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東北地方から日本史を眺めていきます。

亀の風土記:福島県

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13の頭骨

 福島県立博物館の常設展に、福島県相馬郡新地町の「三貫地貝塚」における「人骨・犬骨埋葬状況」の縮尺1:1の復元模型が展示されており、次のような解説文がありました。

―引用―
 新地町三貫地貝塚の発掘状況は、昭和27年と29年に行なわれ、100体以上の人骨が出土しました。この模型は、埋葬状態の一部を復元したものです。一度葬った人の頭骨13個を円形に並べ、手足の骨を中央に集めた極めて珍しい埋葬例が発見されています。
 手足を折りまげて葬られている(屈葬)男性人骨のそばからは、犬の骨が出土しました。犬は狩りなどに役立つため、縄文時代から飼われていました。現在のシバ犬に似ています。

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フラッシュを焚かない条件で撮影を許可していただきました。
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 さて、13という数字の意味するところについて、以前私は次のように語っておきました。

 13という数字で、一般的にも有名なのは死刑台の13階段や、イエスキリスト処刑日の“13日の金曜日”という俗説などでしょうか。
〜中略〜
〜この13という数字は世界中でよく用いられる数字です。しかし、これをもって全てがキリスト教、あるいは西洋の影響を受けたなどと言うのは論外です。何故なら、地球上に生活していれば普遍的にたどりつく数字だからです。
 時計やカレンダーなどが存在しない時代、人々は空のめぐり、特に月の満ち欠けを一つの基準にしたことでしょう。現代とは比べ物にならないほど、空のめぐりは日常にとって重要だったはずです。月はおよそ一ケ月で満ち欠けのサイクルを一巡します。それもそのはず、そのサイクルから一ケ月という概念が生まれているのだから当然でしょう。そして、それが12回繰り返されると、一年、つまり季節も一巡します。四季があまり明瞭ではない地域でも、日の出・日の入りの位置や星座のサイクルが、月のサイクル12回分で元に戻っていることには気付くはずです。これが12進法の起源であろうことは容易に推察できます。
 特に、人類が農耕を営むようになると、それらに一つの寿命のようなものを感じざるを得なくなってくると思います。
 例えば、北半球であれば、冬至を皮切りに、夏至に向かって太陽はどんどん高くなり、活動出来る昼間もどんどん長くなり、草木も生き物もどんどん活発になっていきます。
 やがて、秋になり収穫の時期を終え、冬の声が聞こえると植物も枯れ、動物も眠り、まるで大地が死んでしまったかのようになります。そして月のサイクルが12回めぐったころに、また冬至が訪れるわけです。
 さて、そうなると13とはどういう意味を持つのでしょうか。13とは当然最終12の後にある世界であり、ひとつには死後の世界、ひとつにはリセットされた新しい世界を指していると思われます。
 これが13の持つ“普遍的”な意味でしょう。13とは、全世界共通で“死と再生”を意味する“普遍的な数字”であると考えます。

 というわけで、この遺跡は、酋長なのか家長なのか、あるいは家族なのか、なんらかの人物に蘇ってきてほしいと願う、再生への祈りを込めた祭祀の跡なのではないか、と思いました。

