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鹽竈神社の参道に戻った私は、ここでもやはり、溜息をつかざるを得ませんでした。両脇の民家の惨さはもちろん、一見無造作におかれた自動車も、津波で押し流されてきたままなのでしょう。よくみると凄惨な姿をさらしておりました。H.O.さんはこの参道を登っていったというのでしょうか。一見すると、とても中には入れそうに思えませんでした。 途中、豪快に山を削り取った痕跡がみえ、『鳴瀬町誌』掲載の「石材採掘分布図」から読みとるならば、ここは「野蒜石」の採掘場になっているようです。当地の地産地消的地場産業なので、よそ者の私がとやかく言うのも憚られるところですが、この丸山がもし私が思うような聖地であるならば、せめて山が崩れないように願うところです。 その『鳴瀬町誌』には、この鹽竈神社について次のように書かれております。 ――引用―― 祭神は塩土翁命、寛永年間、奈和良元直東名に塩田を開き御守護の神として勧請したと伝えられている。境内の丸山の中央にある松の大木は樹齢三百年以上と云はれる。 鳥居の前に御拝殿奉建記念碑がある之れによると大正二年賀陽宮加頂宮両殿下製塩業を御覧の為法出になり塩釜神社を参拝になり松をお手植されたと記されている。 この記述をみる限り、鹽竈神社とはいっても、寛永年間に塩田に関連して祀られたもののようなので、必ずしも、私が想像するような古代からのつながりはないのかもしれません。ただ、内海に面してこのような突端にある独立した小山が、江戸期の勧請以前になにも祀られていなかったとは考えにくいものがあります。越中の「布勢の円山」同様、港湾の監視塔や灯台の役割を果たしていたと想像するに難くありません。おそらく同種の神が祀られていたのではないでしょうか。 それにしても、むしろ両殿下がこの丸山に松をお手植されたということが気になってまいります。ウィキペディアで調べてみると、賀陽宮家は、恒憲王様の時代に第二次大戦の敗戦の責任をとって皇籍離脱を主張し、昭和二十二(1947)年に離脱されたようですし、加頂宮家が華頂宮家のことであるならば、大正十三(1924)年の博忠王様薨去にともない王子女がなく断絶されたようです。 このあたり、微妙に現代に近すぎて歴史の範疇を越えてしまいそうなので、これ以上の詮索は避けますが、その背景はともかく、この東名を包括する大塚浜一帯には何故か「花山天皇伝説」が多く、そのようなエリアにおいて丸山と称された鎮守の山に、どなたであれ“宮様”が松をお手植えされていた、という部分が私の気になるところです。そもそも「大塚」とは「王塚」から来ているとのことのようです。 おそらく、花山天皇――法皇――の観音巡礼が、現在の「西国三十三箇所巡礼」の発端であるということなので、当地の伝説もそれに関わる巡礼の徒が広めたものではないか、とは思います。 しかし、波乱に満ちた生涯を送った挙句、四十にして崩御した花山天皇の、その死因がはっきりしていないことは気になります。なにしろ、次の「一条天皇」は花山天皇の従兄弟にあたり、その次には花山天皇の兄弟に戻って「三条天皇」に皇位が継承されているのですが、しかしその次にはまた従兄弟の子である「後一条天皇」に継承され、そのまま皇統は「一条天皇系――円融天皇系――」に引き継がれていくのです。そしてこの頃、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の「藤原道長」が全盛期を迎えるのです。何か引っかかるものがあります。陸奥国に関係するところで言うならば、「藤原実方中将」はその一条天皇に体よく左遷され、名取の笠島道祖神の祟りで落馬死しております。なにやら、中央の政変の示唆が、大塚浜の花山天皇伝説に含まれているようにも感じます。 さて、私は丸山鹽竈神社の拝殿に到達しました。賽銭箱の脇にはH.O.さんが奉献していったワンカップがぽつりと残されておりました。 長年見守り続けた集落を目の前で大津波に呑まれて失ってしまった丸山の神様は、どのような思いで今日までこの地に過ごしてこられたのでしょう。 さて、私も持参したワンカップ三つと、榊を二束、そして境内の榊の葉を一枚お借りして、鹽竈神社の御神塩を盛り、出来る限り丁重にご挨拶申し上げることにします。 神様、どうか故郷の仲間たちにお力を貸してくださいますよう、お祈り申しあげます・・・。
