はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

亀の風土記:島根県

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 富氏ゆかりの地をたずね、手持ちの地図ではおおまかすぎて今一つ掴めない状態に悩まされたので、当地の某コンビニエンスストアで昭文社発行の出雲市の地図を眺めました。その地図には出雲市の隣町「簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町」も含まれておりましたので、結局買い求めることにしました。なによりも、書店ならいざしらず、普通のコンビニのレジの前に陳列されて折りたたまれている地図を、無造作に開くだけ開いておいて結局買わない、というのは、まがりなりに日本人のはしくれとしての私のきわめて独特な美学に反してしまう、ということもありました。
 それはともかく、お、と思ったのは、富村という地名に「とびむら」と振り仮名がふってあったことでした。長くこの『はてノ鹽竈』を読んでくださっている方なら私のその反応をご理解いただけると思います。私の仮説では、とある一族が関わっている場合、トミとトビは同義であると考えるからです。また逆のことも言えます。トミという地名を見つけた場合、その近辺にいくつかのキーワードを探すことによって、そこがそのとある一族に関わりがあった可能性を推測することも可能になるのです。その一族とは言うまでもなく、長髄彦(ながすねひこ)をはじめとする鵄邑(とびむら)の一族、すなわち私が名づけるところの“トビの一族”です。
 トビの一族とは、『日本書紀』ですら認めるところの、「畿内の先住民族」です。トミノナガスネヒコのトミは、長髄彦の根拠地“鵄邑(とびむら)”に由来します。鵄は猛禽類のいわゆるトンビのことで、彼らのトーテムであったのではないか、と私は疑っております。トビはもちろん漢字の輸入以前からあった語彙でしょうが、他の多くの日本語同様、やがていろいろな漢字表記があてはめられたようです。「鵄」、「登美」、「鳥美」、「富」などなど。そしておそらく「鳥美」の表記から「トリミ」の読みが生まれ、「鳥見」、「鳥海」などにも変遷していったのではないでしょうか。それは奈良県の鵄邑比定地の地名表記を眺めていれば自ずと推測出来ます。その法則が、この簸川郡の怪しき地においても通用しているようです。そして、この“富村”こそが富神社のある地であり、おそらくは出雲神族の裔を自称する富氏の本拠地なのでしょう。もちろん、富氏は元からこのあたりに居たわけではなく、もしかしたら出雲大社の近くにいたのかもしれません。
 ちなみに、この地に富氏のご先祖様が住みついた時期は、私は国譲りの直後あたりからではないか、と考えております。それは、この地をうろついていたときにふとそう思ったのです。何故なら、この地は出雲軍最後の砦、健御名方(たけみなかた)神――諏訪神――が武甕槌(たけみかづち)神――鹿嶋神――と経津主(ふつぬし)神――香取神――に敗れた場所でもあるようだからです。富氏はその遺恨の地に住み着いたのではないでしょうか。
 私は富神社を探してこのあたりをうろうろしていたとき、遠くの田んぼの中にぽつりとある聖域が目に止まりました。何かがあるに違いないと直感し、そこに向いました。到着してみると「式内社 鳥屋(とや)神社」と書いてありました。ここは延喜式式内社であったようで、『出雲國風土記』にも登場するなかなかに由緒のある古社であったようです。なにより、次の表記に私は釘付けになりました。

“出雲國國譲り決戦地(発祥地)”


