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大野七三さんは、『皇祖神饒速日大神の復権(批評社)』の中で、梅宮大社の祭神「酒解神」とは「饒速日尊であることに間違いない」としております。 どういうことかというと、まず、大野さんは「大山祇神」という神名を、ある種の普遍性を有する“尊称”とみており、その前提の上で、三輪山の大物主神も“古代大和の大山祇神”である、と捉えておりました。 梅宮大社の酒解神の別名たる大山祇神は、まさにそれであるとしているのです。 そしてそこに、三輪山の大物主神は饒速日尊である、という大野さんの持論が結び付き、酒解神=大山祇神=大物主神=饒速日という具合に論を辿りつかせております。 しかし、そもそも大物主神が饒速日であるという論拠について、実は私は今一つ要領を得ておらず、それが妥当か否かの判断も現段階ではつきません。古代三輪山の太陽信仰の観点から思うところは多々あるのですが、煩雑になるので割愛させていただきます。 いずれ、少なくとも三輪山と酒の因果関係については、真っ先に私の頭に浮かんだ秦氏の大酒明神や豊受大神に優るとも劣らない、いえ、むしろそれ以上と言えるほどに密接なものであることは事実です。 そう言えば、昨年末に購入した『サライ』の新年特大号―2014年1月号―に、大神神社の禰宜平岡昌彦さんらへの取材を元にした御神酒の特集記事が掲載されておりました。 「日本の酒造りは、三輪山の祭祀から始まった」という副題は実に象徴的です。 また、同じ大神神社の元宮司の中山和敬さんは、『大神神社(学生社)』の中で次のように語っておりました。 ――酒が「味酒(うまざけ)三輪」と、三輪の枕詞につかわれているほど、酒と三輪は深い関係をもっている―― なるほど、『播磨国風土記』の「神酒(みわ)の村――伊和(いわ)の村――」のように、古くから「酒」や「神酒」と表記して「みわ」と読ませる例はあったようです。 『古事記』の「意富多多泥古(おほたたねこ)」の自己紹介などから、おそらく大物主には甕(みか)の神の性格のあることが推察され、神酒(みわ)の語源となったであろう三輪山のミワも、酒そのものよりもむしろそれを入れる器―甕(みか)―にこそ語源があるものと考えられますが、酒解神が大物主であるか否かに関わらず、酒の神と聞いて真っ先にこれだけのビッグネームを頭に浮かべなかった自分については反省しなければなりません。 いずれ、これら三輪山の神酒に関わる伝説の震源は、『日本書紀』の祟神天皇紀にある大物主の醸酒の神話にあると言ってよく、そこに登場する「活日(いくひ)」なる高橋邑の人も、「活日社」としてしっかり三輪山に祀られており、“杜氏の祖神”として崇敬されているようです。 さて、つい三輪山の話にそれてしまいましたが、梅宮大社がどのような事情で祀られ始めたのかについては、祭神の謎めきとはうらはらに、意外に具体的な顛末が伝えられております。 梅宮の神は、人皇43代元明天皇から「橘宿禰」の氏姓を賜り名門橘氏の祖となった「県犬養三千代」によって、“橘氏一門の氏神”として山城国相楽郡に祀られたとされております。 三千代は、同40代「天武天皇」の御世に命婦(みょうぶ)として宮中に仕え、42代「文武天皇」の乳母を務めたとも言われ、30代「敏達天皇」の曾孫「美努王」に嫁して、橘氏屈指の権勢を誇ることとなる「葛城王―橘諸兄―」や、「佐為王―橘佐為―」、藤原北家の母系の祖となる「牟漏女王―藤原房前夫人―」らを生んだ女性です。 その後三千代は夫の美努王が太宰帥として京を離れたため、「藤原不比等」の妻となり、「光明子―光明皇后:45代聖武天皇后―」を生んでおります。 