経沢に集約された私論

 経沢(へざわ)――福島県会津若松市――の物部守屋一族落人伝説が事実だとした場合、守屋の娘は何故逃亡先として会津のこの地を選んだのでしょう。あくまで伝説なのだから、その根拠を真剣に考えるのは無駄だ、と言われるかもしれませんが、仮に娘ではなかったとしても、こうした伝説があって、さらに守屋神社まであるということは、守屋になんらかの縁ある人物が当地に土着していたことは間違いないでしょう。
 そこで一つキーワードになるのは、小島一男さん著『会津の歴史伝説(歴史春秋社)』にあった「経沢金山の繁昌(はんじょう)してた頃には民家が二〇〇軒もあり、村は活気に満ちていた〜」というくだりです。「金山の繁昌」というキーワードは重要です。ここでの金山が、「金――金属――を産出する山」の意味で使われているのか、経沢集落の南東にある具体的な山名を指しているのかは判然としませんが、仮に山名だとしても、その名の由来はいずれ産金――産鉄――に因んでいたのでしょうから、結局は同じ話に落ち着くと言っていいでしょう。そういえば、民謡「会津磐梯山」で♪えんや〜会津磐梯山は〜宝〜の〜山よ〜笹に黄金がえ〜また〜なり〜さ〜が〜る〜♪と歌われますが、なにしろ磐梯山は活発に活動する火山でもあり、周辺の湖沼も噴火物に川が堰きとめられて誕生したものも少なくありません。そもそも地下鉱物が地表近くに現れやすいエリアなのでしょう。
 意識して地図を眺めると、猪苗代湖周辺には産鉄を思わせるキーワードを少なからず見かけます。今触れた集落南東の「金山」はもちろん、集落北西の太子信仰の照光寺の更に北西には、「金砂神社」があります。それに加えて、付近の「赤井川」や地名の「赤井」、猪苗代湖に接する「赤崎」、「赤津」なども、鉄分を含んだ水をイメージさせます。
 「赤井(あかい)」と言えば、「牡鹿郡衙(おしかぐんが)」の最有力候補地と目されている宮城県東松島市の「赤井遺跡」を思い出しますが、この遺跡の底地名の「赤井」は、そもそも鉄分の多い赤い水が湧くことから名づけられたといいます。牡鹿郡衙は、一般の国造より上位に位置づけされる全国唯一の“大国造”なる地位を授けられた蝦夷のエリート「道嶋氏」の拠点とされているわけですが、平安時代終末期の同エリアは、奥州藤原氏の重臣で一説にアテルイの末裔とも言われる「照井氏」の拠点でもありました。道嶋氏の消長も照井氏の興隆も今一つ不明瞭なので、同時代に彼らが並立していたか否かについては不明ですが、熟蝦夷(にぎえみし)のエリートリーダー一族と、麁蝦夷(あらえみし)の酋長一族のこの地での関係は気になるところです。いずれ、彼らが当地に拠点を求めた理由は、水運と産鉄にあったことでしょう。
 水運と言えば、「経沢」にしても「赤井」にしても、現在の大字名は「湊町(みなとまち)」ですし、「赤津」は言わずもがな読んで字の如し「津――船着き場――」であったと考えて間違いないでしょう。内陸の猪苗代湖ではせいぜい対岸までの渡し船か湖上遊覧程度にしかイメージが浮かばないかもしれませんが、先に触れたとおり会津の歴史が東北地方には珍しく日本史級であることを忘れてはいけません。
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 現在では考えにくいものがありますが、会津は四道将軍が再会した港を意味する「会い津」「相津」が地名由来と言われているように、東海道と北陸道が辿りつくターミナルであり、日本古代史上重要な交通結節点なのです。猪苗代湖はそのようなエリアの象徴的な巨大湖なのです。 
 例えば、越エリアから会津、更に猪苗代湖入りするルートとしては、現在の新潟県新潟市に悠々たる流れで膨大な水量を日本海に提供する大河「阿賀野川(あがのがわ)」を遡っていたことでしょう。阿賀野川の上流部は、会津においては流路が定まらない暴れ川であったようで、そのおかげで東京の山手線エリア程度がすっぽりと収まるほど広大な会津盆地が形成されたらしいのですが、流路と同様、川の名前も一つに定まっておりません。少なくとも会津盆地においての本流は「阿賀川」と呼ばれております。ふと、「阿賀川」や「阿賀野川」は、本来「赤川」であり「赤ノ川」であったのでは?という想像も膨らみます。
 何はともあれ、阿賀野川の支流の一つ「日橋川」が日本海へ溢れる猪苗代湖の水を担当しております。つまり、それが猪苗代湖と越文明を連絡するメインルートであったことでしょう。その猪苗代湖の水が溢れ出る湖岸に、先の「赤井」地名が存在しております。経沢集落はその南方やや上流(?)部にあるわけですが、その途上には「藤崎」なる名の岬や、「石動木(いするぎ)」なる小字名があり、大変気になっております。何故なら「藤崎」は言わずもがな安倍貞任の末裔の氏姓であり、「石動木」は阿彦を倒した女神「姉倉姫神」の浮気した夫「伊須流伎彦(いするぎひこ)」を思わせるからです。ちなみにこの神を祀る「伊須流岐比古神社」鎮座地――富山県鹿島郡鹿島町――は「石動(いするぎ)山」と表記されます。この神については別稿で触れたいと思いますが、とにかく、経沢周辺への道中は地名だけでもなにやら興味をそそられます。
