|
称徳女帝の崩御には、暗殺の陰がつきまとっているようです。 『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんもそれを疑っている一人で、郷土史家で道鏡研究家の杉山昌三さんが抱いている疑問などを引用して力説しております。同書に紹介された、その杉山さんの論稿の引用を見てみます。 ――引用―― 病に伏すと天皇(称徳女帝)は勅を発し、それまで弓削浄人(道鏡の弟 大納言)の手中にあった統帥権を左大臣藤原永手に近衛、外衛、左右兵衛を任じ、右大臣吉備真備には中衛、左右衛士の七つの統帥権を与えた。このため宮中の守護は左右大臣に委ねられることになった。また何故か吉備真備の軍勢が数百人で昼夜にわたり宮中を厳重に取り囲み一切の出入りを禁じた。このため女帝の病床に会う事のできるのは吉備真備の娘のみとなり道鏡法王や一切の高官も合うことができないという状況であった。 聖武上皇の病気のとき招いた看病禅師一二六人(又は一三六人)であったという。また光明皇后の病には多くの看病禅師を招いたほか全国の寺院で回復を祈願された。しかるに孝謙天皇の病気には一人の看病禅師も招かず病気平癒の祈願も公に行われていないという全く不自然な事態が生じたことは全く不可解というほかはない。ここに多くの謎がある。 女帝が崩御(8月4日)されるや白壁王皇太子は藤原良継に命じ二百騎の兵を指揮させ八月十七日に大和の国佐貫郷高野に六三〇〇人もの人夫を使って急ぎ山稜を築き女帝を葬った。なぜ厳重な警備と急ぐ必要があったのか? (『道鏡を守る会』会誌8号 カッコ内は引用者) ちなみに、この「カッコ内は引用者」の引用者とは井沢さんです。 井沢さんはこの引用の直後にすかさず「ここに述べられていることは、杉山氏の推測ではない。『続日本紀』などの史料に記載されていることだ。」とフォローを入れた上で、「独裁者である王が重病で倒れた時、あるいは急死した時に、側近が王の意思とは違う命令を出して反対派を粛清することは古今東西よくある」としております。もちろん、井沢さんはこの厳重な面会謝絶と、とても称徳女帝が出したとは思えない勅を疑っております。そしてその例として『史記』にある秦の始皇帝がなくなった際の宦官(かんがん)「趙高(ちょうこう)」の陰謀の話を引き合いに出しております。 たしかに、称徳女帝の崩御は、なかなかに絶妙なタイミングであったと思います。八幡神託事件からほどなくして、称徳女帝は病に伏してしまいました。そして、あれほど信頼をおいていた道鏡を急に突き放しております。十分に不自然な行為と疑わざるを得ないのですが、そもそもその面会謝絶の厳戒態勢自体が既に陰謀を物語っているかに思えます。そしてさらに、崩御後の女帝をわずか14日であわただしく葬ったという事実。これは、井沢さんはもちろん、梅原猛さんなども提唱する殯(もがり)――通夜――期間の長短で自然死か否かを判断できるという法則にのっとって言えば、十分怨霊候補であったと言えます。 しかし、ここで井沢さんはその方向からのアプローチはあきらめております。というのも、この称徳女帝の時代には既にその法則があてはまらないからだといいます。この時代には火葬が導入され、陵墓も小さくなり葬儀そのものにかける時間が短くなっているからだそうです。聖武天皇なども18日間であったといいます。 とは言え、井沢さんは、称徳女帝が大和国佐貫山高野の地に葬られていることに注目しております。もっと言えば、聖武天皇一族――光明皇后や元正天皇ら――が葬られている佐保山に”葬られていない”ことに注目しております。井沢さんの持論で、「異常死した死者は死穢(しえ)に満ちているため通常の場所には埋められない」というものがあります。つまり逆に言えば、そういう形で葬られている死者は自然死ではあり得ない、というのです。