梅宮の神は、その光明皇后と牟漏女王―藤原房前夫人―といった錚々たる橘出自のいわばファーストレディらによって山城国から奈良の都に遷されたようですが、最終的に52代嵯峨天皇の皇后「橘嘉智子―壇林皇后―」によって現在地―京都市右京区―に遷し祀られたようです。 これが具体的にいつのことであったかにもよりますが、橘嘉智子の信心が絡んでくると、ふと、「承和の変」との因果にも思いが及びます。 嘉智子は何を思ってこの神を現在地に遷したのでしょうか。 嘉智子の孫である55代「文徳天皇」は、嵯峨上皇の崩御を見計らったように本来の皇太子であった「恒貞親王」を失脚させて即位したものでした。 おそらく最大の黒幕は「藤原良房」だと思いますが、詔を発したのはあくまで54代「仁明天皇」であり、なにしろ恒貞親王の廃太子は亡き父嵯峨上皇の意向に叛くものである以上、最低でも母嘉智子の黙認がなければ成り立たない政変であったと推察するに難くなく、つまり嘉智子の胸中にも少なからず苦みの残る事件であったことは間違いないでしょう。 この政変には藤原良房による身内も含めた他氏排斥の思惑が絡んでいたと思われ、同族上位の「藤原愛発(あらち)」を筆頭に、傍系とはいえ、「伴健岑(とものこわみね)」や「橘逸勢(たちばなのはやなり)」といった名門氏族の政府高官らも失脚しております。 特に逸勢などは、傍系とはいえ、嘉智子と同じ橘氏の人物であり、嘉智子の存在によって一時の巻き返しを実現していた“橘”という“名門氏族の一人”としての嘉智子の立場にあっては、先祖に対して少なからず罪悪感のような感情を残したのではないでしょうか。 遡れば、先の光明皇后や牟漏女王といった橘系の藤原の女性たちは、何故山城に鎮座していた橘一門の氏神を自分の住む奈良の都に遷したのでしょうか。 遷座の時期は明確でありませんが、少なくとも彼女らの時代の橘氏は諸兄を筆頭に全盛期にありました。 しかし、諸兄が没すると、その子奈良麻呂は藤原氏との政争に敗れ、謀反の罪を着せられ獄中に死にました。そして橘氏はしばらく冬の時代に入ったわけです。 思うに、橘一門の氏神が山城から奈良の都に遷されたのはその時期ではなかったか・・・。 ようやく芽が出て来たのは、奈良麻呂の孫である嘉智子が嵯峨天皇の皇后になってからでありましたが、なにやら、光明子や牟漏女王の事情は、嘉智子の事情と構図が似ているように思うのです。 いずれも、橘系の女性が政権中枢にあり、橘一族自体の権勢が強まっていた時期に、彼女らに近しい藤原氏の政府高官が橘氏の鼻っ柱を折ってしまうのです。 あくまで想像ですが、光明皇后や牟漏女王、そして壇林皇后―嘉智子―といった橘一門を代表する女性陣は、彼女らが嫁いだ家によって自分自身の実家筋が失墜させられる皮肉な罪悪感にいたたまれなくなったが為、一門の氏神に、身近な場所にご遷座いただいた、というのが実情だったのではないでしょうか。 さて、そのような思惑も含みおき、塩竈における梅宮神社の創祀はどう理解すべきでしょうか。 ひとつ、どうにも気になることがあります。 梅宮大社のご神紋は、いかにも橘一門の氏神らしく、「橘」であるのですが、先に触れたとおり、塩竈の梅宮神社に懸けられた幕の紋は、我が今野家と同じ「丸に梅鉢」でありました。 単純に、社名に因んだ梅なのでしょうか・・・。 |
亀の風土記:宮城県
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『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』によれば、梅宮(うめのみや)神社―塩竈市―の祭神は、「酒解神」「大若子神」「小若子神」「酒解子神」で、例祭は四月十一日、由緒は「創始年月不明なるも古よりこの地に鎮座し、鹽竈大社の末社の一に列る。はやく安産守護の神として知られ、伊達藩は申すに及ばず近郷の崇敬をあつむ」とのことです。 