 経沢集落へ通じた道は集落の奥で行き止まりになっているようですが、守屋神社は舗装道路が途切れる手前の右手に鎮座しております。『会津の歴史伝説』によれば、神社の裏手には御陵が二ヶ所以上現存していて、注連縄が張りめぐらされているということでした。しかし、私が社殿の周りを軽く一周した限りではそれらしきものを見つけられませんでした。しいてあげれば、本殿の裏に基礎工事の「遣形(やりかた)」のような木枠の結界(?)に囲まれた一間四方程度の空間がありましたが、それがそうなのでしょうか。
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 守屋神社への参拝を済ませた後、さらに奥にあたる隣の山の麓に、地図にはない鳥居が私の目に飛び込みました。伝説を読み解いていくならば、物部守屋の生き残りの家臣永山氏が守屋夫婦の陵の前に造営したのが守屋神社ということになるわけですが、その陵の巽――南東――三町ほど離れた六間四方ばかりの小さな草原で守屋の娘が自害したということでした。もしかしたら、私の目に飛び込んだ鳥居はその場所かもしれない・・・。そう思った私は、とにかくその鳥居に向かいました。農作業用の車両に刻まれた轍(わだち)以外は雑草に覆われていた農道を山に進むと、その鳥居に到達できました。
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拝殿に到達し、扁額の文字を見た瞬間私の脳髄に電気が走りました。
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 「舟岡神社」――。
 思わぬところで“フナオカ”の言霊に出くわしました。因果関係の程はわかりませんが、舟岡――船岡――が安倍氏と関わりの深い言霊であることは確かです。もちろん、陸奥における物部氏と安倍氏の濃厚な関わり合いから考えれば、物部守屋落人伝説の集落に安倍氏と関わり深い言霊が祀られていてもなんらおかしくはないのですが、最近になって「小千谷魚沼神社――上弥彦大明神:阿彦の霊を祀る社」が鎮座する地――新潟県小千谷市――においても重要な言霊であることを知り、にわかに彌彦明神と安倍氏、そして阿彦の関係を近づけられたことは衝撃でした。越後土川村――現:新潟県小千谷市内の一地区――のほとんどを檀家にする上弥彦の別当「慈眼寺」は、当地で亡くなった彌彦明神を祀っているらしいのですが、なにしろこの寺の本尊は「船岡観音」でした。舟岡神社は守屋の娘の墓なのでしょうか・・・。
 こうなると、にわかに先ほどの「藤崎」も気になってまいります。なにしろ、安倍貞任の祖が長髄彦の兄「安日(あび)」であるとする系譜を主張する貞任末裔の一氏に藤崎氏がいるのです。そして、私はその安日と阿彦になんらかの因果があるのではないかと考えているわけです。
 ある意味、自分の仮説通りに進んでいるとはいえ、いや、既に仮説以上の事実がせまってきているのかも知れず、せっかく掴んだ情報をなかなかうまく咀嚼しきれずにいるのですが、この後にも、畳み掛けるような事実が私を襲います。
 経沢の西に隣接する原村――現:会津若松市湊町原――にも守屋大連を祭神とする守屋神社が見つかり、むしろ経沢のそれよりもしっかりとした境内と社殿を備えていたのですが、『新編會津風土記』で調べたところ「神職丸山主計 其先は喜善某と稱す、何の頃神職となりしか詳ならず、今の主計某は五世の孫なりとぞ」とありました。この五世の孫の意味が、丸山主計なる人物が丸山氏の五世孫という意味なのか、喜善某の五世孫という意味なのかは判然としませんが、とにかく私は「丸山姓」に惹きつけられてしまいます。これまでもさんざん書きましたが、私は、丸山ブランドに和邇(わに)氏や多氏、照井氏などとの関わりを疑っております。そのブランドを姓として冠する一族とは、一体どのような系譜であるのか、はたまたその一族が神職を司る神社の祭神が物部守屋大連であるという事実は何を意味するのか・・・。
 ちなみに、この守屋神社の境内には末社として「鬼渡神」も鎮座しておりました。また、この守屋神社の北にも単独の「鬼渡神社」が鎮座しておりました。鬼渡神は、おそらく「御ニワタリ」で、ニワタリ神の会津名と思われますが、このあたりはニワタリ信仰も濃厚なエリアなのでしょう。たびたび申し上げているとおり、ニワタリ神は大国造道嶋氏同族「丸子氏」に縁ある神であろうというのが私の私論ですが、神職丸山氏はこれに関係しているのかもしれません。
 もう少し風呂敷を広げさせていただくならば、丸子氏の親分(?)である和邇氏系の春日臣は、物部氏の守護神フツノミタマを祀る「石上神宮」神官の祖であるとも言われております。このことから物部氏と和邇氏の浅からぬ関係も推察できるのですが、私はひょっとしたら中央の安倍氏こそが歴史から自然消滅したワニ氏のそのものではなかったか、とも疑っております。蛇足ながら、聖徳太子と死を伴にした妃は、膳部系の女性でした。膳部系は言わずもがな安倍系氏族です。
 経沢周辺の地名と信仰と伝説は、私の壮大な妄説を見事に集約してくれているかのようです。