井沢さんは、称徳女帝陵の隣に成務天皇陵があることについても根回しをしております。死穢を避けるならば、成務天皇陵はどうなる、という矛盾も出てくるからです。 どういう根回しかというと、そもそも称徳女帝陵自体が、考古学的に言って宮内庁が比定しているこの前方後円墳ではあり得ないということです。称徳女帝の崩御は8世紀であり、前方後円墳では形式が古すぎるのです。結局、“称徳女帝陵は不明”ということになります。 称徳女帝は一体どこに葬られたのでしょうか・・・。 神護景雲四年(770)8月4日の称徳女帝崩御後、道鏡はすかさず中央から遠ざけられました。道鏡は同年8月21日「下野薬師寺」の別当を命ぜられたのです。実は、私はこの異動から道鏡と称徳女帝の間に後世に伝えられるような姦通はなかったと考えております。その理由は以下の引用の中にあります。以下は、栃木県下野市教育委員会の『下野薬師寺跡』のリーフレットの記述です。 ――引用―― 今から1300年前(7世紀末)に建てられました。正確な創建時期を記した文献は残っておりませんが、730年ころに国の出先機関「造下野国薬師寺司(ぞうしもつけのくにやくしじつかさ)」が設置され、国家事業として造営が進められます。749年には法隆寺などの中央諸大寺と同格に列せられました。その後、761年には僧の受戒のため戒壇が置かれ、東大寺、筑紫観世音寺と並ぶ三戒壇のひとつに数えられます。東国仏教の中心的役割を果たした下野薬師寺も、1092年には伽藍が「破壊転倒甚だし」と記されるほど荒廃しますが、鎌倉時代に慈猛(じみょう)によって中興されます。室町時代ごろに足利氏が全国に安国寺(あんこくじ)を建立した際に、寺名を安国寺と改称し、その法灯を今に伝えています。 仏教に詳しい方なら、私が言わんとしていることをもうお気づきかと思います。この下野薬師寺は三戒壇(さんかいだん)の一つ、つまり戒律の指導的立場たる寺院であり、道鏡はそこの別当に就かせられているのです。現代と違って、当時の厳しい戒律は僧にとって絶対的な条件であり、道鏡がもし称徳女帝と男女の関係であったならば、そもそも僧ではいられないのです。僧が男女の交わりを教義的に許されるものとして公言したパイオニアは、鎌倉仏教である「浄土真宗」の開祖「親鸞(しんらん)」であったでしょうし、彼はずっと後世の人物です。 とにかく、女帝亡き後、道鏡を失脚させたい政府高官はたくさんいたはずで、もし、道鏡にその風評があったならば、そんなスキャンダルを無視するわけがありません。鬼の首をとったかのように衝いてくるはずです。にもかかわらず、東国に追放されたとはいえ、道鏡は僧籍をはく奪されることもなく、こともあろうに最も戒律を求められる寺の別当を任されているのです。もはや道鏡愛人説は後世の創作であったことが明瞭でしょう。私は、道鏡愛人説はおそらく江戸時代に創られた話ではないか、と思っております。 下野国薬師寺六角堂 さて、栃木県には道鏡の墓――龍興寺――の他、驚くことに称徳女帝の病没地と伝わる場所もあります。そこは現在「孝謙天皇神社」になっておりますが、境内案内説明には、次のようにあります。 ――引用―― 今から約千二百余年の昔、下野国薬師寺の別当に弓削道鏡が配流された。かつて道鏡は法王として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。 女帝は配流された道鏡をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫・笹姫も配流されてきた。 二人は奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御稜より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。 