大若子神、小若子神はともかく、酒解(さかとけ)神と酒解子神という神様を私は知りませんでした。 漢字表記を鵜呑みにするならば、なにやらお酒に関わる神様であろうことは想像出来るわけですが、私の頭にすぐに浮かんだのは秦氏でした。 なにしろ、秦氏と酒が縁の深いことは、秦氏の祖神が「大酒明神―大避明神―」であることからもわかります。 秦河勝の私寺である京都太秦(うずまさ)の廣隆寺―蜂岡寺・太秦寺―の南東に、“大酒明神―大避明神―”を祀る式内社の大酒(おおさけ)神社が隣接しておりますが、そこはかつて廣隆寺の境内でありました。 この神社は、仲哀天皇の御世、秦氏の祖功満王が来日した際、廣隆寺境内の当該地に自らの祖たる秦始皇帝を祀ったものとも伝わっているようです。 ただし、廣隆寺は推古天皇の御世に秦河勝によって建立されたとされているので、仮に両方の伝承を信じて咀嚼するならば、功満王が始皇帝を祀った場所に、後の河勝が廣隆寺を建立した、と解釈すべきなのでしょうか・・・。 同じ韻の兵庫県赤穂市の大避(おおさけ)神社などは、蘇我入鹿に迫害されて当地に逃れて没した秦河勝を鎮魂しているとも聞き、“大避”には「境(さかい)」や「悪疫や悪霊を“避ける”」という意味があったとも伝わっておりますが、廣隆寺の沿革には秦河勝が醸酒にも貢献していたことが記されております。そもそも、人を酔わせる酒そのものに古代人は神懸かりな呪力のようなものを感じていたようなので、“大酒”にも多分に“大避”の意味が含まれ、さほどに矛盾はなさそうに思えます。 また、酒好きな伝説の生き物「猩猩(しょうじょう)」などは、「能」で演じられることによって有名になったものですが、言わずもがな、「能」は秦氏と密接です。なにしろ、観阿弥及び世阿弥が河勝の裔であることを忘れるわけにはいきません。 一方、豊受大神―伊勢外宮の神―にも酒に関わる属性があります。 例えば、『丹後国風土記―逸文』には有名な「天女の羽衣」の祖型のような伝説があるのですが、ここでは、天に帰れなくなった一人の天女が、実は「豊宇賀能売命―豊受大神―」でありました。 風土記逸文はおおよそ次のような物語を伝えております。 八人の天女が比治山の頂の眞井(まない)なる井に降りて水浴びをしているとき、老夫婦が一人分の衣装を隠してしまい、隠された天女は、仲間とともに天に帰る事が出来なくなりました。 彼女はその老夫婦の子として地上に暮らし、醸酒を造り、老夫婦に富を与えるのですが、その後、実の子ではないとしてこの老夫婦に家を追い出され、涙ながらに村々を流浪するハメになります。 最後は竹野郡船木里奈具村に留まり、奈具の社の豊宇賀能売命がそれであるというのですが、なんとも切ない物語です。 それにしても恐ろしく気になる示唆が随所に見受けられますが、それは置くとして、この天女、すなわち豊受大神の造る醸酒はいかなる病も取り除くことが出来たのだそうです。 酒の神様として私の頭に浮かんだのは、とりあえずこのニ例であったわけですが、無難に考えれば豊受大神に分があるだろう、という思いがありました。 しかし、残念ながら私の見当はいずれも的を射ていなかったようです。 何故なら、実は京都にその名もずばり「梅宮大社」なる『延喜式』の「名神大社」に列せられていた格の高い神社があり、祭神も、塩竈の梅宮神社とまるっきり同じ四柱であったからです。塩竈の梅宮神社もこれに由来すると考えて差し支えないでしょう。 梅宮大社の由緒によれば、酒解神とは「大山祇(おおやまずみ)神」で、酒解子神とはその娘、すなわち「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」のことのようです。 恥ずかしながら、私はこのことを全く知りませんでした。 ちなみに、こちらの由緒を信じるならば、大若子(おおわくご)神は酒解子神の夫、すなわち天孫「瓊々杵(ににぎ)尊」であり、小若子(こわくご)神はその子「彦火火出見尊」、すなわち「山幸彦」であるようです。 