|
東北新幹線が開通する前、仙台から東京へ行く手段の主流は国鉄の特急電車でした。
都市地理学では、日本の都市の階層として、まず頂点にいわゆる三大都市と呼ばれる東京・大阪・名古屋があります。 この三都市は日本の中心都市であると同時に、各々、関東・中部・近畿の中心都市の役割も担っております。それ以外の“いわゆる地方”については、三大都市に続く四大広域中心都市と呼ばれる札幌・仙台・広島・福岡が、各々北海道・東北・中国四国・九州における中心都市という性格を持ち合わせております。 さて、これらの都市と首都東京を連絡する交通手段として、札幌はほとんど飛行機であり、広島や福岡については飛行機はもちろん、プラス新幹線がありました。 ところが仙台は東京からたかだか360キロ程度の距離のため、飛行機では少々半端で、かといって新幹線も開通していない時代となれば、自ずと国内で最も特急電車が充実せざるを得ない都市となっておりました。仙台発着の特急電車としては東北本線経由の「ひばり」と常磐線経由の「ひたち」があり、さらに青森までの「はつかり」や盛岡までの「やまびこ」などを含めると、相当な本数の特急電車が仙台駅に集中しておりましたので、当時の鉄道ファンには涙ものだったことでしょう。 かくいう私も、特急電車は常に憧れの存在であり、当時流行した松本零士さんの『銀河鉄道999』などの影響で踏切の遮断機が下りるたびどんな列車が現れるのかワクワクしたものでした。 やがて、新幹線が開通すると、遮断機の風景も実につまらないものとなり、私の鉄道熱も冷めていくのでした。 それでも、常磐線については未だに特急電車が重要で、わずかながら「スーパーひたち」なる近未来的なデザインの特急電車が、陸奥国と常陸国という“製塩文明の聖地”を結びつけているのです。 あまり自家用車で遠出をしなかったころ、特急ひたちで常磐線を南下するといつも心に残る風景がありました。それは福島県いわき市にあります。当地に近づくと、荒々しい波しぶきに洗われている沖合の孤独な鳥居が車窓の風景として飛び込んでくるのです。 夏、30年間も気になっていたこの鳥居のある小島に、はじめて渡ってみました。本土からしっかりと橋で連絡されており、渡るのに全く困難はありませんでした。 ふと、私は本土側にあった寺も気になりました。「波立(はりゅう)寺」と呼ばれるこの寺は、「波立(はったち)薬師」なるお薬師さまが本尊となっており、なにより、あの会津の名僧「徳一(とくいつ)」関連の寺であったのです。徳一は、あの最澄に寿命を縮めさせるほどの論争を展開し、天才空海をして「徳一菩薩」とおべっかを言わしめさせたほどの奈良仏教最後の砦であった高僧です。 それにしても、素朴に思ったのは何故「薬師瑠璃光如来」なのだろう、ということでした。 そういえば、徳一の本拠である会津の「慧日寺(えにちじ)」や「勝常寺(しょうじょうじ)」でも薬師如来は本尊とされていたようでした。 例えば、慧日寺ははじめ平安京の清水寺由来の会津清水寺として清水観音を祀っていたはずでした。 それが徳一のどのような思惑で薬師信仰へと変質していったのかは気になるところです。 もう少し言うならば、徳一は本来奈良仏教の南都六宗の一、法相宗の僧であり、その理念でもって最澄・空海といった朝廷を背景にした最新鋭の仏教家と対立していたことは言うまでもありません。 その法相宗は初祖を弥勒菩薩としていたはずです。真正直に仏教各宗派の字義通りに考えていたならば、少なくとも表面的には支離滅裂と言わざるを得ません。 しかし私は仏教家ではありませんので「これはおかしい、間違っている」と言ってもなんの意味もありません。そこには時代背景や何故この東北の地に根付いているのか、などの周辺事情も眺めなければいけないのだと思います。 少なくとも、この徳一が活躍した時代は、アテルイやモレといった陸奥の英雄たちが坂上田村麻呂と和睦し、しっかり桓武天皇や公家にだまし討ちされた直後のことでした。私はそのあたりに意味を感じざるを得ません。 徳一は、一体どのような思惑で会津に現れたのか・・・。 