その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、八月四日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。 なお、二人の女官の墓は、ここより南五百メートル位の所に、篠塚・笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません。 称徳女帝が「配流された道鏡をあわれみこの地にまえり病没」というのは、先ほどの厳戒態勢の中の看病から考えてあり得ませんが、それ以外の部分は信用してもいいような気がします。 孝謙天皇神社
栃木県の方々の称徳女帝や道鏡への親近感は、いわゆる正史のそれとは全く相反するものですが、私は県民の優しさに心が温まる思いがしました。情に流されるわけではありませんが、通説での称徳女帝と道鏡の扱いはかなり辛辣であるばかりか、冷静さにも欠けているような気がします。 いずれ、基本的に私は井沢さんに賛成で、称徳女帝の崩御が暗殺であっただろうという仮説は、十分に真実性が高いと考えます。 |
宇佐にまつわる話
[ リスト | 詳細 ]
歴代天皇がかくも特別視していた古社の歴史を概観してみます。
|
結論から言えば、道鏡に皇位を譲る大義名分となるはずだった宇佐八幡からの神託は、神社側から裏切られました。いえ、厳密には宇佐氏が裏切ったわけではなく、八幡神を奉ずる辛嶋氏――秦氏――の“無言の抵抗”にあいました。 宇佐神宮は一枚岩ではないのです。辛嶋氏、大神氏、宇佐氏の三つの顔のうち、実は意外にも宇佐氏の影は薄いものでした。 宇佐内部の権力闘争は、八幡大菩薩で一躍朝廷の覚えがめでたくなった辛嶋氏と、やはり東大寺の大仏開眼をきっかけに出世(?)しておきながら、神道家としての誇りも捨てていない大神氏の争いになっておりましたが、『続日本紀』によれば天平勝宝六年(754)十一月に、「薬師寺の僧行信(ぎょうしん)と、八幡神宮の主神・大神朝臣多麻呂らは、共同して人を呪い殺そうとする呪法を行った」とあり、その罪により大神朝臣杜女(もりめ)と多麻呂が、各々日向国と多褹島――種子島――に配流され、それ以来、大神氏は衰えていました。時期にして、称徳女帝の一度目の天皇時代――孝謙天皇時代――以来ということになります。 つまり、称徳女帝と道鏡の活躍時代、宇佐の権力闘争は辛嶋氏の一人勝ち状態になっていたのです。 それでは、称徳女帝は最重要な決定事項の神託を、辛嶋氏に仰ごうとしていたのでしょうか。いえ、そんなはずはありません。宇佐が特別であった理由は、本来あくまで宇佐氏の存在にあったはずで、称徳女帝としては、その宇佐氏からの神託を得たかったのだと思います。そして宇佐氏としても、ここで天皇家と結べば、一気に辛嶋・大神両氏を出しぬき、形勢逆転になる可能性もあるわけです。この流れを敏感に察したのが落ち目の大神氏でありました。この気運に便乗して逆転劇を試みようとしたようです。 こういった宇佐内部の確執を考慮しなければ、宇佐神宮が発した一貫しない神託の理由は見えてこないと私は考えます。 今となれば、宇佐といえば“八幡信仰の本場”というイメージですが、それはこの時代の天皇家への関わりによって定着したものです。 “八幡”の概念は辛嶋氏――秦氏――がもたらしたものと思われますが、いつしか宇佐神宮としての権威が八幡に起因しているような印象になってしまったがため、本来独自の歴史だけでも十分に天皇家に物申せるはずの宇佐氏までが、“元祖八幡”を自らの歴史に取り込もうという本末転倒な事態が起きてしまったように思えます。 八幡神託事件のきっかけは、大宰主神習宜阿蘇麻呂(すげあそまろ)が「道鏡をして帝位に即(つ)かしむれば、天下太平ならん」という八幡神の言葉を道鏡に伝えたことに始まりました。