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 猪苗代湖の西岸、会津若松市の東端に「経沢(へざわ」)という集落があります。『福島県の地名(平凡社)』によれば、古くは「辺沢」と表記されていたものが、寛文年中(1661〜73)に「経沢」と改められたようです。同書によれば、「守屋家の子孫が幾山河を経てこの地に来たので経沢といったという伝説がある」そうで、また、「村の南西山麓に守屋神社があり、物部守屋大連を祀る」とのことです。
 会津への団体旅行から帰ったばかりの私が、返す刀で再びその会津に舞い戻ったのは、この守屋一族の落人伝説が気になったからに他なりません。少なくとも物部氏に縁あるなんらかの一派が関わっていることは間違いないことでしょう。
 それにしても、同じ物部系の伝説でも、例えば祖神ニギハヤヒの降臨伝説であれば、日本海側の「鳥海山」や、秋田県の「唐松神社」の伝承などもありますが、それらいわゆる「秋田物部氏」同様、多かれ少なかれ、なんらかの物部系一派が当地に土着し、広めたものであることは疑問を待ちません。それを含みおいたにしても、具体的に“守屋一族”に絞られている経沢の伝説はなかなか珍しいのではないでしょうか。
 この伝説について、私は団体旅行の宿泊先の土産品売り場にあった『会津の歴史伝説(歴史春秋社:小島一男さん著)』を立ち読みして初めて知ったわけですが――ちゃんと購入しております、はい――、特に私の興味を惹きつけたのは、この伝説が“太子信仰と絡み合っていた”ことでした。義務教育の歴史授業で学んでいるはずなので基本的に誰しもがご存知のはずですが、守屋一族にトドメを刺したのは、「聖徳太子」ということになっております。つまり、この村落では敵同士であった両者を村の鎮守なり菩提寺なりとして崇め祀っていたということなのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
 以下、同書の「聖徳太子と守屋様」を読みながら、伝説の示唆について考えていきたいと思います。

