺や中尊寺・立石寺などのそれによってもわかる。 叡山をまねてその再現を理想としていたであろう彼らが、いくら海浜であるからとはいえ、山を背景にしたその寺院形態を引き継がなかったとは考えられない。そうすれば、阿弥陀山から、愛宕山・新富山の方にかけての山並みが最適の位置のように思われる。 そこに位置したとすれば、松島寺の中心と思われる五大堂・山王社・法師崎神楽堂を入江をへだてて望む絶好の場所であり、それを海上より眺めるときは、それらの諸堂を中心とし、多くの堂塔を背景とした情景は実にすばらしいものであったろうと思われる。 冬の立石寺の風景 やや願望も交じりますが、私は清野さんの推定を支持します。 先の堀野さんは「現に、これほど開発の進んだ現在においてすら、天台延福寺の遺構・遺物の検出は報ぜられていない」と語っておりましたが、松島海岸周辺は古くに開発された観光地でもあるわけですから、埋蔵文化財に対する意識が現代よりも大らかであったことも含めおく必要があると思うのです。 現代でも、地方の農家などでは埋蔵文化財にかかると負担が大きく良いことがないから人知れず処分した方が得策だなどといった苦々しい話もまことしやかに聞こえますし、昭和初期以前、仙岳院の塔頭跡から出てきた古い柵木の根幹物ような遺物が、掘り出した老人の手によって風呂の焚き木にされた、という逸話も藤原相之助の著書にありました。 実際、こういった話が水面下では結構あるのでしょう。 いずれ、各地で記憶が失われた安養寺や幻の霊感寺―宮城県村田町―など、それらに一体何があったのかはわかりませんが、奥州藤原氏の滅亡後、彼らに縁ある宮城県内の天台寺院の多くが残り香もろともことごとく消えていることは否めません。
奥州藤原氏の菩提寺として象徴的なお隣り岩手県の平泉寺―中尊寺―が比較的温存されたのは、北条政子の夢枕に藤原秀衡―その実はおそらく泰衡―の亡霊が現れてその荒廃を呪ったからに他ならないでしょう。 安養寺や霊感寺、そしてこの松島寺の記憶の大部が失われているのは、おそらく偶然などではなく、何者かによるなんらかの意図が働いた結果ではなかろうか、と私は思うのです。 |
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久しぶりに松島の瑞巌寺(ずいがんじ)を訪れてみました。 年明け、東日本放送製作の番組『東北の聖地を訪ねて』で取り上げられていたのを視聴して、久しぶりに彼の地を踏みたい衝動に駆られていたのです。 そこに松森山清水寺の聖観音像の情報を得、瑞巌寺を絡めての想像が膨らんできたものですから、もはや訪れずにはいられなくなってしまいました。 思えば、瑞巌寺を訪れるのは震災後初めてです。 瑞巌寺といえば、神気に満ちた杉木立が参道の両側に凛として並ぶ様が実に印象的であったはずなのですが、いざ総門をくぐって目にしたそれは、心なしか寂しくなっておりました。 前回訪れたのが夏で、今回は冬、という季節の違いもありますので無理からぬことではありますが、それだけにはとどまらない寂寥感がそこにはありました。 ふと、震災後に松島の知人から入った第一報が、瑞巌寺の総門にも津波が押し寄せたらしい、というものであったことを思い出しました。 観光客で賑わう瑞巌寺周辺は、松島湾内の島々が防波堤となって奇跡的に津波から守られた、とも聞きましたが、それでも現地の店舗などに散見する、「ここまで津波がきました」という旨の表示を見る限り、浸水の高さは腰高をゆうに超えていたようです。初めてその表示を見かけたときは、思わず海に視線を移し、今見える海面の全てがその表示の高さまで上がっている光景を想像してしまいました。 瑞巌寺の参道にも津波が回り込んだだろうことは想像に難くなく、杉木立の足元も少なからず潮に浸されたことでしょう。 参道途中、本堂に向かって左手には杉木立が伐採された痕跡もありましたが、塩害で枯れてしまったのでしょうか・・・。 ただ、『瑞巌寺の歴史(瑞巌寺)』を著した堀野宗俊さんによれば、元々境内の杉の衰弱や松くい虫による古松の枯れ死はかなり深刻ではあったようですので、必ずしも津波が原因ではないのかもしれません。 いずれ、伐採の正確な理由については確認しておりません。 