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亀の風土記:宮城県
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新年早々、松島出身の共同研究者H.O.さん――「岡ひろみ」ではありません――から、自身の初詣レポートが届きました。里帰りしていた彼は、私が気になっていた丸山の鹽竈神社に参拝してきたというのです。そもそも彼が私の「丸山地名論」を増幅したようなもので、その自負心なのか責任感なのかはわかりませんが、何か心に期するところがあったのでしょう。自らの足で実家から比較的近い当地の現状視察を兼ねて、報告してくれたのです。なにしろ、この鹽竈神社が鎮座する丸山の麓一帯に張りついていた東名集落は、今般の大津波によって壊滅的な被害を受けました。したがって私もしばらく現地へ行くのをためらっていたのです。 丸山地名が気になり始めてから、「丸山」という小山に鎮座するこの鹽竈神社は、私にとってあまりにも示唆深きものがあり、とにかく現地を踏んでおきたいと念願しておりました。そこで、彼の参拝情報をきっかけに、私も今年の初詣はこの鹽竈神社にしようと決めたのです。 思えば、付近の「野蒜(のびる)海岸」は、かつて「佐野史郎」さんの怪演で「冬彦さんブーム」を巻き起こしたTBSドラマ『ずっとあなたが好きだった』において、仙台出身という設定の主役「賀来千賀子」さんと「布施博」さんの、青春時代の甘酸っぱい回想シーンで度々登場しておりました。サザンオールスターズの名曲『涙のキッス』と相まって、印象深いシーンが思い出されます。 ドラマならずとも、この海岸は海水浴場として大変人気があり、同じく津波に呑みこまれてしまった「深沼――仙台市若林区荒浜――」や「菖蒲田(しょうぶた)浜――宮城郡七ヶ浜町――」などと並んで、ほとんどの仙台人に、忘れ難い夏の思い出を演出し続けてきました。丸山がある東名集落は、仙台藩主伊達政宗の壮大な構想の元に築かれた「貞山(ていざん)運河」と、防風防潮を兼ねた松林とがワンセットとなって、野蒜海岸を訪れた人たちのほとんどが目にする印象的な風景でもありました。特に丸山の北側に連なる海岸線は、秘かに私の休憩スポットでもありました。老人ホーム以外特に何もなかった海岸線は、潮干狩りや海水浴シーズン以外にはほとんど人影もなく、たまに防波堤沿いに車を駐めて、読書をしたり仮眠をとったりもしておりました。ハワイのオアフ島を訪れた際、ワイキキあたりから見るダイヤモンドヘッドが、この休憩スポットから見る丸山に似てなくもないな、などと思ったのは、私だけでしょう・・・ね。 さて、今回は高速道路を利用したため、仙台と逆方向の北側から東名方面に進入した私は、間違って野蒜海岸沿いの道路に入ってしまいました。いえ、厳密には必ずしも間違いではなく、かつてはそちらからでも問題なく到達出来たのですが、現在は一帯のガレキ処理の工事車両専用の道路なども設けられており、どの道が繋がっているのかわからない状態だったのでした。結局、流れ流れて宮戸島への橋を渡ってしまったので、さすがに見切りをつけて引き返しました。それにしても、震災直後からみればだいぶ片付いてはいるのでしょうが、やはりその爪跡には絶句させられます。 東名集落に到着すると、ほんの一年前までは狭い道路が混み入って見通しも悪く、どこにでもある海辺の町並だったのですが、今は悲しいほどに見通しがよくなり、見えなかったはずの丸山がやたら近くに感じました。 あまりに風景が変わり果てて、鹽竈神社の参道を見失ってしまった私は丸山の南側の海岸に到達してしまいました。そこでは、漁師の方がお一人、何事もなかったかのように粛々と漁の準備をされておりました。きっと多くの身近な人々と引き裂かれ、未だ3500人弱の行方不明者がいる海で、それでも悲しみに押しつぶされず従来どおりの日常を続ける心中はいかばかりのものか・・・。