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 案内説明板には次のように書いてあります。

――引用――
 古事記、国譲りの条に「国譲りに最後まで反抗された、出雲国唯一剛勇の神、建御名方命は、高天原(たかまがはら)からの国譲り交渉の使者建御雷命(タケミカヅチノミコト)に対して千引(ちび)きの岩を両手で捧げ“わが国に来てわけも無いのに国を譲れとはけしからん”と、その岩を投げつけられた。しかし、建御雷命は巧みにそれを避けて反撃、二神の争いはしばらく続いたが、建御名方命の力及ばず信濃国(しなののくに)の諏訪まで逃げられ、ついに降参され国譲りを認められた」とある。
 投げられた千引きの岩は内海に立ち、そこへ多くの鵠(白鳥)が群がった。里人達はその風景がまさに鳥小屋のように見えたので、この地を鳥屋という地名になった。そしてその岩の上に建御名方命ご鎮座の鳥屋社が造営されている。
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 ここでまた私の好奇心を刺激するキーワードが出てまいりました。
 “白鳥”です。
 これを谷川健一さんの理論を重ね合わせて物部氏の痕跡と考えるべきか、あるいは、もしかしたら諏訪に逃れたと言われる健御名方が実はこの地で戦死しており、白鳥の飛来をその霊魂の化現と重ね合わせるべきか、いずれにせよこの伝承は興味深い示唆に富みます。
 鳥小屋云々はおそらくこじつけでしょう。
 少し想像を加えるならば、「鳥屋(とや)」は「とりや」と読まれていたとも考えられ、もしかしたら「とみや」ではなかったのでしょうか。もちろん、長髄彦――登美毘古(とみびこ)――の妹“登美夜毘賣(とみやびめ)”の名前にも使われている「とみや」です。
 さて、もし私の想像どおりであれば、「登美夜毘賣――記の表記:紀では三炊屋媛(みかしきやひめ)――」は「邇藝速日(にぎはやひ)――記の表記:紀では饒速日(にぎはやひ)――」の妻であり、つまりは物部氏の祖「宇摩志麻遲(うましまぢ)――記の表記:紀では可美真手(うましまで)――」の母でありますから、谷川健一さんの法則どおり白鳥とも無縁ではなくなります。
 ただ、ここで注意しなければならないのは、富氏の伝承では饒速日が出てこないということと、物部氏は出雲神族にとって憎むべき存在であった、ということです。仮にこれを信じるならば、白鳥――物部氏――の言い伝えは、物部氏が出雲神族の痛みに群がったもの、という毒舌的な推察も可能になるのかもしれません。

※平成24年6月27日追記
 出雲神族の裔を自称する富當雄さんのご先祖を祀るという「富神社」も、正しくは「富(とび)神社」と読むようです。
 また、記事掲載当時、私は長髄彦のトーテムとして鳥のトビと、富氏が主張する「竜蛇族」とで迷っておりました。その後、トビが朝鮮諸国も含めて「帝王」や「最高支配者」を指すという戦前の論説を知りました。
→参照:『トビへの試論備忘録――平成二十三年末現在――』
 トミとトビ――必ずしも猛禽類あるいは饒速日を指す意味に限定しない――は若干の発音の相違はあるものの原則同義であると考えますが、それがそもそも何に由来する言葉であるのかについては未だペンディング事項であることを、ここに注記しておきます。
 『日本書紀』は、出雲の国譲り神話を次のように語っております――宇治谷孟さん訳『全現代語訳 日本書紀(講談社学術文庫)』より――。

――引用――
 武甕槌(たけみかづち)神が進んでいわれるのに、「どうして経津主(ふつぬし)神だけが丈夫(ますらお)で、自分は丈夫ではないのだ」と。その語気が大変激しかったので、経津主神にそえて、共に葦原中国に向かわされた。
 二柱の神は、出雲の国の五十狭(いたさ)の小汀(おはま)に降られて、十握(とつか)の剣をぬいて、倒(さか)さまに大地につき立てて、その先に膝を立てて座り、大己貴(おおあなむち)神に尋ねていわれるのに、「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこでわれら二人を平定に遣わされた。お前の心はどうか、お譲りするか、否か」と。そのとき大己貴神は答えて、「私の子どもに相談してご返事いたしましょう」といわれた。このときその子事代主(ことしろぬし)神は、出雲の美保の崎にいって、釣りをたのしんでおられた。あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。そこで熊野の諸手船(もろたふね:多くの手で漕ぐ早船か)に、使いの稲背脛(いなせはぎ:諾否を問う足)をのせてやった。そして高皇産霊尊の仰せを事代主神に伝え、その返事を尋ねた。そのとき事代主は使者に語って、「今回の天神(あまつかみ)の仰せごとに、父上は抵抗されぬのがよろしいでしょう。私も仰せに逆らうことはしません」といわれた。そして波の上に幾重もの青柴垣(あおふしがき)をつくり、船の側板を踏んで、海中に退去してしまわれた。