さて、現在瑞巌寺は「平成の大修理」期間中にて、平成二十八年春頃までは本堂や中門、御成門などの言うなればレギュラー部分の拝観は出来ないのだそうです。 そのことは予めわかっておりましたが、特段初めての拝観というわけでもなく、今後も訪れることがあるだろう私にとってはさほどの障害でもありませんでした。 むしろ、本来非公開であったはずの庫裡や大書院、陽徳院御霊屋―伊達政宗正妻愛姫の墓―などが代わりに特別公開されていたことが収穫でありました。それらは平成の大修理が完了次第、再び非公開になるはずだからです。 いずれ、今回の私の目的は、中門の両脇にそびえる樹齢四百年の二本の大杉です。それを本堂の正面から見ることさえ叶えば十分満足なのです。 ところが、結局中門の内側、すなわち本堂正面には立ち入り禁止で回り込むことは叶いませんでした。 しかしそれでも、今後立ち入ることがないだろう登竜門から臥龍梅(がりょうばい)―樹齢四百年―越しにそれを眺めることも出来たので、良しとしておくことにしました。 中門の前には三本の大杉があります。 本堂に向かって手前左側の一本は樹齢八百年といいますから、おそらく鎌倉幕府五代執権北条時頼によって円福寺の伽藍が造営された頃に植えられたのでしょう。後に触れますが、なにしろ瑞巌寺はその円福寺と同じ場所に伽藍が展開しております。 それはさておき、残る二本の杉。それこそが今回の目的です。 中門を挟んでシンメトリーにそびえ立つそれらは、なにやら伊達政宗の宗教観を垣間見せる代物であったようなのです。 鎌倉時代以降、禅宗の寺の配置は総門・三門・本堂が一直線に並ぶのが一般的であったといいます。 しかし瑞巌寺の参道は、途中折れ曲がっております。 前述番組によれば、瑞巌寺に対する政宗の意気込みは『木村宇右衛門覚書』によって克明に知り得るようですが、政宗は慶長九(1604)年、中秋の名月―旧暦の八月十五日―を選んで自ら縄張りを行ったようです。 縄張り、すなわち、瑞巌寺の伽藍配置については政宗自らが決めたということでありますから、参道の折れ曲がりも政宗の思惑によって生じたものであったということになります。 そのような参道になった理由について、瑞巌寺総務課長の千葉洋一さんは、禅の教育を受けていた政宗が月を浄土の象徴と考えていたからではないか、としておりました―前述番組より―。 つまり、政宗は自らが縄張りを行った旧暦の八月十五日、中秋の名月が本堂からみて中門両脇にそびえる二本の杉の間に望めるようにするため、参道を折れ曲げざるを得なかったのではないか、ということなのです。 番組では、本堂からみた中秋の名月が実際に二本の杉の間におさまった状態を撮り、放映しておりました。 なるほど納得です。政宗が月に対して並々ならぬ想いを抱いていたことについては、政宗の詠んだ和歌の数々や兜の前立ての大きな三日月デザイン、仙臺城下の南北街路の傾きへの仮説―首藤尚丈さん『政宗の黄金の城』―からも意識するところでありました。 いや、それであればそもそも参道もろともその向きで縄張りをすればよかったはずではないか、とも考えましたが、先に少し触れたとおり、なにやら政宗は原則として前身の臨済宗円福寺の伽藍に合わせて縄張りをしたと思われます。 平成二十三年十月に行われた松島町教育委員会による「瑞巌寺境内遺跡―瑞巌寺埋蔵文化財現地説明会―」の資料に次の記述があります。 ―引用― 〜円福寺の主要な建物群(七堂伽藍)は現在の瑞巌寺と同じ位置にあったと考えられます。その場合、伽藍配置は東側(松島湾)を正面とし、三門―仏殿―法堂が一直線に並び、仏殿の右手に僧堂、左手に庫裏があり、山門に接続する回廊が仏殿を囲むという建長寺式が想定できます。さらに、1号建物跡のあり方から七堂伽藍は基壇を有したと考えられ、こうした様子は14世紀初頭に成立した「遊行上人縁起絵」に描かれた円福寺の姿に近いといえるでしょう。 そしてその説明会の二ヶ月後には、次のようなニュースが飛び込んできました。 ―引用:平成二十三年十二月十五日付『河北新報』朝刊― 【「円福寺」建立場所 瑞巌寺本堂で確定】 国宝の瑞巌寺本堂で発掘調査をしている県教委と松島町教委は14日、出土した遺構から判断して瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」が建っていたことが確定したと発表した。