――引用:以降引用文は特記なき限り『会津の歴史伝説』より――
 経沢(へざわ)村は県道からも湖からも離れ、米づくりを専業としてひっそりと息づく山里であるが、昔はこの村の中を鎌倉への道が通っていた。そして経沢金山の繁昌(はんじょう)してた頃には民家が二〇〇軒もあり、村は活気に満ちていたという。

 まず、ここに金山があったことは留意しておきたいところです。後にあらためて触れますが、守屋の一族が何故この地に逃れてきたのか、のヒントがあると睨んでおります。

――引用:つづき――
 上経沢には鎮守様の守屋神社が祀られており、下経沢には東田面村の経沢口に古くから大森山太子院照光寺があった。
 照光寺は院号が示すように、聖徳太子を本尊とした太子守宗の寺で、何百年もの間、経沢村の菩提寺であった。十世良月和尚のとき、蒲生氏郷公の指示によって浄土宗に転宗。さらに保科正之公のときに若松高厳寺の末寺となって東田面の菩提寺となった。
 聖徳太子の御尊像はこのとき以来、ひと山越えた下経沢石田の太子堂に移られることになり、それからというものは鎮守様の祭礼と、太子様の祭礼が何回も催されるようになり、経沢村はお祭りの村とまで言われるようになった。
 ところが、これをきっかけとなり、なぜか上村と下村とが反目するようになり、刃物まで持ち出す争いにまで及ぶこともしばしばあった。
 ある年の夏、修験(しゅげん)の六部が村を訪れ、「この村には妖気(ようき)が漂い、殺気(さっき)を含んでいる」と告げた。古老たちは心配をし、祈祷(きとう)をして貰ったところ、「宗敵、政敵の間柄にある守屋様と、太子様がこの村を護(まも)っておられるため、ことごとく意見が合わないのでもめごとが起きる」と、神霊からのお告げがあった。六部も、「太子様を東田面の本寺にお移しになり、祭礼も今後は東田面村で行うようにしては――」と告げた。そこで村人らはこの六部の意見を受け入れ、西村総出で太子様をお移しになり、盛大な祭典を行った。
 照光寺はこのときすでに浄土宗になっていたが、村民らは聖徳太子をお移しした記念として“太子院照光寺”と元の院号の銘を刻み、大梵鐘(ぼんしょう)を鋳造(ちゅうぞう)して奉納した。名工の鋳たその梵鐘の音は、その響き美しく湖上を渡り、遠くは磐梯山から天鏡湖周辺の村々にもきこえ、向い浦でもこの鐘のおかげで、明け六ツ刻を知ることができたという。だがこの名鐘は、惜しいことに享保年間(一七一六――三六)の火災で失われ、今の梵鐘は二代目である。
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 ここでは特に触れられておりませんが、『新編会津風土記』には照光寺について「明徳の頃何人にか天台の道場を草創し聖徳太子の像を安置せり〜」「永禄の頃より太子守宗となり〜」という記述があります。村に妖気と殺気を感じ取った修験の六部なる人物が天台密教の僧とも考えられますが、もしかしたら、このとき――明徳(1390〜94)〜永禄(1558〜70)――に初めて、守屋一族の村に太子信仰が持ち込まれたのかもしれません。ただ、伝説上の太子信仰の創始は、守屋一族流譚の時期とさほど変わらないことになっております。

――引用:つづき――
 上経沢にある守屋神社の祭神は、守屋大連命(もりやおおむらじのみこと)である。守屋様は物部尾輿(もののべのおこし)の子で、五七二年以降大連として朝政に参与、崇仏派の大臣蘇我馬子(おおおみそがのうまこ)と対立し、用明天皇の没後穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかったが、皇子は馬子に殺され、守屋様は馬子・厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみおうじ:聖徳太子)らの兵に攻められ敗死した。このとき守屋様の娘と臣下の者が難をのがれ、流浪(るろう)の末にたどりついたところが、陸奥の山深いこの経沢の里だったのである。
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 落ちゆく守屋一派の主役は、守屋の娘のようです。聖徳太子に攻め滅ぼされたが故に彼女らは陸奥国会津の地に流れてきたのです。その村に、何故太子信仰が興ったのでしょうか。

――引用:つづき――
 姫は大連(おおむらじ)夫婦の遺骨を経沢村の南、夏狼ヶ嶽中腹に手厚く葬ると御陵を造営し、その麓で一生をすごすことにした。こうして祖宗の神霊を祀ることによって、姫の心にもようやく安らぎが戻ってきたようであった。

 伝説を信じるならば、経沢には守屋夫妻の御陵があるということになります。夫妻の遺骨はこの経沢に葬られたようです。

――引用――
 それから何年かが経った。舒明天皇が没すると、蘇我入鹿(そがのいるか)は馬子の娘を生んだ古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位につけようとして、有力な対立候補であった聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼそうとした。王は追手の手をのがれ、物部の姫を頼ってはるばると会津へと落ちてきた。ところが姫は、これをてっきり敵の手がのびてきたものと勘違いし、もはやこれまでと、祖霊を祀った陵よりも巽(南東)の方へ三町ほど離れた六間四方ばかりの小さな草原で自害して果てた。

 なんとも悲劇としか言いようがありませんが、姫の勘違いは至極自然なことでしょう。山背大兄王は父の仇の子なわけですから、物部の姫からすればまさか自分を頼って逃げてくるなど思いもよらないことです。逆に言えば、あくまで正史のくだりもこの伝説も全て鵜呑みにしたとすればですが、山背大兄王は“どの面下げて”姫を頼ってこれたものか、と首を傾げたくなります。

――引用――
 王はこれを聞かれると、心さいなまれ身の置きどころもないほどであった。哀しい姫の霊を弔(とむら)うためにこの地にとどまる決心をなされ、下経沢の石田の山に太子堂を建立(こんりゅう)し、御父太子を祀るとともに、物部の姫主従の廟所参りに明け暮れるようになった。
 またこれと前後して、物部氏生き残りの臣永山氏もまた陵の前に一社を造営したが、これが守屋神社である。白鳳元年(壬申)のことであったという。御陵は神社の裏手の高壇に二ヶ所以上現存しており、注連縄が張りめぐらされている。
 なお聖徳太子の王子御尊像は、後世に太子堂から上馬渡(かみまわたり)村の虚空蔵堂にお移りになった。