 『日本書紀』では、この後すぐに大己貴(おおあなむち)――大国主――は国を譲ります。
 しかし『古事記』では微妙にニュアンスが異なります。『古事記』では、事代主は「その船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して」隠れたようです。つまり“逆手”というなにやら不気味な呪法を施しながら自殺したようなのです。そしてその後、事代主の兄弟にあたる建御名方(たけみなかた)――日本書紀では健御名方――は断乎たる抵抗の姿勢を示します。
 さて、私は、出雲に出向いたからには、この事代主入水の地も一目見ておきたく美保崎に向いました。
 米子に宿をとっていたので、境港市街の美保湾沿岸、国道431号を北上しました。このあたりを弓ヶ浜というのでしょうか、実に松並木が美しい海岸線で快適なドライブを楽しめました。この平坦な海岸線を抜けると、一転して岬めぐりの様相を呈してくるのですが、海岸までせまる断崖を岬の先端に向かって走り続けているうちに、「事代主神はおそらく闘ったんだろうな・・・」という思いが芽生えてきました。 記紀では事代主は美保崎で釣りなり鳥狩なりをしていたとされております。しかし、時は侵略者に国譲りを強要されている最中なのです。しかも事代主は父から重大な判断の結論を求められる程の重要人物なのです。その彼が、この緊急事態に鳥狩や釣りに興じているものでしょうか。この現代でも断崖がせまる海岸線の先にある美保で入水したというのであれば、事代主は追い詰められて敗走してこの地に辿り着いたのでしょう。
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 そのようなことを思い、感慨深く美保神社を参拝しておりますと、一人の老紳士に話しかけられました。他に誰もいなかったということもあるのでしょうが、氏は私に質問してきました。

「ここはなんという神様が祀られているのですか」

 はて、どうしたものか・・・。私は多少のいぶかしさを感じました。何故なら、ここまでたどりつく道中を思えば、あえて観光客がこの地にいるということは、たいていこの美保神社を目指してやってきたはずと思われるからで、であれば、ここがどのような地であるかを認識し、興味があったからやってきたのではないのだろうか・・・。なにしろ、私も一人の観光客であり、むしろ私がいろいろ質問したいくらいの立場なのです。もしかしたら、私が常識的に答えれば「ところがそれは違うんだな」などと、誇らしげに裏話でもお披露目してくれるのかもしれない、そんな期待が芽生えました。

「私は事代主の神様が祀られていると思って訪れたのですが・・・」

と、多少不安げなふりをして答え、ここが事代主お隠れの地であることも含めてお話をしました。すると氏は満足そうな表情で礼をして去ってしまいました。どうやら純粋に質問していたようです。私は自分も観光客の分際で観光案内をしてしまいました。いや、もしかしたら事代主神が化現して私を試していたのでしょうか(笑)。
 ところで、境内に妙な新聞記事が掲示されておりました。“手締め”が島根県発祥であるというのです。その記事によりますと、事代主の逆手は決して呪いではなく、「了解」したときの「手打ち」であるというのです。少なくとも美保神社の関係者はそう考えているのだそうです。
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 では、何故わざわざ手を逆さまにしたのでしょう・・・。
 「そうだ出雲に行こう」
 どこかで見たことがあるフレーズですが、私がそう思ったのは、高速道路が土日1,000円MAXになったからに他なりません。二酸化炭素の排出量云々はともかく、自分自身の行動を省みるならば経済政策としては一応の効果があったもの、と認めざるを得ません。少なくとも私自身、それまで考えもしなかった無謀な消費行動に走ったのは事実なのです。
 それはさておき、私が出雲でもっとも興味があったのは、吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』に紹介された出雲神族の裔“富氏”ゆかりの「出雲井神社」や「富神社」でした。何故かそれらは手持ちの地図にも、現地で買い求めた地図にも書いておらず、さしあたり前述書に散りばめられた情報に基づいて現地到着後に探しました。
 前述書には元サンケイ新聞社記者であり出雲神族の裔である富當雄さんとのやりとりについて、次のような記述がありました。