狭い道をUターンしようと車を停止させると、近くでじゃれていたニ匹の猫の一匹が私の車のボンネットに飛び乗ってきました。氷点下の冬空の下、暖を求めているのでしょう。私と目があっても恐れないところをみると、相当人間馴れしているのでしょうか。野良猫というより、誰かの飼い猫だったのかもしれません。そういえば、震災半月後の志波彦神社・鹽竈神社境内の鳩たちも、私の姿を見るや一斉に集まってきました。私たち人間が食料確保に必死だった頃、鳩たちに豆をくれる参拝者もいなかったのでしょう。あの鳩たちは今、おそらく従来どおりに戻れているはずですが、誰もいなくなった集落で、この猫達は今後どうやって暖をとり、餌を得ていくのでしょう。 |
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モクリコクリの碑がある来迎寺(らいごうじ)と同じ広瀬川沿いの下流で、水量を争奪される前の竜の口川が広瀬川と合流していたと考えられる地点に近い「宗禅寺(そうぜんじ)」には、「鶏塚」なるものがあります。参考までに、この鶏塚の伝説について、木村孝文さん著『太白の散歩手帳(宝文堂)』には次のようにあります。 ――引用―― 昔、根岸の宗禅寺で飼っておいた鶏が、ある日のこと宵ドキをつくった。和尚はそれを不吉の兆しだといって、殺して裏の広瀬川に棄てた。するとこの鶏が隣家の者の夢枕に立って、わしはとなりの寺に飼われていた鶏で、和尚の危難を知らせようとしたが、却って殺され今宮沢橋に引っかかっている。どうかわしに代わって和尚に知らせてほしいと云った。隣の家ではあくる日すぐにこの事を和尚にとりついだ。やがて和尚が朝飯を食べようとすると膳の上を飼猫が飛越えながら何か食べ物の上に落として行ったのを見たら斑猫(はんみょう)の毒であった。和尚は今さら鶏を殺したことを悔い、宮沢橋から鶏をひろい上げて来て門前に葬り、ねんごろに弔ってやった。―後段略―(仙台伝説集) この伝説では和尚が鶏を殺したことになっておりますが、現地にあった説明板では庄子某が自分の飼っていた鶏を殺したことになっております。 さすがに、寺に設置されている説明板にその寺の和尚の殺生伝説を書くわけにはいかなかったのかもしれませんが、庄子某とは何者かも気になるところです。これは鶏塚に立つ「不是人間之塔――これは人間の塔にあらず――」という衝撃的な文字を刻む自然石の左脇に「寛文十三癸丑四月十四日敬白庄子太郎左エ門」とあるので、その人物自身、あるいは少なくともその家族を示唆しているものと思われます。鶏の墓なのだから当然「人間にあらず」なのでしょうが、先の『太白の散歩手帳』によれば「其碑は或る村(沖野村ともいう)の大酒呑の墓に建てたる碑――『仙台風俗志(鈴木省三著)』――」という言い伝えもあり、大トラの旦那に手を焼いた家族が、墓にそう刻んだのかもしれません。大酒呑みの墓に「人間にあらず」とはなかなかユーモアが効いておりますが、自分もそう書かれないようにと気の引き締まる思いになります。 それにしても、現実的に考えて、怨霊信仰のしみついた日本において、生前の当人に「お前は人間ではない」と懲らしめることはあっても、故人の墓にそういった文字を刻んで永劫に戒めようなどとするものでしょうか。私は、これは後からついてきた伝説だと思います。なにしろ「人間の塔にあらず」とはかなり衝撃的な文言で、昔の人にも相当な印象を与えていたに違いありません。 30年以上前、たしか映画『人間の証明』だったか何かで松田優作さんに「お前ら人間じゃねえ」というセリフがありました。松田さんの鬼気迫る演技も手伝って脳裏に濃く焼きつき、少なくとも私の周辺ではだいぶ流行りました。