一般的には、阿蘇麻呂が道鏡に媚びて神託を捏造したとされておりますが、はたしてそうなのでしょうか。 谷川健一さんは『四天王寺の鷹(河出書房新社)』のなかで、次のように語ります。 ――引用―― 道鏡を天位につかせようという神託を奏したのは習宜阿蘇麻呂ひとりの行為とは考えにくい。彼の上司に弓削道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人がいた。弓削浄人と気脈を通じた上での行動であったのは間違いない。 しかしそれだけでも不十分である。阿曾麻呂や浄人の意を迎えて神託を下す者がなくては叶うまい。それは宇佐神宮の神職団のほかにはない。 この宇佐神職団とは、その後の顛末からみるに少なくとも辛嶋氏ではあり得ません。これは、斜陽化にあった大神氏か宇佐氏のいずれか、あるいは両者であったと考えるのが自然でしょう。
谷川さんもどちらかというと道鏡を“悪”という前提で述べているので、私の考えとは少々ニュアンスが異なるのですが、私は称徳女帝と宇佐氏の間のはかりごとに大神氏が便乗して一口買ったものではないか、と考えております。だからこそ、その後「和気清麻呂(わけのきよまろ)」が筋書きと違う神託を持ちかえった時に、称徳女帝は激昂したのではないでしょうか。 |
|
宇佐八幡についての妄想といいますか、私見について、少し触れておきますと、宇佐神宮の起源としては、おそらく現在の宇佐神宮の場所に、神武天皇にとって重要すぎる何かがあったのでしょう。それは、例えばただならぬ関係者のお墓です。勝手な妄想ながらも、ほぼ間違いないだろうと思っております。そしてその墓の主に連なる氏族こそが「宇佐――菟狭――氏」であり、当初彼らはひっそりとそれを供養していたのだと思います。 宇佐公康さん著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』に、おもしろい逸話がありましたので、ご紹介しておきます。 ――引用―― 〜略〜 なにはともかくも、宇佐神宮は、九世紀のはじめに八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫廟神社の三社となり、世にいう八幡三所として、朝鮮様式の八幡造りの華麗な社殿の形体がととのったわけである。 ところが、この三殿のキザハシ(階段)のヒサシ(庇)は、古くから今もなお、そろってならんでいない。宇佐神宮は、三殿ならんでいる他の神社とちがって、とくに、向って左から第一殿・第二殿・第三殿となっているが、二之御殿と称する真ん中の御殿のヒサシがひっこんでいて、そのかわり申殿(もうしでん)と呼ばれる拝殿のヒサシがそのひっこんだ部分に割りこんだような形となっている。 これには重大ないわれがあるのであって、古来、三三年目ごとの式年遷宮に当っては、「二之御殿の位置をうごかすことは絶対にまかりならぬ」と口伝されている。宇佐家の伝承によると、二之御殿の真下には「みはかりいし」(御量石)という石があって 〜中略〜 この石を中心に二之御殿が建てられているわけである。 御量石という口伝の石は、明らかに石棺の蓋石である。これを実証する事実として、大正五年(一九一六年)から大正七年(一九一八年)にかけて、内務省神社局直営の本殿改築工事に際し、当時の神社局営繕課角南(すなみ)技師が派遣され、設計をはじめとして工事万端の指揮監督に当ったが、角南技師は「三殿のヒサシが乱杭歯のようになっていては体裁が悪い」といって、三殿のヒサシを一様にそろえてならべるために、二メートルばかり後ろに下げる設計をした。 これに対して、当時の宮司、筆者の父先代は、口伝を盾に取って極力反対し、原型のままの改築を主張したが、若い角南技師は口伝など信用せず、宮司と意見が対立した。