しかし、それはいかがなものか・・・。 どうも私の認識との間に齟齬が生じてしまいます。私が間違っているのでしょうか、私の認識では、大若子命は垂仁天皇の御世の人物で、越の魔王「阿彦」を討った神兵大将であり、度會(わたらい)氏の祖神です。 渡會氏の祖神であるという部分については私が立てた仮説というわけではなく、『神道五部書』『倭姫命世記』に明記されていることです。偶然同名なだけなのでしょうか・・・。 仮に度會氏となんらかの関係があるならば、度會氏は豊受大神を祀る伊勢外宮の神主一族でもあったわけですから、私の当初の想定もあながち外れてはいなかったということになります。 なにやら気になる歴史が埋もれていそうです。もう少し、梅宮大社の由緒を眺めてみたいと思います。
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今朝、年が明けて初めて鹽竈神社へ参拝してまいりました。 仙台市内では積もらなかった昨夜の雪が、塩竈市内ではうっすら街一面に雪化粧として残っておりました。 境内に着いたのは朝6時くらいでしたが、冬至を過ぎたばかりのこの時期はまだ真夜中のような暗闇で、隋神門や表参道には一晩中点いていたものなのか、提灯や灯篭が柔らかくあたりを照らしておりました。 まるで、除夜の鐘と共に流れるNHKの『ゆく年くる年』の舞台に飛び込んでしまったような、寒々とした静寂な世界におのずと気も引き締まります。 別宮、左右両宮、鹽竈櫻、志波彦神社、と、ひととおりご挨拶を終えると、東の空がやうやう白くなってまいりました。 ふと、梅宮(うめのみや)神社―塩竈市―にも訪れたくなりました。 梅宮神社は、鹽竈神社の末社の一として名を列ねる社ですが、一昨年の秋ごろ、安太夫家―安倍氏―及び新太夫家―小野氏―といった往古の鹽竈神社の社家について考えながら古代の塩竈の概略の地図を眺めていたときに、ふと気になりはじめました。 そこで、昨年の鹽竈さま初詣の帰り足に初参拝を試みたのですが、その時たまたま境内及び周辺から見えた塩竈湾の風景が、大変に素晴らしかったのです。 今年と同じ様な夜明け前の時間帯ということもあって、眼下の町並みはまだ街路灯の灯る夜景の体なのですが、東の空だけが紺色から紫色に変わり、やがて燈色へと徐々に明るくなり、呼応するかのように海も白く輝き始めました。たまたま車のラジオからはドビュッシーの「夢」なんぞが流れてきたものですから、なんと表現すればいいのでしょう、まるで生まれる前の胎内に戻ってしまったかのような、とにかく幻想的なやすらぎに包まれてしまったのです。 心が線の向う側に行ったままの私でしたが、拝殿の前に立つと、そこには我が今野家と同じ「丸に梅鉢」の紋がありました。 もっとこの神社のことが知りたい・・・、そう思いながら、気がつけば早一年が過ぎておりました。
この一年間で特に何を発見したわけでもありませんが、せっかくなのでこの社について語っておこうと思います。 |
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先日の多賀城以前の豪族の居館跡発見のニュースに触れて高揚感を抑えきれない私は、とりあえず現地に出向くことにしました。 とうに現地説明会も終わっており、おそらくはなんの案内板もないことでしょう。したがって、これが純粋な発掘現場であったならば場所を特定するのにやや下調べを必要とするところなのですが、幸い、『河北新報』の記事に「三陸縦貫自動車道の4車線化と多賀城インターチェンジ建設工事に伴う調査」とあったおかげで容易に特定出来ました。 なにしろ件の「多賀城インターチェンジ」は、渋滞を考慮するならば我が家から最も利便性の高いインターチェンジになる予定です。