例えば、飲んでいたコーラを「一口飲ませてくれ」と頼んできた友人が、容赦なくゴクゴクと二口以上飲んでしまった場合などに、「お前ら人間じゃねえ!」と、ハードボイルドな物真似を併用して抗議します。だからと言って彼の墓に「人間にあらず」と刻むつもりは毛頭ございません。 それと同じように、例えば、大酒呑みを抱える家族が、この碑を引き合いに「あんたの墓にもああ書いてやるよ!」とブラックユーモアまじりに罵倒することもあったのではないでしょうか。そういった日常が「大酒呑みの墓」という言い伝えを生む原因になったのではないでしょうか。 あるいは、もしかしたら、酒と縁深い「秦河勝」なり「猩猩(しょうじょう)」への崇敬心なりが関係しているのかもしれません。思うところもあるのですが、それは機会をみて触れたいと思います。 いずれ、この塚は「鶏塚」と呼ばれているのですから、実際に鶏の墓であったか否かは別として、なんらかの鶏信仰が関わっていると考えるのが自然と思われます。 ニワタリ神に関する研究をされていた三文字孝司さんは、宗禅寺の住職である岩井信弘さんから、「昔は鶏の絵馬が奉納されていた」という話と、「鶏塚を削って百日咳にかかった子どもに飲ませるという風習がある」という話を聞いていたようです。これはニワタリ信仰によくみられる習俗で、やはりここも往昔ニワタリ神が祀られていたのだろうと想像することが出来ます。 宗禅寺自体は、元々、更に下流の北目という場所にあったとのことで、なんらかの事情で上流にあるニワタリ神の聖域に遷されたのでしょう。したがって、大崎八幡宮同様、ここでも鶏はいわばこの地の地主神の化身であり、それでこそ、鶏塚の伝説や鶏の絵馬、百日咳の効能などの一連の習俗にも納得ができるというものです。 ちなみに、宗禅寺は伊達政宗以前にこの地を治めていた粟野氏の菩提寺でもあったようです。粟野氏は、相当勢力の盛んな一族であったようですが、永禄年中、超大国の伊達氏に飲みこまれてしまいました。『仙台市史』執筆者の一人である羽下徳彦さんの推測では、この地域への勢力拡大を狙っていた伊達氏が、留守氏や国分氏に対して行ったように伊達の人間を送りこむことはなかったものの、『観音院過去帳』によって弘治二(1556)年に没した粟野長国から家督継承した次世の宗国の没年が元和九(1623)年――その間67年――であったことが確認できますので、つまりは、相続時点での宗国は幼少であったと考えられ、おそらく家中が混乱し、その混乱に乗じて伊達氏が介入し、家中に組みこんだのではなかったか、とのことでした。納得です。伊達氏の他へのやりくちの例からして、きっとそのとおりでしょう。 来迎寺と宗禅寺の間の広瀬川沿いには、前にも触れたとおり、東北大植物園や仙台大神宮にもいわゆる「蒙古の碑――モクリコクリの碑――」を確認できます。度々触れているとおり、私はこの碑がニワタリ信仰となんらかの関係があるのではないか、と睨んでいるわけで、戦国時代の粟野氏がそうとは限りませんが、少なくとも、元寇があった鎌倉末期に後の仙台城下の広瀬川を支配していた勢力は、ニワタリ信仰と無縁ではなかったに違いないと、ほぼ確信しております。 |
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仙台市都心部が乗っている地盤は、5〜6万年位前には出来あがっていたもののようですが、伊達政宗の仙台城を難攻不落たらしめた竜の口渓谷の生い立ちは特に劇的です。青葉山に水源を持つ竜の口川は、かつて広瀬川と並行して、その広瀬川より高い段丘面を、伊達政宗の霊廟がある瑞鳳殿(ずいほうでん)の裏側――南側――から、長徳寺、大満寺、愛宕神社、宗禅寺などの南側へと流れ――もちろん流路があった当時にこれらの寺社は存在しませんが――、やがてその宗禅寺付近――太白区越路――で広瀬川と合流していたものと思われます。しかし、広瀬川の蛇行によって、現在の花壇自動車学校――仙台青葉区花壇――のあたりでその流れを断ち切られました。その後の竜の口川は、そもそもの広瀬川との高低差によって瀧となり、その上流からの全水流は一気に広瀬川に注ぎ始めました。