そこで、結局、はたして御量石と称するものがあるかどうか、旧御殿を取り壊してから、二之御殿を真下に掘って調査することになった。 白張(はくちょう)という白(し)ら張りの布製の衣服を着た二人の白丁(はくちょう 白張を着た作業員)が、キグワという木で作ったクワで向い合って一メートルほど掘ると、かちんと音がして平らな石に掘り当たった。調査に立ち会っていた角南技師と先代は思わず顔を見合わせた。そして角南技師は「もうよい。わかった」といって調査を中止し、三殿の改築工事は原型を復元して完成した。 なんとも鳥肌ものの逸話です。私はこのことからも、やはり宇佐神宮はなんらかの最重要人物の墓であったのだろう、ということには確信に近いものを持っているのです。 例えば『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんなどは、二之御殿の祭神を卑弥呼(ひみこ)であろうとし、同時に宇佐八幡そのものを、その墓であろう、と推測しておりました。 しかし、宇佐公康さんは、そういった卑弥呼や神功皇后といった人物の墓であろうとする仮説を「主観的偏見による推理臆測にすぎず、曲学阿世の徒の詭弁である」と辛辣に完全否定しております。宇佐さんは、明言はしないものの、どちらかというと鳥居龍蔵さんの説をとっているようです。鳥居さんは、「亀山および、その周辺を探査し、三世紀初期の高塚古墳であると断定し、御量石の口伝について、この亀山古墳の上で、「くがたち」(盟神探湯)が行われていた伝承ではないかと先代に語った」のだそうです。 いずれ古墳であるからには、なんらかの墓であったという考え方は外れておりません。しかし、私も卑弥呼や神功皇后というところには行きつきません。たびたび申し上げているとおり、私は邪馬台国と大和は別物と考えており、卑弥呼はあくまで邪馬台国の女王であったと考えております。 それに対して、宇佐氏はあくまで大和――神武系皇族――となんらかの縁がある氏族であると考えます。 おそらく、宇佐神宮の地は、神武の一番最初の子をもうけた宇佐系女性の墓であったのではないでしょうか。そして、その子は神武系を継ぐことが出来なかったのだと思います。だからこそ、神武の血統はその母子に対し、後ろめたさを抱いていたとも考えるのです。宇佐神宮の当初の顔は、その母子の鎮魂でしょう。それが後世、神功皇后と応神天皇母子に置き換えられたのではないでしょうか。 辛嶋氏――秦氏――や大神氏は、7世紀〜8世紀のめまぐるしく血塗られた皇統変遷のなかで、その暗闇に宇佐の祟りをも勘繰った天皇家の意向で後から組み入れられたものだと思います。秦氏の先進的な新羅系仏教と、大和の最強のタタリ神「大物主」を奉ずる三輪系「大神(おおが)氏」のシャーマニズムの最強タッグで宇佐の母子の鎮魂を図ったのが、宇佐神宮の三つの顔の始まりではないでしょうか。 さて、妄想に妄想を上塗りするならば、私は、宇佐になんらかの強い思惑を抱く神武天皇の系列は、いずれかの時代――九代開化天皇あたりか――で一旦途切れたものの、幾度かの浮沈を繰り返しながら、少なくとも天武天皇の御代に一度復活したのではないか、と想像しております。理由は、まず、天智天皇と天武天皇がとても兄弟とは思えないこと、そして最重要案件について宇佐を頼りにした二人の天皇がいずれも天武系であること、などからです。二人とは言うまでもなく、聖武天皇と称徳天皇です。 世に有名な八幡神託とは、称徳女帝が道鏡に皇位を継承してもいいかどうかの決断を宇佐八幡の神託に委ねた一連の事件のことを言うわけですが、称徳女帝と道鏡は、どうも予め宇佐氏から確約をとった上での出来レースを目論でいたかにも思われます。
なにしろ、称徳女帝にとって重要なのは辛島氏でも大神氏でもなく、おそらくは宇佐の母子であったのでしょうから。 |
|