仙台都市圏は、数年前に仙台北部道路が東北自動車道と繋がったことによって高速道路の環状線が完成し、周囲をぐるぐる回ることが出来るようになったので、どのインターから入っても他県まで旅立つことが可能になったのです。この私が、多賀城インターの計画発表以来、認可、着工に至るまでのこれまでの全てのニュースに注目していなかったわけがありません。高速道路無料化が終わったとはいえ、これからも歴史探索を続けていくだろう私は、そのインターの開通をずっと待ち望んでいるのです。そのような歴史探索の新拠点となろうインターの場所にそのような注目すべき遺跡が発見されたことを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼうや。 すみません、興奮のあまりつい大げさになってきてしまいましたが、ひとまず、とあるキャンペーン特典で権利を得ておきながら放置したままであった「waon(わおん)ポイント」を、これまたとあるきっかけで得たまま放置していた「waonカード」にダウンロードすべく「イオン利府店」に立ち寄り、「わおん」という愛くるしい声をきちんと拝聴して心落ち着けてから現地に向かいました。 さて、「JR東日本総合車両センター」の巨大な建築物に沿って自家用車を走らせている私の目に、久々にカーナビが気になる文字を表示してきました。 「舟岡明神社」 これまで数えきれないほど通っている道ですが、今回初めて気が付きました。 そこは多賀城の城域からわずかに外れているものの、北西部に接するような位置にありました。 多賀城は、太平洋沿岸の塩竈方面から西に伸びる丘陵地の西端に築かれているわけですが、蝦夷の巣窟に向かう北の護りは、往古は湿地なり谷地であったのだろう「加瀬沼」が担っております。舟岡明神社は、現在の湖畔に整備された公園の西の入口に鎮座しておりました。現地に到着しても、一見そこに社殿があるとは思えませんでした。車から降りて、通行止めになっている旧道に徒歩で回りこまなければ見つけられません。数年前に多賀城の周囲を徒歩で一周したときも気付きませんでした。おそらくナビの表示に気付かなければいつまでも気付かなかったことでしょう。 加瀬沼は今でこそ湖畔公園と一体的に美しく整備されておりますが、かつてはなかなかの心霊スポットであったようです。私が少年の頃、兄の友人らからオカルトな話を臨場感たっぷりに聞かせられたものです。 それはこんな話でした。 兄の友人は、先輩らと一緒に深夜にこの沼の畔に車を停めて徘徊していたのだそうです。その際、突如先輩たちが悲鳴をあげて走り出したので、兄の友人もわけもわからず彼らの後を追って走り出したそうです。「何ふざけてんだ、人を怖がらせようとしやがって・・・」と思っていたところ、走っている自分の隣から何者かが並走しているような荒い息遣いが聞こえたのだそうです。驚いたものの、彼には何も見えなかったらしく、とにかく無我夢中で走り続けたそうです。なんとか車に辿りついて乗り込むと、先輩はあわてて車を発進させたのだそうです。まもなく落ちついた先輩が言うには、「お前の隣に鎧を来た武者がいた」とのこと・・・。 真偽のほどはわかりませんが、この地では古代から中世まで頻繁に合戦が繰り広げられていたことは事実で、少なくとも、それを聞かされた少年時代の私はとても加瀬沼に近寄ることなど出来ませんでした。 舟岡明神社はそんな加瀬沼の湖畔公園への入口に鎮座しているのです。 そもそも何故私が舟岡明神社に興味を惹きつけられたのかというと、これまでの探索から、少なくとも製塩氏族や陸奥安倍氏にはなんらかの形で関係するだろう「舟岡」なる言霊が、彌彦(やひこ)神降臨伝承や越の阿彦の霊を祀る社の鎮座地にも深く関係し、さらには物部守屋一族落人伝説の地にも深く関係していたからです。 