史料に事績が少ないことからみると、本来朝廷の意思とは無関係なところでこの地の疲弊した民の心を慰撫しにやってきたのかもしれません。 やがてその役割は朝廷の意思に基づき、最澄の弟子である慈覚大師円仁が担うことになったのでしょうが、徳一を眺めることはその時代のわずかな空白部分、しかしながら重要な何かが含まれていただろうその隙間を、さまざまに想像させられるのです。 徳一は、他の奈良仏教の僧とは異なり、激しく自分の思想というものを所有しておりました。 どのような理由で会津に流れてきたのかはわかりませんが、たまに見かける朝廷の戦後処理の慰撫政策として配されたと考える仮説には違和感を感じざるを得ません。 理由は、公式な役割にしてはあまりに記録が残っていないことや、仮に朝廷の意思に基づくものであれば、会津ではなく、多賀城以北に痕跡を残すべきではなかろうかと思うからです。 また、最澄や空海への挑戦状を見ていると、政治とは無縁なところにある純粋な仏教家としての愚直さを感じます。 いずれ、私は徳一の行為はやはりプライベートな理念に基づくものだったのではないか、と勘ぐらざるを得ないのです。 それにしても、「波立寺(はりゅうじ)」・・・。 「はりゅう」という語感からは、伊達政宗に滅ぼされた会津芦名氏につらなる針生(はりう)氏を想像させられますが、太田亮さんの『姓氏家系大辞典』によれば、針生氏は「桓武平氏の三浦氏族 岩代國會津軍針生邑より起る」とあります。「はりゅう」という語彙は、どうやら会津とは縁が深い言霊と考えてもよさそうで、おそらくそれはこの徳一の思想に関係し、由来するものなのでしょう。 ふと、「はりゅう」とは「波立」ではなく「波龍」だったのでは、などと勘ぐったりもするのですが、それはともかく、この「いわき」という都市は、都心部の地名にもあるとおり「平(たいら)」とも縁が濃い地です。 尚、このエリアの首長たる磐城国造家が「丈部系」であったという部分は、例えば宝賀寿男さんの丈部氏がスクナヒコナ神裔であろう、とする基礎理論を借りるならば、さきほどの薬師如来に対するちょっとした疑問にもつながってくると思われます。なにしろスクナヒコナ神は、本地仏を薬師如来に比定されることが極めて多いからです。 弥勒菩薩を宗祖とする法相宗の僧である徳一が、この地において薬師如来を第一儀の本尊に据えた理由が、そのような民の感情を尊重したからなのだとしたら、これは面白いな、などと考えております。 |
亀の風土記:福島県
[ リスト | 詳細 ]
|
徳一が開山した磐梯山麓にある「慧日寺(えにちじ)」の壮大な伽藍は、戦国時代の戦火によりほぼ焼失しております。その歴史的損失に憤りを感じていたところ、それを決行したのが、なんとおらが殿様の伊達政宗だと知り、とても複雑な気持ちになりました。 この近くにある「摺上原(すりあげはら)」は、伊達政宗ファンなら御存じのとおり、宿敵である鎌倉以来の名門芦名氏との奥州の覇権をかけた決勝戦の地であり、この戦によって芦名は滅び、政宗は自領も含めると軽く100万石を超える領地を管掌することになりました。秀吉と対決姿勢を示していた小田原北条氏が政宗の援護を待ったというのも当然であったことでしょう。いずれ、会津を制するということは奥州を含めた東国全域に睨みを効かせる上で大変重要なことでした。だからこそ秀吉はこの地に蒲生氏郷や上杉景勝といった大物を、徳川幕府は二代秀忠の隠し子保科氏――のちに松平氏を名乗る――を配し、言うなれば大坂や名古屋同様、とにかく天下人の直轄領に近い扱いをしてきたのでしょう。 さて、仙台の小学生の修学旅行は、たいてい会津地方です。私にも小学生時代があり、生まれて初めて“湖”というものを見たのがその修学旅行のときでした。 「湖」。なんてロマンチックな響きなのでしょう。宮城県には「釜房湖(かまふさこ)」という“とりあえずの湖”はありますが、これはあくまで人工的なダム湖であり、少年期の私の中では意味もなく認めることの出来ない湖でした。 