母、「光明(こうみょう)皇太后――聖武天皇皇后――」の死によって、「孝謙(こうけん)上皇」は激しい悲嘆の後に何かが吹っ切れたようです。心の奥底に眠っていた煮えたぎるマグマが目覚めたようなのです。孝謙上皇は自らの看病僧「道鏡(どうきょう)」の補佐のもと、かつて藤原仲麻呂――恵美押勝(えみのおしかつ)――がそうしたように、律令にない特別職を新設しました。そこから押勝の傀儡にあまんじている時の天皇「淳仁(じゅんにん)天皇」の上をいく詔勅を発し、押勝ラインを脅かしました。 これにあわてた押勝は、天平宝字八年(764)平城京に挙兵しました。 しかし、孝謙上皇はその程度のことなど想定の範囲内であり、「吉備真備(きびのまきび)」に先制攻撃を加えさせ、遂に押勝は討たれました。 そして、藤原氏――南家――の傀儡であった淳仁天皇から皇位をはく奪し、自らが天皇に返り咲き、「称徳(しょうとく)天皇」になりました。 このことを、称徳女帝がかつての愛人仲麻呂を見限り、新しい愛人の道鏡に溺れ、それに嫉妬した仲麻呂が挙兵して敗れ、その後、称徳女帝の寵愛をいいことに皇位を簒奪しようと企む道鏡の仕業、と捉える向きがかなり強いようです。 しかし、道鏡ははたしてそれほど私利私欲にとりつかれた人物だったのでしょうか。例えば、家永三郎さん編『日本の歴史(ほるぷ出版)』には、次のようにあります。 ――引用――
僧道鏡の政治には、意外なほど、悪僧による自分勝手な専制政治という性質はなく、しいていうと、郡司のような地方豪族の中央政界へのさかんな進出に道をひらいたのがその特徴といえようか。 “悪僧”という固定観念をのぞけば、道鏡は地方に道を開いた人物であるということのようで、専制政治とは正反対の政策を展開しているのです。 もちろん、道鏡は必ずしも地方に道を開こうと思ってやったことではなく、これはおそらく一つの結果に過ぎないのだと思います。 道鏡は何をしようとしてこのような結果を呼び込んだのでしょうか。 それは、一つしかないでしょう。道鏡は朝廷の藤原色を薄めようとしたのでしょう。 とはいえ、これは道鏡の意思ではなかったと考えます。確かにその政策のプロデューサーは道鏡であったのでしょうが、それはあくまでも“称徳女帝の意思”に基づいたプランニングであったと考えるのです。 称徳女帝は幼き頃より、自分にも流れている母の実家、“藤原氏の血の呪縛”に悩まされてきた天皇です。両親がヒステリックに祟りに怯えなければならなかったのも、自分が結婚できなかったのも、全て母の実家の手口に原因があるのです。 それでも大好きな母親の存命中には曲がりなりにも母の実家をなんとか信じようとしていたかもしれません。 しかし、愛する父、聖武上皇がたてた皇太子を排除してまで、またしても懲りずに悲劇の歴史を繰り返そうとしている従兄の横暴には、遂にたまりかねて感情を沸騰させてしまったのでしょう。 そして、ここから称徳天皇は、圧倒的な力を見せ始めます。そしてそのたどりつくところは、自らの血への復讐でした。天皇自らが万世一系であるべき系譜を終結させようとしたのは、おそらく通史でみてもこの称徳天皇のみであったのではないでしょうか。称徳天皇は、最も信頼する道鏡に天皇の地位を譲ろうと考え始めたのです。 |
|
見えない力で天智天皇系に戻されてしまった皇統のなかで、天武系最後の天皇になったのは称徳天皇――孝謙天皇――という女帝でした。 持統天皇以降、外戚として政権を握らんとした藤原氏は、時に暗殺も辞さない強引な手口で、自家の血をひくもののみが天皇になれるという暗黙のルールを定着させておりました。自家の血をひく男子が生まれない場合は、つなぎの女帝をたてて機を窺ったのです。そのような流れに楔を打つべく立ちあがった長屋王は、結局は死に至らしめられました。しかしその怨念は死して尚そのままでは終わらず、黄泉の国から自分を陥れた藤原四家の祖全員を祟り殺したのです。