そして実は、これらに関連して丹後國探索でも思うところがありました。丹後國探索については、合わせて調べておきたいことが地理的に極めて広範に渡り、他地域探索のメドがついていないことはもちろん、頭の中の整理と覚悟もできていないので記事にしておりませんが、とりあえず「思うところがあった」とだけ書き留めておこうと思います。 さて、発掘現場に辿りつきました。それは、舟岡明神社から川を隔てた向う岸といったような場所で、おおよそ同じエリアと呼んで差し支えないでしょう。この日も作業員の方々がせっせと発掘を進めていらっしゃいました。 ふと気付くに、そこは「南宮神社」にも近いところでありました。 多賀城―あるいは鹽竈神社(?)―には東西南北にそれぞれ「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」があったとされており、「東宮」と「南宮」についてはそのまま「東宮神社」「南宮神社」が現存しておりますが、残る「西宮」と「北宮」については、一説に各々「志波彦神社」と「春日神社」がそうではなかったか、とされております。 「春日神社」は、先にも触れた、承和十(843)年に時の陸奥・出羽按察使「藤原富士麻呂」によって勧請されたというそれです。もちろん、私は「小野岑守」なり「小野篁」に縁があると考えているわけですが、本来の富士麻呂伝承も簡単には捨てられません。 何故なら、この富士麻呂は、承和九(842)年の「承和の変」で、「伴健岑」や「橘逸勢」を無実の罪にもかかわらず謀反人として捕縛した実行犯であり、おそらくは怨霊に怯えていたと思われるからです。したがって、この時期になんらかの神社を勧請していてもおかしくはありません。 もしそれが春日神社であったというのであれば、それはそれでいろいろ勘繰りたくなってくるのですが、今は置いておきます。 いずれ、この春日神社については、『封内風土記』に、寛文十一(1671)年春に春日村の北宮明神の地に遷座された旨が伝えられているので、「北宮」とは春日神社のことではなく、かつて「小野田」と呼ばれた現在の鎮座地における先住の神祀りであったことがわかります。 さて、肝心の南宮神社ですが、この神社、実は「紫明神」やら「色の御前」やらとも呼ばれていたと言います。この社は、明治四十三年の政令で一旦「奏社」に合祀されたのですが、この時の顛末がなかなか興味をそそられます。 『多賀城市史』によれば、合祀は夜間に行われたらしく、御神体を神輿に奉じて、法印が騎馬で先頭に立ち、氏子は提灯を携えて送っていったのだそうです。何やら陰のある一種異様な神秘性を感じますが、話はこれで終わりません。 その翌年、集落には夏は赤痢、冬は腸チブスが蔓延したらしく、託宣を聴くと、色の御前様は女神なので、合祀されるとほかは男神ばかりであり、それを嫌って祟りをなしたのだそうです。市史は次のようにまとめております。 「鎮守として村人が祀ってきた神を一方的に合祀するという、急進的な政策に対する村人の憂慮を伝えている」 陸奥国、特に宮城県内には結構な数の「紫神社」が点在しております。それらが全て同じ神祀りを指しているのかはわかりませんが、少なくとも、現在松島町高城に鎮座する「紫神社」は、かつて「松島明神」と呼ばれておりました。これは、松島の地主神であり、鹽竈神社の祭神の一族、かつ、製塩の術にくわしい一族であったと伝えられております。筑紫に配流された安倍宗任が、おそらくは遠き故郷のことを思って特別に崇敬していた神でもありました。
もし、南宮神社の紫明神が、この松島明神と同じ神であるならば、先の舟岡明神社と合わせてこの一帯にはなんらかの製塩氏族が住していたと考えられます。 少なくとも、先の東宮神社は「太古鹽竈大神を扶けて教化を四方に布いた神」と言われており――『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』――松島明神同様鹽竈大神に関わる神であるようです。 今般居館が発掘された多賀城以前の豪族の素性を考える上で、これはかなり重要な要素になるのではないでしょうか。 |