また、もっとも湖の体をなしている伊豆沼については、かなり私の琴線に触れる存在ではありましたが、あくまで“沼”扱いなので幼き私はほぞを噛むような気持ちで地図を眺めていたものです。 会津磐梯エリアにはやたらと湖が多く、その中でも特に別格の猪苗代湖は、琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖につぐ日本第4位の面積を誇る湖です。 ちなみに、私の中では勝手にサロマ湖を認めておりませんでした。地図を見るに、一部が直接海とつながっていたからです。これは内海だ、というのが幼き私の意味不明な見解でした。 とにかく、初めて見た猪苗代湖は巨大でした。生まれた家の近くにもたくさんの沼があり、よくザリガニ獲りなどをしておりましたが、そんなものとはまるで比較にならない広大さと、波が打ち寄せる湖畔の光景に初めて触れた仙台っ子たちは、一同に「これぁ海だべや!」と絶叫し、異常な興奮状態になった記憶があります。 さて、会津の名僧徳一がこの地に来たのは平安時代のようですが、それ以前から、この地には磐梯山(ばんだいさん)に対する原初的な山岳信仰があり、そして、なんらかの山岳修験が息づいていたようでした。そのようにここにはそもそもの神聖な地としての下地があり、徳一の法もこの地になじんだようです。 磐梯山は生きた火山であり、言伝えによると大同元年(806)の大噴火によって、2,000メートル以上あった単独峰のコニーデ型――富士山のような形――が4峰をいただく多峰山になったようで、近代に入り、明治二十一年(1,888)にもその山容が大きく変わるほどの激しい大噴火をしております。 裏磐梯と呼ばれるエリアの湖沼群は、そのときの噴火物で川がせき止められたことによって生まれたものです。「桧原湖(ひばらこ)」という湖があるのですが、伊達政宗が芦名と決戦をするために米沢から越えてきた当時には存在しませんでした。 その湖底には水没した神社の鳥居があり、昔の集落の面影を見ることができます。なかなか薄気味悪いものですが・・・。 そのような激しい火山であればこそ、民衆も恐れながらも崇敬していたのでしょうが、かつては磐梯山は「いわはしやま」と呼ばれ、天空に連なる磐の梯子という意味合いをもっていたようです。 ところで、磐梯山(いわはしやま)という名前もなかなかに興味をそそられるのですが、この稿を書こうといろいろ調べているうちに、久しぶりに私の妄想癖がうずいてしまいました。
私が気になるのはここに根付いていた山岳修験の「大伴家」です。 この大伴が、武列天皇や継体天皇を補佐した大連(おおむらじ)「金村(かねむら)」や、万葉集の「家持(やかもち)」らの大伴氏と関係があるかどうかは、これから考察するとして、どうもこれが豊前英彦山(ひこさん)の修験道とも無縁ではなさそうなのです。 さらに、英彦山付近の地図を見ておりますと、福島県会津のこの地「耶麻(やま)郡」と、訓が共通する「耶馬」なる地名を散見出来、尚この付近には八幡総本社の宇佐神宮があるのです。ここは道鏡事件と密接に関連しておりましたが、徳一は、その事件で失脚した藤原仲麻呂の子と伝わっているのです。 更に付け加えるならば、その福岡県田川の地には、「香春(かわら)郷」があり、ここを精神的な主柱に据えた「秦(はた)氏」の王国が展開しておりました。 前に私は大伴氏と秦氏のつながりを、出羽三山信仰――羽黒修験道――の開祖、蜂子皇子や、その母親小手姫を通して眺めておきました。今あらためてそのあたりの好奇心がメラメラと燃えてきたのです。 まだ仮説としてまとまっておりませんが、“本能的な嗅覚”だけを頼りに、この後しばしそちら方向に思考を巡らせてみたいと思います。 |
|