科学的に言えば、たまたま天然痘の流行で全滅しただけなのですが、古代においてはとてもそうは考えられません。ましてや、後ろめたさを持っている人間たちにすれば、これは祟り以外のなにものでもなかったのです。兄達を祟り殺された光明皇后――藤原光明子――は、間違いなく恐怖のどん底にいたはずでしょう。そして、そんな光明皇后と聖武天皇の間に生まれた子が、阿倍内親王、すなわち天武系最後の天皇となる称徳天皇――孝謙天皇――だったのでした。 実は、決して聖武天皇に他の男子が授からなかったわけではないのです。基(もとい)親王と安積(あさか)親王という男子がおりました。基親王は光明皇后との間の子であったので、藤原氏の血もひいており当然に皇太子に立てられたようですが、生後1年足らずで亡くなってしまいました。これについても長屋王の祟りだと捉えたことでしょう。 また、安積親王もその翌年亡くなりました。 しかし、実はこの安積親王の死についてはなにやらきな臭い噂もあります。彼は藤原氏の血ではなかったが故に毒殺された、という言い伝えがあるのです。黒幕は藤原仲麻呂とも言われております。 ちなみに、この仲麻呂こそが、会津の僧徳一の実の父親と言われている人物です。 それはひとまずおいておき、ここで最後の手段、阿倍内親王が史上初の女性皇太子になったのでした。 そしてこのことは、一女性としての彼女にとって、おそらく絶望に近いものであったと思います。何故なら、彼女はこれでもう結婚出来ないのです。これは同じく女帝であった元正天皇の頃から出来た暗黙のルールのようですが、女帝に夫がいては、天皇を支配する存在がいることになり、忌々しき問題であると認識されていたからと考えられます。 女性が強い現代ではあまり考えられませんが、この当時妻は夫に支配される存在という認識はごくあたりまえのことで、それでこのようなことになるのでしょう。 また、一方で、男系天皇と藤原系皇后の間に出来た皇子だけが天皇になれる、という不文律のルールも陰でのしかかっていたようです。 誰がどう見ても欲求不満になりそうな人生を余儀なくされたおかげで、称徳女帝は藤原仲麻呂や怪僧道鏡との愛人関係を疑われ、後世に淫らで傲慢な悪女の印象を残すことにもなっていくのですから、私はかさねがさね同情します。 彼女は間違いなく自分の血を呪っていたことでしょう。彼女ほど自分の血統をぶち壊してやりたいと思った天皇はいなかったのではないでしょうか。 天平勝宝元年(749)孝謙天皇として即位した彼女は、母光明皇后の甥であり、且つ信任の厚い藤原仲麻呂を後見人のようにして政治を執り行いました。 その当時、わずかに勢いの衰えた藤原氏の間隙を縫って、「橘諸兄(たちばなのもろえ)」が権勢を強めておりました。 諸兄は、自分の政治を批判し屈強な九州軍団を率いて挙兵した大宰府の役人「藤原広嗣」を鎮圧するなどして、益々力を強めておりました。 そこに「藤原仲麻呂」が登場したのです。当然、諸兄とうまくいくわけがありません。そもそも諸兄は藤原四兄弟が祟り殺された後、おそらくは聖武天皇の“脱藤原氏政策”に基づいて起用された重臣で、生前に正一位まで昇進するという史上稀な人物でした。 私はここに、弱気と評される聖武天皇の強い意志を垣間見る気がします。 しかし、この諸兄は、仲麻呂が起用されて数年後、聖武上皇が病に伏した折、酒の席で不敬があったとの讒言により失脚することになりました。私はこれを仲麻呂が仕組んだ罠であったと想像します。藤原氏の手口は万事この調子だからです。 仲麻呂は、聖武上皇崩御後、上皇がたてた皇太子「道祖(ふなど)王」を廃して、自分に近しい「大炊(おおい)王」を立太子させ、律令にない紫微内相という官職を新設して自ら就任し、天皇側近の軍に対する指揮権も掌握しました。 この専横に対して、諸兄の子橘奈良麻呂が反乱を起こします。家永三郎さん編『日本の歴史(ほるぷ出版)』には次のようあります。 ――引用―― 〜橘奈良麻呂は、仲麻呂を暗殺して、孝謙天皇をやめさせようとくわだて、古くからの名門貴族である大伴氏、佐伯氏、多治比氏がこれに参加した。しかし、密告によって、これを知った仲麻呂は、圧倒的に優勢な武力でいっせい検挙し、はげしい拷問を加え虐殺した。 758(天宝宝字2)年、藤原仲麻呂は、右大臣にあたる太保(たいほ)に進み、大炊王が即位した(淳仁天皇)。さらに、2年後の春には、従一位=太政大臣(太師)という最高の地位が55歳のかれにあたえられた。 その間、かれは、たくみな政策をつぎつぎとうちだして、律令制の手直しをはかり、橘奈良麻呂のような反対派と、班田農民の不満とがむすびつかないように巧妙な手をうった。 太保に進んだころ、仲麻呂は天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という新しい姓名をうけ、さらに、その功績にたいして、封戸3000戸と功田100町という、曾祖父鎌足と祖父不比等をしのぐ恩賞をさずけられた。 この一連の事件を機に、孝謙天皇は退位し、仲麻呂が立てた大炊王に譲位します。淳仁天皇の誕生です。孝謙天皇は上皇となりました。一見、この頃の孝謙天皇は仲麻呂と蜜月の関係にも見受けられますし、事実、そのような説が大勢を占めております。
しかし、私の中ではどうにも胡散臭さが残ります。 私が疑問に思うのは、そもそも奈良麻呂は、仮に仲麻呂を暗殺しようとは考えても、孝謙天皇を失脚させるつもりがあっただろうか、ということです。 たびたび申し上げているとおり、この日本であからさまに天皇に敵対することは、まずあり得ません。百歩譲って、よっぽど絶対的な軍事力を掌握して初めて可能性が見え始めるレベルなのです。奈良麻呂はどうだったでしょうか。結果からみるに、奈良麻呂の反乱軍は仲麻呂の圧倒的軍勢によってあっけなく鎮圧されているのです。なんというお粗末な策略だったのでしょう。奈良麻呂や名族大伴氏は、はたしてそんなに間抜けなのでしょうか。 いずれ、仲麻呂はこの功で孝謙天皇から高く評価され、恵美押勝という美称まで賜っております。もちろん私にはどうにもしっくりきません。孝謙天皇の心理状態を推測するに、そのようなことは考えにくいからです。 おそらく、孝謙天皇自体が狙われているという情報は、仲麻呂の捏造ではなかったかと考えます。そう吹聴することによって孝謙天皇を味方に巻き込んだのでしょう。 仲麻呂は、奈良麻呂が自分を恨みに思う気持ちをこれ幸いとして利用し、謀り、大伴氏やその同族の佐伯氏といった野党になり得る古代氏族を徹底的につぶしに行ったのだと思います。 またこの頃、まだ光明皇太后は存命中でしたので、孝謙天皇はまだ実質的に機能していなかったと考えられます。 そして、父である上皇亡き後は、おそらく母の言うとおり、つまり間接的に仲麻呂の言うとおりに動いていたと思われ、むしろ、再び暗躍する藤原氏にとてつもない不安感を感じていたのではないでしょうか。孝謙天皇――称徳天皇――の、その後一転しての徹底した専制方針を見れば、私にはそうとしか思えません。その専制方針も一応は怪僧道鏡がたぶらかしたかのように伝わっておりますが、道鏡は称徳天皇のそもそもの深層心理に潜む大きな鐘の音を鳴らしただけに過ぎないと私は考えます。 しかし、光明皇太后存命中の孝謙天皇――上皇・称徳女帝――は、まだおとなしく母の言うとおりにしていた一人の娘に過ぎなかったことでしょう。 しかし、人間には寿命があります。やがて、孝謙上皇の頼みの綱であった母、光明皇太后が60年の生涯を終えました。孝謙上皇は相当ショックだったのでしょう、その直後に病に伏してしまいます。 そこに看病僧として現れたのが、怪僧「道鏡」だったのです。 いよいよここから孝謙上皇の自分の忌まわしき人生への反撃が始まります。 |