 ということは、当地は物部守屋夫妻とその娘の墓地であり、かつ、山背大兄王の最後の地でもあったということになるのでしょう。さすがににわかにそれら全てを信ずるには勇気が要りますが、それでも尚その流れで考えていくならば、姫がもはやこれまでと思い至り自害したくらいですから、当然一派全員も生きて敵の辱めを受けるくらいなら・・・、と考えたはずで、姫と運命を供にしたと考えられます。ということは、守屋神社を祀りつづけてきたのは、むしろ山背大兄王の落人一派――太子信仰側――であった、ということになるのでしょうか。
 実は、それが十分あり得るのです。ご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、前にも触れたように、なにしろ太子信仰の本場、大阪の四天王寺自体にその傾向があるからです。ややこしいことを言えば、厳密にはその四天王寺運営(?)の実質は「公人(くにん)」と呼ばれる物部守屋に仕えた奴婢(ぬひ)の末裔の方々によるところが大きいらしいのですが・・・。
 いずれ、現地探索によって少々気になるものも出てまいりました。それらを踏まえて、この伝説が示唆するものを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。


 先日、半強制参加で自由度がほぼ皆無の団体旅行――それが悪いというわけではなく気まぐれな私的歴史探索が不可能という意味――があり、福島県会津地方のとある温泉に行ってまいりました。最終日、宿泊施設のチェックアウトまでのわずかな時間、土産品売り場で赤ベコを買う(cow?)一方で、『会津の歴史伝説 とっておきの23話 (歴史春秋社:小島一男さん著)』という本を見つけ、手にとって眺めてみておりました。すると、これがなかなか興味深く、ついつい衝動買いをしました。そして、それだけにとどまらず、この本は再び私を会津の地に出向かせてしまうことになるのでした。
 とはいえ、そもそも私は会津地方、とりわけ「会津若松」という都市がたまらなく好きで、山形県庄内地方同様、実は毎年2〜3回は訪れているのです。
 会津周辺の歴史は、東北地方には珍しく幅広い時代においてそれなりに日本史級です。四道将軍オオビコとタケヌナカワワケの再会伝説しかり、伝教大師最澄を論破した高僧徳一しかり、蘆名(あしな)氏対伊達氏の奥州ダービー決勝戦しかり、伊達政宗対蒲生氏郷の心理戦しかり、上杉景勝の徳川家康挑発しかり、戊辰戦争と白虎隊しかり・・・。
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    実に粋な命名です。

 こう見えて私もそれなりに忙しい身なのでなかなか宿泊するまでには至らないのですが、夕闇せまる黄昏時に哀愁漂うこの城下町を散策しようものなら、そのまま古(いにしえ)の暖簾をくぐりぬけ、旨い会津の地酒に酔いどれて、未だ随所に残る古都の風情に今宵を通り過ぎてしまいたい、という衝動にかられます。
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 「会津若松」と言うと、一般的には幕末の会津藩、すなわち、松平容保(まつだいらかたもり)や戊辰戦争、白虎隊といったイメージが強いのですが、それもさることながら、私は伊達政宗のライバル「蒲生氏郷(がもううじさと)」の再開発した都市としてただならぬ魅力を感じております。そもそも“若松”という地名も、伊勢松坂から領地替えされた“松”好きの氏郷が名づけたものです。
 氏郷は率先垂範の武闘派であると同時に、行政手腕にも卓越しておりました。元々近江に生まれた氏郷ですので、伊勢商人ばかりか近江商人とのコネクションも浅からぬものがあったようで、楽市楽座を導入するなどして会津若松を商都として昇華させ、後世にまで残る遺産のようなソフトの部分での礎も築いております。ライバルの伊達政宗同様、あと少し早く生まれていれば天下人になったかもしれないとさえ言われております。たしかに、あの織田信長に器量を買われて娘――冬姫――を嫁にもらったくらいですから、その才覚については想像するに難くありません。信長血統の女性を異常に欲していた羽柴秀吉は、それをどのような思いで眺めていたのでしょうか。氏郷は、生まれるのが遅すぎただけではなく、死ぬのもまた早すぎました。彼が惜しまれながらも若くしてこの世を去った原因には、秀吉に毒を盛られたからだという俗説もまことしやかにささやかれております。その才覚が危険視されていたということもさることながら、求められて信長の娘と結ばれた氏郷に対する秀吉の湿り気のある感情も、少なからず世間から邪推されていたからなのでしょう。
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 先日、久しぶりに氏郷の霊廟を訪れてみたのですが、司馬遼太郎さんが「姿がよい」と評価していた墓標たる五輪の塔の手前すぐ傍に、それとほぼ同等の大きさの七層の天守閣オブジェが添えられておりました。10年ほど前に「レオ氏郷南蛮館」で見た安土城さながらの漆黒天守閣の摸型をそのまま石像にしたかのようなオブジェは、やや歴女のお嬢様ウケを狙ったかのような下心は感じたものの、地味な氏郷の偉大な底力も伝わってきたので、結果オーライと受け止めました。
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 ところで、本来書きたかったことからだいぶ離れてしまいました。どうも会津の魅力が私を狂わせてしまうようです。私が今回触れたかったのは、会津若松市の東端猪苗代湖に接する「経澤(へざわ)」という村落に伝わる太子信仰と物部守屋の娘の話です。かといってせっかくここまで蒲生氏郷について語った原稿を消すのももったいないので、このまま一つの記事として残しておくことにします。