磐梯山 「泣くよ坊さん平安京」 延暦十三年(794)、桓武天皇は首都を平安京に遷しましたが、中学生の頃、その暗記方法としてこれを覚えさせられました。おそらく教える先生によって暗記方法は異なっていたのだろうと思いますが、市販されている参考書などでは 「鳴くよウグイス平安京」 という暗記方法が大勢を占めておりました。 今でこそ東北人であることを誇りに思える私でも、ウン十年前の思春期には人並にコンプレックスがあり、自分が覚えさせられた“泣くよ坊さん”が、中央の参考書が提唱する“鳴くよウグイス”の持つ雅やかな響きに比べ、妙に田舎くさく思えてものすごく嫌だった記憶があります。 しかし、今は違います。別に意地を張っているわけではなく、私が覚えた暗記方法が実によく出来ている奥深いものだと気付いたからです。何故なら、この平安遷都によってたしかに坊さんは“泣いた”のです。これをウグイスで覚えてしまったら、それ以上の意味は含みません。せっかく覚えても、高校受験用の暗記だけで終わってしまうのです。 桓武天皇が平城京を棄てた最大の原因は、個人的見解としては怨霊から逃れるためであったということになりますが、それはさておき、政治的にも僧侶による介入が著しくなってきたことも見逃せません。特に称徳女帝――孝謙天皇――と道鏡の事件は、曲がりなりにも万世一系を継承する意味では史上最大級の危機に瀕しました。この件は別稿であらためて触れようと思いますが、いずれ英雄桓武天皇としては平城京にはびこる当時最高知識階級の奈良仏教――南都六宗(三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・成実宗・倶舎宗)――の支配から脱却する必要がありました。 しかし、国家経営の観点からすれば、大陸の進んだ文化を取り入れるためには、仏法そのものを完全に棄てるわけにはいきません。 まして、桓武天皇は、自分の直系がのし上がるために皇位継承のライバルをことごとく陥れてきておりますので、一族の怨霊にも怯える羽目になっており、とにかくあらゆる除霊力なり鎮魂力を欲しておりました。結局“仏法の力そのもの”も欲しかったのです。 したがって桓武天皇には、既得権とは無縁の仏教勢力の構築も必要でした。そして、そのようなニーズに応えるかのように最澄と空海が現れました。空海の台頭は少し遅れて二代後の嵯峨天皇の頃になりますが、エリートである最澄は早いうちから重宝されておりました。当然、平城京にはびこっていた奈良仏教勢力は、この新手の僧侶、最澄を苦々しく思っていたのです。彼らはなんとか生意気な新参者の御用僧最澄をつぶそうと考えますが、洗練された最澄の完成された理論を論破することは出来ず、逆にことごとく返り討ちにあってしまいます。 ところが、この仏教界の変事に立ちあがった孤高の法相僧がおりました。辺境の会津の地に、奈良の僧が総がかりでも敵わなかった最澄と単独で渡りあえる“眠れる怪僧”が表舞台に現れたのです。 「徳一(とくいつ)」です。 彼はなんらかの事情で会津におりましたが、間違いなく中央仕立ての最高知識を保有しており、しかも奈良の誰よりも仏法を極めていたのです。 徳一の史料は極めて少なく、ほとんど最澄や空海とのやり取りの中でしか語られることがありません。したがってこの最澄との対決は、神格化されない生の人間としての徳一を知る情報として、最も貴重なものと言っていいと思います。この対決を世に「三一権実論争」といいますが、これはお互いの書簡のやりとりによって実現した対決なので、片方が逸失していても、往復やりとりの片方の回答や問題提示のおかげで、その相手方の理論もおおよそ推察出来るというものになり、幸いこのおかげで最澄・徳一という平安期の新旧を代表する怪物の理念がどういうものであったかが、かなり正確に現代人にも伝わることとなったのです。 この論争は当然かなり高度なもので、私ごときが理解出来るものではないのですが、それでもあえてその主旨についての風景として、ひとつだけ例に挙げて語っておきます。 まず、「大乗仏教」という言葉については触れておかなければなりません。 元々お釈迦様は、仏法が宗教であるという観念はありませんでした。純粋に自分自身が悩み抜いた苦しみから解放される、いわゆる悟りを開いたに過ぎません。しかし、その悟りに至る思想経緯というものがあまりに崇高な理念であったがため、後世がそれをより高度な宗教観、あるいは哲学へと仕立てて行きました。 