担当者は「国指定史跡級の遺跡」と話している。 円福寺は鎌倉時代中期(13世紀中頃)の創建とされるが、建立場所については諸説あり、専門家の見解も分かれていた。 〜中略〜 県教委の村田晃一技術補助は「中世寺院としては異例の規模と格式を備えた建物であり、円福寺の遺構で間違いない」と説明。「ことしの東北における遺跡調査では随一の成果」としている。 また、伊達政宗が創建した瑞巌寺が、円福寺の遺構上に同じ方向で建てられていることから、村田補佐は「新たな支配者となった自らの力を内外に誇示しようとしたのではないか」と話している。 中世の遺構に重きを置いた政宗が、それでもあえて参道を曲げているこの事実――。 やはり政宗の月への思いは、風流や情緒ではとうてい推し量れない厚き崇敬心に基づくものであったのでしょう。 |
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かつて「外記丁(げきちょう)」という地名が、宮城県庁の東側にありました。 現在は「本町―仙台市青葉区―」という住居表示に併合されてしまいましたが、路線名としてはそこはかとなく生きているようです。 個人的な思い出を語るなら、少年時代、母の口から時折その「げきちょう」という地名を耳にすることがあり、当時の私の頭の中で、それは「劇町」という漢字に変換されておりました。 単純に、言葉の響きからそうイメージしていたものに過ぎないのですが、母がうわごとのように繰り返していた昔話がそのイメージを確定させてしまったのだと思います。 母は、仙台に疎開していた女子高校生時代の若尾文子さんと多少なり交流があったらしく、その事はちょっとした自慢でもありました。 母が言うには、若尾さんはなにやら舞台公演にはまっていたのだそうで、仙台市内の劇場に公演にきていた俳優さんの大ファンであったとかないとか、必死にファンレターを書いていたのだそうです。 あのとおりたいそうな美人さんでありますから、熱心にアプローチしているうちにスカウトでもされたのでしょうか、東京に帰るや、女優の道を歩まれたことは周知の事実です。 母から聞いた話なので、どこまでが本当であるのかはわかりませんが、日本を代表する大女優の一人にまでのぼりつめられたことは否定しようのない事実ではあります。 そのエピソードと関係あるか否かはおぼろげなのですが、外記丁に隣接した錦町のあたりに昔「劇場」があったという話も、母からよく聞かされておりました。 いつしかそれらが私の頭の中で混乱して、「げきちょう」の地名が勝手に「劇町」と変換されていたのだと思います。 その一方で、地図好きの私は、訓みがわからないながら「外記丁」という地名表記自体は文字として知っておりました。 しかし、それが母の言う「げきちょう」とは全く結びついておりませんでした。 つまり、訓みのわからない「外記丁」の他に「劇町」があると思っていたのです。 何がきっかけであったかは覚えておりませんが、ある日、地図を眺めていた私の頭の中で突如「外記丁」と「げきちょう」が結びつきました。単に閃きというほかはありません。 (そもそも外記ってなんだ?) 気になって調べてみると、「斎藤外記永門(げきえいもん)」という江戸時代初期の人物に由来していたことがわかりました。このあたりに彼の屋敷があったようです。 しかし、おらが街のお殿様「伊達政宗」のことすらよくわかっていない少年時代の私でしたから、それを知ったところで、それ以上の興味が湧いてくるはずもなく、そのままフェードアウトしていったのでした。 結局、この人物がどういう人物であったかを知ったのは、今から約20年ほど前のことでした。 その頃、郷土史家の紫桃正隆さんにたいそう惹かれており、郷土出版物の充実した『宝文堂』にて氏の著書をことごとく買い求めていたのですが、その内の『政宗をめぐる十人の女(宝文堂)』に斎藤外記のことが詳しく触れられておりました。 特に次のくだりは私を惹きつけました。 「斎藤外記は伊達政宗に仕え、藩の創始期において活躍した伝説的な豪勇である。藩が解決しかねる厄介な事件が発生するたびに彼に出番が回ってくる。何か暗黒街の仕置人を思わす裏社会の首魁だったような印象を受ける。藩が表沙汰に出来ない難問を苦もなくやってのけるのだから、彼一人の単独行動は無理で、やはり大きな組織を動かしたのであろう。政宗が若い頃の米沢時代には無禄で仕えたというから、組織を養う特別な資金が別に出ていたのであろうか」 なるほど「暗黒街の仕置人」―。