瀧となって浸食力を増した竜の口川は、鋭い渓谷を形成しながらどんどん上流部に昇りつめ、現在に至ったと考えられます。 一方、分断されて広瀬川に水量を争奪された下流の竜の口川は、水量の少なさゆえに浸食力も弱まり、多少なりの谷地なり湿地を形成するにとどまったようです。つい近年まで太白区向山一丁目あたりに存在していた大窪谷地なる地名は、その地形の名残と言っていいでしょう。 さて、この劇的な浸食劇のおかげで、竜の口川渓谷や広瀬川沿岸には地層が露出し、仙台の地盤の成り立ちをわかりやすくしております。学生の頃、地理学実習なるカリキュラムがあって、これらの河原や渓谷を実際に歩き、肉眼で学ぶ機会に恵まれました。河岸段丘面の形成が2万年前やら3万年前やらと簡単に口にしていたものの、ふと、はるか大昔だと思っていたイエス・キリストの生誕からの時間ですらまだ二千年にも満たないことを思い出し――当時はまだ20世紀――、得も言われぬ悠久の時の流れに心身を放出されたような気になった記憶があります。 時の流れで言うならば、さらに強烈なのは「霊屋橋(おたまやばし)」付近の広瀬川の水面に顔を出すメタセコイヤの化石林です。“霊屋(おたまや)”とは、もちろん伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に因むのですが、それはともかく、このメタセコイヤは、数百万年前には北半球の広い範囲に自生していたと考えられております。それが、現在ではアメリカのカリフォルニアや中国の四川省にしか自生しておりません。我が日本においては、既に100万年前に絶滅したのだと言います。つまり、霊屋橋付近のセコイヤ化石林は、約300万年前の森林が、多量の火山灰に埋没し、珪化あるいは炭化したがために奇跡的に良好な状態で保存されていたものなのです。そしてそれが、広瀬川の浸食によって再び地上に現れ――それすらも数万年前――、今、私たちの目の前に姿を見せているのです。もはや“奇跡の軌跡”としか言いようがありません。 化石林が多量の火山灰に埋もれてしまったことは、仙台の文化にも多少なり影響を及ぼしました。いわゆる“埋もれ木細工”は、このような化石林を利用して生まれたものなのです。 最近めっきり生活が不規則になり、一方で放射能への懸念から不用意に外出することも少なくなって大自然のあるべき姿に触れていなかった私は、本能的に森や水やお日さまが恋しくなりました。ふと、ウン十年前のあの頃に悠久なる自然の時間旅行に誘(いざな)ってくれた広瀬川が恋しくなりました。そう考えると居てもたってもいられなくなってしまう私は、ついに先日、河原の遊歩道を散歩してまいりました。私が訪れたときは、広瀬川の水量がやや多かったようで、メタセコイヤの化石はわずかしか確認できませんでした。 さて、このあたりには、もう一つ久しぶりに見てみたかったものがありました。それは「煙の化石」です。先に触れたように、化石林は火山灰に埋もれて炭化しておりました。これはつまり、燃えている森林に次から次へと火山灰が降り注ぎ、森林火災もろとも埋もれてやがて酸素の供給もなくくすぶりながら鎮火してしまったか、あるいはどんどん火山灰に埋もれたがため高熱でも発火することなく、ただただくすぶり続けたということです。私の記憶では、地層に散見できる炭化木の上に、ぼんやりとすすけて黒ずんでいるものがありました。教授が「これは煙の化石だよ」と教えてくれたような気がします。今回、おぼろげな記憶を頼りに双眼鏡をもって対岸からそれを必死に探し、一応、おそらくこれかな、と思うものはありましたが、明確にそれとは判断ができませんでした。 広瀬川流れる岸部思い出は帰らず・・・ それにしても、ふと冷静に考えるに、この化石林が語るものは、何百万年前とはいえ、なんらかの火山噴火による強烈な火砕流が、仙台周辺を炎と灰の海にしてしまったということです。ほとんど歴史上や神話の世界だと思っていた千年前と同じ大津波を目の当たりにした昨今、人間の私たちの感覚での大昔は、地球規模では当たり前の気まぐれな日常サイクルであり、なんら大昔ではないということを思い知らされました。 