当初はこの悟りを開けるものは、お釈迦様のような限られた選ばれし者のみと考えられました。それが、長い時間のなかで変質した仏法においては、努力次第では誰でも悟りを開くことが出来る、という概念が生まれ、悟りへの道に乗り物があるものと例え、これを一般に「大乗仏教」と呼ぶようになりました。この大乗仏教の立場からすると、かつての選ばれし者のみが悟りを開けるとする考え方は極めて次元の低い古臭いもので「小乗仏教」と蔑むようになったのです。現在ではこの差別用語的表現が改められ、「上座部仏教」と呼ばれるようになっております。最澄と徳一の論争の中にも、やや、このぶつかり合いが出てくるのです。 最澄の主張するところは「一乗思想」すなわち、悟りの世界へ導く乗り物はすべて同じものであるとするものです。 例えば“悟り”という目的地に辿りつくジャンボジェット機があったとして、最澄はそれを悟りへ到達する唯一の乗り物であり、小乗仏教の方々が空港まで自家用車なり、鉄道なり、モノレールなり、なんらかのリムジンに乗ってきたのだとしても、結局それはその飛行機に乗るための手段であって、最後はみんなジャンボに乗って行くのだ、としているのです。 これに対し、徳一は、「三乗思想」を主張します。これは自家用車――小乗――と、ジャンボジェット機――大乗――に互換性はないとするものです。少し専門的な言葉に触れるならば小乗を「声聞乗」、「縁覚乗」という二つの乗り物に分け、大乗の「菩薩乗」とはっきり区別し、この三つの乗り物は各々行き先は別であり、菩薩乗でのみ“仏”という目的地に到達できるのだというのです。 つまり、自家用車や鉄道、モノレールは、悟りの世界はもちろん、空港にすら行かない、と言っております。 徳一、いや、法相宗に言わせれば、全てのものは深層にある種子の発現であるとして、種子は現実により造られ、また逆に種子から現実も造られるという、いわゆる輪廻のような相互関係にあるのですが、悟りの種子だけは新たに造られることはない、というのです。 簡単に語るつもりが少しまわりくどくなってしまいしたが、つまり、悟りは悟りを開ける特別な遺伝子を持った者のみが成し得る、と言っております。 どちらが正しいということは私にはわかりませんが、少なくとも奈良仏教が後世に廃れた理由はここにあるのでしょう。ここには宗教として致命的な欠点があります。つまり、これでは“救われたい大衆”からは“支持され得ない”のです。 例えば戦国時代の一向宗のように、阿弥陀如来が庶民に爆発的に信仰が出た理由は、信じれば誰でも救われると教えるからです。宗教というものは、原則、人が悩み苦しみから救われたい感情があるからこそ成立するものであって、突き放されるよりは迎え入れてくれる仏を信じたくなるのは当然でしょう。 それはともかく、最澄と徳一の論争は別次元です。どちらが本来の仏法に近いかと言ったら、おそらく徳一であったことでしょう。 この論争は当初徳一が圧勝したものの、その後激しい論戦が繰り広げられた揚句、最後は最澄が勝利したとされております。 しかし、これは法相宗に比べ、天台宗が後世まで強い影響力を残したがため、どうもその一派が流布したものとも言われております。 いずれ、最澄は命がけでこの論争に臨んだのでしょう。よほど精神力をすり減らしたようで、ほどなく疲労死してしまいます。 ちなみに、もう一人の怪僧「空海」はこのときどのような態度をとっていたのでしょうか。 実は、徳一はこの空海にも喧嘩を売っております。 しかし、空海は徳一との論争を避けました。ここが空海と最澄の違いのようで、空海にとってはおそらく不毛の論争に映っていたのでしょう。空海は無駄な戦いを回避し、徳一を「徳一菩薩」と最大級の賛辞の意味を込めて呼び、表面上は媚へつらっております。 いずれ、最澄・空海のように表立っては取り上げられませんが、彼らと対等以上に渡り合ったとんでもない怪物僧呂が東北地方にいたことは、是非全国の皆様にも知っていただきたいところです。 慧日寺徳一廟
|