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鹽竈神社の右宮一禰宜を担っていた新太夫家小野氏が同社に関わり始めた時期は、比較的容易に絞り込めます。鹽竈神社の元宮司である古川左京さんが編纂した『鹽竈神社史』所収「書上」の春日家系譜を六代目まで簡略に列記すると次のようになります。 先祖 小野朝臣有季 ニ代 小野朝臣忠季 三代 小野朝臣成季 四代 當職 季次 五代 眞道 六代 守眞 まず、四代「季次」のところに「當職」とあるので、この人物の時から右宮一禰宜として鹽竈神社に関わったことがわかります。 また、六代「守眞」について、次のような補記がなされております。 「右守眞儀、文治二年 宮内太夫源朝臣御花押之文書、守眞源藤禰宜之事と、被相載候」 つまり、「宮内太夫源朝臣」の花押が押された文治二(1186)年付文書に「守眞源藤禰宜之事」とあるのは六代「守眞」のことである、と書いてあります。これにより文治二(1186)年における右宮一禰宜は六代「守眞」であったことがわかります。 文治二(1186)年といえば、その前年の文治元(1185)年に壇ノ浦で平家が滅び、平家、源氏、奥州藤原氏による束の間の三強鼎立が崩れた時代、奥州藤原氏は三代秀衡の時代です。 実際、秀衡の公文所が「竹城保司」に宛てた文治二(1186)年付けの下文も残っており、内容としては、松島の「高城」の「保」と思しき「竹城保」からの祭料徴収権らしきものを「守眞」すなわち右宮一禰宜に与えることを示しているようです。 鹽竈神社と奥州藤原氏の関係としては、文治三(1187)年に和泉三郎忠衡が寄進した「文治の鐡燈」が今尚境内に残っており、その崇敬の厚さを窺い知ることも出来るのですが、この竹城保に関する下文を見る限り、少なくとも文治二(1186)年には、国府のお膝元である鹽竈神社にも、奥州藤原氏のだいぶ踏み込んだ管掌権が及んでいたことがわかります。 小野氏として初めて鹽竈神社に関わったと考えられる四代「季次」は、その「守眞」のニ代前ですので、仮に全て直系父子で継承されていれば奥州藤原氏初代「清衡」の世代に相当すると考えられます。 もちろん、新太夫家以外・以前にも小野氏が多賀国府周辺において繁栄していたと想像するに難くありません。なにしろ、歴代の「陸奥守(むつのかみ)」だけでも、弘仁二(811)年には「小野岑守(みねもり)」、承和九(842)年には「小野篁(たかむら)」、同十三(846)年には「小野興道(おきみち)」の名が挙がります。 先に触れた利府森郷の「春日神社」も、承和十(843)年に陸奥按察使「藤原富士麻呂」が勧請したとは伝わっておりますが、その旧鎮座地名が「小野田」であったことを鑑みると、むしろ小野岑守あるいは小野篁に縁深いものと思われますし、少なくともその底地は元々小野氏の管掌下にあったと捉えざるを得ません。 小野氏が鹽竈神社に関わった事情として、先の古川左京さんは、「蓋し右宮一禰宜が何等かの事情にて断絶せしにより此の氏代わりて新大夫となりしものなるべし」としております。世代推測を重ねてまとめるならば、奥州藤原氏登場に前後して、旧来の右宮一禰宜が断絶し、代わりに小野氏が“當職”についたと考えられるわけです。 断絶したと思われる旧来の右宮一禰宜は何者であったのでしょうか。また、何故その記録がないのでしょうか。 古川さんは、「鹽竈大神=六所明神」説(≒総社説)を掲げており、社家を確認出来る史料上で左右両宮に各々一禰宜から三禰宜の合わせて六禰宜が存在していたことはその名残であるとされておりました。