 かつて、私を輩出――排出?――した今野家には、毎年近しい親戚が集って旅行に行くという恒例行事がありました。ある年のそれは、福島県いわき市の「常磐ハワイアンセンター」でした。
 マイカーが一家一台の時代、我が家のトヨタカローラだったか日産サニーだったかは忘れましたが、私と仲のいい従兄弟も同乗しておりました。
 宮城県岩沼市で国道4号から分かれた国道6号は浜通りをはるか東京方面へ南下します。やがて福島県原町市――現:南相馬市原町区――に近づくと、煙突のような塔が見えてきました。そろそろ長いドライブにくたびれてきた私たちに父が投げかけます。

 「あの塔がこの道路の右にあるか左にあるか当ててみろ」

 さあ、にわかに車内が賑やかになってまいりました。私たちはなんの根拠もなく右だ左だとあたかも賭けのような興奮に包まれておりました。あまりに高い塔のため、よほど遠くから見え始めていたせいかいつまで経っても近づいてきません。これが、道路のワインディング状態に合わせてどちらにも見えてしまうものですから、その都度盛り上がることこの上なしです。
 さて、その塔は20年以上も前に解体されております。
 新聞記事でその解体のニュースにショックを受けた記憶があります。そのたあいもない“賭け”以外に特に思い出があるわけではないのですが、妙に心に刷り込まれて残っていた風景なのです。とうに役目を終えた時代遅れのその塔は、老朽化した鉄筋コンクリートが剥落するなど大変危険な状態にあったとかで、たしか鳥の巣になっていたとも記事にはあったと記憶しております。
 ここ数年平気で数百キロを移動してしまう私にはこの原町までの距離など、どうということも感じなくなっているわけですが、それでもこの地を通るたびに過去の記憶がよみがえり、その塔がなくなってしまっていることに寂しさを感じております。
 その塔は大正10年に開設されたという“無線塔”でした。
 それは、日清・日露戦争に連戦連勝の我が国が世界の一等国へまっしぐらに突き進んでいた時代で、この無線塔の目的も情報戦争に乗り遅れまいとした国家の威信がかかった、特にアメリカを意識した外交戦略上実に重要なものであったようで、高さも200メートルと当時としては驚くべきものでした。これは東京タワーが完成するまでは東洋一の高さであったのだそうです。
 この塔の武勇伝で最も有名な話は、大正12年に関東大震災の第一報をアメリカに打電したことでしようか。
 現在、昔のように国道6号を南下して原町に入ると、ささやかに当時の風景の名残があります。塔の跡地に10分の1のミニチュアがモニュメントとして残されており、10分の1とは言え20メートルもあるわけですからいっぱしのビルディング並みはあるわけで、距離感が麻痺していれば思わず「お!」と思わせられます。
 やはり地元の人たちにとっても、いえ、私などとは比較にならないほど思い出のつまった塔であったのでしょう。

1977年当時の無線塔:いわき方面から望む
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現在の10分の1オブジェ:仙台方面から望む
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