――引用――
 社会のはげしい動きを追って、それを文章にする新聞記者であり、局次長にまでなった富さんは、つまり活字文化の先端を歩んでいたわけだ。それなのに、なぜ伝承したものを文章化しないのか。
「文字は、ただの記号です。本当の感情を伝えることができるのは肉声しかない。しかも文章にして残せば、敵方に奪われ、迫害され、その記録を焼かれ、書きかえられてしまうおそれがある」
 彼の情熱の源泉は、つねに「おれは滅亡させられた王者の末裔(まつえい)だ」と思うところにあった。大国主命から出雲の国を奪った天孫族は、大国主命の血筋を完全に根絶やしするため、どれほど苛酷(かこく)な迫害をくり返したことか。
 簸川郡富村に、富家の先祖を祀った富神社がある。その紋章は、亀甲のなかに大根が2本、交差した図柄だ。荒れ果てたその社殿の前で、富さんは大根の紋章を見つめた。
「うちの紋章は、亀甲の中にホコが2本、交差したものだったんです。それを貞観2年といいますから、平安時代に大根に変えさせられたんですよ、ときの権力者にね。ホコは王権の象徴ですから」
 紋章ばかりではない。富という姓まで変えさせられた時代がある、大社の町の旧家では、富さんのことを「向(むかい)さん」と呼ぶ。平安時代から明治維新まで、富になったり向になったり、合計11回も家名を変えたものだという。
「敵の力が強いときは、向になるんです。情勢がよくなれば誇りをもって富に戻す機をうかがって、流れに逆らわずに生きる。これは出雲人なんですよ」
 先祖の中には毒殺された者が数名。つい数代前の当主は、迫害から身を守るために狂人のまねをした。

 “口伝”というところが実に悩ましいところで、信じるも信じないも受け取り手次第、ということになります。個人的見解としては、基本的に信じておくことにしているわけですが、かといってこれを論拠に諸々の仮説をたてていくことに注意が必要であることは確かでしょう。
 それはともかく、いずれ何度読んでもすさまじさを感じております。
 当然ながらこういった一言一言が私を出雲に導いたわけでもあります。
 そして私はなんとか富神社を探し出しました。それは現在の簸川郡斐川町にありました。富神社は、都市計画のからみで旧鎮座地から移転していたようであり、現在はさほどに前述書にあるようなさびれた雰囲気はありませんでした。
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 それでも社殿の瓦の家紋を見たときには、なにやらにわかに寒気を覚えた私でした。
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参考までに、以下は宮城県塩竈市の名酒「浦霞」のオーナー佐浦さんの家紋(?)です。
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ちなみにこれは「大根」ではなく「丁子(ちょうじ)」だとのことです。

※平成24年6月27日追記
当該「富神社」は、境内説明板に「富(とみ)神社」とふりがながふってありますが、正しくは「富(とび)神社」と読むようです。

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 「出雲(いずも)」は、古代史ファンであれば絶対に無視出来ないエリアの一つではないでしょうか。
 なにしろ、おそらく日本の先住民族の首長であっただろう「大国主」を鎮魂する聖地なのですから当然です。朝廷は、この大国主――あるいはそう比定される人物――の怨霊を最大限恐れておりました。神話のような平和な「国譲り」などが現実的にあったとはとても思えません。一体どこの世界に侵略者を尊敬して、その振る舞いに理解を示し、母国を差し出すような首長がおりましょう。逆に万が一それが事実だったならば、大国主はあきらかな売国奴であり、首長としてはっきり失格だったと思います。もちろん、そんな売国奴が、そもそも混沌としていただろう古代において、一つの連合国家をまとめあげられるわけがありませんので、おそらく大国主は愛する領民――出雲神族――が亡国の民にならないよう、必死の抵抗をしたはずだと思います。