恐怖心を煽ろうというつもりはないのですが、私も含め、日常を取り戻しつつある仙台市民は、最近、 「史上最大規模の地震を経験したのだから、あれより上はそうそうないだろう」 と考えつつあります。 ここで一つ思い出しておきたいことがあります。 今回の震災前、私たちが最も恐れていた宮城県沖地震のシミュレーションがどのようなものであったかというと、宮城県沖の海溝型と、都心部を縦断している活断層「長町・利府線」の、“連動型”でありました。これらが連動するとマグニチュード8を軽く超えるとてつもない地震になる、と言われておりました。 今回、少なくとも海溝型の震源エネルギーについては、本震で一緒に動いてしまったと思われるようで、それがまた私たちの油断になりつつあるのですが、まだ活断層「長町・利府線」が動いたというニュースは聞いておりません。最近、全国あちこちで、本震でゆがめられた地殻のひずみを修正するような地震が起きております。日本列島が全体的に東側に引っ張られており、例えば牡鹿半島では5メートルも位置が変わったのですから、列島全体に修正力が働いて当然です。仙台の活断層にも今後全く影響がないとは思えません。 もしかしたら、それでもマグニチュードは小さいのでは、と思う方もいらっしゃるかもしれません。今回の震災で全国民が地震に詳しくなっているところで私がとやかく言うのもおこがましいのですが、マグニチュードの大小と震度の強弱は全く違う尺度です。地震はある種の波であるとも言えるので、同じ波である“音”で例えるならば、飛行機の音と自動車の音を比べた場合に、絶対的な音量で言えば、間違いなく飛行機がうるさいに決まっております。しかし、自宅にいた場合に、20キロメートル離れた空港の飛行機の音と、隣家の自家用車の音ではどちらがうるさいでしょう。これはおそらく隣家の自家用車の音でしょう。つまり、絶対的な音量が、地震でいえばマグニチュードであり、自宅で感じる音のうるささが、地震でいえば震度であると例えることが出来るでしょう。事実、被災地における揺れの破壊力だけで言うならば、史上最大級と言われる東日本大震災よりも、規模が小さくても活断層直下型の阪神淡路大震災の方が上であったようです。この点でも、福島の原発を襲った地震は全く想定外とは言えなかったということになりますが、いずれ、仙台市都心部の活断層が未だ不気味に沈黙している事実に、私たちは決して目をつむってはならないのです。 そして、何百万年前とはいえ、あたかも『聖書』の「ソドムとゴモラ」のごとき火砕流が、仙台周辺の古代森林を燃焼埋没させた事実もわかっているのです。千年前同様の大津波を目の当たりにした今だからこそ、真剣に考えてみてもいいのではないでしょうか。 |
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大崎八幡宮の境内を散策していて、数年前からある石像が気になっておりました。「沼田豊前正藤原茂密石像」です。「はて、これは昔からここにあっただろうか」と、積年の記憶が定かではないのですが、ともあれ、説明板には次のように書いてあります。 ――引用―― 沼田豊前正藤原茂密石像(ぬまたびぜんのしょうふじわらのしげみつせきぞう) 年代は不明であるが、子息の沼田豊前正茂明により作成された。 八幡宮の社家である沼田家八代目茂密は、垂加神道を学びつつ、祠官の大場山城と共に境内の整備に尽力し、大崎八幡宮中興の祖となった。 本石像の裏面にはその功績が刻されており茂密の生涯を窺い知ることができる。 この石像が気になった理由は、石留(いしどめ)神社――仙台市泉区――の武烈天皇伝承の仕掛人(?)である「沼田備前」を思い起こしたからです。「備前」と「豊前」とでは本来まるで異なるのですが、なにせ韻は酷似しており、混同して伝わった可能性もあるのではないか、と疑ってみたのです。 