かつて『必殺仕事人』なり、その現代版的な『ザ・ハングマン』というテレビシリーズがありましたが、行動の裏に伊達藩という一国の権力があることからすれば、むしろ国家の諜報機関、例えるなら映画『007』シリーズのイギリスのMI6なりジェームズ・ボンドあたりを思わせられなくもありません。 伊達藩には「黒脛巾(くろはばき)組」という特殊部隊、すなわち“忍び”の組織があったとも言われておりますが、それとの関係はどうであったのでしょう。同一組織であったのか、はたまた使い分けがされていたのか、私にはわかりません。 黒脛巾組が文献史料に現れるのは江戸時代半ば以降であり、架空の存在であるとする歴史家もいるようですが、私は間違いなく実在したと思います。この類はあくまでトップシークレットであって当然同時代の公の記録には出てくるはずもなく、たしかに伝説との境界は難しいところではありますが、むしろ謀略にたけた政宗であればこそ、そういった組織を抱えていなかったはずがないと思うのです。 ただ、黒脛巾組については、情報収集や流言を撒いて攪乱させたりすることのみの役割であった、とも言われておりますので、実際に重要犯罪者を捕縛したり、時に首をとったりしていた斎藤外記は一線を画した存在であったのかもしれません。 外記の活躍はすさまじく、行動範囲は全国におよび、行動自体も奇想天外であったことから、黒脛巾組同様架空説があるのですが、伝説にだいぶ尾ひれがついた可能性も否定できないとはいえ、仙臺藩の家臣台帳たる『伊達世臣家譜』にその名がみえる以上、実在の人物であったことは間違いありません。 外記はたびたび禄を得ては没収されておりますが、一方で、政宗から千石の禄を約束されても、その必要はないとして成功報酬の半知、すなわち五百石を返却したりと、そもそも出世に興味がなかった風にもとれます。 その最たるものは、おそらく松平忠直―家康次男―事件のことであろう越前における幕府への謀反事件のときのことです。 外記に真相究明の特命が下り、外記は変装などあらゆるノウハウを駆使して北の庄の城内に潜入し、かなりの情報を収集したようで、さらに、逐電脱走していた元伊達家臣の下郡山清八郎なる人物が越前公に仕えていることも判明し、政宗の命によりこれを捕縛することとなりました。外記はこれらの難解な仕事を見事にやってのけ、政宗から称賛され、「望む所のもの、遠慮なく申せ」と問われたのだそうです。 しかし外記は「恐れながら自分には財物は敢えて所望しない。若し叶えば自分の住む地に自分の名を冠していただければ無上の光栄である」と言上したのだそうです。 もちろん、それは認められました。 すなわち、これが「外記丁」の地名由来ということになります。 「仕置人」という意味では、伊達家臣に「屋代勘解由兵衛景頼(やしろかげゆびょうえかげより)」なる人物がおります。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』ではなんとあの江夏豊さんが演じていらっしゃいましたが、この人物は伊達家奉行筆頭にまで上り詰めました。 外記も十分その地位を得られるほどの手柄をあげていたと思われますが、何故その権利を自ら放棄したのでしょうか。 想像をたくましくするならば、伊達の家臣になりたくなかったのではないのでしょうか。 お家を守るためには最大限の貢献はするが、支配はされたくなかったのかもしれません。 外記は一応藤姓の人物とされておりますが、伊達郡あるいは米沢における先住の大物一族であったのではなかろうか、とも思うのです。 いえ、もしかしたら羽黒修験の僧兵であったのかもしれません。 先に触れたように、紫桃さんは「彼一人の単独行動は無理で、やはり大きな組織を動かしたのであろう。政宗が若い頃の米沢時代には無禄で仕えたというから、組織を養う特別な資金が別に出ていたのであろうか」としておりましたが、もともと独立性の高い財力が潤沢にあったのではなかろうか、とも思うのです。 |