大国主が国譲りを強制された稲佐浜(いなさはま)――いなさは“ 否然“すなわち“YESorNO”の意味だという――
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 さて、私達は通常10月を暦上「神無月(かんなづき・かみなづき)」と言いますが、これを出雲においては「神在月(かみありづき)」と呼びます。これは何も特別目新しい情報でもなんでもなく『広辞苑(岩波書店)』にすら書いてあるほどのごく一般的な知識です。この言葉の起源は、諸国に坐す八百万の神様が、この月にこぞって出雲に集まったという俗伝に因るようです。つまり、そのとき諸国は「神無し」状態になり、逆に出雲はあらゆる神々が集まっている状態になっているということになります。
 これは、かつての連合国家時代の、いわば“出雲サミット”の名残ではないか、と私は考えます。
 いずれ、出雲はある時期連合国家の首長たる地位にいたのでしょう。それが現在の出雲の地での事かどうかはわかりませんが、少なくともある一時期、出雲民族――出雲神族――が諸国のリーダーシップをとっていたことは間違いないでしょう。
 それだけに古代史において出雲の“怪しさ”はメジャーなもので、逆に今更私が“出雲の謎”を提起したところで特に新鮮味がないのも事実です。したがって、私がわざわざ出雲大社を訪れたのも、決して自分が疑問に感じている何かを探ろうとしたものでもなく、数多の先輩達が論じている「古代史最大級のミステリー」の地に、とりあえずは一度足を踏み入れて置きたかった、という憧れに過ぎませんでした。
 ところが、到着して早々「なんじゃこりゃ!」と松田優作さんばりに立ち止まるハメになったのです。
 何を隠そう、それなりに予備知識を持って訪れたつもりの私でも、現地に行かなければ決して気付かなかった、ある“からくり”に出くわしたのです。
 それにしても、出雲研究を手がけた諸先輩方々が、そのことになんの疑問も抱かなかったのかが、とても不思議です・・・。少なくとも私が目を通した文献等には、このとき私の目の前に展開していた奇妙なからくりに対する記述は、特に見受けられませんでした。
 少々もったいつけてしまいましたが、私が驚いたのは、境内の大鳥居から見て、ずばり、参道が坂を下っていることでした。
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 少し想像してみてください。境内にある鳥居を潜ってから下に降りていく参道というものを、お目にかかったことはありますでしょうか。
 例えば渓流の岸にあるお不動様などであれば、渓谷を下るという宿命的な地理的条件故にそのようになることはよくあることでしょうが、これだけの国家の大社がそうだということにはさすがに驚かされるのです。
 もちろん、そのような神社が他にまるっきりないわけではありません。ここでは触れませんが、少なくともそれなりに大きな神社でも全国に二つはあります。そしてそれらはいずれも脛に傷を持つかのような怪しい神社です。
 振り返れば私達の日常でも、例えば家の中で神棚を祀る場所を神職に相談すれば、まず間違いなく最も高いところに配置するよう言われます。マンションなどで、どうしても神棚の上に人が歩く形になる場合は、天井に「天」なり「空」なり「雲」なりの文字を書いた紙を貼り、そこより上には天空しかないんだという一種のおまじないを勧められた経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。
 それを思えば、参道を下って神様に参拝する設計など、あきらかに神への冒涜であり、あり得ないものだと思うのです。設計ミスなのでしょうか。いえ、それは考えにくいと思います。朝廷が、国を譲ってくれた大国主との大切な約束を守るために最大限の精力をつぎ込んで建立した大社において、少なくともそんな単純なミスを犯すはずがありません。もし、ミスだとしても、いざ着工する際にはあきらかに気付くはずで、なんらかの修正をかけるはずでしょう。相手は史上最大級の怨霊候補なのです。だからこそ自分達の宮殿よりも、仏教の聖殿よりも大きな――高層な――建築物を造ってさしあげたのです。
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雲太、和二、京三・・・・。
 つまり、平安時代に流行した――あえて流行させた――この「口遊(くちずさみ)」という数え唄(?)は、出雲大社の社殿を東大寺や京都御所よりも大きく(高く)建立していたことを意図的に広めていたものと思われます。そしてそれが本当に実現されていたことが、学者のみならず、大手ゼネコンや鍛冶職人などをも巻き込んだハイブリットなプロジェクトチームによる近年の研究で明らかになっているのです。
 やはり、朝廷は大国主との約束どおり――実際にそんな約束があったとは思えませんが――、出雲大社を日本一の建築物として造立していたようなのです。
 境内(?)に新しく出来た博物館では、いくつかの説に基づいたかつての高層社殿の復元イメージモデルが数種展示してあり、更にCGを駆使した映像も流しておりました。これを観て、私はこの壮大な境内全体の設計が、全て意図的であったことを確信しました。特に説明を受けたわけではないのですが、そのCGで観る限り、高層社殿の高さと参道入口の高さがほぼ同じになっていたのです。
 これは私のオリジナルな仮説ですが、おそらく朝廷は、さも大国主が最も偉大であると奉っておきながら、一方で、参道入り口の鳥居からは特に見上げることもなく、ごく普通の目線で社殿を見渡せてしまうように、絶妙なバランスをとったのではないでしょうか。
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