したがって、小野氏の前任者が居て然るべきという発想は、古川さんにとって崩すことの出来ない、いわば信念にも似た“前提条件”になります。 しかし「六所明神は比較的新しいもの」と考える私は、その前提に縛られる必要がありません。したがって、むしろ、小野氏が関わるまでは右宮そのものがなかったのではないか、とさえ考えるのです。 あくまで想像に過ぎませんが、鹽竈神社は、古来安太夫家が単独で祭祀していたものが、「前九年の役」による安倍氏滅亡の煽りを受けて、一族断絶に近い状態に陥り、祭祀も一時衰微してしまったのではないか、と考えるのです。安太夫家が、もし安倍貞任系譜と近しい関係にあったならば、十分考えられる事です。 つまり、新太夫家は、安太夫家が機能不全に陥ってしまったことを重く受け止められたが故に、あらためて中央あるいは国府から派遣されたものであったのではないか、と考えているのです。 安太夫家の古記録は、『鹽竈神社史』所収の阿倍家系譜略に「拙者家ニも古記文等所持仕候申之處、慶安年中焼失仕候由申傳候」とあって、その喪失時期は慶安年中(1648〜1652)、すなわち仙台二代藩主伊達忠宗の頃で、原因は一応「焼失」であるとされております。しかし、私は先の理由によって、実際には前九年の役の戦後まもない頃に既に大部が喪失していたのではないか、と想像するのです。 その後、安倍氏の意識を継承する奥州藤原氏が最高権力者になったことは、安太夫家にとっても追い風になったと思われ、中央からの小野氏の派遣に際して自分達が鹽竈神社創建以来の禰宜であることを主張し、それがある程度受け入れられたが故に左宮一禰宜として命脈を保つことが出来たのではないでしょうか。 実際に安太夫家は、『日本總國風土記』に「推古ニ年七月、始奉圭田神事被相行、神家巫戸等有之候由」とあるのは自分達の事であるとして、「上古ヨリ拙者先祖も其節ヨリ奉祠仕候事ト奉存候」と、“創立当時からの禰宜”であることを主張しております。※ただし同風土記は『鹽竈神社史料』の「偽書と認むるもの」に名を連ねております。 いずれこのことは、新太夫家にとっては大なり小なりコンプレックスになっていたのではないでしょうか。実質の権勢として優位であったとはいえ、“祭祀”という特に伝統の本質が求められる分野におけるこの如何ともしがたい事実は、誠であろうとする新太夫家の良心に引っかかっていたのではないかと思うのです。 したがって、ワニ系と思しき鼻節神社が「鼻節明神こそ鹽竈大神」と主張しているのは、実際の権勢はともかく鹽竈祭祀の伝統的部分で安太夫家に譲らざるを得ない新太夫家に、ワニつながりの鼻節神社が、ある種の阿(おもね)りをも兼ねて迎合そして便乗し、ワニ氏族としては遠い昔から陸奥国に根付いて良民に貢献してきたことを主張してみたものではないのでしょうか。 そもそも鹽竈神社に阿倍氏が関わることになったのは、「長髄彦の墓がそこにある」という伝承が相当古くからあったからではないか、と想像しております。少なくとも安倍氏は長髄彦一族の系譜を自称していたわけですから、その縁で朝廷から鹽竈祭祀に任ぜられたものと想像するのです。なにしろ日本史上最大級の怨霊候補であり、その鎮魂を担うのはやはり血縁者が一番でしょう。 あるいは、もし伝承ではなく事実としてこの地に「長髄彦」の墓があったのであれば、朝廷から派遣されるまでもなく、安倍氏は自ずからこの地で供養し続けていたに違いありません。 ここで私の脳裏に警笛を鳴らすのは、安倍氏は消滅したワニ氏本宗家そのものではないか、という私自らの論です。
ただ、そこに踏み込むと、そもそもの私の想像に更に想像を上塗りし続けることとなり、その厚さがだいぶ増してしまうので、本稿は一旦締めて、別稿を割いてそのあたりのことを気ままに語ってみたいと思います。 |