石留神社に浅からぬ縁を持つ沼田備前は、元々、鎌倉以来の北上川の王者「葛西氏」の家臣であったようですが、葛西氏が豊臣秀吉の奥州仕置で滅びた後、伊達氏の家臣として七北田地区の検断を務めておりました。この検断沼田備前は、元和五(1619)年、管轄エリアの冠川を逆流する謎の赤石を見つけました。「武烈天皇の御霊に違いない」そう思った彼は赤石を拾い上げ、それを祀ったのが石留神社だとも伝えられております。 しかし、そもそも石留神社には、志波彦神が白馬に乗って冠川を渡らんとしたときに、馬が川底の石につまずいたがために落馬して冠を落としたという「冠川神話」の事後譚として、それに激昂した志波彦神が臣下の神々にその川底の石を全て拾わせ、河岸に積んでいた場所が、この石留神社である、という神話があります。 石留神社には武烈天皇の伝説と志波彦神の神話とが交錯しているということになります。逆に言えば、このことから両者にはなんらかの因果を疑えるものでもありますが、私の調査に基づくならば、そのキーワードは陸奥国黒川郡の大伴氏にあったと言えるでしょう。私は、その大伴氏の正体を、落ちぶれたオホ氏ではなかったか、と推測しておきました。つまり、鹿島神を奉斎して常陸から陸奥に進出したオホ氏が、やがて落ちぶれたところで中ツ臣繋がりのワニ氏の部民と化し、「丸子(わにこ・まりこ)氏」と呼ばれ、鹿島御子神の祭祀を司りながらも、そのうちの一系は「道嶋姓」を賜り、やがてワニ氏の消滅後にはあらためて大伴姓を名乗ったものではないかと考えておりました。 もしかしたら、沼田備前はそれらに関係する人物――系脈――なのでしょうか。 この石留神社の東方、七北田(ななきた)川――冠(かむり)川――下流左岸には、「高玉明神」なる祠が祀られておりますが、その場所は沼田検断屋敷跡と伝わっております――ウェブページ『はっけん七北田――仙台市中央市民センター――』――。そして、ここにも何やら薄気味悪い言い伝えがあります。現地の説明板には次のように書かれております。 ――引用―― 明治時代古老の伝説 高玉屋敷に有力な物持ちが住んでいた。この屋敷に「お玉」という可憐な女中が居った。ある時この家の最も貴重とされていた家宝の十枚皿の一枚が毀れたことで、お玉は無実の罪で打首になったという裏話がある。お玉の怨霊が、夜毎に火の玉となってあらわれた高玉から小曽沼にかけて、遠く近くに見られた。人々はこれを「お玉火」と呼んでいた。 武烈天皇の御霊やら、お玉の怨霊やらと、沼田備前は一体何をそんなに恐れていたのでしょう。沼田検断屋敷の場所には、その更に200年から300年も遡った南北朝の時代、南朝方の「小曽沼(おそぬま)城」があったらしく、『鬼柳文書』なる文書によれば、文和2年(1353)正月に北朝方に攻め落とされたようです――ウェブページ『はっけん七北田――仙台市中央市民センター――』――。ということは、南朝軍の地縛霊でも漂っていたのでしょうか。 さて、そのような怨霊に怯える沼田備前と、大崎八幡宮の中興の祖である沼田豊前が同一人物なのかどうかはよくわかりませんが、彼らが全く別人であっても、各々の形で各々の神祀りに関わった因果とは一体何か、私は本棚からおなじみ太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』と、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』を取り出して沼田姓について概観してみました。 沼田姓に関する項は、前者には24項、後者には5項が記されておりました。もちろん、24項だからと言って24系譜というわけではありませんし、1項でも比較的関係の近い複数系の記録が記載されている場合もあります。また、同系でも出典文書に応じて異なる項に分かれているものもあります。 まず、より地元に詳しそうな後者『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』について述べるならば、沼田備前についての記載はありますが、不思議なことに沼田豊前の記載がありません。「大崎八幡宮の中興の祖」という立派な経歴があるというのに、全く触れられていないというのも腑に落ちません。なまじ、備前についての記載があるだけに、余計違和感を覚えます。ただし、その沼田備前についても、石留神社に関わる内容については触れられておらず、『安永風土記』が伝える“検断としての”性格のみがとりあげられております。もしかすると、この大辞典の編纂方針として神社伝承などはあまり参照しない姿勢なのかもしれません。 ではもう一方の、前者『姓氏家系大辞典(角川書店)』を概観してみます。こちらにはとりたてて仙台藩の沼田に関する記載はありませんが、沼田なる姓の底流を示唆するものとして、いくつか気になるものがありました。さしあたり私が注目するのは、「大神姓――緒方氏族説――」「秀郷流藤原姓波多野氏族」「大友氏族説」「大三輪姓」といったところです。いずれも八幡総本社の宇佐神宮が鎮座する“豊前”との因果を勘繰りやすい名ばかりです。秀郷流が何故?と思われるかもしれませんが、前にも触れたとおり、私はこれを波多野氏が秀郷系譜を仮冒したものだと疑っておりますし、波多野氏は、大友氏初代能直の母系の実家でもあり、その実は秦氏であろうと考えております。そう考える根拠については既に触れました。 いずれ、大崎八幡の沼田豊前正“藤原”茂密はその名に“藤原”姓を含んでいるわけですが、沼田姓を広く概観するならばそれが波多野氏を経由したものとも推察出来ます。 宇佐八幡は、宇佐氏、大神氏、辛嶋氏――秦氏――の三者によるハイブリッドな祭祀形態なわけですが、沼田姓には宇佐氏以外の二者の面影が濃厚です。こうして見てみると、沼田豊前が大崎八幡宮を中興したのは必然的な使命感であったようにも思えます。 秦氏なり大神氏の思想が底流にあるとするならば、一見八幡信仰とは無関係に見える一方の検断沼田備前の思想も、おぼろげながら想像出来そうです。 なにしろ、武烈天皇から継体天皇への皇位継承は、不透明さが際立つものでありました。継体天皇は応神天皇の五世孫という触れこみで越エリアから発掘されて即位されたわけですが、少なくともここで仁徳天皇――応神天皇の子――からの系譜が途絶えたことは間違いありません。 言うまでもなく、応神天皇は八幡宮の主祭神とされております。しかし応神天皇の出生譚自体にもなにやら怪しいものがありました。なにしろ応神天皇が生まれる前に崩御した父親仲哀天皇の、その急激な死に方に異常さが際立ちますし、何より応神天皇が生まれるまでの母親神功皇后の妊娠期間が“人間として”あまりに長すぎます。俗っぽく言えば“辻褄が合わない”というヤツです。 更に、応神天皇を擁して畿内入りしようとする神功皇后は、「麛坂(かごさか)皇子」「忍熊(おしくま)皇子」兄弟といった仲哀天皇の別腹の子らの反撃に合っております。 何はともあれ、この数代の皇位継承にはなんらかの激しい争奪戦があったことは間違いなく、継体天皇こそが現代に連なる初代天皇だと考える有識者もいるほどで、その前代にあたる武烈天皇の存在は当然にそれらの混乱を象徴するものであったことは間違いないでしょう。 武烈天皇の怨霊を恐れ、それを祀った沼田備前の思想には、間違いなくそのあたりの得も言われぬ忌敬心のようなものも交錯していたはずで、このローカルな伝説一つにも日本史の根本部分の示唆があるように感じております。この地にそのような伝説を生んだ背景には、やはり先に触れた黒川郡の大伴氏の顛末、すなわち丸子氏であり、つまりはオホ氏やワニ氏といった中ツ臣氏族の盛衰が無関係ではなかったと考えます。前に私は、ニワタリ神の分布が彼らの痕跡と重複していることを指摘しました。 石留神社は一頃、付近の二柱神社に祀られておりましたが、この二柱神社は明治の神仏分離以前「仁和多利大権現(にわたりだいごんげん)」と呼ばれておりました。 そして、大崎八幡宮の神域にもまたニワタリ神の気配があります。 沼田備前と沼田豊前、両者が同一人物か否かはわかりませんが、少なくとも彼らのいずれもなんらかの形でニワタリ神と関わっていたことは、十分推察できるものと考えております。 |


